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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
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飼い猫

 三年、いやもう四年近く前、秋の二番目の満月の夜。ダリアが十五歳になった日の、ちょうど一月後。


 日常が瓦礫のように崩れ落ちた。


※※※


 窓から注ぐ青白い月明かりが、ホテルの部屋を洪水のように満たしている。浅い眠りから醒め、上体を起こしたダリアの影が、音もなく光を遮った。

 夢の中で泣いていたのだろう。視界が滲み、喉の奥は塩辛い。ダリアはシーツを目頭に押し当て涙を止めた。


「ママ……アネットちゃん、ブルーノくん……?」


 声は石壁にぶつかり響いた。返事はない。まだ誰も戻っていないようだ。抱き寄せた枕に顔を埋め、溜め息を吐く。


「ママ、とても怖い夢をみたよ……女の子が兎に変えられてしまう夢」


 俯いたままベッドを降り、窓際へ歩いた。夏の夜風に白く長い兎耳がそよぐ。


「その夢、もう醒めないんだ」


 夜空に浮かぶ、花びらに似た柔らかな月。氷のような冷たさに、兎の心臓がどくんと脈を打つ。目眩。思いきり月へ吸い込まれてしまいたい。


 赤の力を使ってはいけません。月に捕まってしまいます。


 母親の咎めるような声が胸をよぎる。


「けして、兎の王の力を使い過ぎてはならない。……ねえダリア、子供の頃、子兎が弾けた感覚を覚えている?」


 ダリアは演劇の舞台に立つように、月へ向かって両腕を伸ばした。芝居がかった仕草で夢の中の母、黒の魔女サラサの台詞をなぞる。


「おまじないをしましょう。あなたが月に捕まらないように。あなたの心が乱れ、魔力の制御が難しくなった時、兎の王より先に子兎が弾けるの。小さな爆発なら、月は王だと気付かないから」


 スポットライトのように圧倒的な月明かりの下、全ては大げさな夢のようだ。

 赤の兎となった事も、母親が亡くなった事も、今、ヘクターに保護されている事も。


 ダリアは曇る頭を左右に振り、現実へ意識を戻す。独りで月を見上げている事がすうすうと寂しい。


「……ママ、何処にいるのかな」


 ヘクターの魔力を探そうと目を閉じた。


 息を深く吐き、兎の魔力を研ぎ澄まさせる。月光に編み込むように感覚の糸を張り巡らせた。


 糸に触れる違和感。

 ダリアは目を開き首を捻る。


「これ、私の魔力だよね? ……青月石(ブルームーンストーン)、ママ、持ってきてたのかなあ?」


 感覚の糸は、ダリアの魔力をたっぷり含む青月石を釣り上げた。歓楽街でヘクターの目印にしたものと同じ石のようだ。

 窓の外で月は、遠い海をさあっと照らし、ダリアを誘うように青い光筋を落とす。

 石は海の上にある。ママ、船に乗ったのかな、とダリアが呟いた。


 震える心臓。

 衝動に駆られ、窓から踊り出る。


 靴は必要がない。

 重力を操る兎だ。足は宙に浮き、地面に直接触れる事はない。


 島の闇を月明かりの道が真っ直ぐ裂いている。

 月光を浴び、兎が草むらを駆け抜けた。軽々と崖を飛び越え、夜の海へと墜ちる。朱色の足指の下、飛沫がキラキラと上がった。

 月は無鉄砲な兎へ困り顔で笑いかける。

 途端、海面に延びる光の道は、ガラス板のように凪いだ。


 とんっ、とんっ。


 足の下に銀環を重ね、赤い瞳の兎の王が海の上を走る。


※※※


 豆袋のように床に落とされ、ブルーノは意識を取り戻した。

 身体のあちこちが痛む。渇いた舌が糸を引き、疲れ果て声も出ない。

 鳴りやまない波の音、潮の甘い香り。悪酒を呑んだ夜のように、横たわる身体は大きく揺さぶられている。


 航海中の船に乗せられているのか?


 そう気づき、まぶたを薄く開いた。

 暗闇。ヤマネコの瞳孔を丸く拡げ様子を伺う。窓のない船室のようだ。

 すぐ目の前に机の脚があった。その向こうに革のブーツが並び、男が一人、光る石を机の上でもてあそんでいる。

 石は息を吐くように青白く輝いた。亡霊を思わせる男の顔が照らしあげられる。ブルーノの昔の飼い主、廃船でブルーノを捕らえた若い魔導師だ。


 飼い主が燐寸(マッチ)を摩る。

 机の上には蝋燭が刺さったままの燭台が置かれていたが、それに灯さず、異国の香炉に火を入れた。

 青臭い香りの『花』の白煙がたなびく。


 飼い主は蓋のついた陶の器からグラスへ葡萄酒を注ぎ、椅子に腰掛けた。ブーツの先端がブルーノの鼻先を掠める。

 男は足先へ重心を移し、床が軋んだ。


 蹴られるっ。

 ブルーノは反射的に頭を庇い、目を閉じる。

 笑い声。空気が揺れる。衝撃はなかったが、木を擦り合わせるような低い囁きが耳元に落ちた。


「愚かなブルーノ。お前は、逃げることしかできない怠け者だ。ヤマネコの力でさえ、酔っぱらいの財布を巻き上げるためにしか使っていなかっただろう」


 ブルーノは数度瞬きをし、目を開けた。

 飼い主の頭ごしに、恍惚を誘う『花』の煙が天井を覆い、月のように輝く石に照らされ、青い筋を重ね揺れている。

 まるで海底から空を見上げているようだ。

 椅子から降りた飼い主はブルーノの横に方膝を付き、やけに温度の無い掌で耳の付け根を撫でている。


「何もかもが、ただただ、面倒くさいのだろう? 考えることも、行動することも。お前のように怠惰で弱い生き物では、従属屍鬼(ペット)にすらなれないそうだよ」


 静かに、憐れむように酒を仰ぐ。

 ブルーノは喉の渇きをおぼえ息を飲んだ。粘ついた口腔からは唾さえも絞り出せない。


「呑むか?」


 飼い主は笑い、赤い液体をブルーノの横顔に垂らした。

 酸味のある華やかな香り。ブルーノは目を閉じ口を開く。滴り落ちる液体を伸ばした舌で受け止め、啜り呑んだ。冷えた葡萄酒が、喉を熱く濡らす。


 馬鹿なネコだ、と、男は呟いた。


「お前には意思も衝動も、本能すらろくに無いのだろうな。ただ、暖かな羊水に浮かび、泳ぎもせず漂うだけだ。生きている意味などない」


 『花』に痺れ、柔らかな幸福感に包まれている。濃い酒に頭は鈍り、青い点滅に意識が奪われた。

 暗示をかけるように繰り返される低い囁き。耳を擽る冷たい指先が、奇妙なほど心地よい。

 ごろごろと自然に喉が鳴り、仰向けに首が反った。飼い主の手が首へ回される。ざらりとした麻の感触。小指ほどの太さの紐が首へ二重に巻きつけられた。


 紐の両端を握り、飼い主はブルーノへ跨る。


「責任を持って殺せ、とのお嬢さまのご命令だ。目が覚めたなら、意思のない屍人(ゾンビ)……お前の場合は屍鬼(アンデッド)になっているだろう。快楽のみで生きる、単純で幸福な怪物だ」


 飼い主が交差させた紐をゆっくりと引く。

 ブルーノはひくりと息をのみ、慌てて紐に指をかけ、緩めようともがいた。冷水を浴びせられたように、意識が明瞭になる。

 目を丸くし、飼い主を見上げた。飼い主は乾いた笑みを頬に貼り付け、紐を手繰り愉しげに引く。


「はっ、かぁ……っ! くふぅぅっ!」


 嗚咽が漏れた。指に喰い込む紐を押し返そうと力を込めたが、紐を引く力は無慈悲に強い。 

 逃れようと暴れるブルーノを肘で押さえ、飼い主はゆっくりと覆いかぶさる。大きく尖った三角耳へ口を寄せ、低く掠れる声で言った。


「そういえば、あの鳥の死骸はお前がやったのか? ……ヤマネコが鳥に噛みつくのは、まあ、当たり前か。野生を失くした飼い猫だとばかり思っていたがな。どうせ、鳥と戦うように流されたのだろうが。戦うという選択が、お前にとって一番楽だったんだろう?」


 ブルーノは腕に力を込め、飼い主を押しのけた。目の奥が赤く点滅し、脳がぐらぐらと揺れている。


 抗うブルーノに飼い主はほんの少し力を緩め、目に安堵を浮かべた。


「……違う」


 ブルーノは唾を吐くように言う。息苦しさに、白濁する頭。自分が何を喋っているのか理解が出来ない。


「アネットが、ヘクターさんに守って欲しがっていた。僕も、ヘクターさんに、なってみたかった。僕も、僕も一度守る側に立ってみたかったんだ。……あの、冷たい目が、欲しかったんだ」

「ふん。お前はただ、すがる子供を棄てる事が恐ろしかっただけだろう? 棄てる事を選べなかっただけだ。お前は爪を削られ、牙を抜かれた愛玩猫だ」


 飼い主は身体を重ねたまま、紐を勢いよく絞めた。


「っが! ちが、う!」


 ブルーノが紐を解こうともがく。飼い主は誘うように首筋を曝し、抱き締め顔を寄せた。飼い主の含み笑いに頬が揺れた。


 朦朧とするブルーノの耳に飼い主の命令が届く。


 暴れろ。ほら、ここだ。人間の急所は。


 紐は焦れたように強く喰い込んだ。ブルーノは鬱血した首を激しく振る。空気を求め開いた口に、柔らかな肉が触れた。思わず歯を尖らせ喰らいつく。


 腐肉の味。


 紐の締め付けに応じ、顎に力を込める。飼い主の血管がプチプチと裂かれた。口の中、肉片が踊るように震える。

 肉を引き千切り、吐き棄てる。溺れた人間が空気を求めるように、夢中で繰り返した。舌も鼻も麻痺している。顔を血まみれにし、咳込むように飼い主の首を咬み切った。


 ごりっと頸椎を砕くと、飼い主の首が胴から墜ち、思わず腕に受け止める。

 丸木のように横たわり、肉色の断面を晒す見慣れた男の身体。腕の中で血に染まる、よく見知った顔。


 ブルーノはようやく我に返り、首に紐を掛けたまま惨状を眺めた。シャツは男の血に染まり、床は体液で変色している。室内には感覚を狂わす香が漂っていたが、それを打ち消す程の重い死臭がした。

 身体が震え、歯の根が重ならない。

 頬を伝う涙は男の血と混ざり、赤い滴となって落ちる。言葉にならない悲鳴は獣の咆哮へ変わった。


 からかうような拍手の音。


 腕の中の頭をぐいと引っぱられ、涙が止まる。


「おめでとうブルーノ」


 横たわっていた胴体は、ゆっくりと身体を起こした。血液のゴムで手繰り寄せるように、首は宙を浮き胴体へ着地する。

 沸騰するような泡を弾けさせ、首と胴体はみるみる繋がっていった。


「な、なんで、殺した、はずなのに……? 元に戻っ?」


 ブルーノは顔を蒼白にし、膝から崩れ落ちた。ゆっくりと首がうねり、骨が、筋肉が、血管が、あの時の少女の形をした化け物のように修復されていく。


「よくやった、ブルーノ。ようやく獣になれたのだな」


 白くふやけた皮膚。ぷつぷつと虫の卵に似た泡がさざ波を打つ。


「お嬢さまはな、役に立たないネコを飼うつもりはないのだそうだ。私はお前が野性を失っていない、役に立つネコだと証明したかった。首を千切ることが出来るなら、優秀な従属屍鬼になれるだろう?

私の可愛いヤマネコ。ほら、抱きしめてやろう。私はお前をもう、永遠に逃がすつもりはない」


 飼い主の姿をした化け物が両腕を広げる。

 混乱するブルーノの悲鳴は音にならなかった。

 化け物から逃れようと後ずさる。机にぶつかり、グラスや香炉、石、燭台が派手な音をたて床に落ちた。濃い『花』の匂いのする灰が散らばる。

 嘲笑が耳を殴った。


 ブルーノは床を這い、落ちた燭台から蝋燭を引き抜く。膝で立ち、両手剣を構えるように針を男に向け、膨らんだ尻尾を大きく揺らした。


「……ほう。顔が、変わったな」


 追い詰められたヤマネコはようやく牙を剥いた。化け物は感心したように笑い、腕を広げ近づく。ヤマネコは威嚇をするように低く喉を鳴らした。大きな瞳孔は真っ直ぐ化け物を捕えている。


 耳を後ろに倒し、立ち上がった。両腕を思い切り振り降ろす。燭台の鋭い針が男の胸へ刺さり、黒い血が噴き出した。


「いいぞ、ブルーノ。私はどんなに刺しても死にはしない。存分に殺す練習をするがいい」


 化け物が笑う。ヤマネコは背後にステップし、距離を取った。口から威嚇の音が漏れる。

 青月石が輝きを強めた。月の獣の魔力が満ちる。血に濡れた太い針を服に撫で付け、祈るように指先を動かした。


 その仕草に化け物は呆れ笑う。


「神に祈るのか? お前は相変わらずおかしなネコだな。神は、魔導師だけのものだ。水は上から下に流れ、季節は夏から秋へ変わる。その当然のルールを決めたのが、神だ。魔導師は神から教わった法則に従い、魔力を理に乗せる。おまえたち獣は、理も解せずにただ暴れるだけではないか」

「神に、祈ったんじゃない」


 兎の王に力を借りたんだ。


 全身の力を込め突き出したヤマネコの一撃は、化け物の心臓を貫く。


「はは、私は死なないと言っただろう? ブルーノ……あ、お? ……ああああ?」


 鋭い針が、男の心臓に埋め込まれた真珠、(コア)を掠りヒビを刻んだ。小さなヒビであったが、心臓の穴を埋めようと血管が走り、ヒビの隙間に入り真珠を砕く。


「ははは! そ、そうか! 死ぬのか、私は。ブルーノに、飼い猫に殺されて、死ぬのか! はははっ、そ、そうか! ブ、ブルー……」


 どう、と男は床へ倒れた。

 ヤマネコは男の身体を仰向けに返す。心臓の穴に塞がる気配はない。


 感情が昂り、身体は痛みを感じなくなっている。床に落ちた青月石を拾い上げ、ポケットへ突っ込んだ。


 血塗れのヤマネコは燭台を握り、船室の扉を開ける。青い月明かりが空気を塗り替えるように吹き込んだ。

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