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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
66/99

猫と鳥

 鞭のように空気が唸り、黒い塊が垂直降下する。

 ブルーノは身を翻し軒下へ避けた。柱の間をすり抜け、大烏は茜色の空へ舞い上がる。羽がブルーノの脇を掠め、散った。

 トゥオーロ島の漁港に近い集落。鳥の群れから身を隠そうと逃げ込んだのだが、どの家の扉も硬く閉ざされている。


「助けてっ! 開けてください、お願いっ!」


 アネットが叫び、民家の木戸を力任せに殴った。僅かな歪みに指をかけ、抉じ開けようと揺するが、内側から押さえられているのか、弾力ある肉の感触に遮られ扉は開かない。


 大烏が風を切り、再び地を滑った。ブルーノは背後にアネットを隠し、鞄で打ち払い避ける。烏たちは様子を探っているのか、それとも軒が死角になっているのか一匹ずつ降ってくる。

 ブルーノは舌打ちをした。一斉に飛び掛かって来てくれれば楽なのだが。


「っお願い、お願いだから、中に入れてっ! 助けてっ!」


 アネットは脇の鎧窓を強引に押し上げ、隙間に手を差し入れ叫ぶ。石造りの小さく素朴な家。閉めきられた室内は暗く、人の気配はあるが返事はない。


「開けてっ、助けてっ!」

「危ない!」


 ブルーノはアネットを引き抜き、軒を飛び出した。ガンガンッと空気のひび割れる轟音。石壁が揺れ、血液混じりの羽が黒い雪のように舞い散る。数羽の大烏が勢いを弱めぬまま民家にぶつかり、地に墜ちた。


「つかまって」


 死体を見せないよう、アネットの顔を肩に押し当て、軒伝いを獣の速さで走る。

 甲高い赤子の悲鳴に似た耳障りな鳴き声。灰色の鷲や大烏が嘴を尖らせ、ブルーノたちを追う。


「……ったく、なんなんだよっ!」


 烏が民家に激突して死ぬなど、聞いたこともない。

 ここはごく普通の穏やかな漁村だったはずだ。一昨日買い物をした雑貨店も、楽しげに子供たちが走り出た家も、漁具をしまう納屋さえも、扉を硬く閉ざしブルーノたちを閉め出している。

 比較的大きな民家に駆け寄ったが、うっすらと開いていた鎧窓は勢いよく閉ざされた。


※※※


 つい先刻までブルーノとアネットは、のんびりと海沿いの道を歩いていた。


 吹き上がる潮風が背の高い草むらを揺らし、飛び出た穂先の上をトンボが跳ねる。丘の下に広がる海では、傾き始めた太陽がほころびた綿雲に遮られ、光の筋をこぼす。

 麦わら帽子の影、アネットの耳朶で、兎の形をしたピアスが輝いた。


 アネットはホテルを出てからずっと、途切れる事なく喋り続けていた。

 あえて避けているのだろう、先日のハーリア港での出来事、人魚やロージーの話題は上らず、話の中心は、ヘクターへのとりとめもない愚痴だ。


 ブルーノは横で、極めて適当な相槌を打ち続ける。


「……あの変態犬、私が『青兎亭』に初めて行ったとき、気付いていた癖に完全にしらばっくれたのよ。昔からの知り合いなんだから、こっそり名乗ってくれれば良かったのに」


 アネットが唇を尖らせ同意を求めたので、ブルーノはわざとらしく眉根を寄せ話をあわせた。


「へえ、薄情だね」

「……薄情って。あっちも話せない事情があったから、私が気付くまで教えてくれなかったんだけど」

「ふうん」


 事情が解っているのなら、何故愚痴を言うのだろう。ブルーノは首を傾げる。アネットは気にせず続けた。


「ダリアちゃんも居るのに家でいっつも裸だし、変態でロリコンだし……」


 ブルーノは大きく頷く。確かにヘクターは変態だ。白水着への執着は理解出来ないし、ずいぶんと年下のダリアへ大人気ない悪戯を繰り返している。


「うん、そうだね。アネットちゃん、ヘクターさんに何かされたの?」

「…………特に何も。私も興味ないし」


 ブルーノは再び首を傾げた。何もされていないなら不都合はないじゃないか。アネットが不満げにしている理由がよく解らない。


「ダリアねーさんが大変そうだって話? ねーさんはギリギリ成人してるし、当人同士が納得してるから、いいんじゃないかな」

「……そうなんだけどね。変態犬のいいところなんて顔だけじゃない。ダリアちゃんは何であんなのが」

「うんうん、ヘクターさんて見た目はいいけど変人で暴力的だよね」


 屍人(ゾンビ)の群れに投げ込まれた事や、ベッドから蹴落とされた事、魔法剣でシャツをボロボロにされた事などを思い返し、妙に実感を込めて言うブルーノに、アネットは顔をしかめる。


「暴力的? 年のわりに子供っぽいなとは思うけど。ブルーノが変なからかい方ばかりするからじゃない?」


 ブルーノは肩を竦めた。

 暴力で返される原因が自分にある事など、当然解っている。アネットと話を合わせる為にあえて言っただけだ。


 やはり女の子は面倒臭い。ブルーノは舌を出し、投げ捨てるように言い放つ。


「じゃあ、どこが嫌なの?」

「嫌だなんて言ってないじゃない。昔から知ってるし、昔は大好きだったもの……昔は、ね」


 あんなんでも初恋の相手だったんだから、と、アネットは小さな声で付け加えた。

 それを聞き付け、ブルーノは目を丸くし、そして尖った歯を剥き出しに笑った。


「なるほど」


 アネットちゃんは自分の事が全く解っていないんだな。何を不満だと思っているのかさえ。

 理解出来ているのは、自分が抱くモヤモヤとした不満の存在。それをぶつける相手に最も身近な大人、ヘクターを選んでいるというだけだ。

 恐らくその感情は、年齢を重ね新しい恋と出会い、本人がそれと気が付かないうちに消える。そういう種類のものだ。


 モヤモヤの名前を今教える必要はない。面倒な不満ゴッコだが『親友』として付き合ってあげよう。ブルーノは優しく目を細めるとアネットの頭に手を置き、艶やかな髪を丁寧に撫で付けた。


「何その顔っ! なんかムカつくっ。何がなるほどなのよ?」


 アネットが頭を振り、手を払い除ける。ブルーノは腕を組み、勿体ぶるように空を見上げた。


 っ、と息を飲み、固まる。


 釣られてアネットも視線を上げ、足を止めた。


 太陽が傾き金に染まり始めた空で、鳴き声一つたてず、静かに渦を描く鳥の群れ。砂粒をガラス板の上でかき混ぜたような、薄気味の悪い光景。


「……何だ、これ。ここからならホテルより村が近い。村に寄って様子をみよう。急ぐよ」


 呆然とするアネットの手を強く握り、村に向かって駆け出した。途端、鳥たちは何かを伝えあうように、けたたましく鳴き交わす。 

 喉を裏返し発したような、奇妙な吼声が空を裂いた。


 人のモノか鳥のモノか区別のつかない号令を受け、鳥たちは二人を追い立て始めた。


※※※


 鼻頭を擦りつけ頭を捻り、ブルーノの腕の中、アネットが肩越しに鳥を睨む。

 真っ直ぐに伸ばされた腕にはいつの間にか、雷の魔法が詰め込まれた小さな筒『雷砲』が握られ鳥の群れに照準があわされていた。

 指先の震えがブルーノに伝わる。


「……私が、やるからっ」

「やらせるわけないだろっ、アネットちゃんもバカなのっ!?」


 ブルーノは走る速度を緩めないまま、アネットの頭を押さえ付け前を向かせた。


「何でよ! このままじゃ危ないじゃない。鳥を倒さなきゃっ」


 この村に身を寄せられる場所は無い。ブルーノは身を捻り飛び交う鳥を避ける。


「とにかく、しがみついてて。多勢に無勢って言葉知ってる? こんなに相手がいたら、どんな魔法使いだって逃げる事しか出来ない。でも僕は、逃げる事だけは得意なんだ」


 まだ子供のアネットに、生き物を殺させたくはない。それを行うのは大人の役目だとヘクターなら言うだろう。


 首に回されたアネットの腕に、ギュッと力が込められた。それを合図に軒を飛び出し、身体を反転させ砂を蹴る。帽子が宙を舞い、白砂がもうもうと巻き上がった。


 突然逆走を始めたブルーノへ、慌てた鳥たちは一斉に飛び掛かる。

 身体が抉れる程の弾丸落下。


 砂埃の中、ヤマネコの金瞳が光る。


『惑乱』


 鳥の弾丸は、次々と地面に墜ち突き刺さった。赤黒い液体に砂が染まる。


「見ちゃダメだよ」


 ブルーノはふわりと帽子を掴み、アネットの顔を覆い隠した。


 咆哮。


 金の魔力を絞りだし、瞳孔を丸くし鳥の群れを睨む。頭の悪い鳥たちは次々と墜落し、別の数羽は後退り、警戒の鳴き声をあげた。

 ヤマネコの耳をさらけ出し、ブルーノが捕食者の金目を光らせ走ると、また何羽かの鳥が逃げる。


 知能の低いただの鳥だ。追っていた相手が金の獣だと気付き、一時的なパニックに陥っているのだろう。脅しは成功したが、しかしそれだけだ。無数の鳥を相手に開けた場所で戦っていたのでは、あっという間に魔力が尽きる。


 どこか、隠れられる場所。……山は、あいつら(・・・・)の住み処だからダメだな。


「……場所を変えるよ、船の墓場に行く。あそこなら船の中に隠れられそうだ」


 ブルーノが言うと、アネットはしがみついたまま頷いた。


 金属を擦り合わせるような鳴き声に空が震える。先程の号令と同じあいつら(・・・・)が発したものだろう。

 鳥たちは再び姿勢を正し、距離をとりながらもブルーノたちを追い回し始めた。


 視界の隅に写る、黒い魔獣の群れ。ブルーノは唾を吐く。

 人間の子供の頭、烏の身体。

 小鳥人(ハルピュイア)たちは声高らかにさえずる。


「あっちが金の獣で、あっちが魔導師、だったね」

「ふふ、あれ、柔らかそうで、とっても美味しそう」


 小鳥たちの舌舐めずりがやけに大きく聞こえる。出鱈目に追い回される明け方の夢みたいだ、とブルーノは呟いた。


※※※


 白い船が甘い匂いを漂わせ、ゆっくりと島に近付く。遠浅の海は墓碑にも似た船の残骸で隙間なく埋められている。


 静かに目を閉じ、残り僅かな魔力を温存していた女王は、船の舳先に上ると黒い艶羽を広げ、昼の月のように白い乳房を露にし、天高く舞い上がった。

 優雅に弧を描き金の瞳を輝かせ、風に海に、命令を下す。


 海鳴りが打ち鳴らされ、海が泡立つ。唐突な嵐。渦が生まれ潮がうねる。砂に刺さる船骸が引き抜かれ、海流が轟音を発し、左右に別れた。

 飛沫と地響きをあげながら、廃船たちは女王に頭を垂れる騎士のように道を開く。


 白い船の航路が、海を裂いた。

 女王は満足げな笑みを浮かべる。羽を真横に広げると、船には戻らず山の頂へ飛び去って行った。


※※※


「ああ、良かった。目が覚めた?」


 大きな暖かい手のひらに包み込むように頬を撫でられ、ダリアはうっすらと目蓋を持ち上げた。

 すぐ近くにヘクターの顔。普段通りの服を身に付け、ベッドの傍ら、枕のすぐ横にしゃがみ、ダリアを見詰めている。


「あ、れ?」


 ぼんやりと呆ける頭を必死に回転させる。これは、どういった状況なのだろう。


 そっか。確か私、海で溺れて、ママが助けてくれたんだ。……あんな生々しい夢を見るなんて、欲求不満なのかな。


 頬に血が上り、まともにヘクターが見られない。シーツで目元を覆い、赤く染まる顔を隠した。

 ()の場面が次々と脳を過り、恥ずかしさに呼吸もできない。


「ちょっと、出掛けてくる」


 ダリアの真っ赤な兎耳をくすぐりながら、ヘクターが言う。


「どしたの」

「ずっと鍵、閉めてたからさ。アネットたち部屋に入れなかっただろ? もう夕方だ。いくらなんでもまだ潜ってるわけないだろうし。俺、ちょっと探してくるよ」


 ホテルの窓から入る陽射しは長く、ベッドに届いていた。まだ外は暗くはなっていないが、夕刻に差し掛かっているのだろう。


「あ、私も行く」

「ダリア、寝てなさい。身体、まだ痛いだろ」

「大丈夫っ」


 溺れた事を心配してくれているのだろうか。身体に痛みは感じない。ダリアが起き上がろうと肘を立てると、ヘクターは優しく押し戻した。


「とにかく服だけちゃんと着てから、寝ててくれ。すぐに戻るから」


 ヘクターはベッドの上に朝ダリアが着ていたワンピースを置くと、ダリアの額に口付けを落とす。


「行ってきます」


 そう言うと杖を掴み上げ、急ぎ足で部屋を出て行った。


 誰も居ない部屋はとても静かで、ダリアの心音だけが騒がしい。


 唇の触れた箇所が、じんじんと熱く、額を押さえ、身体を起こした。


「……あ、れ?」


 足腰に力が入らない。ベッドから足を下ろし、ゆっくり立ち上がろうと壁を掴み力を込めた。股関節がズキンと痛み、ベッドに座り直す。


「い……痛いよぅ……」


 見下ろした身体は、水着すら身に付けていない。胸の膨らみに紫の痣。はっきりと行為を思い出し枕に倒れ込んだ。

 もぞもぞと痛みの少ないポーズをとる。


「夢じゃ、なかったの?」


 身体が奇妙な熱を放っている。シーツを巻き取りくるまった。


「……ふあぁぁぁ」


 頭を枕に打ち付け、身悶える。身体のあちらこちらに感じる違和感が、あんな体勢をとった事も、あんな声を出した事も事実だったと突き付けてくる。

 恥ずかしさに目がぐるぐる回った。

 寄声を発しベッドを手のひらで殴る。白い羽虫のような埃がキラキラと舞った。


 してしまった。しかも、自分から誘って。


 確かめるように身体を指でなぞる。

 胸と下腹部を満たす幸福感。そして今、身体を繋げていない事への喪失感。


 切なげな息が漏れ、兎耳が倒れた。


「……そうだ、服、着なくちゃ」


 しかしベッドから出る気にはなれない。すぐにでもアネットたちが戻って来るかもしれないというのに。足の指で行儀悪くワンピースを掴み、シーツに引き入れる。


 芋虫のように丸まり、服に潜りながら先程の一部始終を思い返した。


 奇妙な違和感。ダリアは誰に訊ねるでもなく呟く。


「ママさっき、男言葉、だったよねえ……? 何でかな。後で聞いてみよう」


 ワンピースを身に付け静かに目を閉じた。起きたらヘクターが隣にいますように、そう祈りながら。

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