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兎は月を墜とす  作者: hal
夏の恋人
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閑話

 人魚は突然、歌うのを止めた。

 荒らぶる波間に白い塊が浮かんでいる。


 星一つない黒い空。海との境は曖昧に闇へ溶けていた。波と波とが砕け合う轟音に、海の狂う様が伺える。

 転覆しかねない程無盡(むじん)に揺れる甲板の上、楽しげに跳ね歌っていた少女は、急に無言になった人魚を見て不安げに眉を寄せた。

 人魚は少女の視線に気が付き、打ち消すように金糸の頭を振り、青い目を笑みの形に曲げ歌を再開する。


 漂う塊は、海に浮かぶ白い魚だった。


 闇に荒れ狂う海の白に、つい昔を思い出し歌を止めた。それだけだ。



 しかし思い出した昔は、誰の昔なのだろう。


※※※


 それはもはや朧気な記憶。


 波の(たかぶ)りをその力に変え、人魚は(おおゆみ)に放たれた矢のように、海面を鋭く切り裂いた。

 荒れ狂う波は人魚を飲み込もうと両腕を力一杯叩き付けたが、優雅に身体を捻り、するりとかわす。

 海が猛り狂う力はそのまま人魚の魔力となる。蕩けるような魔力に、赤い(・・)瞳を大きく見開き、笑いながら海を走った。


 思うがままに疾走し続け、やがて泳ぐのに飽き始めた頃、陸に近い小さなキノコ型の岩場に登り、身体を休めた。


 人間の女性を模した上半身、乳頭の無いささやかな胸は呼吸に合わせゆっくりと上下し、白く滑らかで弾力のある肌が、ほんのりと熱を持ち赤らんでいる。


 二十歳過ぎの女の美貌を持つ顔は、しかしよく見れば人間とはかけ離れていた。

 赤く白目の無い大きな瞳。刃のように鋭く薄い歯。金の髪の毛状の細い触手は、常に輝きのたうっている。


 イルカのように垂直で鱗のない尾びれを投げ下ろし、砕ける波に浸し海の力を吸い上げた。


 ふと、人魚は目を細める。

 遥か地平線。波に飲み込まれる白い塊。


 再び海に飛び込むと、その塊に近づいた。


 黒い海にゆっくりと沈んでいく、白い、白い肌の人間。


 そういえば以前に食べた魔導師の記憶から、溺れた王子を助ける人魚の物語を読んだことがある。


 へえ、面白い。

 魔力の高まりに機嫌の良い人魚は、片頬に笑みを浮かべ触手で掴み、岩の上へ運び上げた。


 まじまじと白い身体を眺める。それは、人魚よりも頭二つ分ほども小さな子供だった。

 水に溺れ身体は冷え切っており、このまま置いておけば死ぬまでそう時間はかからないだろう。


 美しい王子を期待していたのだが、子供の身体は傷だらけで、かろうじて少年である事がわかるような状態だ。顔の造作まではさっぱりわからない。

 この傷は、魚や岩、波がつける種類のものではない。人間がつけたものだ。


 食べてしまおうか。

 そうも思ったが少年には殆ど魔力がない。魔力の器は十分に大きいのだが奇妙な位置に穴が開いており、器の底にほんの少し残るだけだ。

 魔力を好む人魚にとって、これでは全く美味しくない。

 取り込んだ記憶を楽しもうにも、人間に傷つけられ裸で捨てられた子供だ。面白い記憶は持っていないだろう。


「……つまらない。せっかく拾ったのに」


 興味を失いかけたその時、ただ静かに死んでいくと思われた子供が水を噴出した。

 その姿に目を丸くし、驚く。


「お前は、しがみついてまで生きていたいんだね。どうせ、ろくでもない未来しか待っていないだろうに」


 人魚は今日何度目かの気紛れをおこした。


 赤の人魚は海を力に、死を操る。赤の兎が月を力に、法則を操るように。


 少年の傷口に唇を当て、死を吸い上げる。

 折られ、曲げられた鼻。割れた額。抉られた目蓋。

 丁寧に死を吸うと、美形とは言えないが、それなりに整ってはいそうな顔が浮かび上がり、人魚は嬉しそうに笑う。

 裂けた耳。折れた歯。膨らんだ頬。剥がされた頭皮。

 予想外き愛らしく柔和な顔が、みるみるうちに修復されていく。


 穴の開いた喉。歪んだ鎖骨。

 大きな痣も、小さな傷も、火傷も打撲も、人魚が唇を這わせ強く吸い出せば、優しく癒えていく。


「え、えっと。……お姉さん、一体、何を?」


 上半身を癒し終えた為だろう。血の通いを取り戻した少年は目を覚まし、全身に口を滑らせる人魚を見て、戸惑っている。


「まだ下肢が痛むだろう? 寝ていなさい」


 人魚は顔をあげ、出来る限り柔らかな声色で言い、再び修復作業に戻った。


 逆に折れ曲がる指を。剥がされた爪を。乱暴を受けた下腹部を。腱の抜かれた脚を。

 癒し手の魔法であっても治らないほどであったのが、もとの形を取り戻していく様子に、少年は息をのむ。


 足の指の間まで丁寧に舐め上げた人魚は残酷に微笑み、最後に少年の唇に唇を重ね、死を吸い上げた。


 これで少年はしばらく、死ぬことが出来ないだろう。


「私がここまでしたんだから、生き続けるんだよ」


 真っ赤な顔の少年を笑いながら眺める。


 生き続ければいい。生に執着するのなら、生きて残酷な未来を味わえばいい。その生涯はどんな味の記憶になるだろう。


 人魚は金の髪を揺らし、海に飛び込んだ。


※※※


 青い目の人魚は首を傾げる。


 彼女には死を拭うような力は無いし、海の昂りを魔力に変えることもできない。魔力のある生き物を取り込むか、長い時間休むかしなくては、失った力は補えない。

 それに、思い出した記憶はあまりにも唐突で、自分のものであるようには思えなかった。


 では、これは誰の記憶なのだろう。


 青い目の人魚の記憶はとても曖昧だ。沢山の生き物を融合し続けた為、記憶や感情が混ざりあっている。

 強い魔力を持った人間の記憶は、まるでそれが自分の記憶であるかのように主張してきた。


 例えば、目の前で踊る少女。


 彼女が息子でも恋人でも姉でもない事は、もう解っている。しかし、つい最近食べた少女たちの父親の記憶が、人魚に少女への愛情を感じさせていた。


「……何か、あったの?」


 少女が不安げに訪ねる。


「特に、何も」


 人魚は笑いながら答えた。


 あの男の子はどうなったのだろう。どことなく見覚えのある顔立ちをしていたのだけれど。


 そう呟いたが、混沌とした記憶の中から少年を引き上げる事は出来なかった。


挿絵(By みてみん)

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