白
嵐は夜のうちに去り、青緑に輝く海は砂金をこぼした鏡のように凪いでいた。水平線を境に上下対象の白く力強い雲。大理石のような青空に挟まれ、際やかなコントラストを描いている。
サンダルを脱ぎ、じっとりと熱せられた白浜を歩く。昨夜の名残だろう、所々に木屑や大きな貝殻が打ち上げられ、魚の泳ぐ水溜まりが出来ていた。
ブルーノは小魚を素早く捉えた。手のひらで跳ねる青に黄縞の魚。覗き込み可愛いとはしゃぐダリアとアネットの前では、丸飲みする事ができない。ヤマネコの本能を断念し、水へ返した。
「どういう事なの? これは」
ヘクターが不機嫌な声をあげる。
午前の眩しい太陽、トゥオーロ島の遠浅の浜辺。豆粒のような漁船の他、人の姿はない。
アネットは紺色のシンプルな水着姿だ。日焼けを恐れているのだろう。フード付きの白地に紺の縞が入った上着を羽織り、肩を被っている。しかし、前のボタンは全て開かれ、未成熟な肢体を眩しく曝していた。
ブルーノは膝丈のざっくりとした水着に青い花柄シャツを羽織っている。穴から出された長い縞尻尾は立ち上がり、三角耳がヘクターにピンと向けられていた。
ダリアは白い水着……だと言ってはいるが。
「なんで、水着の上にワンピースを着るのっ! 意味が無いじゃない」
ヘクターからは、怒りのオーラが立ち上っている。
つい見とれてしまう程鍛え上げられた身体に、つい目を反らしてしまう程無惨な傷痕。しかし普段から全裸なため、みな見慣れている。むしろ水着の分、いつもより露出は低い。
アネットがダリアに向き直り、苦笑いを浮かべた。
「ほらやっぱり。ダリアちゃん、海なんだし服を脱ぎなさいよ」
「そうよ、せめてアネットさんを見倣って、前開きにしなさい。柔らかに肉の余る二の腕とかは隠れちゃうけど。
あどけない隆起、筋肉を感じさせない素直なお腹、小さなネジ穴みたいなおヘソ。それから細くて真っ直ぐな太股が見えるだけで全然っ、違うんだからっ」
アネットは急いで前を押さえ、ブルーノの影に隠れる。
「こだわりが気持ち悪い。どうしよう、変態犬より上の罵倒が思いつかない」
「……大丈夫。アネットさんには、髪の毛の太さ程度も興味がもてないから」
ヘクターはアネットを産まれた頃からよく知っている。妹か娘のようにしか思えない。
「アネットちゃんは健康的で可愛いと思うよ。僕も興味はもてないけど」
尻尾を揺らし、ブルーノがからかうように言った。ブルーノは根本的に女性への興味がない。
「あなたたち最低すぎるっ!」
「あ、アネットちゃん、私はアネットちゃんの身体、大好きだし興味もあるよっ! きっと将来は抜群の体型になりそうだし。そうしたら埋もれさせてね」
「……ダリアちゃん、それだいぶ間違ってるわ。まあいい、とにかく脱ぎなさい。……脱げ、ダリア」
ヘクターが腕を組み、冷たい口調で命令した。
「うん、最低の変態犬はともかく、服は脱いだ方がいいわよ。そのままじゃ海に入れないもの」
アネットはダリアの背後に回り、羽交い締めた。そしてやってしまいなさい、とばかりにヘクターを見る。
「胸とか無いから、恥ずかしいのっ!」
手際よく外されるボタン。慣れた手付きで易々と服を剥がす。釣り鐘状の花弁から吐き出されるように服を奪われ、ダリアは砂浜にしゃがみこんだ。
ほっそりとした白い背中を蝶々結びされた赤い紐が横断する。うなじから覗く黒いチョーカー。ヘクターはほんの少し、顔を歪めた。
「やっぱりダリアちゃんは、細くて色が白いよね。すごく似合ってるわよ。大丈夫」
「うん、似合ってるよ水着。僕、それ勧めてよかったよ」
「……ほんと?」
アネットとブルーノのフォローに、ダリアは腕で胸元を隠しながらも、おずおずと立ち上がる。そのまま三人仲良く海へ歩き始めた。
「ブルーノ、お前、こっち来い」
何故かいまだ機嫌を傾けたまま、ヘクターがブルーノを呼び止める。
アネットとダリアは二人、波打ち際に向かい、ヘクターはブルーノを連れ、岩影の荷物置き場へと歩く。
ダリアのワンピースを片付け岩影から出ると、ヘクターはおもむろに砂浜へ座り、眉をしかめたまま少し離れた場所を顎で示す。
そこへ座れと言うのだろう。ブルーノは飼い猫らしく従い、不思議そうにヘクターの顔を見詰める。
どうやら飼い主は怒っているようだ。
「お前、一応はオスだろう!? 一緒に水着を買いに行きながら、何故、アレを選んだんだっ!」
そう言って波打ち際で遊ぶダリアを指差した。とても可愛らしい水着姿だ。ブルーノにはヘクターの不満がさっぱり理解できない。
ヘクターは声を荒げ、続けた。
「正直、白の水着と聞いてすごく期待した。どんな型でも許せると思ってた! 白なら身体の凹凸自体は解りにくいが、水に濡れて食い込み形がはっきりとわかる。上下が分かれたビキニだったなら、清純な下着姿を惜し気なくさらけ出すかのように、陽射しの下神々しく輝き、非日常を演出する。布が少なければ尚良し! ワンピースタイプであれば、包まれる分量こそ多いけれど、海水に濡れて貼りつく事で絶妙に透けて見える仄かに熱を持った果実のような素肌。隠されているという油断から行動も大胆になり、その布切れが殆ど意味を持たないことに気づけないまま無邪気に遊ぶことになる。もちろん腰骨を露にするハイカットがいいけれどそこまでの贅沢は言わない。その上、ダリアには汚したくなる程に白い艶やかな丸尻尾がある。ビロードの触り心地を持ち、しかし揉みくだされると振動に声が出てしまうような危ういそれを、無防備に白日に曝し水に浸すエロさ。元々色白な身体だ。白の水着はどこまでもダリアに似合うだろうと思ってた! それが、それが……」
「うわあ。ヘクターさんは白い水着が大好きだって事しか理解できない。僕も白を着たら良かったかな」
「なんで、ショートパンツなんだよっ!」
ダリアが身に付けているのはセパレートの水着。布地が少ない純白の三角形が柔らかな蕾のような乳房を隠し、赤い縁紐で飾っている。下はかなり短くぴったりとしたショートパンツ。赤の縁紐が尻尾の上を通り、リボンのように結ばれていた。
ようやくヘクターの不満が理解できたブルーノは、小さな溜め息を吐く。
「ダリアねーさんはあんまり大胆な水着は着てくれないよ。最初はTシャツみたいなの買おうとしてたんだから。あそこまで譲歩させるの大変だったんだよ。ヘクターさん、それにほら、よく見て。ショートパンツにはショートパンツの良さがあるから」
浜辺で遊ぶ後ろ姿。海水を浴びせあい遊ぶ二人。
海面を掻き上げようと突き出された下肢。ショートパンツの下からのぞく下尻は、やや硬めの布地に押されて変形し、柔らかな膨らみを強調している。
あくまでも小振りだが、充分な丸みと弾力をおびており、腰の細さと対比され女性らしいボリュームを感じさせる。しかし実際は手に納めることができるサイズだろう。
ヘクターは目を細め、じっと見詰めながら感心したように呟いた。
「成程。ショートパンツにはショートパンツの良さがあるんだな」
「僕の飼い主はほんとにアレな人なんだね」
ブルーノは呆れ声をあげた。ショートパンツの女の子の良さなど、ブルーノには理解できない。適当に言ってみたのだが、ヘクターは満足したようだ。
「話は変わるが、ブルーノ。相談がある」
凛々しい眉を崩さないまま、ヘクターが言った。こういう顔付きの時は、どうせくだらない話だ。ブルーノは頬をひきつらせながら応える。
「なに?」
「お前、アネットのおもりしててくれ。アネットの監視が煩くて堪能できない」
やはりくだらない。つい微妙な笑い声が漏れてしまう。
「はは……別にいいけど、報酬は?」
僕、ヘクターさんともっと仲良くなりたいなと言いながら、上目使いで摩り寄ってみる。もちろんこうやって足蹴にされる事など承知の上だ。
「……よるな。給料あげてやる」
「金で解決っ!? ……ちなみにいくら?」
ヘクターが指を一本立てた。ブルーノは首を振り三本指を立てる。ヘクターが手を伸ばし、その指を折り曲げ、左手の指を足す。無言のまま、二人は指で会話を続ける。
「ね、ママとブルーノくん見て? あれって何やってるのかなあ」
「……うーん、変態犬だもの、ろくでもない事企んでるんじゃないの?」
腰まで海に浸りながら、アネットとダリアはやり取りを眺めた。攻防ののち、二人はがっちりと握手をかわす。
「……話がついたみたいね」
「ほんとだ」
ブルーノの尻尾が機嫌良く揺れ、岩影に消えた。
※※※
「海で可愛い子を連れ出すコツは、道具を使って集団で話しかける事なんだよ。ボールで遊ぼうとか、肉が余ったから一緒に食べようとか。……つまり、誘うなら何か道具がなくっちゃ」
荷物をゴソゴソと漁りながら、ブルーノが言う。
「お前の性癖を知らなければ、妙に説得力のある普通の軟派男に聞こえるな」
「可愛い子を捕まえるために、僕はいつでも全力だから。……あった! これ」
ブルーノは袋から出したそれを青空に掲げ、得意気に笑った。
「よっし、ヘクターさんまかせてっ」
「賃金あげてはやるが、店でもちゃんと給料分の働きをしろよー。あと、アネットを危ない目にあわせるなよ」
荷物を手に、ブルーノはアネットへ駆け寄った。後ろからヘクターもゆっくりと歩き、三人と合流する。
「ママ、二人で何の話をしてたの?」
「仕事の話よ」
恥ずかしそうに胸を隠し、ダリアは手のひらを広げ、ヘクターに見せた。
「ね、ママ。見て? 綺麗で大きな貝殻。可愛いでしょ」
「ダリアちゃん、そういうの大好きよね」
親指ほどの大きさの桜色の貝殻。嬉しそうに自慢するダリアの頭を優しく撫でる。兎耳が気持ち良さげに揺れた。
「……」
ブルーノはついジト目になり、二人のやり取りを眺める。柔らかな笑顔は、先程まで白水着へのこだわりを語っていた顔とはまるで別人だ。
と、ヘクターと目が合い、冷たく睨まれた。さっさとやれと言うのだろう。軽く舌を出し、アネットに話し掛けた。
「ねね、潜りにいこうよ。昨日の嵐で少し濁ってるけど、充分綺麗だし。ほら、一昨日買った足ひれがあるよ」
ブルーノの手には、黒い樹脂を固めた蛙足型の大きなヒレ。アネットは興味深そうに眺める。
「そういえば、村の雑貨屋さん覗いて買い物してたわね。それだったの?」
「うん。これをつけると魚みたいに泳げるんだって! 一応四人分買ってあるよ。この島、素潜り漁が中心みたい。ちゃんとモリとかも一通り用意してあるよ。おかげでお金がすっかり無くなっちゃったけど。さあ、一緒に新鮮な魚を獲ろうっ! 僕は鶏肉が一番好きだけど、この島なら魚も美味しいからねっ」
ブルーノの金目が、きらきらと輝いている。
「あ、ああ。そいえばこいつ、猫だったか」
ヨルドモ城塞の魚とは違い、島の魚は新鮮で旨い。モリまで用意していたという事は、給料を上げる約束がなくても、素潜り漁をする予定だったのだろう。
ヘクターが軽く睨むと、ブルーノは鼻を鳴らし笑った。
ダリアが不安げに言う。
「うーん、私、泳いだことないから、素潜りなんて出来そうもないなあ」
「ダリアちゃん、私が教えてあげるわよ。ブルーノはアネットさんとお魚獲ってきたらどう? 泳げるようになったら合流するわ」
そう言って、ブルーノだけに判るよう、口元を歪めた。
にやり。にやり。
ダリアとアネットからは特に反対意見は出なそうだ。ヘクターがブルーノによくやった、と合図を送ると、ブルーノは指で金額を示し、よろしくと呟く。
「じゃーアネットちゃん、あっちに行こうっ! モリ取りに行かなくちゃ」
そう言ってブルーノはアネットの腰に腕を回し、身体を引き寄せた。
「えっ! あ、そか……これは、女の子同士と同じ。女の子同士だから平気……」
密着する青年の肌。顔を急激に赤らめ、ちょっとしたパニックに陥りながら、アネットがぶつぶつと呪文のように呟く。
寄り添いながら岩影の荷物置き場へ向かう後ろ姿に、ヘクターは眉をあげた。
「……あれはあれで心配だな。ブルーノは全くの無自覚でやってるようだが。……魚に夢中だからか?」
普段であれば人との距離を巧く取る、歓楽街育ちのヤマネコだ。しかし新鮮な魚を前に、少し距離感を誤っているようだ。
「うーん。アネットちゃんって猫っぽい人が好みなのかな」
楽しそうなブルーノに引き回され、アネットは完全に混乱している。
ペットの不始末は飼い主の責任です。
そう断言した執事長、エドゥアールの言葉が胸を過り、不安を顔に滲ませる。
「ブルーノが手を出す事は無いだろうけど……」
ヘクターが小声で言うと、ダリアは小さく肩をすくめた。
※※※