嵐
空気が、吸い上げられていく。
金目の鳥人は空を見上げ、笑った。
残夏の夕空に、白く丸い雲がポコポコと産まれては分厚く積み重なる。雲は頂きを高く掲げ三角形に延び上がると、今度は水平に広がり始めた。
肥大化した入道雲。黒く汚れた腹を海面に擦りながら、夕焼けに染まる空を覆い隠す。
金目は山頂の立派な木の上、彼女の特等席に佇んでいた。
足下では子供たちが金切り声をあげ、風と羽毛を撒き散らし、祭壇の上に並べられた餌を奪い合っている。跳ね飛ばされた一羽が翼を広げ浮かび上がり、急降下して他の鳥人を蹴り散らした。
「みっともなくて、意地汚い子」
金目の女王はいとおしげに目を細める。
力の弱い魔獣である子供たち、幼児の頭に烏の身体を持つ小鳥人は、屍肉を啄む。もし生きた魔導師を喰べてしまったなら、魔力と共に生々しい記憶を取り込んでしまい、自我を無くしてしまうからだ。
肉を喰い骨をしゃぶり、腐った血と自らの涎にまみれながらも、一羽の小鳥が不満げに鳴いた。他の鳥たちも恨みがましく女王を見上げ、喚く。
「そろそろ魔導師が食べたい」
「今日の夕飯も魔導師がいなかった」
胸元をべたべたにして叫ぶ我儘な小鳥たちに、女王は溜め息をついた。
今回の船にも魔導師が乗っていなかった。小鳥たちは肉だけでは満たしきれない欲望に、飢え苛立っている。
「島に魔導師が来たじゃないか。アレが食べたい」
キイキイと一羽が鳴いた。女王はゆっくり諭す。
アレは上位の魔獣の持ち物だ。迂闊に触れば一族ごと滅ぼされかねない。しかし頭の悪い小鳥たちは納得せず、無闇に騒ぐ。
「魔獣なんて、いない。獣は二匹とも人の形をしていた。只の獣人だ」
「そんなハズないわ。昨晩の咆哮は、赤の魔獣の威嚇だったのだから。……アレに手を出しちゃダメよ。それに今夜は嵐になりそう。また船を探してくるから、大人しくしてなさい」
小鳥たちは薄暗い空を見上げた。彼方で稲光が落ちる。
嵐で沈んだ船を島へ流すのが女王の仕事だ。運良く魔導師の屍体が乗っていれば、美味しい魔力にありつく事が出来る。
丸く可愛らしい黒目を期待に輝かせ、笑いあう単純な小鳥たちに和みながらも、金目の女王は不安げに表情を曇らせた。
ここ何艘もハズレが続き、女王自身魔導師にありつけていない。小鳥たちの前では平然と取り繕ってはいるが、魔力が切れ倒れる寸前だ。
もし今夜も魔導師にありつけなかったら……。
船を曳く力さえ無くなってしまうかもしれない。
「赤の魔獣に土下座でもして、一口分けて貰えないかしら」
憐れみ深い王ならもしかして。呟いて首を振る。気紛れな獣に施しを求めるなど、愚か者がする事だ。
島の女王は胸を反らし、悠々と腕を広げる。枝を蹴り力強く両翼を羽ばたかせ、気流に身体を乗せ空に吸い込まれる。流線型の胴体に鍵爪のついた脚をしまい入れ、尾翼を僅かに上げ滑空の体勢を取ると、上昇気流から勢いよく飛び出た。
山から海へ滑り降りる勇ましい女王の姿に、小鳥たちは歓声をあげる。
今夜は大嵐になるだろう。
海面近くを矢のように裂き、金目の大鳥は船を探す。
空気の流れが複雑に変化する。風は吹き荒れ、小さな雨粒が海面を揺らし始めた。
下降気流に叩き付けられるのを恐れ、尾翼を傾け高く舞い上がる。しかしあまり昇り過ぎても、冷たい雹に打たれてしまうだろう。
おなか、すいた。
大鳥は鉛色の空でくるりと弧を描いた。
※※※
泡々と積み重なった入道雲は日没と共に土砂降りをもたらした。闇夜を雷光がつんざき、固く閉ざされた板戸は強く弱く揺さぶられる。
窓枠の僅かな歪みから風雨が吹き込み、カーテンの裾をじっとり湿らせ、燭台の炎をうっすらと震わせた。
魔導具の照明に馴れたダリアにとって、蝋燭の灯りは静かで弱い。トゥオーロは魔導師のいない島だ。多少の不便は仕方がない。
ヘクターの輪郭が紅く浮かび上がり揺れる。
ホテルに戻ってすぐ風呂を浴びたヘクターは、書き物机にかじりつき書類の作成をしている。今夜中に仕事を終わらせ、明日からはバカンスを満喫するつもりだからだ。
「ママの分の夕飯、食堂で貰ってきたよ」
「ありがと、置いといて」
ダリアはパンと茶をヘクターの机に置き、入口近くのソファへ腰を降ろした。手籠にはダリアの分のパンと、檸檬の果実酒が入った小瓶。ヘクターが呑むかもしれないと用意したが、作業に集中している。酒など渡せばかえって迷惑だろう。
横顔が見える位置へ座り直し、自分のグラスにだけ果実酒を注いだ。
一緒に夕飯を食べたいが、ヘクターは書類を睨み手を休めない。ダリアは檸檬酒をほんの少し口に含み、喉を潤わせる。
先程、アネットやブルーノと共にホテルの食堂へ行った。持ち帰り部屋で食べようとダリアが提案すると、ブルーノは三日月の瞳でニヤニヤと笑う。
「ダリアねーさんはヘクターさんと部屋で食べなよ。いちゃいちゃしたいんじゃないの? 僕らは食堂で食べて、のーんびり探検してから戻るから」
確かに一昨日以来、二人きりになれてはいなかった。気恥ずかしさを誤魔化すようにまた一口、甘酸っぱい酒を呑む。
今日のヘクターからは血の臭いがしない。大抵仕事の後は、風呂では消せない程強烈な血の臭いを纏い疲れた顔をしていたが、今回は何も殺していないようだ。
形のよい眉をしかめ長い睫毛を陰らせ、静かに書類の作成をしている。
瘤の無いすっと伸びた鼻梁。意思が強そうな薄い唇。炎に照され細かな筋を描く火傷の痣。
鋭く弛みの無い輪郭をやや長めの黒い癖毛が隠し、喉元の尖りは襟へ吸い込まれる。
ダリアは膝を抱え頬を染めながら眺めた。
窓枠がガタガタと音を鳴らし、横殴りの雨は外壁を叩く。しかし厚いカーテンの内側、二人きりの室内には、筆記具が紙に当たる音と心臓の拍動だけが響いている。
と、ヘクターが顔を上げた。
ダリアは兎耳をぴんと伸ばし、立ち上がる。
ヘクターは目の前のパンを掴み、大きく口を開けて頬張ると、茶で流し込んだ。ダリアも慌てて座り直しパンを口に入れ、一緒に夕飯を食べたつもりになってみる。
パンじゃなくて、もっと食べにくいのを貰ってきたら、仕事を休んで食べてくれたかも。
ついそう考えてしまう。
話しかける事を躊躇う程に、忙しくペンを走らせる大きな手。
少しでも近くにいたい。パンを食べ終えたダリアは、盆にグラスと瓶を乗せベッドの上へ移った。
サイドテーブルに盆を置き、透き通った果実酒を注ぎ直す。爽やかな檸檬の香りと、脳を揺らす酒の匂い。
「……そいえば」
ダリアは呟いた。
冬の蟹旅行で私、酔っ払っちゃったなあ。ベッドが一つしかなくて一緒に寝たんだよね。
思い出し、鼓動が早まる。大きな背中へ、早くお仕事終われと念を送る。
顔と手足が熱い。
一息に酒を流し込み、声を裏返させながら言った。
「ねえ……今日、ママのベッドで寝ていい?」
「いいわよ」
特に振り返りもせず即答され、ダリアは昨夜ヘクターが寝ていたベッドに飛び移る。
蟹の時も、こないだも一緒に寝たんだから、別にこれが普通なんだから。カレシとカノジョなんだからっ。
枕を口に当てジタバタと転がり、言い訳をした。
頬を弛ませ仰向けに倒れ、シーツを被る。背中がほの暖かく、重い。
ベッドに沈んでいく身体に反し、手足はふわりと浮き上がる。熱っぽく打ち響く心音、沸き上がる多幸感。
蝋燭の灯りに影は柔らかく揺れ、意識が溶けていく。目蓋が重く痺れ、視界の上下を黒い帯が縁取る。
早く来ないかな。
ダリアは目をしっかりと閉じ、薄く笑った。
「あれ、ダリアねーさんもう寝ちゃったの? せっかく二人きりにしたのに」
「ダリアちゃんって、お酒好きな癖に弱いわよね」
ホテル探検からブルーノとアネットが帰ってきたようだ。
起き上がろうとしたが、身体が縫われたように動かない。ヘクターの声も聞こえる。
「ダリアちゃん寝るの早いわね。二人も先に寝ててね。私、今夜中に仕事を終わらせたいから」
それに対しアネットが何か応えたが、聞き取れない。
やがて、ダリアは寝息を立て始めた。
※※※
墨色の空、闇色の海。雨の礫が水面を激しく打ち鳴らす。蒼白い雷光が真っ直ぐに落ち、不自然に停泊する帆船を照らした。
船は帆と碇を降ろし、玩具のように波に揺さぶられ傾いている。にもかかわらず、甲板では船員たちが目まぐるしく働いていた。
熟練の船乗りは薔薇を型どる繊細な船飾りを護り、魔導師はピンクのペイントが剥がれないよう結界を貼る。
屍人である彼らが恐れるのは、海に投げ出される事ではない。嵐で船体が傷み、小さなご主人様の機嫌が損なわれる事だ。
甘い匂いを漂わせる純白の幽霊船は、海のただ中で暴風雨に翻弄されている。
斜めに傾いた船長室。
船の主、亜麻色の柔らかな髪に零れそうな漆黒の瞳を持つ少女は、部屋の角で身体を固定させ、金縁の大鏡を眺めている。この鏡も、手触りの良い白い敷布も、壁に飾った可愛らしい猫の首輪も、全て家鴨魔導師の猫の船室から移したものだ。
今では少女、ロージーのお気に入り家具となっている。
「ダリアねーさまに来て貰うには、どうしたらいいのかな」
ロージーは鏡に向かい、独り言のように呟いた。
「学者にはがっかりしたね。ひどい目にあっちゃった」
少年の声で鏡が答える。正しくは、ロージーの中にいる核のない屍人、モーリスがロージーの口を使って答えた。
鏡を使うと別々の身体で話しているように感じられ、会話がしやすい。
一昨日、マイヤスに飲まされた金属スライムはようやく分解され、元通り身体を動かせるようになった。しかしまだ気分は悪い。
マイヤスの家で判った事は三つだけ。マイヤスは敵。モーリスは赤の兎に魅了されている。それから、ダリアが赤の兎だという事。
何の解決にもならない。
ダリアを手に入れる方法を、ずっと二人で考えているのだが、録な案が思い付かなかった。
誘拐も説得も、ついこの間、狼に邪魔され失敗した。船を可愛らしく飾り、いつ来てくれてもいいように準備しているのに。
「狼がいなければ普通に来てくれると思うんだけど」
ロージーに言われ、モーリスは唇を噛んだ。狼。全く狼には腹が立つ。
モーリスの身体が壊れるたび、人魚はモーリスに魔力を注ぎ修復した。その時に魔力と共に流れ込んだ、人魚の記憶。
海の中、人魚を抱き締めようと必死な青年。人魚は笑顔を作り、魔法を放って青年を陸へと押し返した。
あれは誰かと訪ねるモーリスに、人魚は昔の恋人だと答え笑った。
モーリスの記憶には人魚の恋人、まだ若い狼の顔が刻まれ、忘れる事が出来ない。
苛立たしさに爪をかじる。狼はモーリスの愛するものに愛されている。
「あんなやつ、ダリアさんにふられちゃえばいいのに」
「それっ! 狼がふられるように仕向ければいいんだからっ。ダリアねーさまが幻滅するような事が起きればいいの!」
モーリスの呟きに、ロージーが手を叩いて跳ねた。
しかしこの前、狼が人殺しだと突きつけたばかりだ。それでもダリアは狼から離れない。
そう指摘すると、ロージーは得意気に笑う。
「ダリアねーさまに、狼の浮気現場を見せたら嫌になるんじゃないかな。浮気っぽく見える場面なら、何でもいいのよ」
「浮気、ねえ」
女の子の考えそうな案だ。モーリスにはあまりピンとこない。
「だから、狼の好きそうな子を用意して、二人が仲良くしているところを、ダリアねーさまに見せればいいんだってば。簡単じゃない?」
「狼が好きそうな子?」
前の恋人が人魚、今の恋人は兎。二人ともよく似た顔をしている。つまりあの辺りが好みの外見なのだろう。
「……ダリアさんに似た顔の女の子を探すの?」
めんどくさそうだな、とモーリスが首を傾げると、ロージーは指を振り胸を反らせた。
「別の可能性があるよ」
「どういう意味?」
「狼の好みのタイプ。兎も人魚も、両方魔獣じゃない。狼はきっと、魔獣が大好きなんじゃないかな!」
魔獣マニア。
モーリスからすれば全く理解出来ない癖だがもしそうならば、探すのはだいぶ楽になる。代わりの魔獣を用意し夢中になって貰えばいいのだ。
「人魚に頼んで、雌蟹なり屍魚なりを呼んでもらえばいいのよね」
「いくらなんでも、蟹と戯れていても浮気には見えないと思うよ」
そっか、と、ロージーは顎に指を当て、眉をしかめる。
嵐の中、船はゆっくりと人魚の海へ進み始めた。
※※※
ベッドが沈み高い音をたてる。すぐ近くに人の気配を感じ、ダリアの意識がぼんやりと戻った。
頭から被っていたシーツが剥がされ、涼しい空気が頬を撫でる。覆い被さるように近付く影、心臓が強く早く警鐘を鳴らした。
アネットとブルーノは寝息をたてながら、よく眠っているようだ。
兎耳の先を指がくすぐる。ダリアは目蓋に力を入れ寝たふりをする。
「……ダリア」
囁くような低音に耳が痺れ、身体の芯が熱い。
固く大きな手が額に触れ、ベッドは二人分の重さに耐えられず、また軋んだ。
ゆっくりと顔が近付き、熱に染まる頬へ柔らかな口付けが落とされた。
甘い吐息が睫毛を揺らす。
緊張に身体を凍らせたダリアの肩口に、シーツが優しく掛けられる。
そのまま身体は離れ、サイドテーブルを挟み隣、昨夜ダリアが寝ていたベッドへ、気配が移動した。
隣のベッドから衣擦れが聞こえる。
……あ、あれ? おかしいな……。
息を殺し暫く待つと、聞き覚えのある寝息が室内に響く。
違うっ! ママ、違うよっ! ベッドを交換したかったんじゃないっ!
今すぐヘクターのベッドに潜ってしまおうと思ったが、酒に酔った手足がうまく動かない。ダリアはもやもやした気分でふて寝をした。