王子の狗
雲一つ無い夜空に満月が浮かんでいました。
船は丘の上で楽しげに骨を揺らし、海賊たちは陽気な歌声を響かせます。
春の突風が走り抜けると同時に、草の海は波をたて、ざばんと大きくうねります。
タンポポの茎の白い汁とよく似た『花』の臭いが、丘に舞い散りました。
※※※
春先の冷たい風が建物の僅かな隙間を吹き抜け、石畳に砂埃がたつ。満月の光が路地を照らし上げ、並び歩く男たちの足元には長い影すら伸びている。
カツカツと硬質な靴音が二人分、深夜の静寂に響いた。
「やはり、普通に歩けるのだな」
「……歩けてねー。これ、すっげえ痛えんだからな。護衛代わりが杖をつくわけにいかないだろ」
「大丈夫そうに見えるのだが……」
一方の男……王子ミューラーは、もう一人の男……ヘクターを見上げた。先程までのバーテン姿とは一転し、前髪を上げ整え、頬の火傷跡は塗りもので隠し、ジャケットの襟もキッチリと閉じている。
元々、長身で体格の良いヘクターだ。護衛の為に腰にレイピアを挿している事もあり、軍人らしい厳つい雰囲気を醸し出していた。すれ違ったとしても『青兎亭』の『ママ』だと気付くものはまずいないだろう。
「しかし大屍蟹と対峙できる程には、動けるのだろう」
「……あの蟹だがな、従属屍鬼だったぞ。核は指輪だ。赤蛇の報告書に書き足しとけよ」
「指輪……では恐らく魔導師の……」
指輪を核に使っていたという事は、大屍蟹事件は人間の仕業だという証拠になる。
「まったく、何のためにそんな事を……」
ミューラーが小さく呟くと、ヘクターは大袈裟に両手を広げ、肩をすくめた。
「しかしだ! その身体になっても核を壊せるとはな。無色の狼は空席となっている。戻るには尚更充分ではないのか」
「しつこい。さっさと埋めろ、どーせまだミューがごねてんだろ。すっげー迷惑かかってるぞ、それ」
『無色』は白、黒、赤、緑の騎士団に属さず、単騎で行動を行う騎士の総称だ。
色の団と同じく上位から『竜』『獅子』『狼』『鷲』『蠍』『蛇』の六クラスがあり、それぞれに騎士は一人づつ、計六人で成り立っている。
単騎でなければならない場合に駆り出されるという性質上、暗部の仕事を行う事が多く、『無色』となった時点でそれぞれの家からは切り離され、家名を失う。
一度でも『無色』となれば、国から逃れる事はできない。
その為、事故などで職をとかれる場合、『狗』と呼ばれる立場なり、文字通り国の狗として動くことになる。それまでの外見や人間関係を消し、新たに市井に紛れ生活し、監視をされつつ、国の命令に従い暗躍を続ける。
幼い頃のミューラーにとって、誰よりも圧倒的に強く、そして若く美しい狼は憧れの騎士であり、剣の師でもあった。そのお気に入りの狼が狗に堕とされた、それ事態が耐え難い程に悔しい。
「ほら、ここから先は城の結界だ。早く帰れよ。もう俺には関わるな。割りと本気で面倒だ」
「……仕事を依頼してもいいか?」
「狼じゃないからな。お前から直では受けられない。依頼をするなら正式な手続きをして、狗に依頼しろ。じゃあな。ミュー、おやすみ」
ヘクターはミューラーの返事を待たず、夜の闇へ消えた。
※※※
『青兎亭』からほど近い物陰で、ヘクターは髪をぐしゃりと掻き崩し、頬の塗りものを拭った。ジャケットを開襟し腰のレイピアも外すと、元通りの『ママ』の姿で杖を付き、従業員部屋に向かう。
「……ダリアちゃーん、ただいまー」
もうとうに寝ている時間だ。店を出る前に見た妙な表情が気掛かりで、出来れば話がしたかったが、それは叶わないだろう。
そっと扉を開く。
室内は静まりかえっていたが、明るい。
入ってすぐのリビングのソファで、膝掛けを被ったダリアが座ったまま、密やかな寝息をたてていた。
ローテーブルでは花束が花瓶に活けられ、苺で飾られたパンケーキと白葡萄酒の小瓶が置かれている。
「……夜食? 俺に、だよな」
夜食にパンケーキ、というのはやや子供じみてはいるが、ダリアはヘクターのために用意し待っていたのだろう。
隣に座り肩を引き寄せると、ダリアが膝の上へころんと落ちた。
呼吸にあわせゆっくり上下する手触りのいい兎耳を撫でながら、やけに甘いパンケーキを食べる。小さなそれはあっという間に腹に収まり、白葡萄酒を飲み込んで甘味を洗い流した。
胃の中がほわりと暖かい。
「美味しかったよ。ありがとう、ダリア」
そう言って、ダリアを突ついた。繁殖期前になると魔力が強い人間は当てられやすいと言ってはいたが、ヘクターは出会う前からすでに、当てられていたような気さえしてくる。
眠っているダリアを起こさないように丁寧に抱えあげ、寝室のベッドへと運ぶ。シーツをかけ、そして唇を重ね優しく食んだ。
「寝てるときしか、キスさせてくれないよな」
ヘクターが苦笑してダリアの額を弾くと、ダリアは顔をしかめ、寝返りをうった。
※※※
……もう、くすぐったいなあ……。
振動のもどかしさから逃れようと、ダリアは腰を捻った。が、手は執拗に尻尾へ縋り、リズミカルに握り続ける。
くすぐっちゃ、だめだよ。
そう呟き、もぞもぞと半身分前に移動した。すると兎尻尾を弄ぶ大きな手が、ダリアの腰をぐいっと引き寄せる。熱を持った身体が薄いパジャマごしに重なり、兎耳に生温い吐息がかかった。あまりの擽ったさに耳がくるくると逃げ回る。
何か様子がおかしい。
眠気に目が開けられないまま、ダリアは手を動かし周囲を探った。指先は爛れた肌のごつごつした筋肉を辿り、滲む汗に滑る。
「……あ、れ?」
ダリアはまだ重く痺れる瞼を無理矢理に抉じ開けた。
そこは、見慣れない部屋のベッド。
暑苦しい程に密着し、腕にダリアを閉じ込めているのは、もう見馴れたヘクターの傷だらけの身体。
おそらくヘクターの部屋のベッドにいるのだろう。まだ寒さの残る春の朝だというのに、シーツの中には二人分の熱が籠り、しっとりと蒸れている。
ダリアが起きた事に気がついたのか、ヘクターは眠たげに目を開いた。妙な色気を含む視線に絡め取られ、ダリアの顔が朱に染め上げられると、満足げに笑みを零し再び尻尾を玩ぶ。
尾骨から下腹部へと伝わる細かな振動が、耐え難い程にこそばゆく、痺れるようなもどかしさに体温が上昇した。
手は尻尾を弄るのに飽きたらず、付け根とその周辺に指を這わせ始めた。肉に指先が食い込み、身体が跳ねる。ヘクターから距離を取ろうと力一杯腰を捩らせたが、非力なダリアでは全く逃れることができない。ゼロ距離までに密着してしまっているため重力操作も使えない。ヘクターを潰せばダリアも潰れ、ヘクターを飛ばせばダリアも飛んでしまうだろう。
兎の力を使わない理由を察し、ヘクターが調子に乗った。
シャツの内側へ手を潜らせ、ずり上げはだけさせていく。ダリアの真っ白な腹部が剥き出しになると、腰の下へ手を差し入れたままのし掛かり、仰向けに返す。動けないよう脚を絡め片肩を押し付け、右手はダリアの唇から耳にかけてを丁寧に撫でる。腰の下の左腕はシャツを完全に剥ぎ取ろうと蠢く。
何をされようとしているのか、ダリアの知識は朧げだ。しかし心臓は騒々しく早打ち、本能が送る圧倒的な熱量に意識が眩む。
太く長い指が身体を這い回る。
誰にも触れられた事のない柔らかな肌は指先に自在に操られ、ひくりひくりと腰が跳ねた。
ゆっくり、ヘクターが切なげに覆い被さる。
ダリアは顔の前に手を挟み、肩を捻りながら押し返そうとした。すでにズボンが脱がされ剥き出しになった太股に、何かが当たる。
「っうひゃあっ!!」
全く色気のない悲鳴と同時に、風が巻き起こった。
轟音とともに、部屋が大きく揺れる。
「……あっぶね」
ヘクターがダリアを抱いたままベッドを転げ落ち、呟いた。外気に触れ、急速に冷えた汗がポタリと床を濡らす。
兎のデタラメな重力操作に本棚が倒れ、ベッドへ降り注いだようだ。狭い一人用ベッドが軋み、本は辺りに散乱している。
ダリアはヘクターの膝からひょいと逃れ、警戒の距離を取った。
「ママ、なんで一緒に寝てるの!?」
ヘクターは全裸だ。ダリアは真っ赤な顔で目を背け、はだけたパジャマを整える。
「おはよ、ダリアちゃん。だってあなた、ソファで寝てたのよ? あんな場所で寝たら風邪ひいちゃう」
「起こしてよ!」
「起こそうとしたわよ。ヨダレ流しながら気持ちよさそーに寝てて起きなかったけど」
「じゃあ、なんでママの部屋のベッドに運んだの!?」
ヘクターがほんの一瞬、口角を上げた。
過剰な艶を含む捕食者の笑みに、草食動物の心臓が大きく跳ねる。が、その表情を幻のようにかき消し、ヘクターが不満げに言った。
「だってダリアちゃん、いつも部屋に入ろうとするとすごーく怒るじゃない? だから私のベッドに連れていったのよ」
「こういうケースだったら怒らないよ! むしろ感謝します! ……あと、なんで裸なの?」
「いつも私、裸で寝てるもの。寝てたら気持ちのいい手触りの尻尾があったからつい寝ぼけて握ってたの。そしたらダリアちゃんが抱きついてきたんでしょ?」
私は悪くない、そう言いたげにヘクターは笑った。
「とっ、とにかく服着てよ! ママのバカッ!」
ダリアは逃げるようにヘクターの部屋を飛び出た。が、ヘクターは腕を掴み、ダリアを後ろから優しく抱きしめる。
「夜食、ありがと。すごく美味しかったわ」
「……っもーっ!」
ヘクターを振り払い、ダリアは兎耳をくるくる回しながら自室へ戻った。直ぐ様ベッドに倒れ込み、ドキドキと打ち続ける胸を押さえ、冷えた枕に頬を埋める。
「……夜食って。一応、誕生日ケーキのつもりだったんだけど」
しかし、美味しかったの一言だけで先程の全てを許してしまえそうな、優しい熱が胸に広がった。
また、兎の魔力が鳩尾を、ぐるりと駆けた。
※※※
夕刻を告げる大教会の鐘の音とともに、『青兎亭』は営業を始めた。しかし、ここは種類豊富な酒をウリとするバーだ。早い時刻にはあまり客は来ない。
ヘクターはカウンターでグラスを磨き、ダリアはホールでテーブルを拭きながら最初の客を待った。
やがて、カランとドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店の雰囲気と合う落ち着いた声色で、二人は客を迎えた。
入ってきたのはミューラーだ。昨夜と同じく薄いフレームの眼鏡をかけ、明るい色の髪を降ろして派手な顔立ちを隠している。
「……お好きなお席にどうぞ」
ダリアがあからさまに表情を強張らせ、怯みながら言った。ミューラーはその様子に戸惑いつつもカウンター席へ座ると、ヘクターに小声で話し掛けた。
「……何か吹き込んだだろ」
「ん? 何も言ってないわよ」
ヘクターも全く、心当たりはない。
「でも、ミュー。鬱陶しいから私に関わらないでって昨日言ったじゃない」
「その口調でそう言われると本気でいらっとするな……あ、と……麦酒を」
ダリアが会話に割り込むように無言でメニューを広げ、ミューラーの前へ差し入れた。
客に対しここまでの嫌悪感を示すダリアは初めてだ。ヘクターは目を丸くし尋ねた。
「ダリアちゃん、どうしたの?」
「なんでもないです。けど、少し……」
「……まあ、嫌われるかもな、あれじゃ」
昨夜の行動を思い返したのだろう、ミューラーが肩を落とした。成る程、ダリアからすれば突然営業の妨害をした相手だ、警戒するのも無理はない。
どんよりと落ち込むミューラーに、ヘクターはワザとらしく口を歪め、嘲笑いつつ麦酒を注ぐ。
「今日はいったい何しに来たの? 一人で来てても送らないわよ」
「護衛は下に待たせてある。これを呑んだらすぐ戻る」
「そう」
ミューラーは気を取り直し、出された麦酒を一口飲むと、懐から封筒を取りだした。
「ほら、仕事の依頼状だ。然るべき手続きを取ってきたぞ」
「……おい、手続きが早すぎるぞ」
「私が直々に各所を廻ってやったからな」
金箔で飾られ赤い封蝋を貼られた国の正式な封筒を、得意気にかざすミューラーに、ヘクターはつい素の言葉使い戻り、心の底から嫌そうな顔をした。