兎と偶然
もう夜だというのに、月はのんびり微睡んでいました。
起きて。
赤の兎に呼ばれパチンと目を覚ますと、分厚く真っ黒な雲で視界が覆われています。月はふーっと息を吹き掛けて、雲に覗き窓を空けました。
穴から覗き見た地上の街では、太陽に似せて作られた金色の光が、ビーズのように連なり輝いています。その中に一人、静かに月の光を放つ兎が、迷路のような路地を走っているのが見えました。
ああ、そっちは行き止まりだよ。
月が兎に手を差し伸べると、兎はその手を掴みぴょんっ、高く跳ねくるりと向きを変えます。
年の三巡り前に産まれたこの赤の兎は、今までの赤とはだいぶ毛色が違っていました。
君は、ずいぶんと面白い子だね。
月は微笑み、変わり者の兎を救う為、『偶然』を探して周囲を見渡しました。
※※※
雲を分けるように満月が姿を現し、青白い光が降り注いだ。
未だ雨は降り続けていたが、ダリアは邪魔な傘を投げ捨て、月の光を浴び宙に浮かぶ。
あっけにとられた顔でダリアを仰ぎ見る泥だらけの男たち。その頭上を易々と飛び越え、土飛沫をあげることなく着地した。
「くそガキっ、魔導師かあ!?」
男たちはダリアを捕まえようと手を拡げる。身を捻るようにそれをかわし、歓楽街を走り抜けた。
身体強化を使う魔導師とも、運動能力の高い獣人とも違い、風に舞う木の葉のようにふわりふわり飛び回るダリアに、面喰らいながらも追跡の手を弛めない。
もう、しつこいなあ……。
ダリアはただ、道に迷っていただけだ。
ヘクターに渡した青月石。
マイヤスが兎の暴走を抑える為に使ったあの石には、兎の魔力がたっぷりと蓄えられている。
どこにいても解る、自分自身の魔力塊。
こっそりヘクターについて行こうと企んだダリアは、軽く変装をすると、ヘクターに渡した青月石の気配を追いながら歓楽街へ入り込んだ。
しかし、ヘクターが『あっちの方』にいる、というのは感じられるのだが、無計画に入り組んだ路地の性で、ちっとも辿り着く事ができない。こっちの方角だ、と進めば、道は途中で大きく曲がり、全く違う方角に向かってしまう。
歓楽街の細かな路地を歩き回り、何度目かの行き止まりで溜め息を吐くと、突然話しかけられた。
「道に迷ってるの? この辺り庭みたいなもんだから、俺らが案内してあげるよ」
傘をさし、道を塞ぐように立つ二人の若者。
道に迷って困ってはいたが、ダリアの感覚でしかわからない場所だ。案内をしてもらいようがない。
「ありがとうございます。でも、自分で探すから、大丈夫です」
そう言って間を通り抜けようとすると、赤髪の男が手を拡げ、道を塞いだ。
「えっと? 通して下さい」
「ダメー。ね、俺らもついていってあげるからさ。……ほら、やっぱりかわいいじゃん」
ダリアの傘を押し退け、顎を掴み顔を上げさせ、もう一人に見せ付けながら言う。顔を隠す大きな帽子が外れそうになり、慌てて押さえた。
ダリアはようやく状況を理解し、首を振って手から逃れる。
「お、ほんとに当たりだ。お前よくわかったな。遊びに行こうぜ。俺らの行きつけのいい場所あるからさ。雨じゃなきゃ、この場で遊んであげてもよかったんだけどな」
背の高い男が嬉しそうに言い、肩を抱くように手を回す。ダリアは身体を捻り避け、反射的に叫んだ。
「やだっ!」
男たちは愉しげに笑う。
「何いまの。大声出したって助けとかそういうの来る場所じゃないから、ここ。お前、歓楽街初めてだろ」
ダリアは二人を睨みながら、姿勢を低くした。傘を握りしめたままジリジリと後退り、男たちと距離を離す。
「はははっ。逃げれると思ってるんだ。痛いことする趣味は無いからさ。屋根のある場所に移動しようぜ。っうわっ!」
そう言って一歩、距離を縮めた背の高い男の、足元が浮き上がる。
続いて赤髪の男も地面に倒れた。
兎の重力操作。
男たちがバランスを崩すのを合図に、ダリアは跳び跳ねるように二人の間を走り抜ける。
「ぺっ、泥、口ん中入ったじゃねーかっ! ……ガキッ、逃げんなっ!」
水溜まりから身体を起こし、二人の男はダリアを追う。
「足、早えーな、こいつ!」
注意して足元を見れば、ダリアが一滴の土飛沫も立てず、傘ごと浮かびあがるように走っていた事に気がついたかも知れない。
しかし、男たちはそれには気が付かずに追いかけた。
くいっと、ダリアが脇道へ曲がる。
それを見て、男たちは顔を見合わせ笑った。
走る速さを緩め、ダリアの進んだ路地へのんびりと入る。
「はーい、行き止まりー」
傘をさす事さえ困難な細い路地。高く積まれた廃棄の看板や樽の木片で道が塞がれ、奥に進むことが出来ない。
「あんまり逃げ回るから、お相手が増えちゃったよ。大変だねー。あんやり人数増えると俺の回数減ってつまらないからさ、そろそろ逃げるの止めてね」
赤髪が言う。いつの間にか男たちは三人に増えていた。
閉じた傘をレイピアのように構えるダリアの姿は、男たちの嘲笑を誘う。
「来ないでっ!」
傘の先を向け言った。しかし、ゆらゆらと笑いながら、男たちは距離を縮めてくる。
突然、空が割れた。
満月の柔らかな光が降り注ぎ、兎を充たす。ダリアは心地のよさに目を細め、思わず笑った。
月がそっと手を伸ばし、ダリアはその青白い光を掴む。
ふわり。
宙に身体が引き上げられ、ダリアは男たちの頭上を越え柔らかく跳ね飛んだ。
傘を投げ捨て、今度は大通りに向け軽々と走る。
満月はダリアを誘導するように、雨粒を青白く照らし道を示した。背後の男たちは人数を増やし罵声をあげている。
しつこいなあ、と呟いて、ちらりと後ろを振り返った。
「おっ、捕まえた」
耳元でそう聞こえ、前を向くとまた新たな男。ぶつかるっ。急いで男の足元を浮かび上がらせる。
抱き留めようとした瞬間転んだ男に、背後の男たちは笑い転げた。
「笑ってんじゃねーっ!」
男の出した大声に怯む。脇を走り抜けようとしていたダリアの動きが止まり、追い付いた赤髪が羽交い締めた。
歓楽街の大通り。とはいっても道幅は極めて狭い。様子を伺う野次馬は多いが、誰一人止めに入ることなく、ニヤニヤと笑いながら眺めている。
泥だらけの男がゆっくりと起き上がり近づく。
「ガキッ、この分は払って貰うからな。ほら、あっち行こうぜ。それともこの場でするか?」
顔を見ようとしているのだろう。ダリアの帽子へ手が伸びる。手から逃れようともがきながら再び、男の足元を掬った。
「――っ!?」
耳をつんざく轟音。音にならない悲鳴。
目の前が白くなり、地面が跳ね、揺れる。
転ぶ前まで男が居た場所、ダリアの目の前の地面が『雷撃』にえぐれ、ぶすぶすと細い煙があがった。
「……危ねっ! 何だ今のは!?」
驚愕に腰を抜かし辺りを見回す男に、まだ幼い少女が舌打ちをする。
「逃しちゃった。ねーさまっ、しゃがんで!」
ダリアがさっと座る。羽交い締めていた赤髪の顔面に『火球』が飛び、赤髪はダリアを離し、唸り声を上げながら地面を転げ回った。
「ダリアねーさま、こっちにっ!」
ダリアが急いで少女に走り寄る。
そこには月の用意した『偶然』。
ネコを受け取りに来ていたロージーと、家鴨のように太った魔導師、それから五人の従者がいた。
※※※
ダリアをナンパしていた男たちは、あっさりと逃げ出した。
『雷撃』や『火球』を放つ魔導師二人が相手では敵わないと判断したのだろう。
事実、それは大正解だった。
何しろ従者も含めた全員が屍人だ。
ダリアは、ロージーの傘に入れてもらい、二人並んで話をしながら歩き始めた。二人の一歩前をアヒル魔導師が先導するように歩き、後ろから従者たちが付き従う。
ロージーはダリアに、以前広場で騎士たちに捕まったが、あれは誤解で、悪いことをしたつもりは全くなく、今はハーリアに住んでいると話した。
「良かった。ロージーちゃんがおかしな事するわけないもんね。今度、アネットちゃんと一緒に遊びに行くね」
ダリアがそう言うと、ロージーは嬉しそうにダリアの腕を組み、恋人のようにもたれかかる。
「ダリアねーさま、大好きっ。今日の服、いつもと雰囲気違うけど、とっても可愛いね」
「あ、男の子に見えないかな? 変装したつもりなんだけど」
「……変装?」
ロージーはつい、首を傾げた。
バーテン服のついでに獣人専門店でオーダーした、兎尻尾を出すことのできる膝丈のカーゴパンツ。その上にゆったりとした丈の長い格子シャツを羽織り、尻尾を隠している。長い髪の毛は一つに束ね、兎耳と共に大きくて丸いキャスケット帽に押し込んだ。足元は雨の日用のヒールの無いブーツ。肩から斜めがけの小さな鞄をかけている。
背が低く細身で柔らかな体型に、小さな手足と華奢な首筋を持つダリアだ。男に見えるはずがない。
一人で歩く女性といえば、世間慣れした商売女や、遣り手の老婆ばかりの歓楽街では、かなり浮いた格好だ。
「……そんな格好で一人で歩くなんて、危ないと思う。純情そうな女の子にしか見えないよ。だめだよ、ねーさま。私が来なかったら大変だったんだから」
綺麗な緑のワンピースを着たロージーにたしなめられ、苦笑しつつ、ありがとうと言うと、ロージーは照れ臭そうに笑い、話を変えるように言った。
「私、今日はね、ネコちゃんを貰いにきたんだ。生意気で可愛いトラネコなんだって。すっごく楽しみなの。ネコちゃん飼うんだっ」
「トラネコ。……そうだ、ブルーノくんっ! 私、ママのところに急いでるんだった!」
ダリアが思い出したように声を上げた。ロージーは『ママ』という呼び名に眉をひそめ、不満げな声を出す。
「……ダリアねーさま、『ママ』ってもしかして、あいつ? 狼?」
「何だか最近みんな、ママの事を『狼』って呼ぶよね。マイヤスさんも、ブルーノくんも」
そんなに狼っぽい顔かなあ、と、ダリアは不思議そうに言った。
「ね、狼、ここにいるの?」
「うん、いるよ。私、今からママのところに行くつもりなの」
「……あいつ、何処にいるの?」
ロージーが声を低くする。モーリスの声が重なった。
「あっち」
ダリアが前方を指差す。ロージーの足が止まった。
『……今は狼には会いたくないな』
モーリスが小声で囁いた。
『また身体を粉々にされたら、新しい魔導師が必要になっちゃう』
『そうだよね。あっちの方角には行かない方がいい。アヒルさんにネコちゃん連れてきて貰おう。狼はアヒルさんの事知らないから、すれ違ってもわからないだろうし。それに、ダリアねーさまを狼に会わせるのも、癪だよね』
ロージーもモーリスに小声で同意する。
「ねっ! ダリアねーさまっ。あっちにすごーく可愛い雑貨屋さんがあるから、今から行こうよっ」
ロージーがダリアの腕をしっかりと掴んで言った。
「え? でも私、ママのところに行かないと」
「大丈夫だよっ。狼ならほっておいても。ね、アヒルさん、先に行ってネコちゃん連れて戻ってきて! 私、ダリアねーさまと遊ぶからっ」
ロージーが強引な口調でそういうと、アヒル魔導師は静かに頷き、二人の従者を連れ、バーへと向かった。
ロージーはダリアの腕を引き、歓楽街の雑貨屋へと早足で歩く。背後に三人の従者……もとは船乗りだった三匹の屍人を引き連れて。