狗の狼
同居生活が始まり、はや三ヶ月。厳しい冬の寒さは薄れ、水温む春が訪れた。しかし二人の関係はヘクターが企むように暖かくなってはいない。
どういうわけかダリアは、ヘクターの恋愛対象は男のみだと頑なに決めつけていた。
毎晩のように抱きしめキスを求めても、魔力鍛錬の一種だと勘違いしたのだろうか、ヘクターを床に押し潰したり宙に飛ばしたりと、凶悪な兎の力で避け続けている。
一度『捕縛』の魔法で捕らえようとした時などは、直ぐ様それを『暴走』させられてしまい、目的を忘れた魔力の渦がソファをズタズタに切り裂いた。
おかげで、ダリアの魔力操作は日に日に上達していったが、別にダリアを鍛えたくはない。仲良くなるという点においては順調だが、そもそもその程度で喜びを感じるほど純情ではない。
にしても、キス程度に手間取り過ぎじゃないか?
ヘクターは首を捻る。
外見が良く世渡りも上手いヘクターは、今まで大抵、あっさりと肉体関係を進める事ができていた。その中には初モノも何人か含まれている。
ここまでの手応えの悪さは、初めてだ。
しかも最近、ダリアが可愛くて仕方が無い。……それはある種、不自然なほどに。
「ね、ダリアちゃん、最近なんか雰囲気可愛くなってない? 何かしてる?」
共有リビングのソファに座り、のんびり朝食のパンを食むダリアに、ヘクターは女友達のようなさり気なさで話しかけた。
するとダリアは、顔面を熟れた果実のように赤らめ、パンを皿に戻すと、ヘクターを真っ直ぐに見詰め返した。口をパクパクと開閉して何度も空気を飲み込み、言い淀みながら話し始める。
「……そろそろ、言わなきゃなって思ってたんだけど……なんだか恥ずかしくて、言い出せなくて」
何を言うつもりか見当がつかない。ヘクターも向かいのソファに座り、姿勢を正す。
ダリアは目線をヘクターに合わせ、丁寧に単語を選びつつ、ゆっくりと続けた。
「もうすぐ、兎人のね、繁殖期に入るの」
……繁殖期。
「発情期ってやつですか!?」
ヘクターが身を乗り出し叫ぶと、ダリアは恥ずかしそうに俯き、兎耳を揺らして頷いた。
獣人は人間と違い、一定の時期にしか発情しない種族が多いという。そして、発情期以外では人間のようには繁殖を行わない……らしい。
「……うん。それが近くなると、特に魔力の多い人は当てられやすいみたいで。ママ、魔法使えるじゃない? だからだと思うの。なんだかごめんね?」
「あやまんないで大丈夫!! むしろご褒美だから!」
「……ご褒美? えっとね。それで、繁殖期に入ったら普通に動けなくなっちゃうから、お仕事、一週間くらいお休みするけど、いいかなあ?」
「わかったわ! 一週間ね! 一週間お店閉めましょうね、ママ頑張っちゃうから」
「ママはお店やってて大丈夫だよ? 病気じゃないから、付き添われてもこまるし……迷惑かけちゃうし」
兎耳が力なく倒れた。
身を乗り出したままの姿勢で、ヘクターは心中呟く。
どうりで、今まで全く相手にされなかった訳だ。もうすぐそんな素敵なイベントが待っているなら、俺はまだまだ頑張れる、いろいろと。
そして指先をそっと動かし、神に感謝の祈りを捧げた。
※※※
今夜もバー『青兎亭』はかなりの盛況をみせている。テーブル席はカップルで埋まり、カウンターもわずかな空席を残すのみだ。
バーの店長でママのヘクターは厨房とカウンターを忙しく往復し、ウェイトレスのダリアはフロアをくるくると動き回る。
「ね、なんだか今日のママ、機嫌が良過ぎない?」
カウンターに座る常連客のミズナが、ダリアを捕まえると声をひそめて言った。
「……そういえば、どうしてでしょ? 朝からすごくテンションが高くて、機嫌がいいんです」
ダリアは首を捻った。特に思い当たる原因はないのだが、聴覚の鋭敏な兎耳には確かに、ヘクターの小さな鼻唄が届いている。
他の常連客たちも、あまりの上機嫌ぷりにやや戸惑っているようだ。
「でもまあ、機嫌は良い方がいいですよね」
ダリアは深く考えずにそう答え、再び仕事へと戻った。
と、カランッとドアベルを鳴らし『青兎亭』の入り口扉がゆっくり開いた。どこか慎重に、様子を伺うようにして入ってきたのはダリアの初めて見る青年だ。
「かっこいい……」
すでに酔いが回り始めているミズナが感嘆を漏らす。青年は緑がかった金髪を顔が隠れるように降ろし、フレームの薄い眼鏡をかけてはいたが、その華やかな美貌を隠しきれてはいない。
引き締まってはいるがどこか線の細さを感じさせる体に、ベージュの上質なジャケットを羽織り、左手には小ぶりな白い花束を握っている。オカマだが野性的で妖艶なヘクターとは対照的な、太陽のような美青年だ。
しかし表情は緊張に強張っている。やはり新規の客なのだろう、店内をキョロキョロと眺め、奥を伺うように首を伸ばしていた。
「いらっしゃいませ。カウンター席でよろしいでしょうか?」
ダリアが声をかけカウンターを指し示すと、青年はしばらく動きを止め惚けたようにダリアを見詰めた。やがて、唐突に目を逸らして俯き、ああと呟いてミズナの左隣の空席に座った。
「本日は状態のいい黒麦酒が入荷しています」
「……じゃあ、それを」
外見の印象より低く穏やかで、聞き取りやすい声色。メニューも受け取らず、青年は俯いたまま応えた。
その時カウンター奥から厨房に続くスイング式目隠し扉から、ヘクターが顔を覗かせた。
「いらっしゃいませ……っげ!」
途端、ガタッと椅子を鳴らし、青年が立ち上がる。
「やはりいたかっ! おおか……っ!!」
「んな!? ……とりあえず、黙ってて下さいねっ!」
慌てて厨房を出たヘクターは、カウンター越しに青年の頭を引き寄せ、顎を掴むようにして口を塞ぎ、眼鏡を引き抜いた。青年の意思の強い深緑の瞳が露になる。
「……ちょっと私、厨房で話してくるから。この子、昔の知り合いなの」
口元を押さえ黙らせたままヘクターが言うと、青年はぎょっと目を剥き何か言いたげな素振りを示したが直ぐに席を降り、厨房へ入っていった。
やがて、店内は異質な沈黙につつまれた。
ヘクターは極めて小声で話していたが、滑らかに響く青年の声が所々漏れ聴こえてくる。ダリアは兎耳の弁を調整し、耳穴を引き締め、聴かないようにしようと必死になった。
次第に会話は熱を帯び、青年の怒声が響き渡る。直後、厨房の壁が殴られたのだろう、打撃音と共に建物が揺れ、フロアは水を打ったように静まりかえる。
「ごめん、ダリアちゃん。上でちょっと話し合いしてくるから。料理とカクテルはオーダーストップね」
ヘクターは青年を引き摺りながら厨房から現れ、そうダリアに告げると、慌ただしく店を出た。
それからしばらく、二人の足音が遠ざかるまで、店内は完全に凍りついていた。
「……なんか、すごかったわね……」
ミズナが黒麦酒を注文しながらボソリと呟く。ダリアが丁寧に黒麦酒を注ぎミズナへ届けると、『話し合い』の最中、客の全員が声を出せずにいたようで、堰を切ったように次々注文が入った。
あわあわと酒を運び終え、ダリアはカウンターの内側へ入る。するとミズナが頬をニヤつかせ、ダリアに話しかけた。
「ね、あれってやっぱり、痴話喧嘩よね! モトカレかなっ!」
「ええっ! 一生懸命耳を閉じてたから、わからなかったです!」
「……耳を閉じるって、どうやるの?」
人間には耳を閉じる事ができない。その事に気がつき、ダリアは笑って誤魔化した。
「うん、痴話喧嘩だったよなあ。しかもママ、終始敬語だったよ」
ミズナの右隣、もっとも厨房から近い席に座っていた常連客クインスが、そう続けた。カウンターに座る他の常連客も口々に言う。
「『戻って来い』って迫ってるの聴こえましたね」
「すっごい綺麗な人だったわよね。……きっと、貴族か魔導師じゃないかしら」
ふへーと、ダリアは目を真ん丸にし、驚きを隠せないでいた。
まさか、貴族か魔導師の元カレが、ヘクターによりを戻せと迫っているとは。世間知らずのダリアとってあまりにも怒涛の展開で、思考が全く追いつかない。
ダリアは顎に指を添え、首を傾けて暫く考えると、常連客たちに尋ねた。
「もしかして今日、ママの誕生日とか何かの記念日だったりしませんか? あの男の人、花束を持っていたし、ママ、朝から機嫌が良かったし……。記念日だから、会いに来たのかなあ?」
しかし、ヘクターの誕生日は誰一人知らない。
※※※
「……わざわざこんな辺鄙な場所にご足労頂き、大変もったいない光栄でございますっ、殿下!」
「殿下はやめろ、狼」
口先では敬語を使ってはいるものの、ヘクターの態度に敬意は感じられない。殿下と呼ばれた青年がソファにどかりと腰を降ろすと、ヘクターも向かいのソファに座った。
「私はもう狼ではありませんってさっきから何度も言っていますよね? ほんっと、わざわざ何しに来られたんですか」
「その言葉遣いもやめろ、全く似合わんぞ。ああそうだ。結婚おめでとう、狼。……これを」
「……は?」
青年……この国の若き王子、ミューラーは満面の笑みを浮かべ、手にしていた花束を机ごしにヘクターへと押し付けた。
「ええと、これは、どういう……?」
ダリアと同じ家に暮らしてはいるが、結婚をした事実などはない。それ以前にヘクターは、妻帯し家族を持てるような立場ではない。
「赤蛇の報告書に書いてあったぞ。大屍蟹を倒した男は妻を連れていた、と。蟹は狼が倒したのだろう? 他に特徴のあう人間はいない」
「あー、あいつら真に受けたんですか……」
確かにヘクターは妻だと言ったが、それはあの場を切り抜けるための方便だ。まさか赤蛇がバカ正直に信じ、報告書にまで記述するとは思ってもみなかった。
「相手は誰だ。……もしかして、店にいた白い髪の娘か?」
「私には結婚などはできません。あれは、追求を避けるタメにそう言っただけです」
「なんだ。女グセの悪いお前がようやく相手を決めたのかと祝いにきたのだが。つまらんな。……ところで、あの娘は恋人だったりするのか?」
ヤケにダリアの事を気にするミューラーをジト目で見詰めると、逃げるように視線をそらした。
そうか。ミューラーはかなり魔力が高い。発情期が近付くと魔力の高い人間は当てられやすい、とダリアが言っていた。
「別に恋人では無いですが」
「そうかっ!!」
ミューラーが立ち上がり、喜びを隠せない様子で叫んだ。完全に、心を奪われたようだ。
「ですが、ここに二人で住んでます」
「……」
そう付け加えると、力なく座り直し項垂れた。
「もう、用事は住んだのでしょう? お帰りいただけませんか、殿下」
「……だから、殿下と呼ぶな。気持ちの悪い敬語をやめろ。昔のように、横暴に接してくれ」
「今は狼じゃありませんから。ですが殿下の頼みでしたら、狼と呼ぶのを止めていただければ、考えなくもないです」
「……狼でないなら、なんと呼べば?」
ヘクターはニヤリと笑い、言った。
「今は、『狗』『ママ』『ヘクター』の三つの呼び名で呼ばれています」
「どれも最悪だな!! 呼べるか!」
「殿下の立場でしたら、狗、がオススメですがね」
当然『ママ』は論外なのだろう。ミューラーが頭を抱え、唸った。
未だに狗とは呼びたくはないようだ。ヘクターが狼から狗に墜とされる事を最も拒んだのは、ヘクター自身ではなくこの王子だった。
「……なんで、よりによって『ヘクター』と名乗っているんだ?」
「考えればわかるでしょう? そのくらい」
嫌な笑みを貼り付けたまま答えると、ミューラーは声を絞り出すようにして、言った。
「……ヘクター。……わかった、ヘクターと呼ぼう。……全く、なんの嫌がらせだ」
「俺は、昔からそういうタイプだったろ。ミュー」
王子が狗を狼と呼び続け厚遇を続けたならば、立場的に互いに危うい。
呼び名を正させる事に満足したヘクターは不遜な態度で脚を組み、狼の時のように姿勢を崩してみせた。二人きりの場で畏まるのは、性にあわない。
「もう、用は済んだか? さっさと帰れ。目障りだ」
「……ヘクター、それはさすがに横暴がすぎるぞ」
ミューラーが苦々しく、しかしどこか嬉しそうに笑うのを見て、ヘクターも目を細めた。
「ほらほら、ガキはさっさと護衛を呼んで帰れ帰れ。二度とうちの店に顔を出すんじゃねーよ」
「……護衛は、おおか……ヘクターがやれ。この三年間、無色の狼は空席のままとなっている。大屍蟹が単独で倒せる程の実力があるなら、戻れるのではないか?」
ヘクターはシャツの袖を捲り上げ、見せた。腕の皮膚が広範囲に及ぶ火傷で残酷にただれ、痣の僅かな隙間には無数の切創が刻まれている。
「見てみろ、魔法陣を刻める場所がどこにも無いだろ。おかげで蟹退治もかなりギリギリでな、鈍い屍鬼相手に数発くらっちまった。それにこっちの足もマトモには働かないしな。……まあ仕方ねえ、今日くらいは城まで送ってやる。……だがミュー、俺はもう、狼には戻れねえよ」
ミューラーの端正な顔に影が落ち、大きく歪んだ。
※※※
「ママたち、遅いなあ……」
『青兎亭』のカウンターで、ダリアはつい、声を漏らした。閉店の刻も近づき、店内にはまったりとした空気が流れている。
独り言が聴こえたのだろう、かなり酔っぱらったミズナが楽しげに笑い、言った。
「よりが戻って、イチャイチャしてるのかもね」
「えっ!? それは、さすがに……」
ダリアは顔を曇らせた。同じ部屋で生活しているというのに、そこで淫らな行為が行われたとなれば、まだまだ純情なダリアにとっては酷く気分が悪い。
ヘクターはあの時ダリアにしたのと同じように、綺麗な青年の髪を撫で、首筋を指先でなぞり、顎を上向かせて覆い被さっているのだろうか。そして優しく甘い声で、愛を囁くのだろうか。
ゴオ、と、鳩尾の奥で兎の魔力がうねった。
「……あれ?」
胃液をかき混ぜられたような刺々しい感触をおぼえ、手で鳩尾を押さえる。
何故、魔力が暴走しようとしたのだろう。その理由が理解できず、ダリアは首を傾げた。
と、カランとドアベルを鳴らし、入口からヘクターが覗いた。身体を半分だけ店内にいれ、ダリアに声をかける。
「ダリアちゃん、ちょっとこの子、家まで送って行かなきゃなの。遠いから少し遅くなるわ。店のこと、よろしくね?」
バーテン服から黒いジャケットと細身のパンツに着替えたヘクターの後ろに、先程の眼鏡の青年が佇むのが見え、ダリアの顔は僅かに強張った。
「……はあい、わかりました……」
声色に奇妙な感情が混ざった気がして、ダリアは急いで口角を上げ、笑顔を作った。しかしその笑顔さえもが歪んでいるように思える。
「……ごめんね」
ヘクターが困ったように眉根を寄せ、そう呟くと扉を閉めた。
それから閉店まで、ダリアは殆ど仕事が手につかなかった。
ヘクターの指先や唇が、誰かの身体を這う様子や、傷だらけの胸や手足に他の肉体が重ねられる場面が、頭の中を小間切れに横切り、その度に兎の魔力が暴れかけた。
表情だけはできる限り平素を保とうとしたのだが、店を閉める間際、ミズナに謝られてしまった。その事にまた反省し、落ち込み、誰もいなくなった店内で床にしゃがみ込んだ。
掃除を終え、もう従業員部屋に帰るだけとなっていたが、帰りたくはない。だが帰る場所は他にない、帰らなくては。ダリアはノロノロと戸締まりをし、三階への階段を一歩一歩上った。
いつもよりやけに重い扉を開け、従業員部屋の中に入り鼻をピクピクと動かしたが、特におかしな臭いはない。
それでもやはり気分が悪く、急いで窓を開け、換気をした。
ふわり、青白い満月の優しい光が慰めるようにダリアを包む。
ああ、そうか。もうすぐ繁殖期だから、身近な男性であるママに、こんなにも執着してしまっているのか。
その事に思い当たると、ダリアの気分は急に楽になった。
「……ママ、変な想像しちゃってごめんなさい。変な顔しちゃってごめんなさい。誕生日かもしれないのに、何もしてあげれなかったね。ごめんなさい」
ダリアはそう呟くとキッチンに向かい、顔を洗う。
もしかしたら使われたかもしれない。そう思うとシャワールームには近づく事すら出来なかった。