兎の就活
「ダリアちゃんが来てもう一年なんじゃない?」
ミズナの酒気を帯びた声が、深夜の『青兎亭』に甘く響いた。
客はクインス、ミズナ夫婦がカウンターに残るのみ。二人はこの店で出会い、この店で婚約を交わし、結婚してからも常連として通い続けている。
日付も変わり、竈の火はとうに降ろされた。店長であるヘクターは会話に耳を傾けながら、調理場の丸椅子で器具の手入れを続けていた。
「そうですね、だいたいその位です」
カウンターの内側、ダリアが応える。
『青兎亭』は隠れ家風の小規模なバーだ。演者を雇わない店内は静寂に包まれ、ダリアの柔らかな小声が弦楽器を爪弾くように空気をそっと振わせる。
へえ、もう、そんなになるのか……なんだかうまく実感できないな。
奇妙な兎娘ダリアの存在も、ダリアが引き起こす騒々しい日常も、ヘクターにとっては既に当たり前になっていた。もちろんダリアを雇う前の事を憶えてはいる。が、神代の堆積層で凍りつき、掘り起すのが億劫だ。
ヘクターは鍋を磨く手を止め、カウンターに続く扉へ視線をやった。スイング式の目隠し扉の下からは、黒いバルーンスカートを被せられたほっそりとしなやかな脚が覗いている。
ダリアの陶磁の肌に浮かぶ、青黒い痣。思わずヘクターは目を反らし天を仰いだ。あの夜以来、互いに白々しくぎこちない。
「ダリアちゃんやブルーノくんがいなかった頃は、まだ店も流行ってなかったしね。やる気もなさそうだったし。ねえ、ママ」
カウンター席のクインスが調理場いにるヘクターを呼んだ。仕方がないと苦笑いし、コックコートを脱ぎシャツを羽織る。
これをきっかけにダリアとの関係が直るのなら、酔客の昔話に付き合うのも悪くない。
「……わたし、そんなにやる気なさそうに見えたかしら?」
営業用のオカマ言葉を使いながら、目隠し扉を押し開けカウンターに入る。
クインスが嬉しげに杯を傾け、ミズナは頬杖を突いたまま手を振った。ちらりと伝票を覗くと麦酒の大瓶を三本、空にしているようだ。後味爽やかなエールだが、二人で三本は呑み過ぎだろう。見れば二人とも首筋が朱に染まっている。
呑ませ過ぎだ、と呟くと、ダリアが首を竦め、ホールのヤマネコ、ブルーノを示した。ブルーノは三角耳を立ち上げ、にんまり得意げに笑う。
ブルーノの仕業か。ヘクターは大げさに顔を顰めた。
「まあ、実際やる気なかったけどね、わたし。それよりも、二人とも呑み過ぎ。もうすぐ店しめちゃうけど、ちゃんと帰れる?」
大丈夫大丈夫、と夫婦はそろって陽気に笑う。
『青兎亭』のある地域は治安が良く、二人の新居は店から近い。が、真夜中だ。さすがに安全とは言いきれないだろう。ブルーノに馬車を呼ばせなければな、とヘクターは独りごちた。
「この店、開店してもう四年だよね」
暢気で朗らかな若商人クインスは、一際大きな声で話し始めた。彼は初期からの常連客で、宣伝もしていない小さな店を探し当て居つくほど、人当たり良く酒好きで嗅覚がいい。
客の言葉を聞き流しつつ、ヘクターはそろりそろり、樽の残りを確かめながらダリアとの距離を詰めた。成り行きで腰を抱ける程に近づくのが目標だ。つまり、ヘクターは昔と変わらず今でも、バーの経営にやる気がない。
もっとも、『青兎亭』は市井に紛れ暮らすための隠れ蓑だ。時間の融通を利かせ、見た目の印象を変えようと、本職から掛け離れたオカマの店長を選んだ。店を頑張ってしまっては本職に差し障りがある。
そうね、とヘクターが頷くと、目元を赤らめたミズナがクインスの後を続けた。
「確か一年半くらい前、でしょ? このお店が混み始めたの。急に口コミ広がっちゃって」
「特別に美味しいからね、ここのお酒。そりゃあ評判になるよ。で、ママ、新しい従業員雇うって宣言してさ。……でもそれからダリアちゃんを雇うまで、だいーぶかかったよね」
クインスが確認するように微笑んだ。ヘクターも苦笑いを返してみせる。
「職業斡旋所のおっさんが、ボンクラだったのよ」
「そうだったの? あのおじいさんだよね?」
相槌を打つだけだったダリアがヘクターへ向き直り、不思議そうに首を傾げた。
海底から見上げた満月のように輝く、青々と丸い瞳。上目遣いにヘクターを見上げ、束ねあげられた白髪がふわりと揺れる。
ヘクターは、腰を抱こうと伸ばしていた手を止め、視線を僅かに下へずらした。ダリアの襟元、後れ毛を残す首筋から見える、縦並びの歯型。
痛々しさに心臓が跳ねる。胸がざわめき、強い罪悪感で視線がウロウロと泳ぐ。
反らした視線の先、カウンターの隅では、ブルーノがちゃっかりと座り昔話を聞きだそうと身を乗り出していた。
「……ブルーノ、あんたなんでそこ座ってんのよ。ちゃんと仕事しなさい。……それにわたし、昔のコトなんて殆ど忘れちゃったわ」
そう言い残しヘクターは調理場へ逃げた。何か言いかけてたクセに、とブルーノの不満が背中を追う。
ヘクターは再び調理場の丸椅子に座り直し、後ろ髪をくしゃくしゃと掻き崩した。こんな事では関係修復のチャンスは訪れそうにもない。
下唇を噛み、頭を抱え俯く。と、扉ごしに夫婦の笑い声が聞こえた。
「そう、ママが誰か雇うって言い始めた時、すっごいかっこいい男の子が来るんじゃないかなーって、私、期待したのよね」
「それが結局、女の子だったから。驚いたよなあ」
これは前にも聞いたことがある。延々とループする類の酔っ払いの昔話だ。
ヘクターは傍の蒸溜麦酒を掴み、ジョッキへ注いだ。酔った二人の曖昧な会話はいつも、記憶を溶かすコトが出来ない。思い出の表層を薄く削るのが精々だ。
しかし、今日は様子が違った。好奇心を全身からはみ出させたブルーノが大袈裟な相槌を巧みに打ち、脱線する会話を正しいルートへと引きずり戻す。
ヘクターの手の中で滑らかな橙褐色の酒は氷を溶き崩し、カラリ、硬質な音が鳴った。
「……もう、一年になるのか」
記憶の地層が溶けていく。
ダリアと出会ったのは確か、一年前の初秋の事だった。
※※※
ヨルドモ城塞の市民生活は、教会に集約されている。大教会を脊髄とし、各地域に小教会が配備され、祈りの場、葬祭の場としてだけではなく、戸籍管理、税金収集、郵便物の集配等々、暮らしの全般を網羅していた。
労働もまた、教会の管理下に置かれている。大教会時計塔の真横、灰白色の石で造られた古めかしく厳かな建物の中に職業斡旋所はあった。
建物自体は荘厳だが、中は大衆酒場のように騒々しい。壁一面に貼られた求人求職の紙に市民が群がり、中には会談用に置かれたテーブルでくつろいで弁当を広げるツワモノすらいた。
揉め事を見張る警吏はいるが、一階はお互いの責任で交流し、自由に職を探す場として開放されている。
ホールを出て、靴音高く石階段を上れば、対面カウンターが設置された大部屋に辿り着く。
安くはない手数料がかかるものの、二階では担当係員にじっくり職の相談をする事ができた。
そして、一年前の秋の初月。夏の熱が残る下弦の日の昼。
二階最奥のカウンターを大柄な男が長時間占拠していた。ゴマヒゲの担当係員は脂汗を拭い作り笑いを貼り付け、男に説明を続ける。
「この前の子のどの辺りがダメだったのか、そこを教えていただかないと。これ以上無暗矢鱈と面接を繰り返しても……」
「あーあのやたら声でかい煩いガキね。貴族に友達が多いとか自慢して、すっごい生意気そうだったのよねえ」
うふっと、男は薄気味の悪いシナを作ってみせた。彼(?)は経営する店の従業員が欲しいのだと言う。
提示された条件は緩く、仕事内容の割に給料も破格だ。当初は面接希望者も多く、係員はすぐ決まるだろうと考えていた。が、このオカマ、次々不採用をくだしていく。
不採用理由に納得ができなければ、次の紹介は難しい。
「……生意気そう? そんな理由で?」
「とにかく! もっと別の子よこしなさい。条件は簡単。文字が読める見た目のいい子」
「その条件だけなら結構いるんですがね……」
顔が条件、にしては落とし過ぎだ。
先日の少年はそばかす面ではあったが、妖精のように可愛らしかった。あれ以上の外見となると、給料の桁が違う教会や城、貴族の家へ斡旋される。
定年直前のこんな時期に、よりによって私はオカマの愛人探しにつき合わされてるんじゃないか。係員の肩がガクリと脱力する。
「……もう、いい加減……っ」
係員が声を荒げかけると、オカマが杖で床を打ち鳴らした。ガンッと足元が揺れ、斡旋所が一瞬で静まりかえる。係員は息を止め言葉を飲み込んだ。対面のオカマの、底冷えのする目つき。
……あと一月で退職だ。のらりくらり笑顔でかわし、オカマの愛人探しは後任に押し付けよう。
初老の係員が人好きのする作り笑顔を見せると、オカマは小さく頷き淑女風に微笑んだ。こめかみがじんじん痛む。
「あのねー。うちの店が欲しいのは、あーいう明るーい友達の多いタイプじゃないのよ。可愛いんだけど、どっか地味でどんくさい、友達うまく作れませんって子」
「そんな子が接客志望なわけないじゃないですか!」
「別に接客やりたがってなくても、とにかく手伝ってくれればいいの」
「……ええと、でも結局接客をやらせるつもりなんですよね?」
そりゃあバーだからねとオカマが頷き、係員は頭を抱えた。接客を希望しない内気な美少年を騙して雇い、ウエイターにしたいと言うのか。
「いくらなんでも、それは……」
「おじさん、もー面倒だから登録してある子全部みせなさいよ!」
長く伸びた指をかわし履歴書ファイルを床へ落とす事ができたのは、初老の係員にしては神がかった反射だった。
係員は椅子を降り、ファイルを拾いあげ立ったまま捲る。半目で睨むオカマの視線がピリピリと痛い。
しかし、ファイルをいくら繰っても『友達のいない美少年』は見つからない。美少年にはたいてい取り巻きがいるし、友人がいない事など余程でなければ履歴書でアピールしない。
「だからね、まだこの国に来たばっかりで気が弱いです、とかそういう子居てもおかしくないじゃない」
オカマがカツカツと指先でテーブルを打った。
この国に来たばかりの内気な美少年。可能性としてなくはない。
「……しかし、そんな子を毒牙にかけるわけには……」
右も左もわからない内気な美少年をオカマの愛人に斡旋するなど、ほとんど人身売買だ。
気は進まず指先が重い。張り付いたページを上手く捲れずに係員は指先を舐めた。もたつく動作にオカマはやれやれと声をあげ、呆れ果てたように身体を捻り部屋を見渡す。
やれやれ、と言いたいのはこっちだ。うんざりする。捲るフリをしているだけで、係員はもはや書類を読んではいない。
と、オカマが唐突に身体を起こし、離れたカウンターを指した。
「ね、アレ可愛いじゃない。そのファイルにないの? あの子」
指の先には、仕事探しのカウンターに座る、髪も肌も印象的なほどに白い娘。緊張のあまり視線が定まらない、怯えた小動物のような瞳を持った美少女。
確かに可愛らしく大人しそうだ。しかし、少年ではない。少女だ。
「男性従業員を探していたのでは?」
係員が言うと、オカマは目を丸くし派手に体制を崩した。頭を掻きながら起き上ると、係員をじと目で睨む。
「……わたし、ボーイ募集じゃなくて、ただ従業員募集って書いたと思うんだけど」
「て、てっきり……」
『青兎亭』をオカマバーだと思い込んでいました、とはさすがに言いにくい。女性の履歴書なんて最初から一枚も目を通していなかった。
オカマがついと立ち上がり、杖を右手にひょいひょいと少女の方へ歩きだす。係員は急ぎ後を追って持ち場を飛び出した。
「ちょ、ヘクターさんっ、ちょっと!」
「……うっさいわねえ。ちょっとお嬢さん、あなた、お仕事探してるの?」
目を見開き驚く少女を余所に、オカマ……ヘクター氏はカウンターに手を伸ばし、少女の対応係員から履歴書を取り上げた。
「ヘクターさん、やめてください。ちゃんと手続きしなくては」
「ねえ、お嬢さん。この書類の字はあなたが書いたのかしら?」
ヘクター氏は係員を無視し、少女へ猫なで声を出す。
突然のオカマ言葉に戸惑いを見せた少女だったが、震え混じりの小さな、しかし透き通った声で慎重に話し始めた。騒々しい職業斡旋所が聞き耳を立て、劇場のような緊張を纏う。
「十歳までハーリアの学校へ通ってたから、字は、書けます。こっちに引っ越してから、学校いってないですけど」
敬語に慣れていないのだろう。面談を受けているつもりなのか、少女の言葉使いはたどたどしく、時折緊張に裏返る。その度、恥ずかしげに頬を染め瞳がうるみ、なんとも愛らしい。係員の頬もつい優しげに緩んだ。
「へー。で、あなたお友達多い方?」
「……ここ三年間くらい、お母さんの看病で引きこもってたから、あんまり。一週間前、お母さんが死んじゃって。……伝手もないから、ここに仕事探しにきたんです」
ヘクター氏は満足そうに笑った。鋭利で残酷な笑顔。ぞわり、背筋を毛虫が這い回るようで、初老の係員は大きく身震いをした。氏は指先で履歴書をなぞり、読み上げる。芝居がかった台詞回し。二人の特徴的で対照的な外観も相まって、舞台演劇のイントロを観ているかのようだ。
「特技は歌と踊り、ね。……うちは、そういうの必要ないけど。あ、ちょうど一週間前に十八歳になったばかりなのね。あなた、働くの初めてなの?」
少女は自信なさげに俯く。つまり肯定。少女に就労経験はないらしい。
「ずっと、お母さんと暮らしてたから」
「病気だったんでしょ? その間の生活費はどうやってたの。お父さんは?」
ずけずけと抉るような質問内容だが、少女はおっとりと首を傾げる。
「お父さんは三歳の時にいなくなったから、よく憶えていません」
「……そう。ま、きっとお母さんの貯金があったのね」
ヘクター氏は事情などどうでもいい、と投げ捨てた。
これだけ可愛らしい少女の母親だ。美しい女性なのだろう。美女が金を稼ぐ方法などいくらでもある。三年間看病できるだけの貯金があったに違いない。
「住んでたお家も、お母さんが借りてたから引き払わなくちゃで。できれば住み込みで働けるところを探してるんです。ハーリアにいる親戚とは会った事がないし、せっかくだから一人で頑張ってみようと思って」
と、少女の担当の若い係員が、カウンター越しに口を挟んだ。
「そ、そーなんですよ。住み込み希望なんですけどね。個室じゃないと困るとか髪型が自由な店がいいとか、条件がよくわからなくて……」
すぐ決まると思ってたんだけどなあ、と少女の担当が呟いた。彼もなかなかに手を焼いていたのだろう。
ヘクター氏担当の初老係員は若い同僚へ目で合図を送り、お互いに意を得、頷きあった。
頼りなさげな少女に面倒なオカマを押し付けるのは心が痛むが、同僚も共犯だ。この風向きにまかせてしまおう。二人はしっかりと口を閉じ結ぶ。
「住み込み! それ、ちょうどいいわね。うちの店、物置にしてる部屋があるの。そこに勝手に住んでていいわよ。私の部屋もあるけど、ほとんど帰ってないから」
絡め取るように優しくヘクター氏が笑う。少女は頬をバラ色に輝かせ、兎の子のように喜び飛び上がった。
「……可愛くて馬鹿そうで友達いなくて身寄りがないなんて、すごく都合がいいじゃない」
ヘクター氏が呟く。初老の係員は思わず、ずしりと重たくなった胃を押さえた。早速店に案内するわねと上機嫌に少女を押す氏を見送りながら、若い同僚も複雑な表情をみせる。
「あの女の子、ダリアさんっていうんですけど。一週間前の誕生日にお母さんが亡くなったんです」
いい職場ならいいんですが、と同僚はそっと祈りの仕草をとった。
「……大丈夫だろうさ、なにしろオカマ店長だ。何かされるということはないだろう」
初老の係員も小さくなった少女の背へ、祈りの言葉を送った。