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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
73/99

人魚と兎

 暗い海を金属のような月光が裂く。

 突然の光に海底は鮮やかに曝され、ヘクスティアは月を見上げた。青い双眸を恐怖に見開き、弾性の強い両腕で身体を抱きしめる。小刻みに震える尾びれが砂を掻き、薄い牛乳をまいたように海塵が漂った。

 赤紫の珊瑚も黄色い海藻も、岩の下に眠る縞模様の魚たちでさえ緊張に強張り、海面で揺らぐ月の様子を呼吸を殺し見詰めている。


 月明かりに混ざり、金属粉が舞うように赤の兎の気配が溢れ落ちた。

 

 赤の、兎。

 脳裏にその姿が浮かぶ。


 滝水のような月光を浴び、海面からヘクスティアを見下ろす、かつての兎の王。白い毛皮は月に青く染め上げられ、強烈な獣の鋭さを持つ赤の瞳が燃えるように輝いていた。

 月そのものの魔力を持つ、狡猾で美しい兎。兎の復讐に、ヘクスティアは獣へと墜とされた。


「あの子たちは……モーリスは大丈夫かしら」


 ヘクスティアはモーリスを連れて逃げなかったことを悔やんだが、兎が恐ろしく船に戻る事が出来ない。また、出来る限り遠くまで泳ぎ兎から離れたかったが、モーリスが壊されてしまう予感に、海域を去る事も出来なかった。

 ヘクスティアはただただ、白い身体を小刻みに震わせ、船と月とが浮かぶ海面を悔しげに見上げる。


 緊張に凍りついた夜の海は、昨夜の昂りを忘れたように澄みきっていた。海底の白砂に鎖模様の波影が揺れている。


 と、鎖がほどけ影が崩れた。


 水面に水泡が集まり、白い塊を包んでいる。その塊からは赤の兎の気配が土砂降りのように降り注いでいた。

 ヘクスティアは呆然と泡を見つめる。頬が紅潮し、形のよい唇は嬉しげな弧を描く。


「兎が、海へ墜ちたのね! きっとモーリスがやったんだわ……モーリスが、兎に勝ったんだわ!」


 人魚の勝鬨に、海底が色を取り戻した。ヘクスティアは双尾をくねらし、兎めがけ水を掻く。金の髪は獲物を捕らえる触手へと姿を変え、意思を持ち伸びた。


 兎を、沈めてしまえ。


 王といえども、海の中では人魚に敵わないだろう。


 兎を、食べてしまえ。


 金の繭からほぐれた絹糸が、再び繭へ戻ろうとするように、細い触手は兎を囲み広がった。海流が揺らぎ、兎は沈みながらくるりと回る。青白い顔がヘクスティアへと向けられた。


 サラサだ。

 愛しい姉、サラサの頭に兎の耳が付いている。


「え……?」


 触手は動きを止めた。戸惑うように広がったまま、兎の少女をつつく。


「サラサ姉さま……嘘、でしょう?」


 海水に溶けるヘクスティアの呟きは震え、裏返っていた。


「姉さま……」


 白い泡の軌跡を描き、ヘクスティアの腕の中へと墜ちる兎の少女は、どうみてもサラサだ。

 意識がないようだ。呼吸もしていないかもしれない。瞳は柔らかく薄い目蓋に覆われ、手足はぐったりと投げ出されている。

 黒かった艶髪は白に変わってはいるが、ヘクスティアの思い出の中のサラサと同じ。幾つもの歌を教えてくれた、ヘクスティアとよく似た顔だちの姉、サラサそのものだ。

 ふいの再開に熱い涙が零れ、潮に溶けた。ヘクスティアはサラサを引き寄せようと触手を閉じる。


 刃が煌めき、金糸が舞った。鋭く裂かれた金の触手は髪の毛へと戻る。糸の檻は破かれ、捕らえたはずのサラサは男の腕に抱えられていた。

 男の持つ上質で濃い魔力の気配。食欲が沸き上がり触手が波立つ。

 見覚えのありすぎる男の容姿。

 ヘクスティアの胸は大津波のような感情と、食べた魔導師の記憶とに飲み込まれ混乱した。

 人であった頃に愛した青年が大人の姿になり、サラサを宝物のように抱き締めている。


 むせぶような愛情。

 眩暈に似た食欲。

 ごうごうとうなる憎悪。


 ああ、この感情は私のものではない。


 ヘクスティアは触手を震わせ、大きく広げる。すだれのような隙間から、かつての恋人の姿を覗き見た。

 胃を煮え立たせる憎しみは、モーリスの父親である魔導師の記憶だろう。あの男はいつも邪魔をする不愉快な国の狗だと、狂ったように叫んでいる。記憶は燃えたぎる炎のようにヘクスティアの感情を追い立てた。


 違うわ、私の恋人の悪口を言わないで。

 憎しみの記憶を追い出そうと、ヘクスティアは頭を振った。触手がうねりレイピアで切り落とされる。ヘクスティアを狂わせようと襲いかかる感情の渦。

 復讐はまだ続いている、ヘクスティアはそう確信した。


 兎は、どこまで魔女を責めるのだろう。


「シャ、オ……」


 あなたは兎の復讐に巻き込まれないで。

 かつての恋人にそう伝えようと、名を呼んだ。

 シャオが振り返る。ヘクスティアは金の髪を壁のように集め姿を隠した。彼に見られたくない。化け物に変わり果てた姿など。


 まるで配役の狂った歴史劇のようだ。シャオの腕にいるべきヘクスティアをサラサが演じ、ヘクスティアはおぞましい人魚の役を当てられている。


 シャオがサラサを抱え、海面へと上がっていく。

 すがるように伸ばした触手は、一振りでばらばらに落とされた。身を翻し、シャオが印を組む。膨れる光球。シャオが指を振る。雷撃をまとう塊はヘクスティアへ放たれた。魔法の反動でシャオは海上へと浮き上がる。

 水中を走る稲光。視界は白く塗りつぶされた。ヘクスティアは目を固く閉じる。人の形を残す両手を祈りの形に組み、己の身体が焼き尽くされるのを待った。


 海が震える。もうもうと白砂が舞い上がり深い霧となって辺りを包む。


 しかし、灰に変わり海へ溶けるはずだったヘクスティアの身体は、小さく痺れるだけで済んだ。

 ゆっくりと目を開ける。

 ヘクスティアに哀しげにまといつく、人間の魔力の塊。


「……モーリス?」


 ヘクスティアが呟くと、身体を失ったモーリスは嬉しそうに回った。 

 雷とヘクスティアの間に割り込み、雷を弾いたのだろう。勢いが強いほど、軌道は少しの衝撃で反れる。反れた雷撃は遥か遠くで弾けたようだ。


 恋人の手で死ぬ機会を逃してしまった。

 ヘクスティアは目を閉じ、俯いて笑う。

 モーリスは口づけをするようにヘクスティアの頬へ寄り沿った。ヘクスティアは唇の端を寂しげに震わせる。


「モーリス、私の可愛い子。そんな身体になってしまったら、抱き締めてあげられないじゃない。また身体を手に入れなくちゃいけないわね。……そうだわ、私の従兄ならどうにかしてくれるかもしれない。学者をやっているのよ、一緒に行きましょう」


 月は去り、海は再び静寂と闇に包まれている。その中でヘクスティアの触手とモーリスは小さな篝火のように輝いていた。


※※※


 黒い宝石の光沢を持つ瞳が、不安げに揺らいでいた。

 ダリアはその宝石が欲しくなり、やけに重たい腕を持ち上げ、伸ばす。指先が頬に触れ、赤黒く膨らむ火傷跡をなぞった。

 大きく暖かな手が、ダリアの指を蝶の羽でも摘まむかのように、柔らかく握る。黒い瞳が安堵に細められた。


「……ダリア、目が覚めたんだな」


 聞きなれた甘く低い声に、瞳の持ち主がヘクターだったと気付かされる。

 ほんの少し違和感をおぼえ、仰向けに寝ころがったまま首を傾げた。じゃりっと耳元で砂が擦れる。

 顔をしかめるダリアに、ヘクターは呆れたように笑い額を弾いた。


「お前、もう海に近づくの禁止。一日に二回も溺れるんじゃねえよ」

「……ママ? 私、溺れ……てたの?」


 どうやら砂浜に寝かされているようだ。

 薄いワンピースは水を吸い、肌に張り付いている。柔らかな髪は砂を巻き込み、ぐしゃぐしゃに縺れていた。

 ダリアが肘を立て身体を起こそうとすると、ヘクターが遮った。


「大丈夫だよ」


 ダリアはそう呟き、ゆっくり半身を起こす。ほんの少しの眩暈に身体が揺れ、背後から抱きとめられた。

 背中越しに伝わるよれたシャツの感触と、筋肉質で暖かい胸の拍動。ヘクターの服もぐっしょりと濡れているようだ。


 空には明後日に満月を迎える月が、力強く光っている。宝石屑を惜しみなく散らしたような天球には大河がけぶり、夏の終わりを示す星座群が重く輝いていた。

 崩れた遺跡のように複雑に連なる奇妙な影は、浜辺に打ち上げられた船の骸だろう。いつの間に船の墓場に来たのだろうかと、瞬きを繰り返した。 


「ダリアねーさん、ほんと、大丈夫?」


 声のする方、ダリアの足元付近にブルーノがいた。金の瞳を光らせながら、眉を寄せダリアを見詰めている。背後からはアネットがブルーノの服を掴み、複雑な表情を覗かせていた。


「ブルーノくん、アネットちゃん。ねえ、何があったんだろう?」


 ダリアはヘクターに支えられたまま、不思議そうに腕を組み、耳をペタンと下げた。

 アネットは俯いて頭を振り、静かに顔を上げる。ぎくしゃくと頬を上げ、困ったようにダリアへ笑いかけた。よくできたね、とブルーノがアネットをなでる。アネットの耳が赤く染まった。

 ダリアが笑う。背後のヘクターは苦い顔をしているようだ。


 ブルーノは腕を布で縛っていた。それを見たダリアにうっすらと記憶が蘇る。


「あ、ああっ! そうだ、ブルーノくん! 怪我、すごい血を吐いて……。大丈夫だったの? そ、そだ、『癒しの歌』歌わなきゃ!」

「すんな! お前、魔法使えないだろうがっ!!」


 あ、あー、と発声をするダリアの口を、ヘクターが慌てて押さえた。ブルーノが腕の当て布をほどき、包帯で覆われた傷跡をダリアに見せる。すっかり血は止まっていた。


「そんなに酷い怪我をしていたわけじゃないんだ。ちょっと引っかかれただけ。他の血はただの返り血だってば」

「そ、そうだったの?」


 ヘクターの手を口から剥がし、ダリアはブルーノを眺める。ブルーノはおどけた様子で手を振って見せた。


「そっか。あれ? でも私、どこにいたんだっけ。ブルーノくん大怪我だ大変って思ったのはおぼえてるんだけど……」

「船の上。海のど真ん中。あたしが全員助けたんだから感謝して恩に着ていただけると光栄なんですけど? 王様」


 ぬっと鳥人の女王が姿を現した。ダリアの顔を覗き込み目を糸のように細め、得意げに笑う。


「ひゃー! 鳥ニンゲンさんだ!」

「…………兎の王様って、バカの子だったのね」

「ええっ、鳥ニンゲンさんいきなり酷いよ!?」


 鳥人がため息を吐くと、ヘクターは同意し深く頷いた。


※※※


 夜とはいえ季節は夏だ。浜辺は昼間の熱を残し温かい。乾き始めたワンピースは白い粉を噴き、動くたびにざらざらと擦れる。

 ダリアは肌に浮いた塩の粉を指先で擦り落とした。目の前では金目の鳥人がキイキイとしゃべり続けている。


 鳥人はヘクターに頼まれ、海の上を飛び船へと運んだのだと言う。しかし着いた時には既に、船は砕け大きな木屑へと変わっていた。

 ヘクターが制止も聞かず手を放し海へ飛び込んだため、鳥人も空から様子を伺っていたのだそうだ。


「でねえ。えーっ話が違うわってなるじゃない? あたし、せっかくのご飯を海に落としちゃったんだもの。そしたらさあ、もう一匹、美味しそーな匂いがするから、そっちに行ったらヤマネコとお嬢ちゃんが木の板に掴まって浮いてたのよ。だからあ、もう超ラッキーって一緒に板に乗ったのね? そしたら今度はダーリンが王様抱えて浮かんできたから。すっごく嬉しかったわあ! あたし、板を風を操って浜辺まで運んであげたの! すごいでしょう? ホーント役に立つでしょうあたし。ねえ王様!」

「おうさま?」


 捲し立てるように言われ、ダリアは自分を指差し、耳を倒した。

 鳥人はそれを無視したまま、大げさに両翼で顔を覆う。涙をこらえているかのような声色を出し、悲劇のヒロインのように言った。


「それでねえ。島に戻ってきたら、あたしの子どもたちが一人もいないのよ。なんだかぜーんぶ死んじゃったみたい。そこの浜辺と船の中に子どもたちの死体が転がってたわ。屍人(ゾンビ)を島に招き入れたあたしが悪かったのよね……」

「……半分はアネットちゃんがやったんだけどね」


 ブルーノが聞こえないように呟く。

 鳥人は羽を折り、地面に座り込みうなだれた。

 しばらくの間、顔を羽で覆っていたが、同情の声が掛からない事に痺れを切らし顔を上げる。


「ねえ、王様。あたし、島にいる理由がなくなっちゃったの。もう養う子どももいないし、この島にはご飯だってロクにないわ。でもあたし気が付いたの。王様に飼ってもらえば、ダーリンがいるからご飯だって食べられるし、卵も産めるじゃない? 王様、あたしを一緒に大陸まで連れて帰ってくれないかしら?」

「卵って何だ! 第一、こんっな目立つ魔物、王都に連れ帰れるか!」


 目を白黒させるダリアに代わり、ヘクターが叫んだ。ダリアは再び違和感をおぼえ、首を傾げる。


 鳥人は子どもを失ったことをたいして嘆いてはいないようだ。切り替えが早い性格なのか、獣の習性としてそうなのかはわからないが。

 疲れたように怒るヘクターへ向き直り、鳥人は艶やかに笑う。


「ふうん。じゃ、今はいいわ。いずれ、ね。こういう縁は大事にしたほうがいいと思うのよ。とりあえずダーリン、約束の頂戴。おなかすいちゃったの。めちゃくちゃ疲れたんだから」

「そうだな。アネットたちまで助けてもらったんだしな」


 そう言ってヘクターは指先を噛み切り、ぷくりと赤い血を流した。


「ほら、喰え」


 指を鼻先に突きつけるように鳥人へ差出すと、鳥人は嬉しそうに身体を寄せる。ヘクターの背中へ翼を回し、ぐいと引き倒れた。バランスを崩し、覆いかぶさるヘクターの頭を押さえ抱き寄せる。鼻頭がぶつかった。

 

「いただきまあす」


 呟いて唇に舌をねじ込む。むぐむぐと音をたて唾液を吸われ、ヘクターの身体から力が抜けた。鳥人に重なるようにぐったりと倒れ込む。

 声にならない悲鳴。ダリアが月に吼える。


 巨大な青月が、船の墓場に墜ちた。

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