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兎は月を墜とす  作者: hal
秋の月と夜の海
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兎の隠し事

「……ブルーノ。お前、ダリアになんかしたか?」

「っんな!?」


 突如ブルーノの鼻先にソースヘラが突きつけられ、熱いパスタソースが頬を汚した。調理場の主でバー『青兎亭』の店長、雇い主でもあるヘクターからの横暴な言葉に、ブルーノは身を震えさせる。

 ブルーノはソースヘラから逃れようと上体を柔らかく反らした。浮き上がった喉仏をヘラが追う。ぽたり、首元に零れる熱いソース。肌が痺れ、香草と肉の匂いが鼻を突いた。壁に当たるヤマネコの縞尻尾が、背後に逃げ場所は無いと伝えてくれている。


「……ぼ、僕がダリアねーさんに、なにかするわけがないでしょう。言いがかりだ……」


 ダリアは赤の魔獣、ブルーノは金目の獣人だ。格上の獣と争うほど愚かではない。

 それに、今日は何も特別な事はしていない。いつもと同じようにボーイの仕事を適当にこなし、ホールと調理場を往復している。今も、客からの注文を伝えるため調理場に入っただけだ。


 無罪を訴える必死の視線が通じたのか、首元からソースヘラが外された。ブルーノは安堵の息を吐く。


 ホールからは客たちの細やかな笑い声が聞こえる。『青兎亭』は料理の味も良いが、静かに酒を楽しむための落ち着いたバーだ。時刻は既に遅い。食事の注文はまばらで、調理場は熱を冷ましつつある。

 呼吸を整え、逃げ道を確保するようにぐるり目線を動かした。

 所狭しと並べられた調理器具。その多くは魔導具で一般庶民が入手できるようなモノではない。店長のヘクターは優秀な魔導師だ。幾つかはヘクター自ら作った品なのだろう。


 魔導師は、よくわからない。


 ブルーノは首を傾げた。調理器具を売り払えばこの店を数十年営業するよりもずっと多くの利益を得ることができるだろう。腕のいい魔導師が小さな飲食店を経営する意図がよくわからない。

 首を傾げた理由をどう解釈したのか、ヘクターがソースヘラを振り、カウンターへ通じる扉を示した。

 長い尾を警戒に膨らませ、ブルーノは酷く嫌そうに調理場の奥へ進む。


 この調理場には出入り口が二か所ある。それぞれホール、カウンターへと繋がっており、上半分にスイング式の目隠し扉が取り付けられている。

 渋々扉の前へ立つブルーノの頭をヘクターが鷲掴み、押さえつけ、強引に床へかがませた。力任せに後ろ頭をぐいと下げられ、ブルーノの顎が上がる。するとカウンターで接客をするダリアが視界に入った。


 一見ニンゲンのように見えるが、ダリアは兎の魔獣だ。長い兎耳をヘアバンドで押さえ隠してはいるが、それでもヤマネコのブルーノよりさらに聴力が鋭い。

 しかし今日は何も聴こえていないような顔で、カウンターに座る客の会話に相槌を打つ事もなく、空のグラスを前に酒の催促もせず、ただぼんやり佇んでいる。 


「そういえば、ねーさん今日、おかしいよね。

……ダリアねーさーんっ、僕、ヘクターさんにチューしちゃうよっ! 痛! 違っから、殴らないで! ……ほら、ねーさん反応がないでしょ。いつもなら……」


 いつもであれば、兎の魔力『重力操作』でブルーノを床に縛り付けるはずだ。聞こえて当然な距離で言ったにも関わらず、ダリアの耳には声が届いていない。俯き、考え事に耽るダリアに、ヘクターも眉頭のしわをいっそう深くする。


「ヘクターさん、言っとくけど僕、なーんにもしてないからね! 

……どうせヘクターさんが何かしたんでしょ。世間知らずな子兎に、無理矢理あんな事やこんな事させて。まるまる一晩、寝かせてあげずに次から次へと手を変え品を変え道具を変え、巧みな話術でそれが当然だと信じ込ませ調教……」

「してない、してないっ!! そんなことするかっ。ブルーノお前、俺をどんな非道な奴だと思ってるんだ?」


 ブルーノの目が泳ぐ。


 だって、ニンゲンの魔導師じゃないか。

 ブルーノは少し前までニンゲンの魔導師に飼われていた。ニンゲンの魔導師がどう獣を扱うのか、身に染みて理解している。ヘクターはニンゲンの魔導師にしては獣に甘いようだが、秘密が多く怪しい。本質がどうかなどわからない。


「でも、昨日の夜なんかしたんじゃないの? だって、僕が店に来たときはもうあんなだったよ」

「そーなんだよなー」


 ヘクターは肩をすくめた。


「今朝、家を出た時は、ダリアまだ半分寝てたからなあ。で、用事済ませて戻ったらあーなってた。……昨夜、か。俺、何か変なことしたかな。……シてるけど、いつもと同じ、普通な感じだと思うんだがなあ」

「ね、それ、完全に僕悪くないよね!」


 言いがかり過ぎる。ブルーノの出勤前からダリアの様子がおかしかったなら、ブルーノに非がないのは明らかだ。

 ヘクターは後ろ髪を掻き崩しながら、ダリアを心配げに見護っている。火傷の痕を大きく残しながらも美しい、古代彫刻のように端正な横顔はダリアのために悲しく歪み、ブルーノに言いがかりをつけたことを謝る様子はみじんもない。

 ブルーノは犬歯を剥き出し、弓張月のように笑った。悪戯を企む三角耳は正面を向き、縞尻尾が楽しげに揺れる。


「いつも! ヘクターさん、もしかして毎晩シてるの!?」


 ワザと大きな声で言うと、ヘクターは弾かれるようにブルーノに向き直り、カウンター席を気にしながら人差し指を口に当てた。客に聞こえたかもしれないぞと、美形が焦り崩れている。


 やっぱり、このヒト、面白い。

 ブルーノは笑みを素早く隠し、二人の仲を真剣に心配するような顔を作った。ヘクターは眉を寄せたままブルーノの肩を掴む。


「ブルーノ、こーいう話はも少し静かに。客に聞こえるだろっ」

「……ヘクターさん、答えて? ダリアねーさんと毎晩シてるの? もしそうなら、大問題だよ」

「え……問題は、そこ? いや、まあふつーに。付き合い始めとかそういうもんだろ? 毎晩、シてるけど」

「ヘクターさん。ダリアねーさんは、兎の魔獣なんだよ。あーニンゲンって最悪だなあ。いつだって発情期のヘクターさんと違って、獣は一定の時期にしか発情しないんだからね。それなのにそんなに毎晩毎晩シてたら、魔獣だって壊れちゃうと思うなあ。ダリアねーさんかわいそー」

「そ、そういうもの?」


 ヘクターの問いに、ブルーノは得意げに頷いた。縞模様の大きな耳がクルリクルリと廻る。


「そうか、なるほど。確かに、発情期ではないのに毎晩毎晩というのは酷いのか。……でもふつーにできてるがなあ。……しかし、発情期の一週間は、すごかったもんなあ」

「……どうすごかったのか、少し聞かせてもらいたいけど」


 ヘクターはますます眉根を寄せている。もうひと押しだ。ブルーノは目を細く細く輝かせ、口元をにやつかせる。ニンゲンにはわからないよう、そっとヤマネコの魔力を集めた。


「いい解決方法があるよ」

「なんだ?」


 真剣な顔でブルーノを見る。ブルーノはワザと声を殺し、ヘクターが顔を近づけるのを待った。


『惑乱』


 ヤマネコの金目が輝き魔力が溢れる。


「だから、今夜から僕がかわりに、ヘクターさんの夜のお相手を……」

「死ね! 発情猫」


 やすやすと『惑乱』が弾れた。ブルーノの鼻先ではヘクターの魔力に応え、ソースヘラが魔法剣のように淡く輝いている。

 このソースヘラは魔導具ではない。パスタソースを混ぜるための一般的な調理器具だ。しかし今のヘクターならソースヘラで首を斬り落とすことくらいできるだろう。


「ヘクターさん、どんどんニンゲン離れしていくよね……」


 ブルーノはそう呟き両手を上げた。耳をぐにゃりと倒し、首をぶんぶんと強く振る。この暴君に逆らうと、ろくなことがない。

 ヘクターはブルーノを足で蹴りのけ立ち上がると、カウンターを気にし、小声で言った。


「とにかく今夜、事情を聴いてみよう。……シすぎってことは無いと思うんだけどな。ブルーノ、ダリアに何かあったら報告しろ」

「了解です、ご主人様っ!」


 ブルーノがふざけ、衛兵の気をつけをすると、ヘクターは不愉快そうに舌を打った。ヘラでホールを指し、出来上がったパスタをブルーノに持たせる。さっさと行けというのだろう。ブルーノは早足で調理場を出た。


「……幸い今夜は仕事(・・)が入っていないしな」


 ヘクターの独り言が耳に入り、ブルーノはホールで首を傾げる。


仕事(・・)? ……ていうか、シすぎで寝不足なだけじゃないかなあ」


 ダリアは考え事に囚われたまま、ぼんやり麦酒を注いでいる。あれでは間違いなく麦酒の泡があふれてしまうだろう。ブルーノは仕方ないと笑い、ダリアのフォローに回ることにした。


※※※


 営業を終え、ヘクターとダリアは『青兎亭』従業員室へ戻った。


 ヘクターが風呂を浴び裸のままリビングに出ると、ダリアはちょうどリビングから自室へ入るところだった。考え事をし続けているのか、視線はうつろでヘクターに気が付かず、兎耳が力なく折れ曲がっている。


 もしや本当に、シ過ぎて壊れたのか!?


 ヘクターは慌てて手を伸ばし、腕を掴んだ。ダリアは驚き小さな声を上げる。力を弱め、しかし逃がさないよう優しく掴み直すと、覗き込むように目線を合わせ、ヘクターは静かに言った。


「ダリアちゃん、なにかあったの? 今日ずっとぼんやりして。調子悪いの? 風邪とか、それともまさかの……」


 シ過ぎ?


 ヘクターがそう言いきる前に、ダリアはヘクターから視線をはずし項垂れ、口を開いた。消え入りそうな小さな声。ヘクターは耳に意識を集中する。


「……私、今日ちょっとお出かけして。うん、それで……で」


 ダリアが言い淀む。声は窓の外の風音に掻き消された。日付の変わりかけた夜空で、上弦の月がひんやりと笑っている。

 ヘクターは急いでカーテンを閉め、月からダリアを隠した。


 『お出かけ』で何かがありその為にぼんやりしているのか。シ過ぎで壊れたのではなかったか。


 ヘクターはほんの少し安堵の顔を見せた。が、外でトラブルがあったなら尚更心配だ。なにしろダリアはよく大問題を引き起こす。ヘクターはダリアの手を取ると、ソファーへ横並びに座らせた。


「なにがあったの? 言いなさい。……だれかに、なにかされた、とか?」

「あ、そういうのじゃなくて。ちょっと、うん。私、指輪を直しに出して、それから大教会に行ったんだけど……」

「指輪の直し? 前あげた指輪、壊れちゃった?」


 ダリアは慌てて左手を出し示した。ほっそりとした白い指ではヘクターの贈った指輪が青く輝いている。


「壊れたのは、ママからもらったやつじゃないよ! えっと。ごめんなさい、ママの部屋でママの指輪を見つけて、それで触ってたら壊れちゃって」

「私の指輪なの? 気にしないで。どーせ、ぜんぜんつけてなかったようなやつでしょ」


 オカマの真似をする客商売だ。不必要な装身具を客から貰う事も何度かあった。おそらくそのうちの一つだろう。

 ヘクターの指輪を壊した事を気に病み、あれほどまで落ち込んでいたのだろうか。つい安堵の笑みが零れた。ダリアの兎耳をすくように撫でる。ビロードの滑らかな肌触り。兎の毛はニンゲンのものより、細く柔らかい。


「そんなの別に構わないのに」


 ヘクターが言うと、ダリアはごめんなさいと小さく笑った。引き攣った作り笑いに、ヘクターは眉をひそめる。


「気にしないでいいのよ、ほんと。いらないやつだから。……あー、そーいえばねえ、今度船上パーティがあるのよ。夏にカクテルコンクールがあったでしょ? あれに出るとオマケに出店許可がついてくるの。

『青兎亭』もパーティにお店だすから、ダリアちゃんまた可愛い恰好して、船に乗ったらいいわ。……うーんでも、少し変装しないとかもね。ダリアちゃん、有名人に似てるらしいから」


 カクテルコンクールではゴンドリー辺境伯がダリアを見て、魔女サラサが戻ってきたのだと勘違いしていた。

 魔女サラサはダリアの母で『一人目の黒の魔女』と呼ばれている。ダリアの父親は兎のためか、ニンゲンである部分が母親サラサとほぼ同じだ。

 船上パーティには城の関係者が多く参加する。中にはサラサを憶えている者もいるだろう。面倒な事にならないよう、変装させる必要がある。

 ダリアはパーティと聞き顔を輝かせた。単純な子だな、とヘクターは微笑む。


「すごいね、船上パーティなんて初めてだよ。いつあるの!? 今週?」

「さすがにそんなにすぐじゃないわよ。次の次の満月。秋の二番目の満月の夜。一年で一番、満月が綺麗な夜よ」

「そっかあ。…………行けるといいなあ」


 ダリアが首を落とし項垂れた。急落するテンション。ヘクターは声の調子を落とし顔を覗き込んだが、長い白髪が御簾のように遮り、表情が見えない。


「どしたの? 行けばいいじゃない、もちろん連れてくわよ」

「……私も、行きたいよ」


 行きたいのだが、行けないのだ、とでも言うようにダリアが大きくため息をつく。ヘクターは思わず、まじまじと見つめた。ダリアは人前でため息をつくタイプではない。

 手を伸ばし引き寄せる。腕に抱きしめると、胸に鼻をすり寄せてきた。熱を持った舌が突起に沿ってぎこちなく、しかしねだるように這う。普段受け身なダリアの積極的な誘惑に血が熱く煮えた。

 だが、兎の発情期は春だ。ヘクターは頭を振り熱を冷ます。ダリアが発情し求める筈がない。何かを誤魔化そうとしているのだろう。


「ダリアちゃん本当は何があったの? 言ってくれなきゃわからないわよ。お願い、言ってちょうだい」


 女言葉はこんな時、楽だな。頭で変換する分、荒れた感情を隠すことができる。


 指輪を直しに行ったときか、大教会か、その後か、とにかくそこで何かが起きたのだろう。答えようとせず、身体で誤魔化そうとするダリアに苛立ちを感じる。


 ダリアは膝に昇り、首を伸ばしのしかかるように唇を食んだ。

 詰問しようと肩を押したが、顔を合わせたくないようだ。必死で背中に腕を回ししがみついている。頬に温かい水分が伝わり、ダリアが泣いていると気が付いた。

 背中が嗚咽で震えている。


「……ダリア。今日はいいから、話せるようになったら、話してくれよな。……必ず」


 返事代わりに差し入れられた舌は、いつものように甘くはなく、塩の味がした。



 その日からダリアは必ず身体を重ねたまま寝たがるようになった。距離を離すこと自体が不安だと、そう言うように。

 ヘクターが夜、仕事(・・)へ出かけても、必ず、起きてヘクターを待っていた。


 答えを話す事の無いまま、それが数日続いた。

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