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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
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兎の里

 遠い昔、新月の昼。

 穏やかな陽光が辺りを満たし、心地よい風が血の匂いを散らす。うっすらと聞こえる兎たちの緩慢な寝息が、春の野草を揺らした。

 郷愁を誘う童歌(わらべうた)の調べ。歌声の主、まだあどけない少女ヘクスティアが歌を終えると、そよ風は刃に変わり、眠る兎の首がコロリと胴体から離れた。

 ヘクスティアの姉、美しき黒の魔女サラサは、おっとり微笑みヘクスティアの頭を撫でる。


 草影がざわりと揺れた。

 一団に緊張が走り、十人のサラサの精鋭騎士たちは隊列を組み直す。

 仲間を狩られた雄の兎人が一匹、サラサに果敢に飛び掛かり、騎士の一刀により肉片となった。

 茶色の春毛が深紅に染まる。


「可哀想。あんなに可愛らしい兎さんなのに」

「……本当に。兎人は草食だとというのに」


 ヘクスティアが小声で言うと、大荷物を抱えたマイヤスがウンザリだと言いたげに呟いた。


「人間を食べなくても魔導師にとって兎は有害なのよ。肉食魔獣と組まれたら困るじゃない」


 二人の会話を聞き咎め、サラサが馬鹿にするように言う。

 ヘクスティアの二つ上の従兄マイヤスは、嫌そうな顔をしながらも魔獣狩りには必ずついてくる。サラサはマイヤスを従者のように扱い、わざと重い荷物を持たせ這いつくばる姿をやはり蜥蜴(とかげ)の子だわねと笑う。

 その多くが魔導師のトップ、白竜か黒竜の長となり本物の竜の血を引くのではと噂される竜の一族。直系でありながら魔力が無いマイヤスは竜ではなく蜥蜴だと呼ばれ忌み嫌われていた。


 しかしヘクスティアはこの変わり者の従兄の事が大好きだった。頭のいいマイヤスは様々な物語を語って聴かせてくれる。

 ヘクスティアはマイヤスに何故そんなに話を知っているのかと尋ねた事がある。

 するとマイヤスは笑いながらこう答えた。


「僕はいずれ人魚に食べられなくちゃならない。

美味しく食べてもらうために、沢山の物語を手に入れるんです」


 常に酷い扱いをするサラサの後をつけるのも、サラサが物語の主人公の一人だからだそうだ。


 ここは兎人の集落。黒の魔女サラサ率いる精鋭騎士たちは今にも兎人を滅ぼそうとしている。


 また新たな兎人が姿を見せた。

 小柄な黒兎。ためらいもなく首が宙を舞い鮮血が弧を描く。

 今のはまだ子兎だったのかもしれない。ごぶうと高い断末魔が聴こえヘクスティアは思わず耳を塞いだ。


 兎さんが可哀想だから、痛くないようにしなくちゃ。

 ヘクスティアはサラサの手を握り、急いで『風刃の歌』を舞い歌い始める。サラサも満足げに笑うと高速で『眠りの歌』を完成させた。

 兎人たちは脱力しその場に崩れ落ちる。

 サラサに促されヘクスティアも詠唱を終えた。音もなく転がり墜ちる兎の頭。噴き出す血飛沫が二人にかからないよう、騎士たちはマントを広げ庇う。

 可哀想な兎人が痛くないように、眠っている間に首を墜とさなければ。



 繁殖期を迎え兎人たちの動きは緩慢だ。月さえ出なければただの兎人はそれほど狂暴ではない。数刻もたたないうちに里から兎人の姿が消え、巣穴に火がつけられた。無数の細長い黒煙が空に昇る。


 一団は里で最も大きな巣穴、大岩をくり貫いて作られた王の居城に押し入った。

 次々と現れる兎人兵士を切り刻み、辿り着いた奥の間には、部屋の外で唱えたサラサの歌が効いたのか、柔らかな敷布の上ですっかり眠る大兎がいた。

 ただの兎人とは明らかに異なる艶やかな純白の毛並み。つい胸が高鳴る程に甘く愛らしい顔つき。兎がゆっくりと息を吐く度、小さな鼻がヒクリと動き長いまつげが揺れる。

 おそらくこれが兎人の王なのだろう。

 あまりの愛らしさにヘクスティアは頬を緩ませ駆け寄りなで回した。ふかふかの胴体は暖かく、細く白い体毛は滑らかで絹のように柔らかい。


「か……可愛いっ! なんて可愛い兎さんなのっ。サラサねえさま、私この子を飼いたい!」

「ヘクター、あっさり魅了されないでちょうだい。今は兎の発情期。気を引き締めないと、心を持っていかれるわ」

「でも……」


 こんなにも可愛らしい兎の首を切ることなど、ヘクスティアには出来そうになかった。詠唱をためらうヘクスティアにサラサは困ったように笑いかける。


「そうね、じゃあ連れて帰って封印しましょうか」


 そう言うと『強化』の歌を唱え、兎人の王を抱えあげた。そのままダンスを踊るように軽々と振り回す。ヘクスティアも嬉しそうにくるりとまわった。


 と、兎が目を開く。兎人の王に人間の魔法は届かない。一団はその事をすっかり忘れていた。

 赤い瞳がサラサを捕らえ愉悦に歪む。ヘクスティアが顔を蒼白にし叫ぶ。


「ねえさまっ! 兎の目を見ちゃダメっ!」


 サラサは踊るのを止め兎人の王を床に置いた。ヘクスティアに向き直り、口のなかで静かに歌い始める。


「ね、ねえさまっ! やめてっ」


 サラサの瞳に妹は映らない。ただ王を護る騎士のように、歌いながら印を組む。


「伏せろっ!」


 衝撃。脳が揺れ、ヘクスティアは地に倒れ込む。

 視界が白く塗り潰される。轟音に揺れる地面。石壁が崩れ騎士たちを飲み込んだ。

 キーンと高い金属音。耳が割れるように痛む。土煙に濁る視界の中から見上げると、魔導具による『結界』に守られている事に気が付いた。

 ヘクスティアに覆い被さり半球の結界を発動させるマイヤス。

 その半球の外は瓦礫の山。

 石の下から呻き声が聞こえ、流れる血液がわずかに覗く土を赤に染める。


 サラサはぽっかりあいた空間で、兎人の王を護るように立ち尽くしていた。


 マイヤスは腕の中のヘクスティアに囁く。


「ヘクター、先に帰りなさい。あなたまでもが魅了されたらもうなすすべもない。サラサの心は死にました。黒の魔女サラスティアは兎人に殺された、と王に伝えなさい」

「マイヤス兄さんは?」

「僕なら大丈夫。魔力がないので魅了されません。それに、僕が蜥蜴と呼ばれる本当の理由を知っていますか?」


 『結界』を維持したまま膝立ちになり、懐からナイフを取り出す。瓦礫の石の上に手を広げ、人さし指の先へ押し当てた。

 マイヤスが体重をかける。

 爪のついた指先が落ち石が鮮血に染まる。しかしすぐに傷口は塞がり、柔らかな白い塊が新たに生え始めた。


 ヘクスティアに笑いかけ立ち上がる。


「兎さん、話し合いをしましょう」


 色の異なる指先を見せながらマイヤスが一歩近付くと、兎人の王は楽しげに笑いぶうぶう鼻を鳴らした。

 早くっ、そう呟きマイヤスはヘクスティアを見る。


 何故、兎とマイヤスの会話がなりたっているのか、何故、マイヤスの指が生えるのか解らない。どうなっているのかと問いかけるようにサラサを見た。目があった途端、サラサは口の端を吊り上げ再び詠唱を開始する。


 サラサねえさまに殺される。


 ヘクスティアは慌てて身体を起こし、その場から逃げ出した。


※※※


 太陽の届かない海の底。

 人であった頃、艶やかな直毛であった黒髪は、人魚になった今、金にうねる触手に変わりゆらゆらと赤紫の珊瑚を照らす。

 悪夢にうなされていたヘクスティアはそっと目を開いた。サラサから逃げ出し、そのまま海底まで辿り着いたような錯覚に身を震わせる。


 真上を通る船の気配。


 船は極上の魔力を積んでいる。おそらく蕩けるように美味い人間が乗っているのだろう。

 浮かび上がり捉え喰らいたい衝動にかられるが、続いて感じた気配に肝を凍らせた。


 その同じ船に、赤い瞳の兎人がいる。


 あんな夢をみたのは、兎の気配に引き摺られたからなのね。


 サラサを壊し、ヘクスティアに人の味を覚えさせた兎の王。出来ることならばもう二度と会いたくはない。


 御馳走を諦め、肉質の珊瑚に身体を埋めた。


 それに、今、強力な魔力を取り込んだら……。

 強く上質な魔力を取り込めば、消滅しかかっているヘクスティアの残滓は、新たな記憶に上書きされ消えてしまうだろう。

 存在が無くなる事が恐ろしい。

 もうとっくに、記憶と魔力だけの残りかすとなっている事は解ってはいたが。


「……マイヤス兄さんは、いつ私を殺してくれるのかしら」


 吐いた溜め息と共に丸い泡が昇る。目で後を追うように海面を仰ぎ見た。


 船尾に立つ白波の中に漂う、異質な何か。金の触手を細長く伸ばし掴み寄せる。


 船から海へ投げ落とされたのだろう。

 それは時の女神のシンボルと大輪の白い花が描かれた、絵合わせのカードだった。


 急に心が暖かく満たされる。ヘクスティアは幸せな過去を思い出し、目を細め笑った。


 ずいぶん、慌てていたわね。あの時。

 ある夜、前触れもなく寝屋に忍んできたまだ若い騎士。

 咄嗟に『火球』を構築し、指を向けつつ問い詰めると、他の騎士たちとの絵合わせカードで負け、罰ゲームで気になる女性を口説かなければならなくなった事を白状した。

 散々に振られる事を期待され、自身も諦めているのだろう、彼は随分と投げやりに愛を語り口説く。

 そのあまりにも子供っぽい様子についほだされ、彼を受け入れたのだ。


 海流に揉まれ歪んだカードを抱き締める。安く脆いカードは粉々に崩れ、涙と共に塩水に溶けた。


※※※


 上甲板よりも遥かに高く、突き上げるように掲げられた船尾楼の上。

 ヘクターは指先で祈りを捧げ、海面をじっと見詰める。花の代わりに投げ込んだ絵合わせのカードは、すぐさま波間に飲まれ消えた。


「……花、買い忘れちゃっててさ。ごめんな、こんなカードで」


 島についたらブルーノに新しいカードを買って返さなきゃな、そう呟きながら後ろを振り返ると、背後の階段を駆け上がるアネットがいた。

 だいぶ調子を取戻したアネットは一段抜かしで船尾楼にあがると、いつもの明るい声でヘクターに話し掛ける。


「ここ、ずいぶん高いのね。風が気持ちいい! ね、こんな所に昇って何をしてたの? ずいぶん探しちゃったじゃない。私、ちょっと聞き忘れてた事を思い出して」


 ヘクターは嫌そうに顔を歪めた。


「……なんでヘクターって名乗ってるかって事?」

「うん。もしかして……魔女の事がまだ好きで、それでヘクターって名乗った、とか……」


 アネットが少し言い辛そうに言うと、ヘクターは必死で否定する。


「どんなだよっ! 好きな女の名前を名乗ってオカマ言葉で話す男って、どんな性癖だよっ! なわけないだろ。もうとっくに消化できてるからっ!」

「変態犬が未練がましくてみみっちくても、何もおかしくないと思うわ。でも確かに何で、言葉使いまで真似したの?」


 ヘクターは大きくため息をついた。


「狗に堕ちる時には、名前を捨て、人間関係を清算して、新たな人格を作らなきゃいけないんだよ。オカマは手っ取り早いだろ? それに、ヘクターは俺の中では女性の名前だからさ。あいつを真似した人格を作るのが俺にとって楽だったんだ」

「……へーえ」


 アネットが疑いの眼差しを向ける。


「おかしな誤解は嫌だから言っておくけど。アネットの好きそうな甘いロマンチックな理由でヘクターを名乗ったわけじゃねーよ。この名前は、呪いで、まじないだ。痛みを忘れて安寧の泥に沈まないためのな」


 狗に堕ち、狼の責を解かれた時に感じてしまった安堵。

 それを責め、駄犬に成り下がらないためにかけた、自分への呪いだ。


「俺の力が足りず見殺しにした守るべき相手、黒の魔女の名前だ。これ以上の強い呪いはそうないだろう?」


 ヘクターが投げ棄てるように言うと、アネットは言葉を詰まらせる。


 マストの上、船を見下ろす大鳥がけたたましい鳴き声をあげ飛び去った。

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