赤い指輪と青い指輪
たいへんだ。急がなくちゃ、間に合わないよ。
ウサギはそう、言いました。
※※※
古い真綿に似た秋雲が、寒々と月を覆い隠した。一段と深まる闇。ミノムシのような農具小屋、そのひずんだシルエットが夜に溶ける。
ヨルドモ城塞南地区、住宅街のはずれ。畑と小屋があるだけの閑散とした地域。収穫期間近の果樹畑では黄金の葉を茂らせた果実樹が、青灰色の房を重たげに垂らす。
果樹がざわりと揺れた。木々の間をジグザグと、黒熊のような魔獣が逃げ惑っている。怯え足掻き腕を振り上げるたび、甘い房がはじけ赤の果汁が飛んだ。
深夜の果実畑に、魔獣の乱れた呼吸音は大げさに響く。
臭い。
ひしゃげた屋根の上、狗は鼻頭をゆがめた。はちきれるほどに甘ったるい果実の芳香を、獣の湿った呼気が台無しにしてしまっている。口元を隠す黒布を引き上げ、鼻を覆う。
狗は静かに目を閉じた。
神経の絹糸を果実畑に張り巡らせ、魔獣を追う。
夕暮れのにわか雨に畦はぬかるんでいた。ばしゃり、ばしゃり。先ほど放った雷撃が足に傷を負わせたようだ。重い泥を跳ね走る足取りに、魔獣の軽やかさがない。
足音の進む方角から判断すると、城壁を目指しているようだ。街の外へ逃れるつもりなのだろう。が。
狗は風をまとい、強く屋根を蹴る。ゴソリ、鈍い音を立て屋根板がはがれ落ちた。
物音に驚いた魔獣は、狂ったように果実樹の迷路を走る。狗は魔獣よりも獣らしく、樹木の上を音もなく駆け抜ける。
影が落ちた。
一閃。見上げる間を魔獣に与えず、刃が煌く。
波打つ赤。
魔獣の首根が裂け噴き出た血液は、地面に花びらのような波文様を描いた。羽のように舞い散る黒毛。魔獣の首は深く肯いたかのように垂れ下がる。
冷え冷えとした秋の空気は血に熱せられ、薄い湯気が立ち昇っていた。
魔獣はゆっくりと膝をつき、血の花に伏し崩れた。脈動がなくなったのだろう。噴きだすのを止めた血液は赤い池を広げている。
狗は距離を取り、血しぶきを避けてマントで身体を隠していた。だらりと降ろした左手にはレイピアが握られ、裂かれた屍骸を冷え冷えと照らしあげている。
皮一枚で胴と繋がる魔獣の頭部。獣毛に覆われているため、表情まではわからない。どうやら人からは程遠いタイプの魔獣のようだ。狗は安堵しそっと息を吐いた。
黒々とした歯牙の間、血に濡れ赤みを増した舌が、艶やかに、嘲るように飛び出している。狗は反射的に指先を祈りの形に動かした。
堅牢な壁に囲まれた城塞都市であっても、闇に紛れ外部から侵入するモノがないわけではない。
狗は文字通り国の番犬としてそれら侵入者たちを排除する。それらが獣であろうと、ヒトであろうと。
今夜もいつものように、ヨソモノを追い込み殺処分をしたところだ。
雲が風に飛ばされたのだろう。
サアッ、と月明かりが降り注いだ。
眩しさに狗は眼を眇める。
血だまりのプールを泳ぐ魔獣の骸がはっきりと見えた。いつの間にか血は、じわりじわりと狗の足元までとどいている。
「……ブーツが……」
呟いて狗は足を上げた。果樹の葉をむしり、血塗れのブーツを拭う。すっかり革に染み込んでしまった赤黒い痕。
月が笑う。
いっそう強まる光を浴び、狗は忌々しげに月を睨む。
狗は踵を返し、闇に解け、消えた。
※※※
彼に憩いを、授けたまえ
※※※
囁くように歌われた『癒しの歌』。かまどの上でクツクツと泡を弾けさせる紫のスープ。
ダリアがワザとらしく歌詞を間違えると、集まっていた魔力粒は湯気のようにとろけ、霧散する。
ヨルドモ城塞西地区にあるアパートの三階、バー『月兎亭』の従業員部屋。ここでは『月兎亭』のアルバイトである兎娘ダリアと、オカマなマスター、ヘクターが暮らしている。
部屋の小さな台所では、パジャマの上に白いエプロンを身に着けたダリアが鼻歌を歌い、鍋をゆっくりと混ぜていた。レードルを返すたび、底にどろりと溜まる濃い液体が歪んだ渦巻き模様を描き、ミルクによく似た甘い香りが鼻腔をつく。
一匙すくい、味を確かめる。ダリアは顔を酷く歪め、急いで水を口に含み舌を洗った。
これは解毒剤だ。長時間煮詰めると甘い匂いを発するが、唇がしびれるほど渋く、大人でも吐き出してしまうくらい不味い。
どうやら完璧な出来栄えのようだ。ダリアは口元をハンカチで拭い眉根を寄せ、再び丁寧に鍋を混ぜはじめた。このまま混ぜ続け、色が白く変われば完成する。
出来上がった薬はヘクターの担当医がレシピと共に驚くほど高く買い取ってくれている。
この調子ならば家を壊した代金を払い終えるのもすぐだろう。
「できるだけ早く、返さなきゃ」
ダリアはつい、ため息を吐いた。
急がなくてはならない。もしかしたら、時間はもうないのかもしれない。
首を横に振り、嫌な空想を打ち消した。滑らかな白い毛におおわれた長い兎耳が大袈裟に揺れる。
すでに時刻は明け方近い。『月兎亭』の営業を終え、別の仕事に出かけたヘクターは、もうすぐ帰って来るのだろう。
ダリアと恋人同士になってから、ヘクターは以前よりも熱心に、というより急かされるように仕事をおこなっているように見えた。仕事から戻ったヘクターからは 、いつも濃厚な血の匂いがする。それはヒトのものであったり、動物の匂いであったり。鼻の敏感な獣であるダリアは、仕事の内容についてだいぶ前から勘付いていた。
鍋の中、解毒剤は甘い匂いを放ち、紫と白のマーブルをぐるぐると巻く。
この匂いなら、血の匂いを打ち消せるだろうか。
と、ダリアの耳が気配を捕らえた。兎耳をひねり玄関へと向ける。
密やかな呼吸音。柔らかな、血を浴びたわりに落ち着きすぎている心音。
布が擦れる音。おそらく、火傷跡を隠す顔の塗り物や、付着した血液を拭っているのだろう。
扉が慎重に開かれ、締め切られた室内に空気がぶわりと流れ込む。血と汗と、ヘクターの匂い。
ダリアの頬は自然と綻んだ。
忍ぶような足音が近づく。
「あら、ダリアちゃん、起きてたの?」
呆れたような、飄々とした口調。鍋から手を離さないままダリアが振り返った。いつもの、陽気なオカマの顔を張り付けたヘクターがすぐ後ろに立っている。
「うん。ママ、明日お医者さんのところに行くって言っていたでしょう? だから、もう一種類、お薬作っておこうとおもって」
ふうん、とヘクターはダリアの背後から鍋を覗き込んだ。ヘクターの大きな手はダリアの腰をつかみ、ぴたりと引き寄せる。兎耳に巻き毛が触り、くすぐったさに身をよじった。
甘い匂いに食欲をそそられたのか、ヘクターの手が鍋へ伸ばされる。ダリアは急いでその手を掴み止めた。
「だめだよ、これ、かなーり不味いんだから」
「そ。……ダリアちゃん、私が帰るのを寝ないで待ってたの?」
鍋への興味を完全に失ったのだろう。腰に添えられていた手がエプロンをたくし上げ腹部を撫でまわし始める。ヘクターの手を掴んだ手は、逆にしっかりと握り取られてしまった。
無遠慮に服の下へと侵入しようとする手を、開いている手でぺしぺしと叩く。
「ちょ、ちょっと、ママ。汗臭いしっ! 私もクスリ臭いでしょ? それに……」
私、別に待ってなかったよ、そう答えようとした唇は長い舌でふさがれた。
ヘクターの帰る頃に出来上がるよう、見計らって作られた薬は、完成を示す乳白色に変わっている。
ゆっくりとのしかかられ、身体が沈む。ダリアは慌てて火を止めた。台所の固い床に押し付けられ、服をはぎ取られた背中がひやりと冷たい。重なる熱い胸から伝わる心音に、身体が揺さぶられる。
へえ、と、ヘクターが笑った気がした。
※※※
「じゃあ俺、薬届けに行くから。……行ってきます」
押し殺したような、低く微かな声。吐息がかかり柔らかな熱が唇へ押し当てられる。
口づけに夢から引き摺りだされたダリアは、薄っすらと目を開いた。
黒。
長い睫毛に縁取られた夜のように黒い瞳。視線が重なり、それは優しく細められた。
「あら、起こしちゃった?」
「……ママ? おはよ」
ダリアはようやく目を醒まし、枕に頭を埋めたまま呟く。身体が離れベッドが小さな軋音を立てた。ヘクターはすでにきちんとシャツを着こみ、身支度を整えている。
ヘクターの部屋、一人用の狭いベッドの上。カーテンの隙間から入り込む陽光はすでに強く室内は明るい。ダリアは頬をぱっと紅くし慌ててシーツをつかむと、昨夜の痕が散る身体を隠した。
「おはよ、ダリアちゃん。私はもう行かなきゃいけない時間なのよ。じゃあ、行くわね」
ヘクターがそう言ってベッドから立ち上がる。足に装具をつけていないが、動きには不自然さがない。医者の所へは検査と薬を届ける目的で訪問していると言っていた。
結局、昨夜作り足した薬はまだ鍋に入ったままだ。呼び止めてから瓶に詰め、持っていってもらうわけにもいかないだろう。
ダリアはシーツから顔の半分だけを出し、部屋から出ようとするヘクターを目で追った。ベッドへと引き戻す糸のような視線に、ヘクターが肩をすくめ笑う。大股の一歩。ダリアの枕元へと戻ると、髪束へ騎士風の大袈裟な口づけを落とし、忙しそうに部屋を出て行った。
ダリアをベッドに残したままのヘクターの部屋。大きな本棚にはタイトルすら理解し難い本が並び、書き物机には数種類のインク瓶と、緑の羽がついたペンが神経質そうに整理されおかれている。
「……ママのイメージと、あわないよね」
身体にシーツを巻きつけ、ぼんやり室内を眺めた。
夏の旅行から戻って以来、自室のベッドで寝ることはほとんどない。とはいえ、ヘクターがいない時にはもちろん、勝手にこの部屋へ入る事はしていなかった。
主のいない室内には、ほんの少しの後ろめたさと緊張感がある。
「……んー。今日は、何しようかな」
泳いでしまう視線を誤魔化すように、わざとらしく呟いた。
今から何をするべきかなど、決まっている。まずは台所の片づけ。薬を瓶に詰め、『青兎亭』の開店準備。
思わず兎耳が横に垂れ落ちた。明け方過ぎまで続いた行為のためか、身体の節々が重く、面倒臭い。
やる気がちっとも起きず、天を仰いだ。
「……なにアレ?」
カーテンの隙間から入り込む光が、何かを捉えている。本棚の上、ダリアでは到底手の届かない場所での、赤い反射。
『重力操作』
シーツをベッドへ落とし、ふわりと身体を浮かせる。天井近くまで浮き上がると、光に誘われるように本棚の上を覗き込んだ。
「指輪? ママの?」
無造作に置かれた赤い石がついた指輪。忘れられていたのだろうか。そっと手に取りホコリを払う。ダリアの指よりも圧倒的に太い、男性用の指輪だ。
手に握りしめ、ベッドへ音も無く着地する。
「ママ、指輪なんて持ってたんだあ。……まあ、持ってても変じゃないよね。オカマさんだもん。……でも、なんであんな場所に?」
綺麗な赤い石だ。仄かに光を放っているようにも見える。こんな指輪が何故、本棚の上へ置かれていたのかと首を捻った。
しかし、とにかくヘクターの装身具だ。
ダリアはイタズラ娘のように顔を綻ばせキョロキョロと周囲を見渡すと、指輪をそっと自分の指へとあてがってみた。
じわり、指先から脳へと響く、小さな違和。
ぱりん。
兎の魔力が揺れた。軽く音を鳴らし、赤い石にひびが入る。
突然の出来事に、朱に染まっていたダリアの顔は蒼白へ変わった。
「う、わあああああっ! 壊しちゃった! ママの指輪壊しちゃったよっ、どうしよう……。とりあえずっ、べ、弁償しなくっちゃ……だよね?」
わたわたと指を振り回し指輪をはずす。ベッドへ落ちた指輪をつまみ手の中へ隠し、急いで自分の部屋へ戻ると、ハンカチに乗せた。
ヘクターの指輪を、ついうっかりで壊してしまった。ハンカチに座る赤い指輪を眺め、項垂れる。
と、ダリアの指へ嵌められたヘクターからのプレゼント、青い指輪が目の端に入った。
「……」
机の上にはダリアの貯金箱が置かれている。持ち上げれば、じゃらり、と十分な重さが感じられた。『青兎亭』の給料と薬の売り上げから、家と店の修理代を差し引いた『おこずかい』を貯めたものだ。
「ママの指輪は、修理に出すとして……」
ダリアの青い指輪と、ヘクターの壊れた赤い指輪。交互に見比べる。
ダリアは歓楽街の雑貨屋で見かけた、男性用の青い指輪を思い出していた。あれを買えるくらいの金額はもう貯まっている。
「……うん。今日は、忙しくなりそう!」
ダリアは声を弾ませた。
まずは、壊してしまった赤い指輪を直しに行こう。マイヤスに連れて行ってもらった銀細工の工房なら腕も良さそうだ。
直してもらうついでに、ダリアの青い指輪とおそろいの指輪を、赤い指輪と同サイズで作れば、多少安くしてもらえるかもしれない。
今日は忙しくなりそうだ。
ダリアは楽しげな思いつきに、急いで服を着こみ、台所の片づけに取り掛かった。