旅
半月の下、兎は星砂の海岸を歩きます。その後ろを学者と、子供を抱いた貴族の男が続きました。
やがて兎は歩くのが面倒になったのでしょう、前足を砂に降ろし愉しげに走り出しました。
高く遠く、タンテテン。雪山のように浜辺に足跡が連なります。
横並びに二つ、前足の穴。
縦並びに二つ、後ろ足の穴。
兎はあっという間に姿を消し、学者と貴族はゆっくり足跡を追いました。
辿り着いた入り江には海水が満ち、波が騒がしく岩に打ち弾けています。兎が岩に昇りキイと呼ぶと、波間から人魚が顔を出しました。
ブウブウ、ゴウゴウ。
鼻を鳴らし、兎は人魚に言いました。
とても素敵な夕げに、この親子が招待してくれるそうだよ。その代わりに、この子供の命を繋いではくれないか?
人魚は驚き、学者に笑いかけます。
「兎が子供を助けるなんて。もちろん、何か裏があるのだろう?」
私にはわからない、と、学者は首を竦めました。
人魚が赤い目を優しげに細め頭を振った途端、髪の毛のような金の触手は、貴族の腕の中から子供を絡めとり、海に引き摺り込みました。
貴族の慟哭、兎の哄笑。
それらは潮騒に溶け、夜に消えてしまいました。
※※※
バー『青兎亭』と同じアパートの三階にある従業員部屋。
リビングに置かれた緑のソファに、ヤマネコのブルーノが座っている。茶色の大きな三角耳は前を向き、縞尻尾は楽しげに揺れていた。
低いテーブルに朝食が並んでいる。
ブルーノはダリアの皿から炙り肉を掴み取り、素早く口へ押し込んだ。テーブルの向かいに座るダリアはブルーノを咎めるように睨んだが、長い兎耳は機嫌良く揺れている。仕返しにとブルーノのサラダから青葉を奪い取る。
肉食のヤマネコと草食の兎は、ヘクターに気付かれないうちに好物を交換した。
ダリアの横に座るヘクターは既に食事を終えており、珈琲をすすりつつ島の地図を睨んでいる。
玄関扉のすぐ脇に置かれた三つの旅行鞄。その上には夏物の麦藁帽子が二つ、重ねられていた。これはダリアとブルーノの、獣耳を隠すための帽子だ。
「ああっ、傘を用意してなかったよ。雨が降ったら困るよね」
ダリアが急に立ち上がり、玄関の傘入れから傘を取り出し鞄に立て掛けた。
「そんなの、雨が降ったら現地で買えばいいんじゃないの? 島っぽいカッコいいのが売ってるんじゃないかな」
再び朝食を食べ始めたダリアに、ブルーノが笑う。ダリアは真面目な顔で答えた。
「私ね、もう無駄使いはしない事に決めたの。倹約してお金を集めないと!」
「ふーん。でもね、旅行に行くのに無駄使いしないなんて、ダリアねーさんには無理だよ。つい欲しい雑貨、沢山買っちゃうって。ヘクターさんが全部払ってくれるかもしれないけど」
「……ダリアちゃんの分は奢りでいいけど、ブルーノの分は払わないわよ。後で端数までキッチリ請求するから。全く、女三人の楽しい旅行に割り込んで来るなんて」
「ヘクターさん、まだそんな事言ってるの? 僕はもうてっきり、オカマは辞めるつもりだと思ってたよ! それに、従業員旅行なんでしょ? 何で店員じゃないアネットちゃんをしっかり呼んで、真面目に働いている僕に日付をずらして伝えるんだよっ! 昨日ダリアねーさんに教えて貰ってなかったら、僕、置き去りになってたじゃないか。
せっかく、皆で新しい水着を買いに行ったのにっ!」
ヘクターは実際、ブルーノを置き去りにするつもりだった。どうせ、夕方店に来て休業の貼り紙を見たなら、自力で追い掛けて来るだろう。その位の嫌がらせは許される筈だ。
「だから、何でその楽しそうなお買い物に、私が呼ばれなかったんだって言ってるのっ! 私も試着とか見たかったわよっ!」
つまり、嘘の出発日を教えたのは、仲間外れにされた仕返しだ。
今日から約一週間『青兎亭』を休みにし、内海の小島トゥオーロへ従業員旅行に出掛ける。
国の狗ヘクターは、トゥオーロ島領主の捜索依頼を正式に受けた。店の従業員旅行という名目にし、トゥオーロ島へ調査に向かうのだが、既にどちらが名目なのかはわからない。
アネットも無事、祖父を説得出来たようだ。島へはヘクター、ダリア、アネット、ブルーノの四人で向かう事になっている。
今日アネットが合流した後、港町ハーリアヘ馬車で向かい、ホテルで一泊し、翌朝船でトゥオーロ島へ渡る予定だ。
最近、ハーリアの港はスイーツ幽霊船の噂でもちきりとなっており、夜間に近海を走る船は無い。長距離船もハーリア近海に入ると、一旦近隣の島に停泊し夜が明けるのを待っている。
スイーツ幽霊船など馬鹿げた噂だと、一笑し海に出た船が次々と難破した為、信心深い船乗りたちは、いくら金を積まれても夜は船を出さなくなっていた。
「……ところで水着、どんなの買ったの?」
地図から目を離さず、ヘクターが呟いた。
「はいはーいっ! 僕のは普通の膝上丈のやつっ! セクシーさは全く無いけど、獣人用にちゃんと尻尾穴が開いていて、そこから……」
「ブルーノに聞いてねえよっ! お前の水着のどこに穴が開いてようが、一切興味が湧かねえっ!」
「えーっ! 尻尾が出るか出ないかはすっごく大事なポイントだと思うよ! ダリアちゃんのも尻尾出るしね」
「うん」
ダリアが頷くと、ヘクターは思わず地図から顔を上げ、目を丸くした。
「……え? ダリアちゃん、獣人用の水着なの?」
「うん。ブルーノくんから教えてもらった獣人のお店、水着も注文出来たから」
ヘクターは形のよい眉根を寄せた。手に力が入り、握る地図の端にシワが走る。
人間用の水着ではなく、尻尾穴が開いた獣人専用という事は、下手をすると露出が酷く低いかもしれない。
つい下唇を噛む。
丸い兎尻尾が邪魔で、エロい水着以外着る事が出来ないだろうと思い込んでいたが、もしや……。いやしかし、パレオ等の邪魔な布を付ける事は不可能だ。つまりこの場合重要なのは……。
「ダリアちゃん、水着の色はっ!?」
ヘクターが叫ぶように訪ねた。
「はいはーいっ! 僕のはね、青い地色に染め抜きの模様が入った……」
「だから、お前には全く聞いてねえっ! 青だろうが透明だろうが関係ねえっ!」
「僕にも聞こうよっ! 可愛いペットの水着姿にもっと興味を持とうよっ!」
「……私のは白、だけど」
ダリアが消え入りそうな小声で言う。
「ダリアちゃーん! 変態犬っ! きーたーよっ!」
玄関扉が開かれ、大きな日除け帽子を被ったアネットが入ってきた。ダリアは嬉しそうに立ち上がり駆け寄る。
「アネットちゃんっ!」
「ダリアちゃんごめんね、少し遅くなっちゃった。荷物が多くて鞄にしまうのが大変だったの。ブルーノさんも、もう来てるんだね。今日はよろしくっ」
「……ね、ダリアちゃんっ! 今、白っていった!? 白っ!? 水着の事? 白い水着なのっ!?」
「……変態犬が今日もきっちり変態だわ」
水着の色にこだわり叫ぶヘクターを、アネットは下げずんだ目で眺め、一歩、斜め後ろに下がった。
アネットの背後から銀髪で細身、灰色の髭をたくわえた壮年男性が姿を覗かせる。男性はヘクターに向き直ると恭しく頭を下げ、言った。
「御事情はヴェルガー様とお嬢様から詳しく聞いております。私、ヴェルガー公爵家の執事長、エドゥアールと申します。貴方様の事は『変態犬様』と呼ぶようにと伺っておりますが、本当にそうお呼びしてよいのでしょうか」
エドゥアールは顔を上げ、困ったような表情を僅かに浮かべる。
『狗』という立場で名前のないヘクターを、どう呼べばいいのか解らないのだろう。
「『変態犬様』という呼び名は大変、よろしくないです。ヘクターでお願いします」
「畏まりました。それではヘクター様と、お呼びいたします」
ヘクターはアネットを睨み、苦々しく訂正した。アネットは口に手を当て、目を弓なりに曲げ笑っている。
エドゥアールは室内を見渡すと、ヤマネコのブルーノに目を止め、静かに眺めた。
ブルーノの耳は警戒心露に後ろを向き、尻尾の毛が逆立ち膨れている。縦長の瞳孔はいつでも『惑乱』が発動できるよう見開かれた。
「……な、何でしょうか? ア、アネットちゃん、公爵家のお嬢様だったの?」
「お祖父様がそうってだけ。私は魔女になるんだから、関係ないの」
アネットはそう言ってブルーノに笑いかける。
しかしブルーノを飼っていた貴族とは格式の違う、由緒正しい大貴族だ。その家に仕える執事長の眼力に、ブルーノは完全に怯え緊張していた。
「ヘクター様。本日はお嬢様をよろしくお願いいたします」
ブルーノからヘクターへ視線を戻し、エドゥアールは言う。ブルーノは小さく安堵の息を漏らした。
「そちらの兎のお嬢様と、山猫様が同行なされるのでしょうか。大変、失礼な事を申しますが、そちらの山猫様、あまり素行が良さそうには見えないのですが。間違いを起こさないという補償がなければ、今回の旅は見送らせていただくのもやむを得ないかと」
アネットが顔をひきつらせ、不満の声をあげようとしたが、様子のおかしいブルーノが慌ててそれを遮り言う。
「あ、ああっと、僕なら大丈夫ですっ。僕、女の子には全然全く一切興味が無い、ヘクターさん一筋の可愛いペットだから」
「……そ、そうですか……なるほど、変態犬様と呼ばざるを得ない」
あまり大きく表情を変えない筈の執事長エドゥアールは、酷く複雑な表情でヘクターを見た。
※※※
ヴェルガーの家紋が入った豪華な四輪馬車に、魔物と掛け合わされ品種を改良された大型の蒼馬が四頭繋がれ、整備された馬車道を力強く駆け抜けている。
大量の荷物は床下の収納に残らず仕舞われた。馬車内は小さなリビングのように整えられ、中央のテーブルを囲み、柔らかなソファが三面に配置されている。
公爵家から御者ごと貸し与えられた馬車は、結界に護られ快適な旅が補償されていた。
背筋をピンと伸ばしたエドゥアールが入り口近くに座っている。その隣にヘクター。ブルーノ、ダリア、アネットの順に並ぶ。
豪華すぎる車内とエドゥアールに萎縮したブルーノは一切喋らず、青白い顔で窓から景色を眺めている。
ダリアとアネットは身体を寄せ、ハーリアの蟹旅行で購入したガイド誌を覗き込んでいた。ガイド誌と、そこに挟んでいた地図を見比べ、怪訝な声を上げる。
「人魚の入り江ってここなんだ。マイヤスさんがつけた印とは全然、場所が違うんだね。
私勝手に、人魚がいる場所ってこの辺りかと思い込んでたけど」
マイヤスから受け取った地図の印は、大屍蟹のいた洞窟とその周囲につけられている。ガイド誌に紹介されている人魚の入り江からはだいぶ離れた海岸線だ。
「マイヤスさん? 誰それ」
アネットが訪ねる。
「私の親戚で学者さんなの。人魚の研究家だよ。前、ハーリアへ行った時、綺麗な浜辺はここだよって印をつけてくれたんだ。うん、人魚に会えるとは言って無かったなあ。すごく夕日は綺麗だったけど偶然蟹の群れに追いかけられて大変だったの」
「学者さん? ダリアちゃんの親戚が学者!? やっぱり兎の学者さんなの?」
「人間だよ。お母さんの従弟なの」
へえ、とアネットは感嘆を漏らした。
「……その人に聞いて人魚に会えば、ロージーの居場所がわかるかも知れないわね。ダリアちゃん、私、ロージーに会いたいわ。ハーリアに着いたらマイヤスさんを紹介してよ」
ロージー、という名前に反応し、エドゥアールが頬を震わせた。
ダリアは哀しげに眉を下げ、アネットの目を覗き、真剣な顔で言う。
「……ロージーちゃんには、もう会わないで」
「なんで!? だって、大事な友達なのに!」
歓楽街でロージーは屍人を操り、ヘクターを殺そうとした。
それを見て正気を無くし、魔力を制御仕切れずにロージーを磨り潰そうとした自分自身をも思い出し、ダリアは震え、青ざめた。
「……うん、会わない方がいい、やっぱり。ロージーちゃんはもう、アネットちゃんのロージーちゃんじゃないよ」
「ダリアちゃん、何処かでロージーと会ったの!?」
アネットがダリアの肩を掴み揺らす。ダリアは頷き、視線を落とした。
「あの、モーリスとかいう人が身体にいるって言ってた、その性?」
「わからない。……アネットちゃん、この話はおしまいにして。お願いだから、ロージーちゃんを捜さないで」
「っそんな!? なんで!!」
アネットは馬車内を見渡す。
ダリアは哀しげに俯き、ヘクターとエドゥアールは重々しく頷いた。
ブルーノの眺める窓の外、深緑の高木が白く美しい花を咲かせているのが見える。
ハーリアはもう近いのだろう。