蟹と兎と狼
ヘクターとダリアが寄り添い、語らいながら砂浜を歩くうち、昼が夜に移り変わる特別な時間帯を迎えた。
夕風が凪ぐ。連なる雲が傾いた太陽を覆い、黄金の筋を幾層にも落とす。群青の頂から薄水色、金、橙の順に染め上げられた天球が、ゆっくりゆっくり、音もたてず彼方へ沈む。
二人は思わず足を止め、声を漏らすことすら出来ず、夢中になって海を眺めた。
太陽が水平線へ墜ちる。刷毛を擦り付けたような赤い陽影は波に掻き消され、まだ青みの残る夕空で白い半月がぽっかりと主張を始めた。
「月だあ」
ダリアが声を弾ませくるりと回り、気持ち良さそうに月灯りを浴びた。
「……ママ、夕焼け、すごく綺麗だったねえ。あ、そうえば青月石、何処かに落ちてないかなあ? 探そうよ」
「そう、ね……?」
ざわ。夕闇に暗さを増した海が、揺れる。
違和感を覚えヘクターは周囲を見渡した。何かが、おかしい。いや違う、おかしいのはこの状況だ。何故、化け物が出る危険な海岸を、わざわざ散歩しているのか。
ヘクターは顔色を変えた。
期待に応えるように、海が震え黒い波が押し寄せる。
「すぐ、逃げなさい!」
そう言うとダリアを陸地の方に向かせ、背中を強く押した。杖に左手を添え、暗い海を睨み腰を低く落とす。
「え? ママ、あれ急に……」
ダリアが鼻をひくつかせる。ヘクターも気付き、嗅覚へ意識を集中させた。
死臭。
腐敗した生き物の、死の香り。
海から濃厚に漂う臭いに、ダリアが顔を引きつらせ、完全に足を凍らせた。
「……っバカ兎!」
一度背中を押したダリアを再び引き寄せ抱え持ち、ヘクターは砂浜を駆け出した。不自由な右足は思うように動かず、体重をかける度にハンマーで打たれたような激痛が走る。
腕の中、ダリアがひっと息を飲んだ。背後から騒々しく迫るおびただしい気配。おそらく噂の、化け蟹だろう。蟹たちはあえてギリギリの距離を取ることで、二人を何処かへ誘導しようとしている。そう感じたヘクターはその場に足を踏み留め振り返った。
蠢く浜辺が月光に照り輝く。
背後に居たのは、海水に濡れた甲羅をぬらぬらと揺らし、砂浜を埋め尽くす青蟹……いや臭いから察するに、屍蟹の群れ。単騎の赤蛇では太刀打ちできない屍鬼だ。
小さなものは沢蟹程度だが、大きなものは甲羅だけで子犬ほどもある。蜘蛛のように細長いまだら模様の八本脚で胴体を高く持ち上げ、身体の割りに巨大な二本の鋏を翳しながら、ブヨブヨに腐った甲羅を揺らし、うすぼんやりと迫ってくる。
屍鬼系統の魔物は自らの意思を持たず、リーダーに従い行動をする習性を持つ。つまり、追い詰められた先には屍蟹のボスが待っているのだろう。
ヘクターは杖を握る右手に力を込め、魔力を流し込み、叫んだ。
「猛々しき白の神姫ホルティアよ、我が剣に宿りその力を分け与えたまえっ!」
左手の指先で印をなぞり、柄に刻まれた起動陣を握り捻ると、杖に隠されたレイピアが刀身を白く輝かせ姿を現した。
人間の魔力はそのままでは何もできない。詠唱により神の力を借り、結印によって形を定め、起動の魔法陣に触れることで、魔力に法則を与えたもの、即ち『魔法』に変換し、発動させる事ができる。魔法武器は持ち手に使用者に合わせた起動陣が刻まれており、詠唱と結印によって起動するよう工夫されていた。
ヘクターのレイピアは魔力を吸い上げ、しなやかに伸び輝いている。レイピアは本来、刺突用の為、致命傷を与える事に優れているが、戦闘能力を奪う事を苦手とし、刀身も脆い。だが薄く鋭利な刃を充分な魔力で包む事で、軽く頑強な斬撃用武器としても扱う事が出来る。
屍蟹の群れは突然の輝きに戸惑い、動きを鈍らせた。が、興奮した一匹が青く長い足を屈伸させ、バネ仕掛けのように跳ね飛ぶ。ヘクターがそれを軽々と刺し捌くと、屍蟹は青黒い体液と腐臭を撒き散らし宙を舞った。
仲間の死に屍蟹たちは狂熱を表した。次から次へ鋏を振り上げて飛び交い、体当たりを繰り返す。右腕の中にはダリアがいる。ヘクターはレイピアで牽制しながらもジリジリと後退した。蟹の粘つく体液で砂が滑る。この脚では杖なしで走り逃げるのは困難だろう。
「ママ、魔法、使えたの?」
「んな事、後にして黙ってしがみついてろ!」
「で、でも……ここ……?」
数に押されるがまま後退し、いつの間にか足元の砂は石に変わっていた。細く流れる海水に靴が浸り、レイピアを振る腕が岩壁に触れた。岩の天井に月光が妨げられ、周囲は一段と暗くなる。
屍蟹たちに押し込まれたのは海水に濡れた洞窟。さらに数歩後ずさり奥へ進むと、屍蟹の群れが突然、ザッと飛び退き距離を開けた。
洞窟の暗がり、その奥から響く石を摺るような異音。やがて異音は振動に変わり、砕けた天井が粉となって舞い落ちる。
深い闇がぬらりと揺れた。
「……でけえ」
ヘクターは呟く。
光の届かない洞窟の奥から、青く長いまだらの脚を曲げ、窮屈そうに身体を屈める大屍蟹が姿を表した。
巨大な甲羅が揺れ動くと体表を覆う半透明の薄膜が泡立ち、青黒い体液が粘性の筋をひきながらボタリと零れ、腐臭が広がる。大屍蟹は丸太のような節足を前方へ伸ばし、胴を持ち上げた。一歩前に出る度、長過ぎる足が岩壁を削り、先程と同じ異音が反響する。
これが屍蟹たちのリーダーなのだろう。小蟹たちは入り口を塞ぐように下がり、動かない。ヘクターはダリアを持ち上げ、高い岩場へ降ろした。
「待ってろ、すぐ終わらせる」
そう言うと大屍蟹の正面で半身になり、右手には盾代りの鞘を掲げ、引いた左腕でレイピアを構え直した。蟹の体液と海水で足元の岩が滑り、体重を乗せた右足が酷く痛む。
大屍蟹が待ちくたびれたとでも言うように腹を震わせ、金属を削るような鳴き声を響かせた。
ヘクターは素早く体を落とし、左腕を捻り突き上げる。鋭い刃が節足の一本を貫き、軽々と宙に奪うと、振り飛ばされた足は回転しながら岩壁に当たり、体液を撒き散らしつつ砕けた。
所詮、蟹。力量の差は圧倒的だ。
足の一本をあっさり奪われ、大屍蟹は怒りに捕らわれた。大鋏を木槌のように振り上げ、勢いよく打ち降ろす。硬質な炸裂音とともに鋏は虚しく岩を殴り、瞬間、細長い前足がもう一本、裂き飛ばされた。
二本の脚を失った大屍蟹は鋏の重さによろけ、大頭を前方へ突き出す。
白刃が舞う。狙い澄ました一撃が快音を鳴らし頭部を炸く。青黒く粘る体液が泡立ち、噴水のようにびちゃびちゃと溢れた。
ヘクターはレイピアを素早く払い、大屍蟹の胴を充分に切り刻むと、跳ね飛んで距離をとった。ゲル状の無惨な味噌屑となった蟹へ、油断なく切っ先を向けレイピアを構え直す。
相手はただの蟹ではない。屍鬼だ。
青黒い粘着質なゲルが泡飛沫を弾けさせて盛り上がり、破片と破片とを体液で接着し始めた。一纏めになった胴体からは零れた味噌が、目玉ごと不恰好に飛び出ている。大屍蟹は二本の脚を出鱈目に繋げ直すと、黒い糸を引き、再びゆっくりと身を起こした。
立ち上る死臭がより濃度を増している。
「……核持ちか。やっぱり従属屍鬼、かよ」
忌々しげにヘクターは呟いた。
知恵のある魔物か、魔導師か、それらに従属の呪いで縛られた屍鬼は、核を壊すか主人を殺すまでは動きを止めることがない。
つまりこの大屍蟹を倒すには、何処かに居る主人を倒すか、またはこの巨体を可能な限り細かく切り刻んで破片の中から極小の核を探しだし、破壊する必要がある。
大屍蟹は再び、甲羅を震わせた。先程よりも幾分か歪な呻き声が響く。
※※※
決闘の賞品のように岩へ据え置かれたダリアは、ただ唖然と戦いの成り行きを見詰めていた。
狭い洞窟一杯に手足を広げる大屍蟹は、刻まれた端から無分別に結合し合い、異形の怪物へと変貌する。形の変化に伴い脚や鋏は生物として不自然な箇所で生え動き、より予想し難い一撃が落とされるようになっていった。
ガンッと鈍い打撃音が響く。ヘクターの身体が宙を舞い、岩壁に強く打ち付けられた。
大屍蟹の鋏が直撃し右腕が大きく裂けたようだ。直ぐに立ち上がり刃を構えるヘクターの腕から、赤い血液が滴っていた。
「……ママッ! っそうだ! 私も……」
流れ落ちる血に、逆に正気を取り戻したダリアは、兎の重力操作を行いかけ、しかし躊躇した。
十年前の記憶が胸を過る。
あの時、カミュは校庭で魔法剣の練習をしていた。その姿にぼうっと見とれているうちに兎の魔力が溢れ暴走し膨れ上がった。カミュの手の中で魔法剣は兎に飲み込まれて弾け、狂った魔力の渦が竜巻のようにカミュを包み、切り刻んだ。
「もし、また暴走したら、今度はママが……」
魔力の刃に切り裂かれるヘクターを想像し、ダリアは身震いした。
魔力操作の訓練を毎日続けてはいるものの、成功させる自信は全く無い。何しろ、豊かな半月が洞窟内を青い光で照らしている。兎の魔力は月と呼びあい、その力を増す。未熟なダリアには月明かりの下での魔力調整など、出来はしない。
再びの打撃音に洞窟が揺れ、ヘクターは弾き飛ばされ壁に手をついた。
小屍蟹たちがキイキイと甲羅を擦り合わせ歓声をあげる。そろそろ迎えるであろう終焉を待ちきれなくなったのか、数匹の蟹が岩壁をよじ登り、ダリアの足の上を伝い歩く。
怖気だつ感触にダリアは悲鳴を上げ、屍蟹のぶよぶよした甲羅を叩きながら必死で払い落とした。が、その様子を見た他の屍蟹たちも一斉にダリアのいる岩壁を登り始める。
柔らかな肉へ登りついた小屍蟹が、早速啄ばもうと鋏を振り上げた。
「ダリアッ!」
ヘクターが叫ぶ。
と、同時に屍蟹たちの摘み喰いに気付いた大屍蟹は、怒りに身体を震わせ、洞窟の壁を脚で思い切り殴った。
直後、耳の詰まる程の轟音。
岩盤が大きく揺れ、石壁が崩れる。砂煙がもうもうと上がり、洞窟の入口は潰れ、月明かりが断絶された。
暗闇の中、ダリアはヘクターの暖かな腕へ収まり、崩れる岩から守られていた。
白く輝くレイピアがランプのように周囲を照らし辺りを探る。と、照らされた洞窟の壁に、気が付かないうちに血で描かれた魔法陣がそっと明滅しているのがみえた。
ヘクターの計画を知り、ダリアは決意し、言った。
「……ママ、私が、蟹を止めるから」
あの魔法陣を起動するための時間を稼がなくてはならない。月光の無い今ならばきっと、出来る。
立ち上がるダリアをヘクターが押し留めた。
風圧とともに鋏が振り降ろされ、ヘクターの鞘が打ち払う。続いて大屍蟹は鎌のような腕で薙ぎ払い、レイピアに刻まれまた胴体に戻る。
ダリアは岩陰に移り、目を閉じ、耳を塞いだ。
鳩尾へ両手を当て、ゆっくりと垂直に伸ばす。探り当てた兎の魔力を体内に廻らせ、胸、腕、そして指先へと順に押し上げた。
全身が満月のように青白く輝く。
ダリアは青い目を開き、溢れ出す兎を一気に放った。
『重力操作』
大屍蟹を突然、膨大な重力が襲う。圧は蟹の細長い脚を強引に折り曲げさせ、地面に捩じ伏せた。大屍蟹がぎゅると体液を跳ばし呻き声をあげる。ダリアは兎の魔力を途切れる事なく注ぐ。
ぐらり、目眩がした。
※※※
「……風の翁キジルよ、我は地を駆ける小狼、その無双の刃を貸し与えん……」
ヘクターは魔法陣に向かい、静かに低く歌うような詠唱をし、指を素早く動かした。魔力を集め黄金に輝く指先が、光の残像を編み幾重にも重ねる。繰り返された結印による複雑な文様は、ヘクターの魔力を研ぎ澄まし法則を与える。
「……風よ、唸れ! 『風刃』!!」
魔法陣に触れ印を流し込むと、陣は魔力を吸い上げ鬨の声のように唸る。一旦、取り込んだ魔力を味わうかのように沈黙し明滅を止めると、怒涛の勢いで吐き出した。
荒れ狂う風が硬い刃に変わり、大屍蟹に降り注ぐ。
耳をつん裂く断末魔が洞窟に響き渡り、異形の胴体は瞬時にドロドロの細切れ肉へと姿を変えた。鼻の曲がるような海産物の腐臭が辺りに蔓延する。
青黒い挽き肉スープになりながらも、大屍蟹は細かい繊維を繋げようと触手を伸ばしわさわさと蠢き続けた。ヘクターはその中心に入り足先で掻き回し、中から赤い石の付いた指輪を拾い上げた。
蟹汁がまとわりつき、指輪を求め追いすがる。ヘクターは汁溜まりから離れた岩に指輪を置くと、硬い靴底で思い切り踏み付けた。指輪は簡単に壊れ、大屍蟹はようやく沈黙する。
「良かった……ママ」
「ちょっ、ダリアちゃん? まだ、早い!! あっちの小蟹にもさっきのやって、動き止めちゃってちょーだい。……ダリアちゃーん?」
緊張の糸が切れたのか、ダリアは気を失い崩れ落ちた。腕に抱きかかえ見渡すと、リーダーを失った屍蟹の群が暗闇の中、戸惑うように蠢いている。
屍蟹が一匹、レイピアへ飛びかかった。ヘクターが軽く薙ぐと屍蟹はあっさり分断され、それ続けとばかりに次々と屍蟹たちがレイピアに吸い込まれた。やはり屍蟹には光に集まる習性があるのだろう、炎に吸い込まれる蛾のように、自ら刃へ身を投じていく。
「……ある意味、楽ではあるんだが」
レイピアに魔力を注ぐのを止めれば輝きは消え、屍蟹も動きを止めるだろうが、そうなれば屍蟹の動きはバラバラになり、ダリアが標的の一つになりかねない。ヘクターはただ苦笑いし、捌き続けた。
暫くし、急に洞窟の外が騒がしくなった。馬の嗎と何人もの男の声。岩壁の向こうで繰り広げられる、剣戟、号令、悲鳴。
やがて闘乱は鎮まり、洞窟を塞ぐ岩の一つが取り除かれた。小さな穴が満月のように開き、屍蟹は一斉に跳ね飛んでレイピアを離れ、穴を潜り外へ出る。男たちの悲鳴が再びあがり、戦闘が騒々しく再開した。
ヘクターはレイピアに注ぐ魔力を弱め屍蟹を外へ誘導すると、壁面に描いた魔法陣に大屍蟹の体液を塗りたくり、丁寧に消した。
家畜を襲う蟹の群れ、そう伝えられ、新人ばかりの討伐隊が編成されたのだろう。洞窟の外から聞こえる悲鳴混じりの戦闘劇はたどたどしく、どこか初々しい。
まだ時間がかかりそうだな。
岩に凭れかかり息をつくと、腕の中のダリアが穏やかな寝息をたて始めた。
「ダリア、お疲れ」
ヘクターはダリアの顎を斜めに上げ覆い被さると、優しく、静かに唇を重ねた。
※※※
ようやく全ての屍蟹を倒し終えたのだろう、大騒ぎは終わり、洞窟を塞ぐ石を一つ一つ撤去する作業が開始された。そのあまりの効率の悪さにヘクターは苛立ち小声で悪態をつく。
「魔法で壊せよ。土木作業員じゃねーだろ、おまえら」
しかし赤蛇の新人たちが、身に刻んでもいない大魔法を使えるとも思えない。ヘクターは舌打ちをすると蟹の青黒い体液を塗りたくり、顔の痣を隠した。続いてコートを脱いでダリアに頭から被せ、左腕に抱きかかえる。起動させたレイピアを右手に持ち替え洞窟の入り口に立ち、注ぐ魔力量を急激に増やした。
魔力の刃が研ぎ澄まされる。思い切り薙ぐと岩は容易く分断された。そのまま手首をかえし、細切って後ずさる。岩壁は轟音とともに崩れ、人が通れる程の大穴を潮風が通り抜けた。
「……」
慎重に、しかしできる限り平然と、動かない右足を悟られないよう自然に。ヘクターはレイピアを手に、洞窟を出る。外ではやはり、撤去作業中の赤蛇たちが呆然と立ち竦んでいた。
想像通り新人ばかりで、まだ若い青年たちに見知った顔はいない。
「何者だっ!」
「……通りすがりの観光客で……これは妻ですが、何か」
レイピアに魔力を込め、静かに構え直す。赤蛇たちは警戒を顕にヘクターを包囲した。
「偶然、洞窟に閉じ込められ、偶然、中にいた大蟹を倒したのですがね。穏便に通してくれませんかね?」
あからさまな殺気をワザと身に纏い、ヘクターはレイピアの切っ先を掲げる。剣の輝きで格の違いを示しつつ、じっくりと前進する。
「大蟹、だと!?」
「……中、覗いてみてください」
ヘクターは顎先で洞窟を示した。
「いけ」
赤蛇のリーダー格に命じられた騎士は洞窟に走り入り、中で小さく叫んだ。声につられ他の騎士たちも数名、洞窟へ走る。
その騎士の中に金髪の若者を見つけ、ヘクターは睨み呟いた。
お前が、カミュだな。
名を呼ばれ、若い騎士は振り返ったがヘクターと視線が絡み合うことはなく、カミュは首を傾げつつ洞窟へ入った。
驚愕の声が続々とあがる。
リーダー格の騎士はつい意識をとられ、ヘクターから目を離した。
途端ヘクターはレイピアを杖の代わりに、右足を庇いながら脱兎の如く走り逃げた。
※※※
男は目を眇め、月を睨んでいた。
広々とした執務室にランプは灯されておらず、開け放たれた窓から入り込む冬の冷気に、氷室のように寒々しい。
羽毛を詰めたマントを羽織り、男は冷え切った指先でサッシをカツカツと叩いた。
待てども待てども、月が応えない。
夕過ぎに気まぐれな蜥蜴から、兎を洞窟へ送ったという報せを受けた。蜥蜴の考えは読めないが、兎が本物か見極めたい、その点だけは一致している。
兎が力を使えば、月は兎に応え青く輝く。地を這う蟹に空を駆ける兎が喰われる事など、まずあり得ない。もし喰われたのならそれは力の無い偽物の兎、というだけの話だ。
輝く気配の無い月に、男は失望の息を白く掠れさせた。
しかし突然、左手の『従属の指輪』が一つサラサラと溶け、粉に変わった。これは大屍蟹を縛った『従』と対になる『主』の指輪、対の片方が破壊されればもう一方も壊れる呪いがかけられている。
「……蟹が、やられた!?」
男は驚愕に顔を歪めた。
確かに兎ならば容易に蟹から逃れられるだろうが、そもそもが温厚で草食な魔物だ、蟹を倒せる筈がない。
兎がミミズに協力し、蟹を地面に縫い付けたならば、運次第では倒せるかもしれないが、月は沈黙し力が使われた様子を見せない。
しかし経験の薄いミミズたちだけで蟹を倒せるとは、到底思えない。
「……おかしい」
男は不機嫌そうに室内を歩き回った。
兎、蟹、ミミズ、蜥蜴。それ以外の余分な駒が、盤上に勝手に上がり込んでいるようだ。
蜥蜴なら何かを知ってはいるだろうが、これ以上接触を持ち情報を与える事は避けたい。狡猾な蜥蜴とは実質、兎を巡り敵対関係にある。
ミミズ以外の騎士が動いたという話は聞いていない。となると何者かが勝手に蟹を葬ったのだろう。
何人かの強者を思い浮かべ、可能性を探る。白や黒の上位魔導師がノコノコと城から出る事はあまり無い。とすると赤か緑の上位か、もしくは無色か……。しかし国務めの者が赤蛇の面子を潰してまで、蟹退治にしゃしゃり出るだろうか? 傭兵や流れ者にそこまでの猛者がいるとは考え辛いが、可能性から外すことはできない。
椅子に座り直し、月を見上げた。
青白い半月は飄々と、薄笑いを浮かべるかのように沈黙している。
と、室内にノックが響いた。
「失礼いたします。赤蛇の報告書を持って参りました」
「……おお、早いな」
顔色が悪く従順な執事が書類束を運ぶ。男は受け取り、卓上のランプに火を灯すと、丁寧に読み始めた。
「……年齢三十代半ば、男性、長身、レイピア使い……」
因縁深い人物を思い出し、男は声を荒げた。
「おい、こいつ、左利きで右足が不自由ではなかったか?」
「いいえ、そのような報告は受けておりませんが」
「……そうか、戻っていいぞ」
蟹を圧倒する事ができ、単騎での戦闘を得意とするレイピア使い。
おそらく、あの狼、だ。
もちろん証拠はなく断定は出来ないが、奴以外を思い浮かべる事が出来ない。
「また邪魔をするか、狼。狗に墜としてやったというのに、それでも躾が足りなかったようだな」
男は月を睨み、怒りに肩を震わせた。