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兎は月を墜とす  作者: hal
残夏の蜜罠
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少女と人魚

 『人魚の入り江』は黄金色に輝く星砂の浜を抜けた先に、唐突に現れる。波に削り取られた黒い崖の、浜から隔離された小さな窪み。

 その崖の縁、純白の尾をうろんに投げ出し、青白い月をぼんやり眺める人魚が居た。

 滑らかに波打つ金の髪はしっとりと濡れ、無造作に晒された細い腰の輪郭は、逆光に緩やかな弧を描く。潮が騒々しく岩を殴り、風に舞う白い飛沫が人魚の周りをキラキラと輝き飾る。


 その姿に、マイヤスの胸は絞るように痛んだ。感情を圧し殺し、落ち着いた低い声で人魚に話しかける。


「久しぶりです」

「……っ? ……ずいぶんっ!」


 人魚が振り向き、驚声をあげた。


 月影に遮られ、顔が見えない。

 長い距離を走った直後のように心臓が激しく脈を打つ。別人だ、と頭では理解してはいたが心は勝手に期待し震える。

 15年ぶりの再開。マイヤスは俯き、胸を押さえ痛みを堪えた。


「ずいぶん久しぶりね、マイヤス兄さん。少し見ない間に歳をとったのね」


 人魚が笑い手招きをした。マイヤスはゆっくり近付き隣に腰を降ろす。


 青白い月の光を受ける人魚の横顔は、マイヤスの期待する物ではない。

 やっかいな従姉、サラサ。その妹の顔。

 二人目の黒い魔女、ヘクスティアだ。


 心臓を宥め、深い息を吐いた。


ヘクター(・・・・)。私は不老じゃありませんから。歳くらいとります」


 確認をするように、あえて従妹の名前を呼ぶ。これは、ヘクスティアだ。マイヤスの人魚ではない。

 ヘクスティアが意地悪く笑った。


「ふーん、兄さんは蜥蜴(とかげ)だから死なないって、聞いたけど」

「……いつかは死にますよ、多分。試しては無いですが」

「へえ、そうなの」


 口の端を上げ笑う表情。語尾を上げて喋るヘクスティアの癖。

 マイヤスは突然気がつき、噴き出した。


「……っぶはっ! あいつ、まさかっ。ば、バカ過ぎるっ!」

「え、な、何? 兄さん、何かあったの?」

「しゃ、喋らないで、くださいっ! 腹が、腹筋が、痛いっ!」


 腰を折り曲げ、ひーひーと腹を抱える。ヘクスティアは苦笑いを浮かべ、海に落ちかけるマイヤスを支えた。


「っそ、その苦笑いもですっ! あの人本当にバカっ! 感動の再開の筈が、狼さんに完全に壊されてしまいました」

「狼さん?」


 小首を傾げるヘクスティア。その仕草にまたマイヤスが爆笑する。目の端に滲む涙を擦り、笑い声は次第にひきつっていく。


 これはマイヤスの赤い人魚ではない。


 しゃくりあげるように笑いながら、混乱する感情の奔流にまかせ、涙を溢す。


 笑いで十五年分の絶望を隠すマイヤスを、人魚の姿となった黒の魔女、従妹のヘクスティアは呆けたように見詰めた。


※※※


 アネットは足を止め、辺りを眺める。


 切り立った崖から見下ろす海に、上弦の月の心細い明かりが青白い筋を落としている。濃紺の海面から涼しげな風が吹き上がり、飴色の長い髪を揺らした。潮騒に混じり、コロコロと夏の終わりを告げる虫の音が響く。


 魔導具の小さなカンテラで、細い崖道の先を照らし確かめ、再び歩き始める。

 と、潮に濡れた草にぬるり足元を取られた。体勢が崩れ崖下に投げ出される。


「キャアッ!」

「っと」


 ふわっ。しなやかで長い腕が腰に回された。宙に浮いた身体が広い胸に抱え上げられ、そのまま崖とは逆側にそっと降ろされる。


 見上げれば、闇に浮かぶ二つの三日月。


 金の瞳を月の形に曲げて笑うヤマネコ、ブルーノがいた。


「この道、濡れてて危ないよ。気を付けて歩いてね。人間って暗いと目が見えないんでしょ?」

「あ、ありがと。でもブルーノさん、何でついてきたの? 私がまだ子供だから……じゃ、なさそうね」


 大きな三角耳は帽子に隠され、長い縞尻尾もしまわれていたが、楽しげな空気が伝わってくる。


「うん、面白そうだから。出掛けたのがダリアねーさんやヘクターさんでも追いかけたと思う」

「変態犬を無理矢理つけ回して、蹴り飛ばされるブルーノさんが容易に想像できる……」


 アネットは頭を抱えた。

 強引についてくるつもりなのだろう、ブルーノの目が好奇心に爛々と輝いている。アネットが走って逃げたところでヤマネコを撒けるとも思えない。


「アネットちゃん、本当はどこに行くの? この先に雑貨屋さんは無さそうだよ」

「……出来ればついて来ないで欲しいんだけど、無理そうね。ダリアちゃんや変態犬に言わないでよ」


 アネットは何かを探すように鞄をまさぐり、次々と魔導具を取り出しブルーノに預けた。

 ブルーノは小ぶりな銀の筒を興味深げに摘まみ、感嘆をあげる。


「うわあ、これって本物の『雷砲』? 雷の魔法が詰めてあるやつだよね。初めて見たよ。そんなに魔導具持って、何処に用?」

「私、人魚に会いに行くつもりなの」


 鞄の底からようやく探しあてた観光案内を開くと、カンテラで照らしブルーノに見せた。

 『人魚の入り江』の頁にぐりぐりと印が付けられている。


「ハーリアには願いを叶えてくれる人魚がいるじゃない? 私の願いは、友達を昔の身体に戻してもらう事。前、人魚に器を治して貰った子なんだけど、それからおかしくなっちゃったから……。こんな観光案内にハッキリ書いてある場所に、本当に人魚がいるとは思えないけど、行かなきゃ気がすまないのよ」


 アネットは魔導具を鞄に片付けながら言う。


 ダリアがロージーは変わってしまったから会わない方がいい、と言っていた。

 おそらくそれは、ロージーの中にいるモーリスという少年のせいだろう。ならば人魚に頼み、ロージーからモーリスを抜いて貰えばいい。

 アネットはそう考え、人魚を探すためにホテルを出た。


 ブルーノは眉を寄せる。


「ふーん。すごーくおかしいね。人魚が願いを叶えるだなんて。だって、人魚って魔獣だよ?」

「え? 昔話にもあるじゃない。王子さまを助けた人魚とか」

「魔獣は気紛れで人間を助けるって事はあっても、頼まれて願いを叶えるなんて事、めったにしない。特にこの国では、魔獣と人間の関係は最悪だし。本当に人間の願いを叶えているんなら、何か、人魚に都合のいい理由がある筈だ」

「……都合のいい理由」


 ロージーの器を治すメリット……何故人魚はロージーにモーリスを入れたのだろう。


 人魚への不信感が沸き上がる。


 人魚はロージーを治すついでに、自分の都合でモーリスをロージーに入れた?


 海を睨み考えるアネットに、ブルーノは笑いかけた。


「うん、アネットちゃん、うまく人魚に会えるといいねっ。きっとそこには世界を揺るがす重大な秘密がっ!」

「え、止めないの? 大人って止めるものでしょ? こういう事」

「大人だけど止めなーい。さ、手を握って。足元が滑って危ないから」


 差し出された手に、アネットは戸惑い、言う。


「女の子に興味ないんじゃなかったの?」

「興味ないから平気で握れるんだよ。アネットちゃんも、ダリアねーさんの手なら平気で握れるでしょ」


 そっかと呟き手を重ねると、ブルーノには興味がないと示すようにしっかり握り返した。


 崖上の細い道はいつの間にか下り、浜へ降りている。星砂に点々と続く人間の足跡。

 誰か先人がいる。ブルーノは辺りを警戒し慎重に歩く。


 やがて、岩山が浜を塞いだ。

 岩にへばりつき、帽子から三角耳を出して気配を伺う。


「……声がする。二人分。男の笑い声。それと女……あれ? ……ダリアねーさんの、声?」

「はあ?」

「ううん、違った。……声はダリアねーさんに似てるけど。しゃべり方の癖がむしろ……ヘクターさん?」

「全く、意味わかんない」

「……僕も。でも、この岩の上に誰かがいるみたい」


 息を潜め、岩の上の様子が伺える場所を探し、ぐるりと移動した。


※※※


「すいません、腹筋が痛い。つい笑いすぎてしまった。しかしもう収まりましたから」


 マイヤスが目尻を押さえる。


「何がそんなに面白かったの?」

「いや、その、あなたの……じゃない、狼さんって方がいるんですが。それは誰を笑わせる為にやってるんだ、と思うともうすごく……。まあ、理由は思い当たらないでも無いんですが」

「狼さん?」

「あー、語尾あげないでください。口調が似すぎで笑い死にます。まさか従妹との十五年ぶりの再開をだいなしにされるとは思わなかったですよ。狼さんに会ったら仕返しに、存分に突っ込んで困らせてやらなくては」


 理解し難い事を言い、楽しげに笑うマイヤスを、ヘクスティアは不思議そうに見詰める。奇人で変わり者の従兄のこんな馬鹿笑いなど、見たのは初めてだ。


 マイヤスは顔を平手で叩き、気を引き締め直した。


「じゃ、本題に入りますね。……今日モーリスとロージーが私の家に来ました」

「モーリスとロージー? 無邪気で可愛いわよね」

「……会ってすぐ、無邪気に首を絞められたんですが。うちにもう二度と来るなと、ヘクターから伝えてください」

「あの子たちが、そんな事を!? わかった、伝えておくわね」


 まさか、と目を丸くするヘクスティアを、マイヤスはじと目で見詰める。


「モーリスとロージー!?」


 と、その時、浜に続く道のある方角、背後から少女の声がうっすらと聞こえた。ヘクスティアは振り返り、暗闇を見据える。


「ヘクター、どうしたのですか?」


 ヘクスティアに釣られ、マイヤスも背後を見た。潮風に遮られた少女の声は、人間であるマイヤスの耳に届いていない。


 影が動いた。

 暗がりからひょいと岩に上がる少女。その手を握ったまま慌てて飛び乗る身軽な青年。

 ヘクスティアは首を傾げる。

 例の、願いを叶えるとかいう噂を聞き付けたカップルだろうか。


「こんばんわっ。あなたが、ハーリアの人魚? ね、願いを叶えてくれるんでしょ。私のロージーを元に戻してよっ。優しくて、可愛くて、ちょっと気が弱いロージーを返して!」


 少女……アネットが頼む、というのには程遠い、怒りをぶつけるような態度で言う。

 力を込めた手の中には『雷砲』が握り締められている。


「……返して? 何の事?」


 アネットはブルーノの手を引き、人魚の顔が見える距離まで歩み寄ると、息を飲んだ。


「……声だけじゃなくて、顔もダリアちゃんと似てる……。そっか。ロージーも、人魚とダリアちゃんはそっくりだって言ってた。やっぱり、あなたがロージーをおかしくした人魚なのね。ロージーを昔のロージーに戻してっ!」

「戻す……もしかして、モーリスを抜けって事かしら? そんな事したらすぐに腐っちゃうわよ」

「腐っ!?」


 青い目を妖艶に細め、笑う。


「ロージーは、もうとっくに死んでるの。器の崩壊でね。諦めなさい、死にかけた身体に不死の魂、モーリスを埋め込む事で生かしてあげているのよ」


 マイヤスはなるほど、と感心したように呟いた。

 言葉を失うアネットに代わり、ブルーノがヘクスティアに訪ねる。


「ね、人魚さんは何で、人間の願いを叶えてるの。ただの戯れ?」

「……願いを叶える? そういえば、そんな噂、あるみたいね。私がやっているのは、死んでいく可哀想な子供に、不死の魂をあげる事だけ」


 ヘクスティアは月を見上げた。


※※※


 たしか最初は、赤の兎に囁かれたのだった。

 まだ、人魚としての食事方法がわからず、魔力の欠乏に意識が朦朧としていた時。


『人を食べ、獣に墜ちろ』


 突然目の前の船が大きく揺れ、魔導師が落ちてきた。腹を空かせた金の触手が勝手に伸び、気がつけば魔導師を胃の中に納めていた。

 戸惑う黒の魔女ヘクスティアを、小船の上から兎がけたたましく笑う。


『美味いか? 魔力が身体に満ちただろう。人間でも、赤い目の人魚でもないお前は、獣のように人を喰らわなくては生きてはいけないよ? ほら、面白いものをやろう。これは赤い目の人魚が作った幼い少年の魂だ。息子の代わりに可愛がるといい』


 人の魔力の塊が、ふわりと漂った。


『しかしその子供の身体はもう腐ってしまった。魂を別の身体に移し代える程度なら、お前にも出来るだろう?』

「……移し、代える?」

『子供の父親が、新しい身体を用意するそうだ。……安心しなよ、酷い事ではない。このままでは死んでしまう子供を使うそうだよ。二人とも生きられて、素晴らしく幸せじゃないか』


 兎がブウと喉を鳴らした。

 人を食べた魔女は、心を保つため最後の細い糸にすがる。


 一度に二人、子供を助けられるのだ。幸せな事じゃないか。


※※※


「二人とも生きられて、幸せでしょう?」


 ヘクスティアが静かに微笑み、言った。


「そんなのっ、幸せなんかじゃないっ。 ロージーはそのおかげで、家族を失ってヨルドモから追われたのっ!」

「でも、新しい家族を手にいれたわ。ロージーはモーリスの事が大好きなのよ。私の事もね。すごく幸せなのよ」


 アネットは何と言うべきか解らず、ヘクスティアを睨み付ける。

 マイヤスが間に割り入り、アネットを優しく諭した。


「モーリスの父親が、ロージーさんの身体が死にかけている事を知り、狙ったんでしょうね。あいつは学校や城に人魚の噂を流し、藁にもすがりたい気持ちを利用して唆したのだと思いますよ。いつもそうやって子供を用意していますから」


 モーリスの父親を恨めと言いたげに話し論点をすげかえるマイヤスに、ブルーノは眉をしかめた。

 どこか見覚えのある顔つき。思い出そうと、頭を必死に回転させる。


「じゃ、じゃあ、その父親に会わせて。私、文句が言いたい」


 アネットが言うと、ヘクスティアは自らを指差した。


「文句なら私に言うといいわよ。彼、なかなか魔力が多くて美味しかったから。まだ彼の記憶は私の中にあるし魔力も存在してる。あなたの不満くらい代わりに聞いてあげるわ。だからって何も変わらないけど」

「へ? 行方不明だとは聞いていましたが、あなたがあいつを食べたんですか? 一体どうやって」


 マイヤスが目を見張る。それを聞き、アネットは叫んだ。


「あなた、人間を食べたのっ? 人魚って人間を食べるの!?」

「正しくは、魔導師を身体に取り込むの。そのまま彼らは暫く生き続けるわ。私の記憶と魔力になって。彼は、モーリスとロージーが海の中まで連れてきたのよ。人魚さん、父上を食べてって言いながらね」

「ロージーがそんな事言うわけないっ! この、化け物っ!」


 アネットが『雷砲』を強く握る。魔力が集まり空間が揺れた。人魚が笑う。髪の毛状の触手が、餌を求めうねった。

 が、大きな手が『雷砲』を止める。ブルーノがアネットの両手を握り、慎重に言った。


「だめだ。それに、人魚が人を食べるのは当然だ。人が魚を食べるのと同じ。そういう摂理だ。

ただ、僕もそこの人魚は気に入らないな。他人の幸せを語るのは後ろめたい証拠だからね。そうでしょ、マイヤスさんと、ヘクターさん」


 ブルーノが挨拶をするように帽子を取る。

 大きなツバの下から現れる、金の瞳。

 驚く二人をヤマネコの魔力が襲う。


 『惑乱』


 マイヤスとヘクスティアはその場に崩れ落ちた。ブルーノはアネットを抱え上げ、崖を飛び降りる。


「きゃっ!」

「しがみついててっ、逃げるよ! 魔獣に『惑乱』は長く効かない!」


 ヤマネコの獣人ブルーノは、砂浜を風のように走り抜けた。


※※※


 ハーリアの港の灯りが滲む。

 市街地に入る前に、ブルーノはアネットを降ろし帽子を被り直した。

 二人は後ろを気にしながら、未だ高く音を鳴らす胸を撫で下ろす。


「あの人魚、ヘクター、って名前なの?」

「多分ね。マイヤスがそう呼んでた。マイヤスは何度か店に来てたから、見覚えがあって。……偶然ならいいんだけど。ヘクターさんと人魚は、喋り方も似ているし」


 狼には名前がない。ヘクターは三年前、狗となった際に自ら名乗った仮名だ。狼が人魚の名を名乗り、同じ喋り方で話すというのなら。


「少なくとも、変態犬と人魚に何か関係がなくちゃおかしいわ」


 アネットがそう断言すると、ブルーノも困惑の表情を浮かべ頷いた。

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