五章エピローグ
夏鳥は夜明けと同時にさえずり始める。
雨は夜のうちに止んだらしい。無節操に交わされる鳥の声に、ぼんやり目を覚ました。窓枠の隙間から斜めに射し入る太陽が、天井に白い縞模様を描いている。
左頬を撫でる柔らかな感触。
頭を傾けると、白く長い兎耳が鼻先をくすぐった。ヘクターの左肩を枕がわりに、ダリアがうっすらと口を開け眠っている。
思わず顔が綻んだ。そのまま腕に閉じ込めようと、寝返りをうとうとする。
「……動かねえ」
右肩が縫い付けられたように重い。
嫌な予感がし、ゆっくりと右側に視線をずらす。
茶色の大きな三角耳が頬に触れた。ダリアと同じような体制で、ヘクターの右肩を枕に眠る、ヤマネコの獣人ブルーノがいる。
『邪魔っ!』
腕を勢いよく引き抜く。ブルーノが独楽のように回りながら、ベッドから転がり落ちた。
「……痛っー。あ、おはよう。ヘクターさん。……僕、寝ぼけて落ちたのかな」
『静かにっ! リビングに戻れ、リビングっ!!』
せっかく無防備に寝てくれているダリアを起こしたくはない。声を押し殺し部屋の出口を指差したが、ブルーノは眠たげに目を擦り、ベッドによじ登る。
「ここで大丈夫。ヘクターさん、しゃべり方、素に戻ってるよ。お休みなさい」
『……さっさとリビングに帰ってくれないかしら!? 私が嫌なんだけど。邪魔だし暑いし、くっつかないでっ。だから、なんでここで寝るのよ!?』
ブルーノは当然のように、ヘクターの右肩を手で押し下げ、強引に腕を頭の下にひこうとする。
足を振り上げ、ベッドから蹴り落とそうとしたが、ブルーノはしがみついて堪えた。
「夜中に目が覚めてさ。新しい飼い主の家かなーって探険したら、ヘクターさんの家だし。机の上にペット契約書類があったから、新しい飼い主がヘクターさんだって解って嬉しくて。お礼言いに部屋に入ったら兎のねーさんと一緒に寝てるから、じゃあ僕もって。ペットと一緒に寝る習慣なんだよね?」
『しーーっ! ダリアちゃん寝てるんだから声を落としてっ。わざわざ強引な曲解をしないでちょうだい! ダリアちゃんもだけど、獣人ってみんなそんなに強引で自由なのっ!? 第一、飼い主になるつもりないわよ』
「……えー。じゃあ僕の次の飼い主、誰?」
ブルーノが不満げに唇を尖らせると、ヘクターは眉を寄せ囁く。
『ね、よくわからないんだけど、新しい飼い主って必要? 野良になった方がいいんじゃないの?』
「ペットが自分で契約破棄なんて、出来たらおかしいでしょ。飼い主がちゃんと手続きしないと破棄できないんだ。それに野良でいるよりも楽な飼い主の所にいる方が、僕には都合がいいから」
楽な飼い主、ね。とヘクターは呟いた。
ブルーノの前の面倒な飼い主に比べれば、大抵の人間が『楽な飼い主』になれるだろう。
「だからさ、とりあえずヘクターさんが飼い主になっててよ。僕がいい人見つけたら譲渡してくれたらいいんだからさ。野良やってて、無理矢理ペット契約結ばされると大変なんだもん」
上目使いで身体をぴったりと寄せてくるブルーノから、再び腕を引き抜き払いのけた。
背中を向け、未だ眠るダリアの上に腕を回すと、静かにはっきりと断る。
「……私は便利ないい人じゃないから。他を当たりなさい」
「何でダメ? 僕の知り合い、歓楽街の住人ばっかりだから、信用できないんだよ。また売り飛ばされちゃう。迷惑かけないようにするからさ」
「私を信用するのも筋違いでしょ」
「……だって、本当に助けてくれたし。僕の知ってる中では一番、信用できる相手だと思うんだけど」
ブルーノが上体を起こし、背中へのし掛かるように這い上がり、ヘクターの顔を覗き込む。長い尻尾が大きく波打っていた。
「やめろっ! 汗がぬるぬるして本格的に気持ち悪いっ!」
「……ママ、ブルーノくん、おはよ?」
押し退けようと暴れたためか、ダリアが目を覚した。ヘクターの腕ごしにブルーノを見上げ顔を赤らめる。
「何でブルーノくん、裸なの?」
「……そりゃ暑いから、よねえ?」
裸で寝る習慣のヘクターは特に疑問を感じていなかったが、ブルーノは上半身裸だ。
しなやかな細身の身体で、ごろごろと喉を鳴らし、ダリアとヘクターを一纏めに抱きついている。
「飼い主のヘクターさんが裸だから。気を利かせて、脱がす手間を省いてみたんだけど」
鈍い音が響く。ヘクターに思いきり殴り飛ばされ、ブルーノはベッドから仰向けに落ちた。
「お前、家から出てけっ! 本格的にうぜえっ!」
「ブルーノくん、ブルーノくんっ。飼い主って!? ママ、ブルーノくんの飼い主になるの?」
「なんねえよっ!」
「ヘクターさん、また男言葉に戻ってるよ」
「…………ならないわよ。私には、どうしても飼い主になってあげられない事情があるのっ。猫ちゃんの都合だけで考えないで頂戴」
ヘクターがオカマ口調に戻り言うと、ブルーノもダリアも微妙な表情になり、顔を見合わせた。よくわからない、という顔で二人に見詰められ、冷静に戻る。
別に、とりあえずの飼い主になる事が嫌なわけではない。出来ないだけだ。ヘクターには今、書類に記入できる名前が無い。
魔女ヘクスティアが死に、魔女の騎士から無色の騎士となる際、家名を捨てた。
力を失い狗に墜ちた時、名前を消した。
『ヘクター』は魔女、ヘクスティアの略称だ。自分に掛けた呪いであって、本名ではない。
ヘクターは頭を掻き、伸びをすると大きな獣のようにベッドから降りた。
窓を開けると夏の午前の日差しが室内に射し込んでくる。
足は既に、装具さえあれば戦える位に回復している。
魔法陣を身体に刻めはしないが、陣を持ち歩けばそれなりに対処出来なくもない。
しかもダリアがいる。
歌による詠唱魔法。魔法陣を省略し、強力な魔法を構築できるソレを、幾つも暗唱している魔導書のような存在だ。
ダリアに教わり歌を覚えたなら、狼であった頃以上の力を手にする事が出来るだろう。
随分と長く足踏みを続けていた自覚もある。そろそろ、動き出さなくてはならない。
誓いを果す為に。
「あー。いい機会かもしれないわ。今すぐは無理だけど、でも、どうしても飼い主にしてって言うのなら、もう少し待っててもらえる?」
力と名前を完全に取り戻すまで。
「解った! 出来るだけ早めにね?」
ブルーノが嬉しそうに言った。
「いいなっ! 私もペットになりたいっ!」
「……何言ってるの。ダリアちゃんはペットじゃなくて、もっと別の立場を狙ってちょうだい。羨ましがる場所が間違ってるわ」
ベッドの上、兎耳を揺らすダリアに近付き、二本の耳を纏めて引っ張った。
前にもこんな事をしたな、と思い出す。あの時は確か、ダリアが兎だと知り、守ろうと決めた時だった。
こうやって前に進めるのなら、強引な獣たちに引き摺り回されるのもいいのかも知れない。
そう思い、ヘクターは小さく笑った。
※※※
ヨルドモ城塞西地区にひっそりと佇むバー、『青兎亭』。この店は真夏であっても涼しく、酒の品質が落ちない。
店のママが実は魔導師で、店内に『冷却』の魔法陣を引いているからなのだが、その事は常連客の間での不文律となっていた。
ママ、ヘクターは、指摘された途端に陣を撤去しかねない。
快適な温度に保たれたホールでは、長い縞尻尾を機嫌良く揺らし、ヤマネコの獣人ブルーノが酒を運んでいる。
ブルーノは最近、店の近くに部屋を借り歓楽街から引っ越してきた。
当初、従業員部屋に住みたいとゴネていたのだが、ダリアが毎晩、借金返済の為に調剤をしており、漂う悪臭に諦めた。
カウンターではダリアが、鮮やかな手付きでカクテルを作っている。
コンクールは棄権してしまったが、ダリアがカクテルを覚えた事で、ヘクターは調理場に引き込み、楽が出来るようになった。
忙しい時間帯が過ぎ、料理の注文を捌き終えたヘクターは、調理コートを脱ぎ汗を拭うと、バーテン服へ着替える。
のんびり厨房の椅子に座り、顎に手を置いて思案に耽った。
歓楽街での一件は、翌日のうちに報告書を提出した。
その際屍鬼と縁が在りすぎると怪しまれたが、事実、因縁深くなっている事は否定できない。奇妙な屍人、モーリスを退治していない以上、屍鬼狩とかいう嫌な渾名は、撤回できそうにも無い。
背もたれの無い丸椅子に腰を降ろしたまま天井を仰ぎ見る。後ろ脚に体重をかけ、ぐらぐらと斜めに揺らした。
「あと、マイヤスにも会わなきゃなんねーよな。めんどくせー」
「面倒ですか? ハーリアは遠いですからね」
聞き覚えのある男の声に、思わず体制を崩し、後ろにひっくり返る。仰向けの姿勢で仰ぎ見ると、厨房の入口で穏和な笑顔を浮かべる中年の学者、マイヤスがいた。
「……こんばんは、すごいタイミングで来るわね」
「はい、こんばんは。狼さん。最近は時々、ヨルドモに来ているんですよ。何か私に報告があるのですか?」
ヘクターは頭を掻きながら立ち上がり、ホールから椅子をもう一脚運び入れ、麦酒の瓶とをグラスを二つ用意した。
麦酒を注ぎ、向かい合わせに座る。
「麦酒どうぞ。厨房でお話してもいいかしら」
「はいっ! 店の方じゃ話しにくいって事ですね? カンパーイっ!」
「……乾杯?」
マイヤスが楽しげにグラスを打ち鳴らし、麦酒に口をつけた。妙に嬉しそうな様子にヘクターは首を傾げる。
「麦酒あんまり呑んだことないんですが、美味しいものなんですねえっ!」
「……そ、そう? えっと。あの、ダリアちゃんの首輪の事なんだけど」
「……えー。兎さんの暴走を止めるチョーカーの話ですか?」
「この間、また暴走しかけてね」
ヘクターが歓楽街での出来事を話すと、マイヤスは眉をしかめ、麦酒を呑み干した。
「……本来、兎さんは暴走をする筈がないんです。兎さんの器は、黒の魔女サラサと同じで膨大ですし。あの凄い力は、自分の魔力だけでなくて、月の光や他人の力を器に貯めず、力に変換して使っている性なんですから。不安定な子供時代ならまだしも、大人になってまで暴走するなんて事は、あり得ないんです。ですから、きっとサラサが……」
そう言うと空になったグラスを眺め、黙りこむ。
「サラサ? マイヤスさんもう一杯、呑む?」
「ええ、頂きます」
ヘクターが麦酒をグラスに注ぐと、再び話始めた。
「何にしても、兎さんを連れていかれなくて良かったです。貴重な最後の兎ですから。青月石は、外しやすいよう改良します」
取り付け金具を変更しましょう、と呟き、朱に染まる目元を細めた。サラサの話はもうするつもりが無いようだ。
「マイヤスさん、もう顔が赤いわよ。もしかしてお酒弱いの?」
「赤いですか。あまり呑んだことがないので、弱いかもしれません。……チョーカーの紐を切ると、以前の暴走しやすい状態に戻ります。切らないで下さいね」
そうマイヤスが言うと、ヘクターは神妙な顔で頷いた。
マイヤスは再びグラスを持ち、一息に呑み干す。
「……もしかして、話ってこれだけですか?
もーっと大事な話が、あるんじゃないですか!?」
「へ? ……これだけ、だけど?」
「報告、ないんですか? こんな話だけのために、ハーリアまで行こうとしていた訳じゃないでしょう?」
「特に、他に話は無いわよ」
「……本当に?」
ヘクターが頷くと、マイヤスはグラスを傾け酒を要求する。
新たに注いだ麦酒を半分ほど呑み、据わった目で言った。
「子供、出来てないんですか? 発情期からだいぶ経ったので、そろそろ判る頃じゃないですか」
ヘクターは、グラスを取り落としそうになった。
「っ!? まだ一切作っておりませんがっ!」
「ええっ? 本当にあなた、狼さんなんですかっ!? 発情期の兎に手を出さない魔導師のオスがいるとは……。まあ、でも兎さんが自分で選んだ相手ですからねえ。時間はまだありますし……」
マイヤスは酷く落胆し、項垂れながら呟いている。意味がわからない、と、ヘクターは苦笑いを浮かべた。
「マイヤスさん、あんた、何考えてんの?」
「そりゃあ、もう、人魚と私の幸せな未来ですよ。全てはその為、です」
さらに酒を呑もうとするマイヤスからグラスを取り上げ、ヘクターは言った。
「これ以上、呑み過ぎるのは良くないわ。ホテルに帰れなくなるわよ。もしダリアちゃんと子供が出来てたとしても、遠い親戚のあなたにいちいち言う義理はないじゃない」
「……遠い親戚? 失礼な。産みの親ではないですが、もう一組の親のつもりではいるんですよ?」
真っ赤な頭をゆらゆらと揺らし、マイヤスは楽しげに笑う。
「可哀想な狼さん。一つ、問題を出しましょう」
そう言って指を一本立てる。
「人間のサラサと、魔獣の兎。どうやったら子供が出来るのでしょうか。一番、『神の悪戯』」
もう一本、指を立てる。
「二番、『子供など、実は存在しない』」
三本目の指を立てる。
「三番、『とても強引な手段を使った』……さて、答えはどれでしょう」
マイヤスは口の端を吊り上げ、笑った。
ヘクターの周りに多い、竜の一族の血を思いおこさせる、悪魔のような笑い方。
やはりマイヤスもあの一族なのか、と変に感心し、眠たげなマイヤスを見詰める。
マイヤスは二、三度大きく揺れると、目を閉じ寝息をたて始めた。
※※※
国立劇場
歓楽街
©赤穂雄哉
※※※




