六章エピローグ
盛大な西風が、昼間の熱を吹き飛ばした。秋の鱗雲は傾いた太陽を遮り、逆光をこぼしている。
ヨルドモ城塞大教会の鐘の音が、厳かに空を震わせ夕刻を告げた。
西地区の裏通りにある、細い坂道に面した住居アパートの二階。一週間の夏季休暇が終わり、バー『青兎亭』は夕鐘とともに営業を再開する。
風合いのある家具が並べられ、豊富な酒瓶が照らされた店内。
ダリアは長い兎耳をバンダナで隠し、カウンターの内側でグラスをぬぐっていた。ヘクターはコックコートに身を包み、下拵えを終えた厨房で料理の味を確かめている。
と、鐘が鳴ったばかりだというのに、扉がカランと開かれ、一週間ぶりの客が姿を見せた。
「いらっしゃいませ……あ、ミューさん。今日もずいぶん早いですね。お好きなお席にどうぞ」
「あ、ああ。ダリアさん、久しぶりです。あいつは……えっと、ヘクターは?」
ミューラーが店を見渡すと、ヘクターが顔を出した。ミューラーは眉をしかめ、ずかずかと厨房奥へ入る。
「ミューか。何の用だ? ああ、ダリア、ちょっと耳を閉じててくれ」
「はーい」
ヘクターが言うと、ダリアは素直に応じた。ヘクターはミューラーに向き直り、酷く嫌そうな声で言う。
「いつも思うんだが。なんで直々に店に来るんだ? 煩わしい。報告書ならもう昨日、問題なく渡しただろうが」
「……お前、あの報告書で問題ないと思ってるのか? どう考えても説明不足だろう。アレは、私の手元で止めている。今日は説明を求めに来たんだ!」
書類の束を叩き、声を抑えながら、ヨルドモの王子ミューラーが詰め寄る。何処が悪いのかわからないとでも言いたげに、ヘクターはわざとらしく目を反らせた。
「……トゥオーロの領主は屍人になっていたってのもあんまりだが、まあ、いい。歓楽街の件は以前報告を受けたからな。この、船の墓場ってのは何だ? そんなものがトゥオーロ島にあったなど、国は把握していないが」
「隠してたみたいだぞ。トゥオーロの海は流れが複雑で、浜に難破船が打ち上げられやすいんだそうだ。で、地元民や領主は難破船の積み荷を解き利益を得ていたらしい。船員たちを埋葬しつつ、な」
「ふむ。では、その船の墓場が崩壊した、というのは?」
さあと呟き、ヘクターはカウンターのダリアを盗み見た。きちんと兎耳を閉じているのだろう。動揺することなくグラスを磨いている。
「俺にはちょっとわからない。何かが起こった時、ちょうど意識を失っていたんだ。目を覚ましたら既に、浜はぐしゃぐしゃだった。その場にいたブルーノとアネットは、口ごもって何も言わなかったんだ」
鳥人に魔力を吸われ、意識を失っていたヘクターが起きると、船を空から垂直に降らせたかのように、船骸が砂浜に突き刺さっていた。
修復が難しいほどの荒れようだ。何が起きたかと尋ねたのだが、ダリアは恥ずかしいと俯き、アネットとブルーノは蒼白になり会話が出来ないほど震え答えなかった。飛んで逃げたのだろうか、鳥人の女王の姿はなかった。
おそらく、ダリアが兎の力を使ったのだろう。理由も想像がつく。しかし、兎の存在を国に報告するつもりはないし、推測を報告書に書く義務もない。
「ではこちらの、島民からの要望というのは? これこそ意味が分からない。なんで、見た目が良く頑丈で女好きな魔導師を新領主にしなければならないのだ?」
「さあなあ。しかしこれは島民一丸となってのすごーく切実な要望なんだ。美人だったなら羽が生えていても構わない位の、女に餓えた魔導師がいい。ミューからも頼んでくれ。おっぱい好きがいいかもしれないな」
「……意味がわからなすぎるぞ。詳しく話を聞こう。人事は管轄外だがな」
とにかく、女王と仲良くやれる新領主を早急に派遣しなければ、ヘクターを探しにヨルドモ城塞へ来てしまうかもしれない。
下半身が大鷲の風を操る魔獣美女だ。間違いなく町はパニックに陥るだろう。
今回、鳥人の事は報告書に書いていない。友好的で陽気な女王は、ヘクターやアネットを助けてくれた。
この国は魔獣に敵対的であり、鳥人は魔導師を食べる肉食の魔獣だ。余計な報告をし狩りが行われる事は避けたい。
新領主が女王に懐柔されればいいんだがな、とヘクターは呟いた。
その為には是非、節操の無い女好きを派遣して貰いたいところだ。
「事情は解らない、が、魔導師と結婚させたい娘でもいるんじゃないのか。しかし、とにかく島民全員の要望だ。早めにエロい新領主を派遣してくれ。……なあミュー、さっさと報告書を受理してくれよ。形式的には全く問題ないだろう? 内容がおかしいのは、いつものことじゃないか」
願わくば、器のでかいイケメンを。そして、あの面倒な鳥が俺にちょっかいを出さないように。ヘクターは指先で宙を掻き、神に祈った。
赤の兎と金の鳥人。強力な魔獣同士が争えば、船の墓場のように、町は呆気なく半壊するだろう。
どうも納得がいかない、と、ミューラーは報告書をめくり、眉を寄せ唸る。
「いや、しかしだなあ……ああそうだ、このスィーツ幽霊船というのは? 解決した、となっているが」
「海の平和が守られたってことだ。俺がやったんじゃない。書いた以上の事はブルーノから聞いてくれ。もうすぐ来るだろうから」
ホールのバイト、ヤマネコのブルーノは開店するまで店に来ない。
適当なのか、二人きりにしようと気を使っているのかはわからないが、営業に差し障りないため、そうさせている。
アネットとブルーノが兎の力を借り、幽霊船を崩壊させた。やっかいな屍人モーリスは、ロージーの身体を粉に崩しながら海へ墜ちていったそうだ。これでもう、幽霊船が現れることはなくなるだろう。
船で起きた事はブルーノから聞き出し、書類上では問題がない程度に濁し、報告した。ミューラーに訊ねられたとしても、ブルーノはダリアやアネットに不利な事を話しはしないだろう。
ブルーノは今回の一件で吹っ切れたようだ。
いい加減な雰囲気が薄まり、強さを持つ精悍なヤマネコに少しだけ、変わった。
「ブルーノ、か。この店のヤマネコの獣人、だったか?」
「んー? 呼んだ?」
いつの間にか店にいたようだ。大きな三角耳をピンと立て、ボーイ服のブルーノが厨房へ顔を出した。その脇からアネットが縦に重なるようにして中を覗く。
「あ、ミューにい、どうしたの?」
「アネット……っておい! なんで手をつないでいるんだ!?」
ブルーノとアネットは指をしっかりと絡ませ、手を繋いでいた。アネットは耳までを赤くしホールに引っ込む。動揺したのだろう。ミューラーが慌てて厨房を飛び出した。ヘクターはカウンターへ入り、腕を組んでダリアと並び、様子を見る。
ブルーノが楽しげに笑うと、絡ませたままの手を掲げ答えた。
「ああ、これ? 僕ら、同性の親友みたいなものだからね。お互いに全く恋愛感情がないから、手を繋いでいるんだよ」
「そ、そう! だって私たち、親友だものねー! ミューにいが変な顔するような理由じゃないんだから!」
手をほどくつもりは無いらしい。この旅行でずいぶんと仲が良くなった二人は、恋人のように顔を見合わせ、笑いあう。
「……そ、そういうものか? じゃない、違うだろう! どう考えてもその理屈はおかしいぞ。アネット、そいつ、随分と軽薄そうじゃないか。しかもヤマネコだぞ。騙されているんじゃないのか」
「ミューにい、怒るわよ! ブルーノは見た目ほどはチャラくないし、命がけで私を守ってくれたんだから! 私を騙したりなんてしないものねーっ」
おかしな話になって来た、とヘクターは片眉を上げた。
もしブルーノがアネットに手を出せば、飼い主としてヴェルガー家に巻き込まれ、責任を取らされてしまう。そんな面倒事は避けなければならない。
ミューラーは二人を引き剥がそうと、ブルーノの腕を掴んだ。と、ブルーノが自らアネットの指を解き、今度はミューラーの手を固く握る。
「綺麗なお兄さん! ミューラーさんって、アネットちゃんのお兄さんだったんだね。すごい美人さんだなあっていつも見てました! 僕、ヤマネコのブルーノ。アネットさんにはいつもお世話になっています」
「あ、あああ?」
「嬉しいなあ。ヘクターさんもすごく美人で素敵だけど、ちょっと暴力的だし、バイオレンス過ぎるなあと思っていたんだよね。ダリアねーさんの事もあるし。ねえ、アネットちゃん。僕のこと、お兄ちゃんって呼んで。あ、なんならお姉ちゃんでもいいからね。こんな綺麗な人とお近づきになれるなんて、僕、この店で働いてよかったよ!」
「ちょ、ちょっと、ブルーノ? 何、それ!」
アネットがブルーノの尻尾を引く。ブルーノはそれに構わず、手を握ったまま、ミューラーに視線を重ねた。
金の瞳が輝き、ヘクターが叫ぶ。
「おいっ、やめろブルーノ! ミュー、目を見るな!」
「はあああ? どういうことだ、これは……」
『惑乱』
ヤマネコの魔力に空気が震え、ミューラーがゆらりと倒れた。ブルーノは嬉しそうに飛びかかる。
「いただきます!」
「……ダリア!」
「はーいっ」
『重力操作』
ヘクターが命じた途端、兎の魔力が膨れ、重力がブルーノを押し潰す。骨の軋む音がし、ブルーノが呻いた。
「ブルーノ、客に手を出すなと言っただろう。……でも、まあこれなら」
アネットは心配そうにブルーノへ駆け寄っているが、この調子ならブルーノがアネットへ手を出すことはなさそうだ。
その代わりミューラーがアネットを兄として守ろうとするだろう。
「……うん。とても都合がいい」
ヘクターが呟くと、ダリアが小さく笑って見上げる。
「ねえママ。私ね、気が付いちゃった」
「そうか。俺もだよ」
今、無理に二人をくっつける必要はない。何年か経てばアネットは、ブルーノへの恋は間違ってたわ、と笑うだろう。その時にミューラーが隣にいればいい、ただそれだけだ。
ミューラーがアネットを守ろうと奔走してくれれば、可愛らしい新恋人としてアネットの名前が挙がり、あの噂も消えていくだろう。
ヘクターは頬を緩め、優しげに目を細めた。
「ん、そうじゃないの。それもまあ、そうだけど。私がこないだから感じてた違和感の正体」
「違和感? 何?」
「ねえママ、最近、無理してるでしょ」
「へ?」
ダリアが頬を膨らませ、言う。
無理をしているつもりなどない。目を丸くするヘクターへ、ダリアは包むように笑いかけた。
「ママ、そんなに頑張って、男言葉を使わなくてもいいんだよ? 私に気を使ってるの? ママがオカマさんだって事、私、全然問題にしてないんだから」
ブルーノとアネットは唖然とし、顔を見合わせる。素がオカマではない事など、もう明白だ。ただ、肝心のダリアだけが解っていない。
ブルーノがバイトに入ったことで、ヘクターは接客の機会が減った。このまま、うやむやな内に元の言葉使いに戻れれば、と考えていたのだが強敵がいたようだ。
ヘクターは盛大なため息を吐いた。
「…………そうよね。ああ、ダリアちゃん、なんて鈍い子さんなのかしら……」
「鈍くないよ! ちゃんとママのこと大好きだし、理解しようとしているもの」
「ああ、わかったわかった……わ」
二人の様子にヤマネコが目を吊り上げて笑う。店の入口扉がまた、開いた。
「いらっしゃいませ」
三人が、口を揃え言う。『青兎亭』に新たな客が来店し、バーに日常が訪れた。
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魔法師学校
©赤穂雄哉