ペットの兎
糸のようにたよりなさげだった月が、夜ごと膨らんでいきます。
兎は月を見て泣き、狼は月を恨んで吼えるのでした。
※※※
目の前が赤く塗りつぶされる。口腔にサルの血が入り、狗は甘辛い唾を吐き捨てた。
つい、薙いでしまった。檻に囚われたサルたちは抵抗を諦めたように見えていたが、あれは演技だったのか。
影で震えていたはずのサルが『雷』の印を結ぶのが見え、思わず至近距離で左手を振ってしまった。
残された下顎の断面は血を噴き上げ、狗の視野を奪う。続いて、背後からの雄たけび。レイピアを揺らすと、肉が生クリームのように掬い取られる。金切声。ゴッ、と遠くで鈍い衝撃。葉が擦れる音。
狗は血塗れの顔を拭いもせず目を開く。
すぐ前に、最初に裂いた頭部のないサル。その隣に、斬りおとされたばかりの右腕を押さえ、青白い顔で転げまわるもう一匹の雄ザル。少し向こうには檻の壁を叩き割ろうと足掻くサルの群れ。
サルなりの連携攻撃だったのだろう。魔法を使う一匹が『雷』を放ち、その隙にもう一匹が剣で打つ。しかしそのどちらもが狗相手には役者不足だ。
『雷』は頭蓋ごと二つに裂かれ、剣を握る手は斬り飛ばされ、森の木に当たり落ちた。
「あまり血を浴びさせないでくれ。俺の兎は臭いに敏感なんだ」
狗の黒い瞳が冷え冷えと輝く。
金の檻の中、狗に追い詰められたサルたちは喚き、祈り、宙空を叩き不運を嘆いている。
ざわり、と風が吹き森が揺れた。木々が割れ、猫目の月が青白い粒を淡雪のように零す。
ここはヨルドモ城塞の北、鬱蒼とした森の奥。今夜の仕事は『森のサル退治』のようだ。森に住みつくサルの群れを一掃しろと、確かそう依頼書に書かれていたような気がする。
いっそ大規模魔法で森を丸ごと焼いてしまえと提案をしてはみたのだが、許可がおりなかった。森を焼けないのなら、サルを残らず捕らえ狩らなくては。
通常こういった城塞外での集団戦は、狗ではなく案件にあわせ編成された騎士団が行う。しかし、屍鬼騒動がおさまり、城塞内での討伐依頼が減ったためか、王子は騎士への依頼を漁り狗へ回してきた。
狗を早急に狼へと戻すため、戦闘能力が回復している事を実績でアピールしたいのだろう。確かに、絶え間なく実戦を重ねさせられた剣筋は城の誰よりも鋭い。焼け爛れた皮膚へ魔方陣を刻む事はできないが、兎から教わった歌による詠唱が、魔方陣なしでの魔法の使用を可能にしていている。
中点に狗を据えた半球型の結界は、金の粉を舞い上げ森の闇を昼のように騒々しく照らし上げていた。堅牢な魔力の檻だ。サルが多少暴れたくらいで壁は壊れない。
壁を壊すことを諦めたサルは、狗に向かってキイキイと泣き喚く。
ヒト殺し!
鳴き声がそう叫んでいるように聴こえた。だが狗は笑って首を振る。
「なんて言ってるのかさっぱり解らないな」
サルの言葉が狗に通じるハズ、ないだろう?
狗が印を結ぶ。結界は踊るように明滅し、収縮する。金壁にもたれていたサルたちは背をぐぐぐと押され、地面に擦り跡を刻みつつ、狗の前へ集められていく。
小さなサルが足元の石を拾い、狗へと投げつけた。震える手で投げた石は方角が定まらず、わざわざ避けずとも当たらない。
じわじわと結界が縮んでいく。ヤケになった雄のサルが一匹、奇声をあげ斬りかかってきた。狗はそれを薙ぐと、眉をしかめる。
レイピアの斬れ味が鋭過ぎる。今度こそは血塗れにならないよう丁寧に払い飛ばしたつもりだったのだが、サルの身体が柔らかく千切れてしまった。内臓が狭い結界壁にぶち当たり、崩れる。
バラバラと降りかかる血塊。排泄臭。
「……っうわ、くっせ……」
腹が裂けたか。腸の悪臭が付けば兎が嫌がって逃げてしまうかもしれない。
狗は舌打ちし、残ったサルたちの首を一薙ぎで斬り落とした。
※※※
隙間なく爛れた肌は、ムカデが群れをなし皮膚の下を這いずった痕のようだ。その凸凹へ石鹸を押しつけ強く擦る。崩れた石鹸カスが泡と共に滑り流れた。
スズランが淡く香るこの石鹸は、ダリアが悩みぬき選んだものだ。だが今夜、豆粒ほどになってしまうかもしれない。
「……さすがに怒るかな、これは」
拗ねて可愛らしく唇を尖らせるダリアを思い浮かべ、ヘクターはつい微笑を漏らした。風呂場を出て、もしもダリアが怒ったなら軽くからかい、しかし明日には代わりの石鹸とスズランの花束を贈ろう。
だが、ヘクターはまだ風呂から上がるワケにはいかない。この頼りない芳香ではこびりついた悪臭を上書きできそうもなく、臭いを堪えるダリアのあんな顔をもう見たくない。
ヘクターは皮膚を剥がすかのように、ムキになって石鹸を擦りつけた。
しばらく前の事だ。仕事を終えたヘクターが『浄化』を唱え、玄関扉を開けた瞬間、ダリアが凍りついた。
ヘクターはあそこまでブサイクなダリアを、ついぞ見たコトはない。
兎耳は空気を含み倍に膨れ上がり、拒絶を示し真後ろを向いた。大きく丸い瞳は極限まで見開かれ、ボロリとこぼれ落ちそうだ。反射的に口元を覆った繊細な指の下から、鼻筋にくっきりと刻まれた深い横しわが見える。
それでもどうにか笑顔を作ろうと、ダリアは鼻をしっかりと摘まんだまま、頬筋に力を込め、目を細め口角を上げる。
可愛らしさの微塵も感じられない、窒息寸前のヒキガエルのような笑顔。
「ママ、おひゃえり、な……ゲフッゴホゴホッ! ご、ごめ……ぶふぉっ!」
「臭くてゴメンなさい!!」
ダリアがムせ、ヘクターは風呂場へ逃げ込んだ。それからずっと、身体を洗い続けている。
神は残酷だ。ヘクターは呟き、指を祈りの形に動かした。
大切な相手に『臭い』と思われるほどの恥辱はそうない。しかしダリアは兎の魔獣で、共に暮らすには鼻が良すぎる。
皮膚を剥がし貼り替えなくては、あの嗅覚からは逃れられないのではないか。
ヘクターは泡でふやけた指を眺め、嗅いだ。が、血塊や臓物がこびりつき取れなくなっている、気がした。
「……ニオイ、取れねーなコレ、たぶん」
石鹸を握ったまま髪を掻き毟りうな垂れる。と、風呂の扉がノックされた。
「ねーママ、お風呂長いねー」
能天気な声。顔を上げると、泡で塞がれた視界の隙間、兎耳が呑気に揺れた。ダリアが扉を僅かに開き、様子を伺っているようだ。
水浸しの犬のように頭を振り、ヘクターは泡を吹き飛ばす。
「あらダリアちゃん? ……ね、私、まだ臭いかしら」
扉が大きく開けられ、ひょいとダリアが現れた。鼻頭を小刻みに揺らし、スンスンと鳴らす。ヘクターは思わず呼吸を殺した。
「うーん。それなりに臭いよ? 許容範囲だけど。さっきは酷かったよね。鼻が取れちゃうかと思った」
「……そう、まだ臭いのね。もう少し洗わなくちゃね」
「あっでも、ママいつも臭いから大丈夫! もう今さら気にしないよ?」
「…………そう。私、いつも臭いのね。ゴメンナサイ」
ヘクターは肩を落とした。
どうやら常日頃から臭いと思われていたようだ。オトコの嗜みとして、匂いには気をつかっていたのだが。
恋人に『臭くて当たり前なタイプ』だと思われているなど、死んでしまいたいほどの屈辱だ。
魂は泡と共に弾けた。茫然自失のヘクターへ、ダリアが真顔で告げる。
「そんなコトよりもママ。お風呂出たら少し話したいコトがあるんだけど、いいかな」
話したいコト。
ヘクターはハッと我にかえる。ダリアはあまりに謎が多く、聞きたいコトは沢山ある。ヘクターは上ずってしまわないよう、丁寧に声を発した。
「もちろんいいけど。もしかして、この間のコト関係かしら」
ダリアが唇の端を引き締め、頷いた。
『あの日あった何か』の答えだろうか。ヘクターは身体を洗うのを終え、泡を流す。
排水溝に流れる真っ白な泡がぷつぷつと音を鳴らし、消えた。
※※※
ヘクターが風呂から上がると、リビングのソファーで俯くダリアの後ろ頭が見えた。
思考の波に飲まれているのだろう。表情は見えないが、倒れた兎耳が時折びくりと回る。大きくカールした白髪は前に垂らされ、華奢な首筋が露わになっていた。
真っ白なワンピースの丸襟から、滑らかに伸びる白磁の首。それを武骨に縛る黒革のチョーカー。これはダリアの親戚の学者、マイヤスが用意した暴走を抑えるための魔導具だ。魔力を吸収する青月石のペンダントトップが取り付けられ、簡単に着脱できないよう繋ぎ目がない。
ダリアの後姿は空気に溶けるほどに頼りなく白く、墨で家畜の首に引いた切落し線のような黒紐が、嫌でも目に飛び込んでくる。
ヘクターは目を眇めた。
『棄てるなら回収しますよ。お早めに。』
ダリアをモノのように扱う不快な言葉が、耳の奥で粘り剥がれない。
ヘクターはダリアに近づき、髪をくしゃくしゃと掻き崩した。よほど考え事に夢中だったのか、ダリアの身体がびくりと跳ね、強張った顔で見上げる。
並んで座り軽く促すと、ダリアは耳を直立させヘクターを見つめた。
躊躇い、逡巡し、ダリアがパクパクと口を開け閉めする。やがて身体の正面をヘクターに向け、決意を浮かべ話し出した。
「ねえ、ママ。お願いがあるの」
音の無い室内、ダリアの小さな声が奇妙に響く。
「お願い? 何かしら」
答えを話すのではなかったのか、と、ヘクターは少し落胆した。ダリアは一呼吸おき、続ける。
「私をペットに、してください」
ヘクターは思わず瞳を覗き込んだ。ダリアの月光のように青い瞳は揺らぐことなく、本気だと訴えている。
しかし唐突過ぎて意図が解らない。
「……はあ? なんで、いまさら?」
「うん、私をペットにして欲しいの。夏の初めくらいに、カノジョかペットか選んでいいって言ってくれたじゃない。……ほんといまさらなんだけど、選べるならペットの方が、良かったのかなあって」
どういう意味だ。恋人でいるのが嫌だってことか?
ダリアはヘクターの混乱に気が付かないまま、真摯な口調で話を続けた。
「急いで私をママのペットにしてください。すぐに。明日にでも。お願い、ママ」
嫌だ。
咄嗟に出かけた否定をヘクターは慌てて飲み込んだ。
ここ最近、ダリアをぼんやりさせ続ける何かが、突飛なコトを言わせているのだろう。聞き出さなくては。
しかし理由に納得が出来たとしても、国の狗となり名を失ったヘクターには、魔獣をペットとして届け出る本名がない。
ダリアの言葉は、ヘクターにとってあまりにも不都合な申し出だった。
「ペットって……カノジョよりペットがいいのか?」
「うん。カノジョより、ペットがいい」
ダリアが繰り返す。
戦い疲れたヘクターの脳には言葉がうまく理解できない。
ヘクターに都合の良い今のバランスを崩したくはない。気が付けば、思いとどまらせるための『餌』が口を突いて出ていた。
「……こんなだけど一応、俺にとってカノジョは一人だけで。いずれは、とかも思ってたりするんだが。ダリア、カノジョを辞めたいってことは、俺が他に恋人作ってもいいってこと? それともお前が、他に恋人欲しいってこと?」
ダリアは目を丸くして驚き、そんなつもりはないと首を強く振る。
そうだ。ダリアはカノジョを辞めたい、ではなくペットになりたい、と言っている。頭を冷やせと自分に命じた。
ダリアはヘクターとの関係を断ちたいわけではない。ヘクターの理解を超えた主従関係を結びたい、と言っている。今回も、獣の発想が常識をやすやすと超えてきたのだろう。理由を聞き出せば、別の解決が見つかるかもしれない。
じゃあ、なんで。そう口を開くよりわずかに早く、ダリアが目線を落とし呟いた。
「でも、ペットにしてくれるなら。それで私がママのそばにいれるなら。……ママは、他に恋人作ってもいいから」
今、何を? ダリアの言葉にぎょっとし、耳を疑った。どくり、と心臓が強く打ち頭が熱くなる。
ヘクターは仕事を終えたばかりだ。いまだ昂りが残っている。自制心を失えば、目の前の兎に牙を立ててしまうかもしれない。
冷静に、と、再び感情にクッションをかませる。一度崩した口調を、再びオカマ言葉に整えた。怒っている演技をし、理由を引き出すか、撤回をさせよう。
「ダリアちゃんあなた、何言ってんの。怒らせたいの? バカにしてるの? それとも私を試しているの?」
声色を低くし、脅すように言ってみせる。ダリアはびくりと震え、首を振り否定した。しかし長い耳は正面に向けられ、翻す気配がない。
「私、ママのペットがいいんだもん! だから、仕方ないよ!」
冷静に。
ヘクターは自分に命じた。感情と肉体の疲労に、頭痛がし眩暈がする。この不都合で不条理な会話を打ち切りたい。
ワザとらしくため息を吐き、痛む頭を抱えた。喜劇役者のような、大袈裟に冗談めかした呆れのポーズ。
「もー、ペットとか言って、わけわかんないわ。ねえ、ダリアちゃん。ブルーノが魔導師にペットとして飼われてたじゃない。その時どんな扱いうけてたか、憶えてる? ペット扱いって、あーいうのよ。……それとも、ダリアちゃんってあーいうことされたいタイプ?」
ダリアの顎を掴み引き寄せる。ワザと歯を剥き、妖艶な獣のように笑って見せた。
ほら、ダリア。思いつきのジョークだった、と言えばいい。口づけで、全てを誤魔化してしまえばいい。『重力操作』で潰してくれてもいい。そうしたらこの話は終わるから。
しかしダリアは唇が重なる前に叫んだ。
「ちがうけど!! でも! でも私、ペットにならなくちゃ」
顎に添えた指が振り払われる。顔の距離が離れ、指先にダリアの体温が虚しく残った。
「ママお願いです。そーいうのしてもいいから、私をママのペットにしてください」
「……されたいの?」
「いや、ちがうけどっ」
酸がこみあげているのか、胃の上辺がじくじくと焼ける。
ダリアがペットになりたいと言っている。何をされても構わないから、カノジョであることを辞めペットになりたいのだと強情に喚く。緩やかにもたれ掛かる関係を否定しているのだとは思いたくない。
疲労に集中が途切れ理解できない。ヘクターは思考を放り出した。
荒れ狂う感情を押し潰す。できる限り優しく微笑んでみせた。口の端がみっともなく引き攣り、歪む。
「そ、ダリアちゃん、あーいうの、されたいの?」
そういう事にしてしまおう。本当の理由が何処にあろうと、好奇心から出た恋人の戯言だと、そう思ってしまえばいい。
「おいで、こっち」
抱きとめるぞ、と両手を広げる。ダリアの顔に怯えが浮かんだ。
もし、こっちに来られてしまったら、凶暴性を抑えることが出来ないだろう。しかし広げてしまった腕はもう収められない。
「来いよ。ペット扱い、してやるから」
ダリアの望み通り、ペットのように壊すから。
おそるおそる、ダリアの手が伸び、ヘクターの心臓部に重なった。指先の慟哭が心音と重なり、深い井戸に落とされたように背筋が冷え、ぞくりと震える。
「……何を考えてんのか、わかんねえよ。魔獣って、そんなにニンゲンと違うのか?」
抱き寄せ、服を剥ぐ。白い裸体に家畜のような首輪。
ダリアは確かに兎の魔獣だが、ペットと考えたくはない。主従ではなくもっと同じ高さで、寄りかかれる存在であってほしい。
首輪を食いちぎろうと、歯を立てた。しかし首輪が切れたなら、ダリアに触れる事すら出来なくなる。歯をずらし、柔らかな肉へ噛みつき直した。
ダリアは呻き声を漏らさず痛みに堪えている。その事も納得がいかない。痛いと跳ね飛ばし、筋立てた話し合いをすべきだろう。ダリアは主張を繰り返すコトで理由を隠している。
「ほんとに、意味わかんねえ」
呟いてソファに沈めた。
苛立ちが興奮を引き起こす。口腔に広がるダリアの血に、サルの血の甘辛さが蘇った。
あれはサルだったのか、ニンゲンだったのか。記憶が不鮮明で、獣とニンゲンの違いはすでに曖昧だ。
心臓が激しく打ち鳴らされた。血が一か所に集まり、濃い酒に酔ったように意識が濁る。
凶暴な狼が兎を食い尽くそうと牙をむいた。
喘ぎ声に嗚咽が混じる。兎も狼も、泣いていたかもしれない。
※※※
翌朝、ダリアは痣で斑になっていた。二人は傷跡が目に入らないようシーツを被り、気まずい空気を隠し優しくやり直した。
それ以来、ペットのことは話題にあがらず、お互い何事もなかったかのように振る舞った。
しかしヘクターはその夜の事を思い出すたび、罪悪感と不安感で足もとが崩れそうになった。
ダリアの首にはマイヤスの首輪が、本当の飼い主はお前ではないのだぞと、絡みつき主張する。