鳥
空はなだらかな赤紫へ色を移し、海は濃紺に塗り変えられた。傾いた太陽が島の際を赤く染める。
連なり揺れる松明の灯りが次第に近付き、ヘクターたちを乗せた商船はトゥオーロ島の小さな港に入った。
切り立った崖に作られた小さな埠頭には既に数艘の大型船が係留されており、船から降りて身体を伸ばす船乗りの姿がちらほらと見られる。
執事エドゥアールから充分な報酬を貰っているのでと、商船の船長たちがホテルまで荷物を運ぶ申し出をしてくれた為、それに甘える事になった。
入港の手続きを終えた船乗りたちが陸に降り、ヘクターらも後に続く。
この港付近にホテルは一つだけ、簡易な食堂はあるが酒場は無いらしい。一旦は陸に降りたものの、殆どの船乗りは船内で夜を過ごす予定だ。
港には数本の篝火を掲げた管理小屋がポツンとあるきりで、漁船も荷揚げのクレーンも見当たらない。この島に大規模な交易をしようというつもりはないようだ。
「ずいぶん粗末な港」
アネットが思わず呟くと、前を歩く船長が苦笑を浮かべた。
「そりゃハーリアの港とは違いますから。トゥオーロ島に大型船が停まるようになったのはこの夏、幽霊船の話が出てからなんで、それまでは港もホテルも無かったんです。島の丁度逆側に、もともとの魚港がありますよ。でもそっちだと海が浅くて、大型船は底がつかえるんです。
国からの要請があったそうで、海底が深い湾を探して、その辺りにあった使われていない修道院を改装して、ホテルにしたんですよ」
港からホテルへと伸びるこの道すらも、まだ出来たばかりなのだそうだ。
柔らかな黄土の細い道。左手には手入れをされていない雑木林が広がり、まだ若く背の低い常緑樹が街路樹として植えられている。やがて木は高く伸び、雑多な林を見映えよく隠すだろう。
急拵えの港を背に海を右手に眺めながら、崖沿いの坂道を上る。
山が近い為かこの辺りには浜辺が見当たらず、海水浴にはあまり向かなそうだ。
「船長さん、その漁港の方に泳げそうな浜辺もあるかしら」
「ええ。その山を越えた反対側に遠浅の浜辺と漁港、それから大きめの集落がありますよ。……といっても、店には最低限の生活必需品しか売ってないですがね」
その言葉にアネットは不満げに唇を尖らせ、船長は困ったように笑った。
「名産品がろくに無い島なんて大抵こんなもんです。魔導師が住み着きませんからね。ただ、この島は船乗りをとても大事にしてくれるんですよ」
そう言って、こちらの様子を伺う島の子供に手をあげて見せる。子供はさっと木の陰に隠れ、教会で神に捧げるかのように指先を動かし祈った。
「……大事にされているのとは、また少し違う感じに見えるわ。まあでも、あんまり他の観光客は居なそうだし、ダリアちゃんには都合いいかもね。お土産屋さんには期待できないけど」
「え!? あ、あ、そうだねっ!」
人気の無いこの島ならば兎の姿を隠さずに水着になれそうだ。手の平を広げ兎耳のように頭上に掲げながら、隣を歩くダリアに話し掛けると、ダリアは酷く狼狽えた。全く話を聞いていなかったのだろう。
昼頃からダリアの様子がおかしい。
甲板でヘクターを問い詰めた後、船室に降り、ダリアに話し掛けようとした。
が、机に伏し額にカードを貼り付けたまま独り言を呟き続ける様子に、悪いものを見てしまったような気分になり、アネットは再び甲板に上がった。
そのままそっとしておいたのだが、船を降りてからも心ここに有らずといった様子で、ひたすら考え事に耽っていたようだ。
「ねえ、ダリアちゃん、何か気になる事でもあった?」
「う、うんごめん……そうっ、この島、ずいぶん鳥が多いなあって!」
キョロキョロと目線を泳がせていたダリアが、思い付いたように上を指差し言う。
アネットも船長も、空を見上げた。
何故今まで目に入らなかったのだろうかと驚かされるほど、無数の大鳥が群れをなし夕闇の空を埋め尽くしている。
林の中に点在する民家の屋根や細い木の枝の上にも、鳥が鈴なりに並びこちらに鋭い視線を送っていた。
鳥の一団と目が合う。その途端大袈裟な羽ばたき音を重ね、鳥たちは勢いよく上空を舞った。
地に落ちる無数の鳥影。足元に幾層にも重なる鳥の糞で分厚い白斑が作られていた事に気がつき、麦藁帽子を深く被り直す。
「お嬢さん、この島は鳥を信仰してるんですよ。土着の神様みたいなもんで……にしても今日は数が多いな。ちょっとおかしいぞ。島中の鳥が集まっているんじゃないか?」
「大きな鳥ばっかりね……。なんだか怖い」
屋根の上、石で作られた鳥の像。その横一列に並ぶ黒い一団は大烏のようだ。枝にとまり身を寄せ会う二羽は何という鳥だろう、灰色の大きな身体に鍵型の鋭い嘴。
「すごいね、殆どが肉食の鳥だよ。しかも一羽も鳴かないし。もうすぐ夜だからかな。
そう、そっか……もうすぐ、夜……」
そう呟きダリアは頬を押さえ俯いた。また何か考え事を始めたようだ。
まだ陽は沈みきっていない。にもかかわらず、これだけの数の鳥が鳴き声もたてずこちらの様子を伺っている。
きっとこの鳥たちは魚が主食で、今日はこの辺りが大漁だったとかで集まっているのよ。
異様な鳥の群れに取り囲まれ、同じような事を考えたのだろう、前を歩く船長たちも無言のまま急ぎ足になった。
「ヘクターさん、僕のカード……」
「わかってるからっ! ホテルに売ってるわよ。船乗りが沢山くるんだもの」
鳥の事を全く気にしていないのか、背後からブルーノとヘクターのいつもと変わらないやりとりが聞こえる。
ヘクターがブルーノのカードを一枚、海に投げ棄ててしまったらしい。港についたら新しいのを買うと約束していたが、開いている雑貨店が見当たらずブルーノは不満げだ。
そういえば。
アネットは、船室でカードに埋もれ狼狽えるダリアの側で、ブルーノがニヤニヤ笑いを浮かべていた事を思い出す。
ダリアが挙動不審なのはおそらく、ブルーノが原因なのだろう。
「ブルーノさん、ちょっと」
鳥の事を考えるのは終わりにし、ブルーノを手招きすると、ダリアをヘクターに押し付けた。
「……ねえ、昼間ダリアちゃんに何を言ったの?」
「べつに。今夜は昨夜の続きだろうねって言っただけだよ?」
「続き?」
背後をチラリと見る。ダリアはヘクターの横で顔を真っ赤に染め、カチカチに固まり動けなくなっていた。
ヘクターは不思議そうに首を傾げ、突然歩けなくなったダリアを抱えあげる。ひゃあ、と小さな悲鳴が聞こえブルーノが楽しそうに忍び笑いをした。
やがて林が割れ、尖塔を持つレンガ造りの建物が現れた。道は真っ直ぐ入り口に続いている。
絶賛営業中のホテルと言うよりは、前時代の修道院跡と言われる方が納得のいく、質素で厳めしく、そしてぼろぼろの建物だ。
「い、遺跡……」
アネットの呟きが聞こえたのだろう、船長は優しく笑う。
「ははは、大丈夫ですよ。中だけは綺麗ですから。では私たちはこの辺りで」
丁寧にお辞儀をし、粗末な木戸の前に荷物を重ねると、船長たちは道を戻って行った。
ヘクターが、ダリアと荷物を抱えたまま扉を開ける。
安堵の息が漏れた。
それなりに手をかけて改装したのだろう。鳥の糞にまみれた表とは違い、中は清潔に整えられている。
玄関ホールはもともと、礼拝堂に続く長い身廊だったのかもしれない。高い丸天井を支える交差式の柱があわせ鏡のように並ぶ。
薄暗い室内、柱ごとに揺れる蝋燭が神秘的な灯りを放ち、石畳を打つ足音が高く響いた。
祭壇の在るべき場所に置かれた、ホテルのカウンター。神の像が祭られるべき場所にはこの島のシンボル、鳥人と海馬の像。上半身が人、下半身が鳥の鳥人と、上半身が馬、下半身が魚の海馬、もちろん両方魔獣だ。
「……このホテル、すごく罰当たりに見えるんだけど」
異端教会にしか見えない。アネットが頬をひくつかせ、笑う。
ヘクターがカウンターに向かうと、ダリアはようやく意識が戻ったのか、身をよじり腕の中から逃げた。
そのまま鳥人の像に走りより、ぶつぶつと呟いている。
「……続きって……でも……だけど……」
「何で鳥に相談してるの? 何かあった?」
アネットが近付き話し掛けると飛び上がり、赤面したまま何でもないと連呼した。
「個室、4つ。できれば並びで。一週間」
ヘクターがそう話す声が聴こえる。ダリアは力が抜けたように鳥人にもたれ掛かった。赤い顔から湯気が出ているようにも見える。
「二部屋にしたらいいじゃん」
「あんたと同室が嫌だからに決まってるでしょっ! 二つにしたら私とブルーノの部屋になっちゃうじゃないっ!」
ブルーノが不満げに言うと、ヘクターも嫌そうに返した。
「生憎、空きの個室はありません」
「……じゃ、四人入れる部屋一つ。一週間」
大型の船が既に何艘も港に停泊していた。個室は一杯になっているようだ。
二部屋という選択肢は無い。
ヘクターが四人部屋の鍵を受け取り、ダリアは胸を押さえながらため息をついた。
「お客様、一週間も滞在されるんですか? この島には何も無いですよ、船で他の島を回られた方が」
「用事があってね」
「そうですか……」
ロビーの従業員が僅かに眉をしかめる。
※※※
ホテルの四人部屋は、天井が丸く格子窓が低い位置にある事以外、ハーリアの普通のホテルと遜色ない部屋だった。
ヘクターが室内の蝋燭に火を灯してまわる間に、ダリアは帽子を投げ捨て奥のベッドに俯せる。
部屋を明るくし終えたヘクターがその隣に座り長い兎耳に触れると、慌てて枕の下に耳を差し込んだ。
「ダリアちゃん、何かおかしいわよ?」
「なんでもないよー」
ヘクターの心配そうな声に、顔を隠したまま答える。
「ダリアねーさん、残念だったね」
「ばっ!ばかっ。残念がってる訳じゃないよっ!」
慌てて身体を起こしブルーノを睨んだ。ブルーノは心配そうな表情を作りながらも、堪えきれない笑みを漏らしている。
恥ずかしさで血が上り、目眩がしそうだ。
「ダリアちゃん、島、期待はずれだったの? いいお店無さそうだものね。他にも集落があるから、そっちには何かあるかもしれないわよ」
ヘクターがポケットから島の地図を取りだし広げて見せた。依頼書類と共に国から受け取ったものだ。
ブルーノとアネットもベッドに集まり、興味深げに地図を眺める。
「そっか、ヘクターさん地図持ってたね。僕、さっきフロントで地図貰おうとしたんだけど、無いって言われちゃったよ」
「じゃあこれどうぞ。私の分は描き写すから。私、明日は仕事なの。三人で遊びに行ってらっしゃい」
「はーい」
三人、声を合わせ返事をした。
この場にいる全員、理解の幅こそあれ、ヘクターが仕事で来ているのだと既に解っている。
アネットとブルーノが頭を寄せあい、地図上の海岸線をなぞりながら相談を始めた。
どうやら明日は島の海岸線沿いをぐるりと探検し、最もいい浜辺を見つけるつもりらしい。
ダリアの心臓が落ち着き始める。
もし全員が別の部屋だったなら、おそらく昨夜の続きが始まってしまっていただろう。
別に、期待なんてしてなかったんだからっ。
ダリアは周りに聞こえないよう、そっと呟いた。
「そだ、ダリアちゃん」
ブルーノたちの相談を聞いていたヘクターが急に振り返る。ダリアはできる限り普通の声色で、裏返ってしまわないよう慎重に応えた。
「なーに?」
「一緒に寝る?」
ダリアが一気に赤く染まり、兎の魔力が唸る。
空気が圧に歪み、部屋が軋む。蝋燭は全て消え、ダリア以外の全員が重力に縫い付けられる。
窓の外、数百羽分の羽ばたき音。
群れをなす大鳥が一斉に逃げた。




