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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
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記憶

 海水がうねり、ただよう塵が煌めいた。いつもより冷たく騒がしい夜の海。雹を伴う大嵐であっても、雨粒は海の底まで届かない。しかし勢いを増した潮流が泥混じりの砂を巻き上げ、水を濁らせる。

 心臓が愉しげに打ち鳴らされ、熱い血液が体内を暴れまわり高揚する。鋭く研ぎ澄まされる感覚。焦燥感。

 海の昂りを吸い尽くせ、と身体が震えている。


 わからない。

 青い瞳の人魚、黒の魔女ヘクスティアは首を振った。本能に答える方法がわからない。海から魔力を得る事など、彼女には出来ない。

 柔らかな珊瑚にもたれ指先を伸ばす。透き通るほど白く、毛穴が無いゴムのような皮膚。骨のはみ出た屍魚(ゾンビフィッシュ)が手のひらにすり寄る。


 この身体は、私のものではない。

 滑らかで弾力のある絹肌は、人間のそれと違いふやける事がない。潮流になびく髪の毛に似た触手は、あの海の魔物と同じ。足先も頑丈な尾びれに変わった。

 ヘクスティアには判っている。

 この身体が誰のものか。そして自分は何か。


 私はただの、記憶だ。

 魂すら持たない魔女の残りかす。

 それでも消える事は恐ろしい。


 下腹部に指を伸ばす。小さく薄い臍の窪み。その周囲に傷はない。

 人間であった頃、魔女の身体には妊娠による皮膚のひきつり跡があった。その消えない筈の証しが、消えてしまった。


 腹を撫でる指先を、屍魚たちが不思議そうにつつく。思わず身をよじり、笑った。


 くすぐったい。

 ヘクスティアは目を閉じ記憶に身を委ねた。


※※※


 天蓋が降ろされた閨の中、恋人であるまだ若い騎士、シャオは腹の引き攣り痕を優しくなぞった。そのこそばゆさに、ヘクスティアは表情を崩す。

 シャオは少し言いにくそうに尋ねた。


「……これ、妊娠の?」

「ふふ、そう。私、子供を産んでるのよ。四年前、ギフトを贈ったの」


 ギフト。

 ヨルドモの王位を継ぐものに贈られる、守護魔導師。世継ぎが誕生すると、国で最も魔力の強い男女を掛け合わせ、守護者を作る仕来たりになっている。

 ヘクスティアは第一王子ミューラーの誕生を受け、ギフトを産み王子へ贈った。


「……父親は?」


 シャオが言う。もし従兄に充分な魔力があったなら、ギフトを作る父親は彼だったのだろう。しかし、従兄マイヤスに魔力はなかった。


「父親は、陛下」


 王はヘクスティアを抱きながらも、サラサ、サラサと繰返し姉の名を呼んだ。サラサが居たならば、彼女がギフトを産んだ筈だ。何しろ彼女は強く美しく、国が傾くほど王に執着されていた。


「ギフト……か」


 呟いてシャオは眉をしかめる。ギフトは国の持ち物だ。

 王国の象徴、権威の塊ともいえる。国に渡した赤ん坊には、母親であっても触ることはできない。

 ギフトを作る上で愛など必要がない。王はギフトを愛さないだろう。王子のためだけに育てられる、偉大なる魔法使い様だ。


 あの子は、家族を知らずに育つのね。

 酷い顔をしていたのかもしれない。シャオがヘクスティアを抱き締める。


「俺が父親になる」


 ヘクスティアも、その子供も纏めて愛するよ。そう言いたげに腕に力を込める。これはベッドの上での戯れ言だ。ヘクスティアは哀しく理解し笑った。しかし、シャオは言葉を続ける。


「家を捨て、俺も国の持ち物になればギフトの側にいれるだろう? ちょうどいい役職がこの国にはあるじゃないか」


 悪童(わるがき)のように得意気に目を細め、シャオはヘクスティアとその息子、やがて白竜の長となるザルバの為に、家を捨て無色の騎士となると誓った。


※※※


 ここは海の底、人魚の王国。屍魚がぷくぷくと甘える。

 ヘクスティアは人の身体を失い、甘い記憶を反芻し、世界にしがみついている。

 今のヘクスティアは、人魚の身体を奪った魔女の亡霊だ。


 屍魚の群れがさっと割れた。

 ゴボゴボと吐き出される丸い水泡が、海底の僅な光に照らされ輝く。

 暗がりを割り、ヘクスティアの前に降ってきた子供。ザルバの代わりに、と兎から与えられた幼い魂。ヘクスティアを世界につなぎ止める楔。


 ロージーの身体を纏った少年、モーリスは、目をゆっくりと開きヘクスティアを見つけると、心の底からの笑顔を浮かべた。母親への無条件の愛を示すように、幸せそうに。

 ヘクスティアも柔らかく笑い返す。胸がじくりと疼いた。


 私は『うしろめたい』のね。

 いつかのヤマネコの言葉が胸を抉る。

 幸せを言い訳にしている事は判っている。この魂は解放しなくてはならない。


 でも、まだもう少し……。


 ヘクスティアは指を伸ばし、屍人(ゾンビ)の子供を抱き締めた。


※※※


 黒く塗り潰された空に、鳥人(ハルピュイア)は舌打ちをする。

 日没前に難破船を見つけるつもりだったのだが、深夜になってしまった。

 近頃、船乗りたちは噂の幽霊船に怯え、夜間は船を走らせない。しかもこの天候だ。魔導師を乗せた船は何処かの港で休んでいるだろう。


 空気が渦巻いている。荒れ狂う風に乗せられ、身体を激しく打つ雨粒が痛い。

 いつもの鳥人ならば、風を操り舞い歌う嵐の空だ。しかし魔力の欠乏に思ったように進めない。海面スレスレを飛ぶ方が楽なのだが、この天気では大波に飲まれかねない。

 上昇する気流を探し、ぐん、と羽ばたき空へ駆け上る。固く冷たい雹が翼を殴った。


 とにかく、何処かで休まなくちゃ。


 しかし、この辺りに休めるような小島はない筈だ。絶望的な気持ちで海原を睨む。


「はあ?」


 鳥人は間の抜けた声をあげ、瞬きを繰り返した。

 あまりに都合良く海に浮かぶ塊。人魚の海に唐突に漂う、三本マストの白い小型商船。

 ばさりと滴を振り払い、船を目掛け滑空した。


「……何、この船」


 帆柱に留まり羽を休め、鳥人は呟いた。メインマスト上部に掲げられた、水玉模様の海賊旗には、ピンクのフリルがつけられている。

 すぐ真下の見張り台では、嵐を気にすることなく、頭の潰れた船員が装飾を庇っていた。

 飢えた鳥人は魔導師の気配を敏感に捕らえる。この船には、何人もの魔導師が乗っているようだ。その中で一際強い魔力を持った人間の気配。さらに、赤の魔獣の臭い。


 おかしい。

 強い違和感。

 鳥人は首を捻り、帆に身を隠しながら甲板に近付いた。


 船首楼では、優しげに微笑む人魚が段差に尾を投げ出している。確かに赤の気配を放ってはいるが、酔狂な仮面を被り赤の気配を隠しているようだ。

 人魚の前には、船の揺れを気にとめもせず、楽しそうに話す魔導師の少女。しかし、強い人間の魔力を持ちながらも、魔物の気配を漂わせている。

 甲板で一心不乱に船飾りを守る魔導師も同様に魔物臭く、どこかうつろな船乗りたちは身体に穴を開けている。


 これは噂の、幽霊船ね。


 少女も魔導師も船員も、全て屍人だ。意思のある死体など喰えたものではない。小鳥たちに食べさせたなら、狂ってしまう。


 帆の上をぴょんぴょんと伝い跳ね、船の魔導師を一通り見て回った。


「うちの旦那は乗ってない、っか。幽霊船に連れてかれたのかと思っていたけど」


 人魚たちの風下へと移動し、耳をそばだてる。しかし風雨に隠され、会話は聴こえて来なかった。


 何のために人魚が幽霊船に? 何か、目的があるんじゃないかしら。

 眉をひそめ、思案を廻らせる。


 今日の昼過ぎ、新しい領主、鳥人の次の旦那が派遣される事になったと、執事長が言っていた。赤の人魚に死を吸出して貰い、食べても減らない家畜へと作り替えたい。

 海の底に住む人魚と会う機会はあまりない。折角ならこの好機に近付き、恩を売り親しくなりたいところだ。


 鳥人は帆の影に隠れ息を殺し、人魚の様子を伺った。


※※※


 嵐を浴び、人魚と屍人が笑う。

 雨が、風が、海面で弾ける稲光が、揺れ惑う船が心地よい。


「これ、一緒に呑もう」


 モーリスが赤葡萄酒の樽を指し示し、グラスを出した。


「あなたはまだ未成年でしょ」

「僕はもう、二十三歳だよ。大人の男だ」


 ヘクスティアが咎めると、モーリスは少女の姿で笑う。十五年前、八歳で屍人になったモーリスは、確かに二十三年間存在している。しかし、今は十二歳のロージーだ。葡萄酒は口にあわないだろう。

 樫の栓を緩め、赤黒い液体をグラスに注ぐ。大人のような仕草で葡萄酒を回し、口に含んですぐ、吐き出した。渋いぃっと唇をすぼませるモーリスを、ヘクスティアが笑う。


「やっぱりね。私もいらないわ。一人で酔うのは嫌だもの」


 モーリスは困った顔をし、船員たちに樽を押し付けた。甲板のあちこちで屍人たちの宴会が始まる。


「お酒なんて用意して、どうしたの?」

「……こういう話って、大人はお酒を呑みながらするって、雑誌で読んだの。あのね、人魚さん」


 モーリスに代わり、ロージーがモジモジと言う。


「牝の魔獣を紹介して欲しいんだけど。例えば、他の人魚とか」

「……牝の魔獣ねえ。下位の魔物なら何とかなるけど……蟹とか」


 兎以外、魔獣の知り合いは居ない。兎の性別は知らないが、ヘクスティアが呼んだところで来ないだろうし、会いたくもない。


「やっぱり蟹かあ。女の子に女の子を紹介して貰うと、ランクが下がるっていうよね、うん」


 モーリスが茶々をいれ、ロージーはムッとして反論をする。


「蟹でいいじゃない。めちゃくちゃ可愛い蟹かもしれないし、あいつも野性的で横歩きなタイプが好みかもしれないよっ」

「どんな男だよっ!?」

「可能性がゼロとは言い切れないでしょ」


 ようやく会話の流れを飲み込めたヘクスティアは、苦笑いを浮かべた。確かに、大人たちが酒を呑みながらする話題だ。


「紹介って、そういう意味ね。魔獣の女の子を人間の誰かに紹介したいの? 蟹が恋愛対象の男の人はあまり居ないと思うけど、随分変わり者なのね、その人。……屍蟹(しっかい)で良いならとりあえず呼ぶわ」


 一瞬、赤く染まる瞳。ヘクスティアが大きく息を吸う。喉を震わせ振動を圧縮し、一息に吐き出した。屍人の耳にはサッパリ聴こえない超音波は雨を伝い、海へ広がる。

 赤の気配を纏う、人魚の叫び。

 黒い羽がはらはらと降り注ぐ。風を撒き散らしながら、鳥人が現れた。


「……人魚姫、あたしでもいいかしら?」


 実際は帆に隠れ耳を澄ましていた鳥人が蟹を呼ぶ人魚を見て、チャンスとばかりに舞い降りたのだが。


 屍蟹の大群に海が泡立っている。


「やっぱり仮面を被っていても、海の女王なのね。すごいわ」


 鳥人はため息を吐き、海面を見詰めた。只の金目とは格が違う。


「うわあ! こんなに美人な鳥さんなら、満足するんじゃない?」


 島の女王である鳥人は、腰から下は大鷲そのものだが、漆黒の髪と切れ長の金の瞳、形の良い乳房を持つ美女といった容貌をしている。

 ロージーが飛び跳ね、手を叩く。巨大な牝蟹との戯れより、野性味溢れる鳥人とじゃれあう姿の方が、浮気らしく見えるだろう。


「鳥さん鳥さんっ、お願い。魔獣が大好きな人間を誘惑して欲しいの」


 鳥人はロージーから受け取った葡萄酒を脚の鍵爪で口元へ運び、美味しそうに飲み干した。黒紫に染まった唇が、不満げに歪む。


「はあ? あたし、あんたに呼ばれたんじゃないわよ。それが人魚の頼みだっていうなら聞いてあげてもいいけど」


 鳥人はヘクスティアを振り返る。ヘクスティアは慌て、金目を怖れるように目をそらせた。金の力が赤に届く筈ないのだが。

 馬鹿なのかしら、この人魚。と、鳥が呟く。


「……まあ、いいわ。どんな男? 見た目のいい魔導師なら誘惑してあげる」

「それならぴったり! ヨルドモに住んでるんだけど、やたら強くて顔だけはいい、性格の歪んだ魔導師よ。赤の兎と暮らしているの」

「赤の、兎っ! あいつなら一昨日、この辺りを通ったわよ」


 ヘクスティアが声を荒らげた。それを聞き、鳥人も目を見張る。


「ここを通った赤の獣は、兎だったのね。赤なら今、私の島にいるわよ。兎の姿ではなかったけれど。……擬態しているのかしら、目の前の人魚みたいに。ああ、兎で良かった……」


 そう呟いて安堵の息を漏らした。兎は温厚で草食だ。島に兎の好む魔草はない。乗っ取りに来たのではないだろう。


「島に来たのは、黒髪男と金髪男、それと女が二人。どれが兎なの?」

「女?」


 鳥人の言葉を聞き、ヘクスティアは顔色を白くし、すがるように尋ねる。


「その女って、黒髪の中年魔導師じゃないかしら」

「違う。一人は白髪、もう一人は明るい茶髪の子供」

「……そう。サラサねえさまじゃないのね」


 ヘクスティアはがっくりと肩を落としたが、反対にロージーは歓声をあげた。


「明るい茶髪……アネットちゃんね! 金髪の男はわかんないけど、白いのが兎なの。もう一人の黒髪が邪魔なの!」

「そう。黒髪の男、ね」


 鳥人は妖艶に笑う。草食で温厚な兎が相手なら話は別だ。ちょっとくらい摘まみ食いをしても、人魚の命令だと擦り付ける事ができる。運良く兎から魔導師を奪い取れたなら、人魚に頼み不死へ変えてもらおう。


「なんて素晴らしい夜」


 人魚と屍人の意図がさっぱり解らない以上、慎重に進めなくてはならないだろうが、愉快な計画だ。鳥人は楽しげに笑い葡萄酒を継ぎ足すと、船乗りの宴会に加わった。


 いつの間にか嵐は止み、雨は小降りになっている。船は鳥人の島へ進路を変えた。

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