悪夢
「……アヒルさん、やられちゃった」
ロージーは驚愕に顔を歪め、右手の甲を見詰める。アヒル魔導師の核と対の真珠が粉になり、小さな穴が残った。顔をしかめながら擦り、その穴を塞ぐ。
「ひゃっ!? ロ、ロージーちゃん、ねっ、あの人たちどうしたんだろ!? 急に倒れちゃったよっ!」
隣に並ぶダリアが小さな悲鳴をあげ、ロージーの腕を揺する。
視線の先には、凍りついたように微動だにしなくなった三人の従者。アヒルの力で動かしていた屍人たちだ。アヒルが消えれば只の死体に戻る。
「んー、疲れてるんじゃないかな、みんな」
後で元に戻すよ、と早口で付け加え、駆け寄ろうとするダリアを引き留めた。
「それよりさ。狼って、本当に歓楽街にいるんだよね」
「それよりって。……ママならこの扉の向こうだけど?」
「場所、変えよう。ここに居たくない」
「でも雨凄いから、上に出られないよ」
ロージーは、え? と呟き、細く急な階段を見上げる。
四角く切り抜かれた夜空。満月は黒雲に穴を開け、玲瓏と輝いている。
にも関わらず、石礫のような大粒の雨がガラガラと地上を打っていた。勢いよく跳ね返る滴が靄となり立ち上る。
つい先程まで、細く静かな雨だったというのに。
「……嘘だあ」
「夕立かな。夏だし」
ダリアの言葉に応えるように、わざとらしく雷鳴が轟いた。
「ねえ、ロージーちゃん。やっぱり誰か呼んでくるね。みんな全然動かないし、顔色おかしいし」
「大丈夫。よくある事なの、この人たち」
「ええっ? よくある事なの?」
ダリアが不安げに死体を見る。
ロージーはダリアの腕を掴んだまま、満月を睨む。
アヒル魔導師が倒された。
それなりに魔力が高く、自ら屍人を増やす事が出来る有能な従屍鬼だ。そう簡単にやられるとは思えない。
しかし本当に狼がこの扉の向こうに居て、おかしな偶然でアヒルと狼がここで出会い、アヒルがやられたのなら。
『……狼がもうすぐ来ちゃうかもしれない。時間がないや。仕方ないね、ちょっと強引だけど。』
モーリスが囁き、ロージーも答える。
『そうだね。ねーさまには急いで仲間になってもらおう。』
ロージーはダリアを離し、ポケットから新しい大粒の真珠を二つ取り出した。一つを右手の甲に押し込み、もう一つを指で摘まみ上げる。
「やっぱり、ママを呼びに行ってくる」
青い扉に手をかけたダリアをロージーが掴み引き寄せる。
「ダリアねーさま。ほんの少し痛いけど、我慢してね」
扉の前の床。押し倒すようにダリアへのしかかった。帽子が外れそうになり、ダリアは急いで頭を押さえる。
ロージーの力は華奢な外見からは想像できないほどに強い。肘と膝で押さえつけながら馬乗りになり、右手の真珠をダリアの目の前にかざした。
核となる真珠を体内に埋め込めば、思うがままに操れるロージーの従屍鬼にする事が出来る。
「ちょっと、心臓に穴を開けさせてもらうだけだから」
そう言って襟元へと手を伸ばす。
「っ! なに? ロージーちゃん、急にどうしたの?」
シャツの釦を外そうとするロージー。ダリアは左手で帽子を、右手でシャツの襟元を掴みながら、顔を赤く染めた。
※※※
「……わっ……割れました」
上擦り震える声。
バーの広々とした個室。放たれた火はヘクターの魔法で消され、床が水浸しになっている。入口付近には焦げた肉片が集積されていた。
ブルーノの飼い主である魔導師は、砕氷用のピックでどうにか真珠を砕き終えると、恐る恐るといった表情でヘクターを見上げる。
「おう、お疲れ」
ヘクターは返り血で赤黒くなった顔を拭い、言った。
ブルーノのケージに掛けられていた白い布は、タオル代わりに使われ薄汚い桃色に変わっている。
顔を強く擦った為に、傷を隠す塗りものが擦れ落ち、右頬の凄惨な火傷痕が露になった。
魔導師が息を飲む。小さな音が無音の室内にやたらと響いた。それを誤魔化すように数度咳をし、顔から視線を外す。
「おい」
「は、はいっ!」
ヘクターが声をかけると、魔導師は身体を強張らせ返事をした。視線はヘクターに貼り付いているが、目はけして合わせない。
魔導師に一歩近寄る。青白い顔の魔導師は床にしゃがんだまま尻で下がり、距離をとろうとした。
さっきとまるで逆だな、と自嘲し、ヘクターは頭を軽く振る。
わざとらしく口角を上げ、芝居がかった調子でレイピアを翳し、甘い声で言った。
「ねえ。私、あなたからブルーノくんを買い取ろうかと思ってるの。商談、こんな事になっちゃったじゃない。あなたも困るわよねえ? 私に売ってくれないかしら」
ヘクターがケージを振り返ると、魔導師は無言のまま何度も頷く。
「あら物分かりいいわね。契約書類、渡してちょうだい。料金は、……あなたの命で充分?」
レイピアの切っ先を魔導師の胸元に突き付けた。
声にならない悲鳴。
魔導師は壁際まで後退ったが、レイピアは胸から離れない。落ちていた鞄から書類を取り出し、震える指で床に並べた。
ヘクターはそれを拾い上げ、確認する。
「ふーん。……本当に、ペットだったのね。
で、ここに名前を書いて提出したらいいのよね?」
魔導師が顔を縦に上下させた。
ヘクターが書類をボディバッグにしまう間も、見開かれた目で一挙一動を見詰めている。
「……さすがにやり過ぎか」
恐怖に怯える魔導師。ヘクターは聞こえないよう言った。
血で固まる頭を掻こうと手を上げるだけで、魔導師はびくりと身体を震えさせる。
「あなたがおかしな事しなければ、二度と会うつもりはないから安心して。お元気で」
ブルーノをケージから引きずり出し、肩に担ぎ持った。死体の山を足で蹴り寄せ、道を開ける。
魔導師に背を向けた途端、安堵の息が漏れる音が聞こえた。
「そうだ」
ヘクターが笑いながら振り返る。
「あなたの命程度じゃ、安すぎてブルーノくんに失礼よね。ほら、これも足してあげるわ」
血で赤に染まるシャツの胸から青月石を取り出すと、魔導師の足元に投げた。
「どの位価値がある物なのか正直知らないけど。それ受け取って、今日のことは全て忘れてちょうだい。これは只の『悪夢』なんだから。じゃあね」
魔導師は青月石を拾い上げた。柔らかな光を放つ奇妙な宝石を握り締め、呆然とヘクターを見詰める。
……悪夢。
魔導師は呟いた。
「そう、只の悪い夢だよ」
部屋を出たヘクターは、背中を向けたまま小さな声で言った。
血に濡れ、静まり返った廊下。ホールに続く扉は開け放たれたままだ。嫌な予感を感じつつ、バーのホールへ出る。
「……」
ヘクターは目を閉じ、祈りを捧げた。
白に統一されていた店内は、血と肉片で描かれた不規則な赤の斑紋に彩られていた。壁の神々は割られ、透けるカーテンは床に落ち、鮮血に濡れている。
生きた人間は居ない。
十体程の死体が転がっていたが、人間のまま死んだのか、屍人となり死んだのかはわからない。
濃厚な死の臭いに首筋が痺れ目眩がする。
新鮮な屍人を切り刻み過ぎた。戦いに身体が興奮し指先が震えている。
愉悦に頬が持ち上がり、笑い声が喉から漏れた。
今すぐ、何もかも裂き壊したい。
「っあああーーっ!!」
快楽に化けようとする感情を振り払い、吼える。頭を掻きむしり、込み上げる破壊衝動を抑える。
狂った獣に墜ちてはならない。
心臓を掴むように胸に手をあて、死体を踏み越えながら出口扉へ向かう。
早くダリアの待つ穏やかな日常へ帰ろう。今夜は柔らかな尻尾を抱き寄せて眠ろう。
そう呟きながら青い鉄扉を開いた。
「痛いのは最初だけ、ちょっと我慢して。これ、入れるだけだから。すぐにふわーって気持ちよくなるから」
扉を閉める。
「……何だ、今の」
ブルーノを床に置き、こめかみに手を当て、扉の前に立ち尽くした。
聞き覚えのある声。
扉の向こう、土の床に重なりあう、二人の少女を確かに見た。
上に乗った少女は下の少女を押さえつけながら釦を外していた。シャツの胸元をはだけさせられた少女は、顔を赤らめ、困りきった青い瞳をヘクターに向けた。
「……ダリアと、ロージーってか、モーリスかっ!? ダリアに何してんだよっ!」
ヘクターはレイピアを手に再び飛び出し、ダリアにまたがるロージーを軽々と掴み、引き剥がす。
「ママっ!」
ダリアの青い目が嬉しそうに細められた。
飛びつくように抱きつかれ、扉にもたれながら背中を撫でる。
生き物の柔らかな心音を感じ、胸の奥、何かが溶けていった。少し身を屈め、瞼にそっと唇をつける。
「……ママ。ブルーノくん、大丈夫だった?」
ダリアが恥ずかしそうに身をよじり、釦を留めながら言う。ヘクターはダリアを腕に閉じ込めたまま苦笑し、答えた。
「ちゃんといるわよ。寝てるけど」
「良かった! じゃあ帰ろうっ」
「そうね。帰ったらダリアちゃん、お仕置きね。付いてきたらダメだって言ったでしょ。どうやって追いかけてきたの? 変装のつもりかしら、そんな格好までして……危ない目に会わなかった?」
そう言うと、ダリアはロージーを振り返った。
「青月石の兎の魔力を追いかけて来たんだけど……危なかったけど、偶然、ロージーちゃんが助けてくれたの」
「あら、ロージーさんありがと。良かったら今からうちに遊びに来る? 結界は貼りっぱなしだけど」
ヘクターが薄笑いを浮かべる。
ロージーはゆっくり立ち上がると、海賊刀を構えた。
「ふざけないで」
ヘクターはダリアを背後に降ろし、レイピアを構える。
「ロージーちゃん、どうしたの?」
「ダリアねーさまは、狼に騙されてるんだよ。そいつ、ねーさまが思ってるような奴じゃなくて、残忍な、人殺しなんだから」
姿勢を低くし、地面を蹴る。海賊刀を振りかざし、斬りかかる。ヘクターはレイピアで軽々と払いのけた。
稚拙な剣技。
ロージーは笑いながら力任せに海賊刀を振るう。ヘクターが弾き、避ける度に体制が崩れ隙が出来た。
対して、ヘクターの顔色は悪い。
こいつ、俺にダリアの前で自分を斬らせるつもりかっ!
屍人であるロージーは、首が飛んだとしても直ぐ元に戻る。
だが目の前で、友人の首を恋人が切り落としたとしたら、ダリアはどうなるのだろう。
ロージーの海賊刀が半ばから折れた。しかし短くなった事など全く気に留めず、出鱈目に振り回す。
モーリスが『疾風』の歌を終え、動きが早く重くなる。勢いを増した剣の動きに、つい、薙いでしまいそうになる。
子供に剣を教える時のように、背後のダリアを庇いながら受け流し、弾き飛ばす。
「……そうやっていつまでも騙し続けて、誤魔化しながら自分のモノにしておくつもりなんでしょ。無理に決まってるじゃない。インチキはいつか必ずバレるんだよっ!」
再び間合いを詰め、カトラスをぶつける。押し払われ、ロージーはホールの隅で笑った。
「あははっ! いいもの見つけちゃった!」
彫像のように立つ三体の従者の死体。
ロージーが触れると死体は再び屍人となり、ゆっくりと動き出す。
三匹の屍人はそれぞれの海賊刀を抜いた。
「っ! ダリア、後ろの扉に入れっ! ここよりは多少マシだっ」
ヘクターが叫ぶ。が、ダリアは首を横に振る。動けないのだろう。ヘクターの足にしがみつき、震えているようだ。
「……じゃあ、目を閉じて耳を塞いでくれっ! 見せたくないし、見られたくないんだ」
ダリアが頷いた。
海賊刀が宙を斬る。レイピアで払い、返しながら屍人を刻む。
三匹の屍人が六つに分かれた。黒く腐った体液が降り注ぐ。
「ほら。狼って残酷。何の躊躇いもなく人を殺せちゃうんだから。どーせ、借金とかでねーさまを縛ろうとしてたんでしょ。ばっかみたい」
ロージーが高らかに笑い、ヘクターは顔を歪める。
「ダリアねーさまから離れなさいっ狼! ねーさまは私と暮らすのっ!」
ロージーの口からモーリスの歌う詠唱が漏れる。
屍人たちは互いに繋がり合いながら、ヘクターへ纏わりつき、ヘクターはひたすらにそれを叩き飛ばす。
ロージーが指をひらひらと動かし、印を結ぶ。金の魔力が溢れ、身体中に描かれた魔法陣が輝き始めた。
膨大な魔力が集まっていく。渦を作り、加速度をつけ圧力を増す。
「さあ、いくよ。ちょっと大きめの『雷撃』だよ。まさか、避けないよね。避けたらねーさまに当たっちゃうもんね……マーマ?」
ロージーが艶かしく笑う。
降り注ぐ轟音。
青に包まれ、満月が大きく輝いた。