兎と海
ダリアのころりと丸い新芽のような足指が、砂に焼かれ桃色に染まる。熱っ、熱っと呟きながら軽やかに浜辺を跳ね、水飛沫をじゃぽんと飛ばし波打ち際に入った。
「気持ちいいねー」
海水がくるぶしを心地よく冷やす。細かな白砂が指の間に入りこみ、波は痺れる爪先を砂ごと沖へ引き寄せた。
ダリアはゆったりと青空に伸びをし、キラキラと輝く海面を眺めている。青緑の絵の具を刷毛に取り、擦り付けたような水平線。しかし、足下の海水は無色透明だ。とろとろと油を流したような金の波紋が鱗状に連なり、真っ直ぐ立つ二本の足に纏わり揺れた。
ヘクターは数歩後ろを歩き、やはり同じ様に海へ入る。右足の装具は事前に防水性の高い素材のものを用意させた。多少性能は低いが、足の痛みはもう殆ど感じない。
水中に何かを見付けたのだろう。目の前でダリアが膝を伸ばしたまま、柔らかく前屈をした。
おお、と声が漏れてしまう。
こちらの視線に気付かないのか、ショートパンツ型の水着に包まれた丸く柔らかそうな塊が、愉しげに揺れる。その上にチョコンと置かれ、赤いリボンで飾られた、可愛らしい兎の丸尻尾。
そっと膝を曲げ、視線をそこにあわせる。
するとダリアは膝を突き、四つん這いになった。ヘクターもその場にしゃがむ。無防備なお尻を高く掲げ、小魚か何かを熱心に追っているようだ。
白い弾力に吸い付きそうになる手を、腕組みをして抑え込んだ。
ダリアが腰を捻り、振り返る。
「ねーっ、ヤドカリ捕まえたよっ……ママ、考え事?」
腕を組んだまま真後ろにしゃがみ、真剣な顔をするヘクターへ、ダリアは不思議そうな視線を送り、兎耳を回す。
「いや、なんでもないっ!」
ヘクターは慌てて首を振り、立ち上がった。目の前に突き出された、揺れる尻尾と無防備なお尻をぼんやり眺めていたなど、言える筈がない。急いで話題を反らす。
「そうそう、ダリアちゃんって泳いだ事無いのよね。海に入るのも初めて?」
「そんなことないよ。一応、ハーリアに住んでたからね。浜辺で遊んだりしてたよ。ただ、尻尾の事があるから、服を濡らせなくって。あんまり水にどっぷりとは入っていないかな」
こうやって海に入れる事自体が嬉しいようだ。
「そっか。みんなと素潜りしてみたい?」
「うんっ」
「じゃあ、まずは海に顔をつける練習からかな。海の中って、目を開けても案外痛くないから。……でも、もう少し深い所の方がいいわよね」
沖へ誘導するために両手を取ると、ダリアの左手が固く握られている。違和感を感じ、指先で押し広げた。
手の中には桜色の貝殻。先程アネットと浜で拾っていた物だ。
「……何で持って来ちゃったの? 荷物にしまったらいいのに」
「ほんとだ。持ってる事忘れてずっと握ってたから。でもね、ほらすごく綺麗なの。白くて、ピンクで可愛いし」
太陽に翳す。貝殻は桜色に煌めいた。
「持ってたら、落として無くしちゃうわよ……おいで」
尻尾のすぐ上、細い腰を掴み抱き寄せ、肌と肌を重ねる。戸惑い顔を赤らめるダリアへ笑いかけ、わざと少し深い場所を歩く。
穏やかな波に身体を預け、腰を斜めに浮かせると、足先が海底から離れたのかダリアが慌ててしがみついた。
そのままダリアを乗せ、浅い海をゆっくりと進む。触れた頬にふざけるように舌を伸ばし水滴を舐めた。
海の中だというのにダリアの体温が高い。顔を離そうともがき、首が左右に振られる。その度に鼻先、頬、耳、唇を舌が掠めた。
「しょっぱい」
額を当て、首を傾け互いに目を閉じる。
波のざわめき。差し入れた舌のたてる水音。掻き混ぜるうちに呼吸が荒くなり、重なりは深くなる。
「この辺りなら足がつくでしょ?」
唇をあわせたまま、言う。笑いを浮かべ、ダリアの腰を支えながら垂直に戻した。
浜からはそれなりに距離があるが、ここは海底が隆起しているのだろう。長身なヘクターの腹部、小柄なダリアの鎖骨までを海が飲み込んでいる。
ここじゃ、嫌だろ?
からかうように、兎耳へ囁いた。
真っ赤な顔のダリアは跳ねるように後ずさったが、大きな波が口元を濡らし塩辛さに顔を歪め、再びヘクターへしがみつく。
ダリアは声を裏返し言った。
「す、すっごく海が、綺麗だよねっ。嵐のせいで少し濁ってるけど。ね、この島っ、遺跡みたいなのもあるし、観光に力を入れたらいいのに。……ああでも、鳥さんがあんなにいたら無理か。危ないものね」
「鳥……危ないか?」
ヘクターは空を見上げ、首をかしげる。
海鳥が気まぐれに空を廻った。
「鳥はともかく、廃船とかあるから、観光客が押し寄せたら危ないかもね。珍しくて雄大な眺めだから人気はすごく出そうだけど。
さ、ほら。顔をつけてごらん」
手を取り横から身体を支え、海水に浮かせた。
本質的に獣なダリアは、ふわふわした性格に反し、身体を動かすことが得意だ。ヘクターとの訓練でも意外なほど素早く動き、巧く逃げ回りながら重力を操る。
そのため、すぐに泳げるようになるだろうと思っていたのだが。
「耳に、水入った! 頭叩いてっ」
「えっ? どの耳?」
「こっちー」
ダリアが兎耳を回した。人間と同じ位置にある耳のように見える器官は、穴が塞がり機能していない。
漏斗型の大きな兎耳。海に潜ればあっさりと海水が入ってしまうようだ。呻き声をあげながらヘクターにもたれ頭を揺らす。
ごそりと音をたて、水が抜けた。
「……その耳、泳ぐのには向いてなさそうね。潜るの諦めたら?」
「耳、閉じれるからきっと大丈夫。……あー、気持ち悪かった」
兎は海と相性が良くないようだ。
ダリアの柔らかく軽い身体は、水に浮きやすい筈なのだが、何故かどんなに水を掻いても足が沈んでしまう。バタバタともがけば泡立つ波に飲まれ、息がうまく吸えなくなる。鼻や口に入る海水に、ダリアは激しくむせた。
「ほら、掴まって」
ヘクターは軽々と持ち上げ、背中を擦った。ダリアは大きく息を吐き、呼吸を整えて言う。
「む。泳ぐのって難しいね。……もう一回」
「ゆっくり、無理はしないでね」
ダリアは練習を繰り返す。
やがて、顔を水に浸し目を開けることに成功し、次に、僅な間身体を浮かせる事が出来るようになった。
今度は、全身を沈め息を止める練習を始めた。
海面近くに浮き上がる白い髪の毛が、ダリアがこの下にいるのだと主張している。ヘクターは波に揺れるそれをじっと眺めていた。
※※※
ダリアは長く深く潜ろうと顔を赤くして堪えた。何しろ、目標は素潜りだ。
浅い海底にしゃがみ、目を開く。
青い、水と光の世界。
波紋が砂に影を落とし、複雑な鎖模様を描いた。警戒心の低い黄色い魚の群れが、目の前を横切る。足元の白砂が吹き上がり、二枚貝が後ろ向きに泳ぐ。
海中では、常に何かが揺らぎ、変化し続けている。初めて見る不思議な光景に、ダリアは夢中になり目を見張った。
握り締めていた貝がこぼれ落ちる。
キラキラと舞う小さな桜色。手を伸ばす。指先を掠め、ゆったりと跳ねる。
海の濁りに溶け消える貝殻。
砂を蹴り、ふんわりと追った。
踏み出した二歩目。そこに海底は無い。
バランスが崩れる。谷底へ吸い込まれる感覚に慌て、耳へ冷たい水が入る。
海が歪んだ。ぐらり。目眩に足が縺れる。
あ、あれ? 上に、上にあがらなきゃ。
しかし、上も下も判らない。
『重力操作』
とにかく空へ、とっさに海を軽くした。
重さを操られ潮流が狂う。水はダリアを核に勢いよく渦巻いた。泡が視界を埋めつくし、白に押し潰される。ゴボリ空気を吐き出すと、塩水が肺へ流れ込む。
痛い。苦しい。浮き上がろうと手足を出鱈目にばたつかせる。
ママ。
肺を裂く激痛。咳き込み、鼻が、頭が痛い。大きな水泡が上がり、意識が途切れる。
兎は暴れるのを止め、渦に飲み込まれた。
※※※
顔を包み込む柔らかな枕。
ダリアは鼻をこすりつけ、もぞもぞと位置を変えた。同じ姿勢で眠り続けていたのだろう、首筋がひきつるように痛む。
あれ? ここは……。
次第に意識が覚醒していく。
どうやらベッドに横になっているようだ。肩を滑らかなシーツが暖かく被っている。
目蓋を細く抉じ開けたが、視界はただ、ぼんやりと白い。働かない頭で見詰めるうちに、ずれた焦点が一つに重なる。
ダリアが眺めていたのは白いタオルの毛羽立ちだった。顔のすぐ前に置かれ、編まれた糸は刈り込んだ芝のように上を向いている。
大きな手が、ダリアの額を撫でた。
「……良かった」
聞き馴染んだ低い声。そっと視線を移せば、すぐ近くにヘクターの顔があった。
背後に特徴的な丸天井。低めの窓から差し入る昼の陽光はベッドまで届かず、窓際の床を四角く切り抜いている。ここは昔々修道院だったというトゥオーロ島のホテル。ダリアは昨夜と同じベッドの上、数枚のシーツに巻かれ暖められていた。
ベッドとサイドテーブルの間、ダリアと目線をあわせるように、ヘクターは直接床にしゃがんでいる。安堵の微笑みを浮かべ、ダリアの頭を包むように優しく撫でた。
そっか。私、溺れたんだ。
子供のように貝殻を深追いし、溺れたところを助けられたのだろう。ダリアは項垂れもごもごと口を動かす。
ごめんなさい。
痛い程に渇く喉。言葉は音にならなかった。
ヘクターの向こう側、サイドテーブルの上に水差しを見つけ上体を起こす。兎耳の奥がごわっと鳴った。ヘクターはダリアを丁寧に押し戻す。
「まだ、寝てなさい」
耳に残った海水の性か、硝子越しの会話のように遠く曖昧に響く声。
タオルを兎耳に引き寄せ、意識しつつ身を返すと、こぽと音をたて熱をもった水が流れ落ちた。
ひりひりと喉が焼ける。口の中が粘つき舌が上顎に貼りつく。やはり水が飲みたい。肘を立て頭を上げ、もう一度手を伸ばす。
ヘクターはああ、と呟き、ダリアの背中に腕を差し入れた。ダリアの上半身を慎重に支え、立てた枕にもたれさせる。まるで重病人のように丁寧に扱われ、恥ずかしく、くすぐったい。
「ゆっくり、飲めよ」
子供をしつけるように念を押し、水をコップに注ぎ入れダリアに持たせた。ダリアは言われた通り『ゆっくり』口に含む。一息に渇きを癒したかったが、心配そうに見守られているため、うっかりむせる事など出来ない。少しでも咳き込めば、重病人としてベッドにくくりつけられてしまいそうだ。
こくこくと喉を鳴らし、数口に分け『ゆっくり』飲み干す。ヘクターは満足そうに目を細めてみせた。
唇にタオルを押しあて、水滴を拭う。
行動を見守る優しげな視線が恥ずかしい。
「ママごめんね。もう、大丈夫みたい。私、元気だから」
ダリアは口元をタオルで隠し小さな声で言った。
※※※
どう考えても大丈夫じゃないだろ。
ヘクターは目線を下げる。
恋人を海に奪われかけるのは、もう二度目だ。兎が泳ぎにむかないと判った時点で、陸に戻るべきだったのだろう。迂闊な自分が腹立たしく、先ほどの出来事を思い返し、心臓がやけどを負ったように痛んだ。
数刻前、潜る練習を続けていたダリアが突如消えた。
急いで潜り捜したが、見透しが悪く見付からない。いつか見た夢、ヘクスティアに代わり海へ引き摺り込まれるダリアの姿が思考を掠めた。
あばらに刺さるほど動悸が高鳴る。ゆらぐ海底は静かで手掛かりがない。
と、突然潮流が猛り始めた。うねりが渦に変わり、海が泡立つ。異常事態、その中心にはいつだってダリアがいる。
ヘクターは渦を割くように中心点を目指し、流れに飲まれた小枝のようなダリアを見つけた。
海からダリアを奪い返し、空気を送る。僅に水が吐き出され、呼吸も脈もあったが意識が戻らない。
『治癒』の魔法を唱える。しかし魔法は兎の魔力に狂わされ、刃となってタオルを裂いた。
兎に人の魔法は届かない。
ダリアが少しずつ冷えていく。服で包み抱え、獣のようにホテルへ走った。
ベッドに寝かせシーツで暖める。やがて咳と共に砂混じりの胃の中身を吐き出したのが、つい先ほどの事だ。
『元気で大丈夫だ』と言われても何の説得力もない。
生きている事を確めるように、色の戻った頬を撫でる。
「……ダリアが消えてしまうかと思った」
「大袈裟。ほら、ぴんぴんしてるよ。ママすっごく過保護。本当にお母さんみたい」
憎たらしいほど能天気な笑顔。
ヘクターはベッドの縁に座り、大きく安堵の息を吐いた。
「ダリアには『治癒』が効かないんだな。前、蟹の時『浄化』がちゃんと効いたから油断してた」
「『治癒』?」
ダリアは首を傾げた。
兎の魔力は魔法を狂わせる。『治癒』のように内側に影響する魔法は、兎の魔力があっという間に食べてしまう。しかし『浄化』のように中へ入らない魔法なら、暴走させない事も出来る。
「ママ、『治癒』の魔法が使えるの? そっか、魔法使いだもんね」
「ダリアも知ってるあの歌だよ、使おうとしたのは。陣がいらないからね。『癒しのうた』は『治癒』の魔法なんだ」
「……こういうのは、治らないの?」
ダリアは指先でヘクターの頬の傷に触れた。
「治せない。自己回復力を高める魔法だからね。多少血液が流れ出る量を減らしたりできる程度だ。まあ、便利だけど」
実際、戦闘中には殆ど意味をなさない。『治癒』を唱える暇があれば攻撃魔法を唱えた方が被害は少なくすむし、布を強く巻く方が手っ取り早く血はとまる。毒に対してはあまり効果がない。
指先が柔らかく傷を撫で続けている。ダリアの瞳が潤み、頬が赤い。熱の性かもしれないが、そうでない理由かもしれない。
ひくりひくりと僅に震える指先から、心音が伝わってくる。
まずいなと呟き、ヘクターはおかしくなってきた身体を離し、頭を振った。
「さ、ちゃんと横になりなさい」
ヘクターがそう言うと、ダリアはベッドに横になりシーツを頭まで引き上げ、顔を隠した。
「ママ……一緒に寝よ」
はみ出した兎耳が艶やかに赤い。シーツに包まれてはいるが、ダリアは下着のような白い水着と、魔導具の首輪を着けただけの姿だ。
添い寝などするわけにはいかない。
「駄目。絶対抑えられない」
「抑えなくていいから」
意味が解って言っているのだろうか。動揺に動きが止まってしまう。しかし、ついさっきまでぐったりと倒れていた少女に、手を出せる訳がない。
「……そういう事を今言うなよ。体調が治ってから改めて言ってくれ」
白く華奢な腕がシーツの下から伸び、何かを探すようにベッドを這う。
ヘクターの火傷痕の残る節ばった手を見つけ、長い指をギュッギュと握った。
「あー、もう。わかった、わかった」
ベッドがヘクターの重みに傾き、キッと音をたてる。シーツには入らず、少し身体を離し横になると、子供をあやすようにダリアをぽんぽん叩いた。
むむ、と不満げな声が聞こえ、苦笑いを浮かべる。
文句を言いたいのはこちらの方だ。
シーツからダリアの顔が半分覗いた。恥ずかしそうに赤らめながらも、目を潤ませ睨んでいる。
「ママ。そうやってすぐ子供扱いする。……子供でいいから、抱っこしてよ」
ダリアがシーツの端を掴み、持ち上げて誘う。
剥いた林檎のように、瑞々しく艶やかな白い肩。首に着けられた家畜のような首輪が、冷静さを奪い心を掻き乱した。
「えいっ」
いつまでも動かないヘクターに痺れを切らしたのか、クラゲが獲物を捕らえるようにシーツを大きく広げ、中に引き込んだ。
足が絡み、熱を持った肌が吸い付く。
「まずいって」
剥がそうとしたが、ダリアは腕をまわし抱きついている。出来るなら抵抗を止め、融け混ざりあいたい。
潮の匂いが甘く感じられる。
ついばむように唇を重ね、ダリアが言った。
「ママ、大好き」
「俺もだよ。だから、今は駄目だろ」
ベッドの上、シーツを頭まで被り、唇と身体を重ねている。子供扱いなど出来そうもない。
やや強引に腕を外し、こぶし一つ分の距離をとった。身体はじっとりと汗をかき、昂りは隠せないほどに熱を持っている。
「私、我慢できないよ」
ダリアが摺り寄り、距離を縮める。小さな声で、しかしはっきりと言った。
「ママが、全部欲しいの。繁殖期でもないのに、ここ最近ずっと、ドキドキが止まらないんだから」
語尾が震えている。顔は見えないが、ダリアがどんな表情をしているのかは、太陽の下に曝されているかのように解った。
無言のまま、ヘクターはベッドから降りる。
シーツから覗くダリアの顔が、泣き出しそうに歪んだ。
「……鍵、閉めてくる」
ヘクターは照れ臭そうに頭を掻き、部屋の扉まで戻ると、静かに鍵を閉めた。