幕間
ほんの少し欠け、蜥蜴の目玉のように笑う初秋の月が、ハーリアの港で輝いた。人目を避け停泊する小型船が光に曝され、黒々とした影を凪いだ海に落とす。
その船は、奇妙な形をしていた。
二本の帆はどちらをメインとするでもなく、帆柱と帆柱の間を大きく開け取り付けられている。
その隙間、広い甲板の中央に建てられたドーム型の船室。中に入り見上げれば、天井に複雑な絡繰りが張り巡らされ、油布が張られている。この天布はハンドルを操作することで開閉することができた。
今、天井は大きく開かれ、船室へ月光がまっすぐ差し込んでいる。
カラカラッと石のぶつかる音が船室に響いた。床に青白い宝石がばらまかれ、煌く。落としてしまった宝石を一つ一つ摘み上げているのは、ショールを被り顔を隠す小柄な男。丁寧に拾い上げては布で曇りなく磨き、船室中央に立つ柱へと埋め込んでいる。
青白い宝石をびっしりと貼られた柱は、月の光を浴び息をひそめるような明滅を繰り返していた。
「マイヤス兄さん」
背後からの呼び掛けに、男……マイヤスは煩わしげに息を吐き、振り返ることもせず答える。
「……ヘクターですね。よくここが解りましたね」
「ずいぶん探したわ。でも、海の上のことだもの。人魚にわからないはずがない」
「まあ、そうなんでしょうね」
ずずずっと、重いものを引き摺る音。人魚のヘクター……ヘクスティアが尾をくねらせ、マイヤスへと近づいたのだろう。女性の呼吸音が間近に聞こえる。
沈黙。
マイヤスはヘクスティアを無視し、作業を再開した。
やがてマイヤスが床に零れた宝石をすべて埋め終えたのを合図に、ヘクスティアは細く小さく、ためらいがちな声を出した。
「……兄さん、お願いがあってきたの。人間の子供の身体を、一つ用意して欲しい。モーリスが兎に壊されてしまったわ。このままじゃ、抱き締めることができない」
「するわけないでしょう、そんなこと。それに、私じゃ無理ですから。 」
「嘘。だって兄さんは人魚のトカゲでしょう。それに、私の従兄で学者だわ。きっと本当はなんだって出来るんでしょう? そうね、あの女の子の身体がいいわ。アネットとかいったかしら、魔力の高いロージーの友達。あの子の身体なら、きっとよく馴染むから」
マイヤスはヘクスティアを振り返る。
月光に包まれ白磁の肌が輝いていた。緩やかな弧を描く金の髪が輪郭を縁取り、マイヤスの人魚とそう変わりなく見える。
ああそうか。同じ身体だったものな。マイヤスは息を吐くと、頭を振った。身体が同じでも、中身があまりに違いすぎる。
甲板にまき散らされた海水が、ぬめぬめと輝いた。宝石に覆われた柱をヘクスティアは不愉快そうに眺めている。
この宝石は青月石。兎の魔力を放ち、月に応えながらマイヤスとヘクスティアを照らしている。
「愚かなヘクター。健康な少女の身体が欲しいのですか? どうぞご勝手に、としか言いようがありません。あなたは頭の中まですっかり化け物になったんですね。私の従妹はそこまで狂ってはいなかったですし、私の人魚はそこまで惨めではありませんでしたよ」
マイヤスがそう言って突き放すと、ふわり、モーリスの魂がヘクスティアの頬へすり寄った。弾力の強い滑らかな肌が、金に輝く。
「でも……そうでもしないとっ」
「我儘なところは、獣らしく好ましいですが。
ねえ、ヘクター。モーリスに力を与えるメリットが私には何もありません。その子は私を殺そうとしたんですよ」
「でも、モーリスじゃ兄さんを殺せるはずないじゃないっ」
「もう死ぬかもしれないんです。そのテストは今行いたくはない。ヘクター、海の底に帰りなさい。自力でどうにかしたらいいじゃないですか。私にはあなたの手伝いをする時間がないのです」
そう言ってマイヤスは作業に戻った。マイヤスは袋から青月石を取り出すと、螺旋を描くように、柱へ埋めていく。
「兄さん、なにをやっているの?」
「これは船の動力ですよ。兎の船は月の光を浴び、夜空を自由に飛ぶでしょう」
マイヤスが指先で柱を弾く。リン、と鈴のような音が鳴った。
「逃げるのね」
ヘクスティアの呟きに、マイヤスは嬉しそうに目を細め、柱を撫でた 。
「ええ、もちろん。私は兎を連れ兎の船で兎から逃げるんです」
「私は……私はどうなるの?」
マイヤスが呆れたように笑う。
「ヘクター。あなたは記憶だけの存在。人魚の肉体を乗っ取った幽霊です。どうなる、も何もない。ただ、私はあなたをきっちり殺すと約束しました。その曖昧な記憶の海の中では、溺死する方法すらわからないのでしょう?
舞台は用意してあります。……とにかく、兎を、国を欺かなくてはならない」
唇に人差し指を当て、マイヤスは声を潜めた。まるで、月に盗み聞かれることを恐れるように。
「私の物語はもうすぐ終わります。人魚の愛する幸せな終わりを作るために、私は今、奔走しているんです。……ただ、大切なパーツが一つ、まだ足りていない。間に合えばいいんですが、こればっかりはどうにも、私じゃあ……」
「大切な、パーツ?」
それに答えず、マイヤスは立ち上がり大きな伸びをする。ボキボキと背骨が無邪気に鳴った。
さあさあと追い立てヘクスティアを船室から押し出し、甲板に立たせ手を振って見せる。
「帰りなさい。私を頼っても無駄だとわかったでしょう? さようなら ヘクター。次に会う日があなたの最後でありますように」
ええ、そのとおりだわ、とヘクスティアは呟き、飛沫もたてず海へ飛び込んだ。光の塊でしかないモーリスは、マイヤスに向かって何か言いたげに瞬き、ヘクスティアの後を追って海の中へ消える。
マイヤスは手すりにもたれ、波一つない穏やかな海面を見詰めた。
「……最後のパーツは、兎さんの中にあるんですよ。さあ、すべてを終わらせましょう。あなたはもう充分贖罪しましたよ。 愛しく馬鹿な、ヘクター」
※※※
少年は大好きな人魚のために、物語を集めていました。
いつか、人魚に食べられる日のために。少年の記憶を食べた人魚が、幸せな気持ちになれるように。
だから、少年の物語は全て、幸せな結末を迎えなくてはなりません。