兎と婚約指輪
「あれから一年、か」
ヘクターは天井を見上げた。吊るされたカンテラが、橙色に滲む影を梁へと落としている。瞼を閉ざせば、ひりひりした砂粒のような光が店に来た当時のダリアの形を結んだ。
一年前、十八歳になったばかりのダリアは、今よりほんの少し幼く世間知らずだった。
始めのうちは失敗も多かったが、見た目に反して真面目に働き、冬が始まる頃にはすっかり仕事を憶えヘクターにも懐いた。
ヘクター自身もダリアの子兎のような仕草やくるくると変わる表情が面白く、ついからかっては楽しんでいた。まさか兎人の娘だとは当時は思いもしなかったが。
懐かしいな、と、つい長い息を吐く。甘い微睡みを惜しみつつ目を開け、はたと気付いた。
一年前十八歳なら今はもう十九歳だ。ぎくしゃくしている間に恋人の誕生日を逃したのか。
ヘクターは慌ててカウンターへ飛び込んだ。
「ダリアちゃん、あなたもう十九っ!?」
「っ! もーママっ、大声やめて! 耳がキーンって痛いよ。……私はまだ十八だよ。もーすぐっていうか、明日が誕生日かな」
「あしたっ! ……間に合った」
ヘクターが安堵の鼻息を鳴らすと、ダリアはバンダナの下から長い兎耳を引き出し、ぶるりと銀毛を散らした。
店内に客はいない。クインス夫妻はすでに帰ったのだろう。カウンター席に座ったブルーノが、やけに神妙な顔でヘクターを眺めている。
掃除の途中だろうか。組んだ足にモップの柄を絡め、だらしなくカウンターに片肘をついた、生意気な子悪党然としたポーズ。
背中を丸め前のめりで、ダリアと顔の距離が近い。獣どうし、相談でもしていたのだろうか。ダリアの表情に浮かぶ、小さな憂いの欠片。
胃の腑がざらりと粟立ち、ヘクターは喉奥に力を入れた。ブルーノを目の端に追いやり、面倒見のいい姉のような口調でダリアへ話しかける。
「ダリアちゃん、そんなうかない顔して。もしかして年をとるのが嫌だとか? ぜーたくね、あなたまだ若いのに。明日はお祝いしなくちゃね」
「誕生日パーティ? いーね、楽しそう。あっと、僕の誕生日にはね、」
「ブルーノの誕生日は祝う気ないから」
ヘクターが反射的に頭をはたくと、ブルーノは大げさに痛がりながらも、三角耳を下げ機嫌よく笑った。
「おいわい?」
ダリアの見開かれた瞳にヘクターが映り込む。包容力のあるハンサムな大人に見えるよう笑顔を調整しながら、ヘクターはそっと右手を伸ばした。今度こそ、逃げてしまわないように。
細い腰を抱き寄せる。求めていた通りの熱と心音。ブルーノが居なければこの場で押し倒していただろう。
「ええ、ダリアちゃんの誕生日のお祝い。そーね、劇場に行きましょうか。カクテルコンクールの時、一緒に観に行こうって約束したじゃない」
「劇場?」
「そうよ、デートしなくちゃ」
「……ああ、そっか。誕生日ってお祝いするものだったよね。デート、か。そうだね、うん、そうしよう。明日は朝からお出かけしようね! ちょうど家に居たくなかったんだ」
果汁を零したように、華やかな桃色が頬に広がる。ヘクターも少し得意げに目を細めた。
この間は本当にヤりすぎてしまったから。明日は挽回のチャンスだ。出来る限り喜ばせ、折りをみてお詫びをしよう。しかし。
「朝から? さすがに朝は劇場開いてないんじゃないかしら。……まあ、いいけど。じゃあ、朝ごはんは外で食べましょうか」
「うん! ママ、ありがとう!」
「えー、朝からあ? 僕、朝はあんまり。ほら、ヤマネコって基本、夜行性だからさあ、あんまり朝早いと劇場で寝ちゃうなあ。仕方ないから、今日は僕も従業員部屋に泊めてもらわなくちゃ」
「ブルーノ、お前は呼んでねえ! 邪魔してないで、さっさと家帰って寝てろっ!」
はあい、なら僕帰るねえ、とブルーノは大きく尻尾を揺らし、カウンター越しにダリアの頭をポンポンと叩いた。
「大丈夫、なんじゃないかな? ほら」
親密そうな耳打ちに、ヘクターは顔を顰める。
もちろん、ブルーノとダリアがお互いを恋愛対象に置いていない事は理解している。が、野郎がダリアをに触らる事自体、不快だ。ブルーノを男に分類するべきか多少怪しいが。
「じゃーお疲れ様。僕ね、最近気になってる子がいるから。うまく口説けたら明日お店に誘うよ。ダリアちゃんの誕生日パーティー楽しみだよ! ヘクターさん、御馳走とチョコレートケーキよろしくね!」
「なんでお前がリクエストすんだよ!」
「ヘクターさん、ダリアねーさん、また明日! ……うわあ、雨の匂い。今夜は降るね、これは。さっさとあの子の店行かなくっちゃ。ばいばーい」
ブルーノは一息に捲し立て、モップを投げ捨て店を出た。逃げるように去る背中を見送りながら、ヘクターは苦々しく舌を打つ。
「……あいつめ。さてはワザと突っかかって、帰れって言わせたな。掃除サボりやがって。……ブルーノは適当過ぎなんだよな」
ダリアの体温を惜しみつつ身体を離し、ヘクターはホールのモップを拾い床の掃除を始めた。ダリアもカウンターを降り、雑巾を絞る。
「ケーキ、かあ。ママ、私、なんだか嬉しいなあ」
「あらそう? じゃあ焼くわね。ダリアちゃんもチョコレートケーキがいいの?」
「うーん、デートしたいからケーキはいらないよ」
「そ。……私ね、ダリアちゃんの事知っているようで知らなかったのねって、今、気がついたわ。カレシなのに誕生日も知らないなんて。明日は沢山話しましょうね」
ダリアの事情を知ろうとしなかった理由は、後ろめたさから、だ。
ヘクターはダリアに自身の話を何一つ語っていない。ある程度話せるようになってから尋ねようと考えていたのだが、心は勝手に依存し、ダリアの全てを知りたいと叫び始めている。まだ、自分の事を話せる立場ではないが。それでも知りたいと傲岸な主張が胸を埋め尽くす。
「えっとね、ママ」
僅かに震えた空気が、極小さな声を運んだ。ヘクターは掃除の手を止めダリアを見詰める。
必死で言葉を選んでいるのか、何度も吐き直された呼吸が、花瓶の釣鐘花を揺らした。
耳を澄ます。
鎧窓の隙間からするりと入った雨音が、狭いバーを満たしているのが判った。ブルーノの予言通り、雨がばらばらと降ってきたようだ。
聴覚の鋭い兎の魔獣、ダリアにとって世界はどれほどに騒々しいのだろうか。
ダリアは歩み寄り、ヘクターの胸に額を押し当て顔を隠した。見下ろせば、俯いた首筋に浮かぶ縦並びの歯形と、外す事のできない首輪。
見たくない。ヘクターはダリアのバンダナに指をかけ、するりとほどく。細く艶やかにうねる白髪が首筋を隠した。
ダリア。
音にならない声。回した腕に力を込めると、ダリアも隙間を惜しむように抱き返してきた。
「ママ……明日はね、私のお母さんの命日なんだ。お母さん、私の誕生日の朝に死んじゃったから。明日でちょうど、一年なんだよ」
母親の命日。そのせいで、祝うという事が頭からすっかり抜け落ちていたのか。……死因は確か、『衰弱死』だったな。
小さな矛盾。
ヘクターは目を閉じ、天鵞絨の手触りを持つ兎耳へ鼻を埋める。
ダリアの薬師としての腕前は、魔導師長ザルバが目を剥くほどに一流で、死んだ母親は悪名高き黒の魔女。病魔が取りつく隙などないのではないか。
衰弱し、死ぬ。
ダリアの薬でも母親の魔法でも治す事の出来ない重病を、三年、延命した。……という事なのだろうか。
亡くなったのが成人をむかえるその日の朝、というのも気にかかった。
ヨルドモ王国では十八歳となり成人すると、公平な法で裁かれる代わりに、保護者の手から離れ自らの財産を持つことを許されるようになる。
つまり、成人前に母親が亡くなったのなら、ダリアの保護者は魔女の財産と共に別の人間へと移っていた、のか。……おそらく、唯一のはっきりとした親戚、マイヤスに。
しかし実際、母親が亡くなったのは成人後で、マイヤスとは手紙のやり取りをする程度だった。
ヘクターは薄目を開け、宙空を睨み眉を寄せた。
どうも、おかしい。
ダリアの成人後に、黒の魔女が死んだのなら、魔女の財産をすべて引き継いでいる事になる。美しく派手好みな黒の魔女、その遺産額は莫大な筈。
しかし『青兎亭』が壊れた時、ダリアはこの店で働いて得た程度の金銭しか払えなかった。
少なくとも三年。引き籠って母親の面倒を診る事が出来ているのだ。蓋を開けたらゼロだった、ということはないだろう。
魔女といえども母親だ。この世間知らずな兎娘を放置しては死ぬに死にきれない。
痛みに耐え成人の日まで生き粘り、十二分な遺産を渡そうとした、というのはあり得る話だ。
なら何故、ダリアは魔女の財を得ていないのか。
きな臭い。魔女の遺産はどこに消えた?
「ね、ダリアちゃん、変なこと聞いてもいい?」
「変なこと? なあに? ……ごめん、鼻水ついちゃったかも」
ダリアが顔を上げ、照れくさそうに笑った。母親を思い出し泣いていたのだろう、ヘクターを見詰める目の端が赤く潤んでいる。
一年前の誕生日の朝、何が起きたんだ? お母さんの遺産はどこへ?
不躾過ぎる疑問は飲み込まれ、舌に乗らなかった。言い淀むヘクターへダリアが小首を傾げる。
「ママ、なあに?」
「いやそのええっと。ダリアちゃんお母さん亡くなって、一人で大変だったわねーって思って」
「うん、大変だったけど。でも、近所の人がいろいろやってくれて。それに、すぐママに会えたからね」
ダリアが無邪気に笑ってみせた。久しぶりの自然な笑顔に、つかえていたわだかまりがとろける。力任せに抱きしめると、ダリアがもがいた。
「マ、ママ、ちょっとっ。息できないっ! あ、あのね、今日私、お昼にこれ取りに行ってたの」
ダリアはカウンターの裏側へ手を伸ばし、布袋から小箱を取り出した。
「なあに、これ」
「開けてみて、ママ」
ヘクターの手に落とされた艶やかな濃茶の木箱。角には小鳥を模った細かな金細工がほどこされている。腕のいい細工職人による業物だろう。
蝶番で留められた重みのある蓋を開けると、質のいい絹布にくるまれた指輪が入っていた。
銀のリングの中ほどに小粒の青い石が埋め込まれた、男性サイズの指輪。
「お小遣いたまったから、ママの指輪を作ってもらったの。クインスさんたちみたいに、おそろいの指輪が欲しくて」
ダリアが左手を掲げ、ヘクターの渡した青い指輪を見せた。
同じ宝石。
ヘクターは指輪を通した。柔らかな金属のひやりとした感触に、薬指が脈打つ。
「そう、クインスさんたちと同じってことは婚約指輪ね。プロポーズかしら。ありがとう、ダリアちゃん」
「ちょっ、さすがにそこまでの深い意味はっ!!」
ダリアは首まで真っ赤に染め、アワアワと否定した。
そういえばここ最近、可愛い雑貨を買ったとか、その類の報告を聞いていなかった。ダリアなりに節約し、貯金したお金で指輪を買ったのか。
からかうの止めてよねっと早口で言うと、ダリアはまた、ヘクターの胸へ熱を持った顔を隠し、埋める。
ヘクターは俯く顎を引き上げ、兎耳に、おでこに、頬に唇に、口づけを落とした。
指輪と共に心がつながったような、こそばゆい感覚。
ありがとう。
重ねたままの唇を動かし、どちらからともなく言う。
私、ママにあえてよかった。大好きだよ。何があっても、これからもずっとずっと。大好きだからね、ママ。
微かにそう、息が震えた。