学者
翌朝、ダリアが目を覚まし起き上がった途端、頭が鈍痛にぐらりと揺らいだ。全身が気怠く手足は重く、室内に酒の残り香が立ち込めている。
どうやら呑み過ぎてしまったようだ。ダリアはボンヤリ、昨夜の出来事を思い出そうとした。確かベッドに腰掛け、甘いカクテルを呑んだ筈だ。あまりに美味しくまたすぐ二杯目を頼み……。
「……で、どうしたんだっけ。そりゃ呑んだ……んだよね? 多分」
その辺りから記憶がゴッソリ抜け落ちている。
が、おそらく同室のヘクターに迷惑をかけてしまった事だろう。ダリアはとりあえず、謝っておく事に決めた。
「ママ、昨日はごめんっ、私、呑みすぎちゃった……かな……あ?」
ヘクターはベッドのもう片側でいまだ寝息をたてている。シーツも被らず何故か全裸で、それもわざわざ仰向けで。
二日酔いは一瞬で吹き飛んだ。
昨夜、本当に何かをしてしまったかもしれない。ダリアは慌てて身体をなぞり、衣服の乱れをチェックしたが、パジャマにも下着にもなんら異変は見られない。
何故ヘクターが全裸なのかは解らないままだが、ダリアはひとまず胸を撫で下ろした。だが安堵した途端好奇心が沸き起こり、裸の身体につい目が奪われる。
ダリアの最も身近な異性、父親は二足歩行の巨大な兎であり、しかも三歳の頃には家におらず、ほぼ記憶にない。さらに過去の失恋で恋に臆病になり、ゆるそうな外見に反し恋愛経験は皆無だ。
そのため、男性のこんなにも威風堂々と曝された裸体など見るのは初めてだ。
大柄で筋肉質なヘクターの身体は、腕や脚、胸などが火傷痕で覆われ、まだらに爛れていた。火傷の無い部分には無数の切り傷が刻まれ、特に腹部にはくっきりと、大きな刺し傷が残されている。
ダリアの目は身体中の傷を眺め、しかしやはりどうしても視界に入るソレの上で凍りついた。
……。
「じゃなくて!! もおうううわあああ、ママ、なんで服着てないのお!?」
突如パニックに陥り、ダリアは掴んだ枕を力一杯投げつける。
「痛っ!! っ折れっだろうがっ!」
ヘクターは突然の激痛に飛び起きた。人が変わったかのような怒声に驚かされ、すっかり涙目となったダリアは、二つ目の枕を投げようと構える。
「……って、ダリアちゃん!? ちょ、待っ、投げないで! ……えっと……おはよ。そんなにじろじろみないでよ、えっち。私、裸で寝る習慣なの」
「そんなもの、隠してよおっ!! もー、やだっ!」
ヘクターはどこか不機嫌そうに癖毛を掻き上げ、ベッドに座った。腰を捻りダリアからは見えない位置へソレを隠すと、少し考えた後、意地悪そうに笑った。
「なにー? ダリアちゃん、もしかして見るの初めて? うっそあなた今時、貴重なタイプだったのねー、かわいー」
ダリアは正直に顔を赤らめ、半泣きで叫んだ。
「ママのバカ!! さっさと、服着てよねっ!」
「はいはい、もー朝からうるっさい」
ヘクターは床に転がる酒の空き瓶を蹴り除け、服を身につけると窓を開けた。途端、身を切るような鋭い寒気が入り込み、ダリアは毛布を被る。
窓枠にのしかかるような体制で、ヘクターは摩擦燐寸で巻きハーブに火をつけた。
「あれ? ママ、ハーブなんて吸ってた?」
「んー? 極たまーにね。コレは煙草、精神安定剤みたいなもので、流行りのじゃないわ。私、ハーブにいい思い出ないから、まあ最小限にね」
苦々しく笑うと窓の外へ細長い煙を吐き出した。それでも煙草の強烈な異臭は室内に充満し、ダリアは顔を顰める。
ヘクターはゆっくりと時間をかけ一本吸い終えるとダリアに近付いた。頭に生える兎耳を二本まとめて握り、きゅっと引っ張ってから洗面所に向かう。
「……あああっ! 耳っ! 耳出てた! 耳出ちゃってたよ? ママにばれたーっ! どうしよう、もうヨルドモから引っ越さなきゃーっ!?」
ダリアは再びパニックに陥り、あたふたとスーツケースの荷物をまとめだした。するとヘクターは洗面所から顔を覗かせ、言った。
「ばーか。あんたね、私がこんくらいで態度をコロコロ変えるようなタイプだと思ってんの? 一応私、ダリアちゃんの保護者のつもりなんだから、もうちょっと信用してくれていいのよ? ちゃんと、秘密にしてあげるから」
「……へ?」
大きな目から涙を溢れさせ、鼻水をだらしなく垂らし、ダリアは間抜けな顔で驚いた。
「うっわ。不細工すぎてひくわー。大丈夫よ。守ってあげるって、昨夜決めたから。私はダリアちゃんのママなんだからね? でも約束。私以外にはその耳、絶対に見せちゃだめ。守りきれなくなっても知らないから」
「……ママ、ありがとう!」
涙と鼻水を辺りへ撒き散らし、ダリアはヘクターに駆け寄って抱きつく。
ヘクターは独占欲を微笑みで覆い隠し、洗面所のタオルでダリアのぐちょぐちょな顔を優しく拭った。
※※※
ダリアの親戚の研究所は、海を一望できる白い石灰岩の丘にこじんまりとあった。ハーリアらしい青緑の屋根と白い壁とを持ち、人魚像の並ぶ庭で常緑の高木が潮風になびく、童話のような建物だ。
突然の訪問ではあったが、現れた背の低い中年学者は至極呑気に穏やかに、二人を歓迎した。
「言ってくれれば、泊まる部屋くらい用意したんですが……。はじめまして、私はダリアさんのお母さん、サラサさんの従弟にあたるマイヤスです。ハーリアで人魚に関する研究をしていますよ。こちらへ、どうぞ」
予想外のおっとりとした口調に調子を狂わされ、ヘクターは促されるがまま建物へ入った。
通された研究室は几帳面に整理され、雑貨類のほとんどが人魚か船をかたどっている。白い机の上には、おそらく今のいままで研究をしていたのだろう、精密な船の模型と、木を削りスクリュー状に丸く組んだ小さな球体、細かくて几帳面な字がびっしりと並ぶノート、パーツごとに分解して描かれた機械の緻密なスケッチがひろげられていた。
それらを興味深げに眺めていたダリアが球体を指差し、小さく声をあげる。見れば中心に見覚えのある宝石が取り付けられていた。
「これって……青月石、ですか?」
「よく知ってますね。青月石は溢れた月の魔力の結晶と言われています。……そしてこれ、を……」
マイヤスが船の模型に球体をカチリと嵌め合せると、甲板中央に奇妙なドームが出来上がる。
続いて引出しから白く濁った液体を取り出し、ドームの天井から点々と注ぎ入れると、青月石が輝き船の模型が宙に浮かびあがった。
ヘクターとダリアは思わず感嘆の声を漏らす。
「これが今やっている研究です。目標は実用化なんですが、なかなかそこまで上手くいかなくて。この水は青月石を溶かし、力を引き出すためのものです。青月石自体は月の綺麗な夜、ハーリアの浜辺で拾う事が出来ますよ。さ、お茶の用意をして来ますね」
ヘクターとダリアは研究室の小さな白いソファに並んで座った。
しばらく待つと甘い香りの暖かい紅茶が三つ並べられ、砂糖漬けの干しレモンが皿に置かれた。
マイヤスは向かいの椅子に腰掛ける。肩越しに、いまだふわふわと上下する船の模型が覗いていた。
「本当は人魚の研究だけをしたいんですけど、それだけではなかなか暮らしていけないんです」
そう言ってマイヤスは恥ずかしそうに笑う。金にならない研究と、なる研究。この船はつまり、そういう事なのだろう。
「最近、助手が結婚して辞めてしまいまして、ダリアさんに来ていただけないかと思っていたのですが……どうやらちゃんと、お仕事に就かれているようですね。しかし、いつでもまた遊びに来てください。特に夏場、この辺りはとても美しいですから」
「ありがとう、ございます」
ダリアが答えるとマイヤスは懐かしむように微笑んだ。
「それにしても、ダリアさんはサラサと瓜二つだ。やはりお父さんとはちっとも似ていない。……あ、おかわり淹れてきますね」
外の寒さの性か、二人の紅茶はすでに空になっている。マイヤスは盆にカップを乗せ、席をたった。
その隙にヘクターはダリアに小声で尋ねる。
「……ダリアちゃん、お父さんとマイヤスさんは、知り合い? マイヤスさんは人間に見えるけど、ダリアちゃんのお母さん、人間なの?」
「えっと。私のお母さんは普通の人間で、お父さんが兎なんだけど……十五年くらい前に失踪しちゃったの。でもハーリアには住んでたから、その当時の知り合いなのかな?」
「……兎と人間の……深く考えるのはやめておくわ。……ダリアちゃんはマイヤスさんと初めて会うのよね? でもマイヤスさんと兎のお父さんは面識があるって事ね。んー。まあ、そういう事も普通にあるのかもね……」
何にせよマイヤスはダリアの父親が兎だと知っているのだろう。確かに、ダリアと父親は、外見的にはちっとも似ていないのだから。
「なんとなーく、マイヤスさんって胡散臭いのよねえ……。ダリアちゃんの親戚のわりに、まともすぎるっていうか……」
「ママはまともじゃなすぎるって意味で胡散臭いよね」
だが、決定的に怪しい箇所は無い。ダリアとマイヤスの雰囲気は似ているようにも思えたが、他人の空似だといえばそんなようにも感じられる。
ヘクター自身、手の中に転がり込んできた面白そうな玩具がここに残ると言い出すのを怖れ、色眼鏡をつけマイヤスを観てしまっているのではないか、とも疑ってみたが、どこか引っ掛かる感は拭えない。
考えが堂々を廻るうちに、マイヤスが戻って来た。
「紅茶をきらしてしまって、これ、少し苦味の強い炒り豆のお茶なんですが……」
そう言って濃い黒色のお茶を二人分、新しいカップに注ぐ。
「珈琲ですか」
「少し、違うんですけどね」
「……珈琲ですよね?」
どう見ても珈琲だが、マイヤスは少し首を捻った。
ヘクターは茶に口をつける。……やはり、珈琲だ。良い豆なのだろう、深い香ばしさの中にジャムのような酸味と甘味が感じられる。と同時に憶えのある苦味を微かに感じ取った。
これは過去に飲んだ事がある。
しかしそれがいつの事か、記憶に霞がかかったように思い出せない。
珈琲を飲む二人の姿を見てマイヤスは満足げに目を細めた。
「お茶、美味しいでしょう? 私、ブレンドに挑戦してみたんです。おかわりならいくらでもありますから、どうぞ。それから観光をなさるなら……地図に印をつけておきますね? 景色のいい場所がいくつかあるんです。青月石が拾えるかもしれませんよ」
マイヤスは地図を広げ、海岸に印をつけた。そして、ダリアとヘクターが頷くのを確認し、楽しげに言う。
「あ、でも気を付けてくださいね。最近は大蟹が出るらしいですから。昨夜の討伐隊は結局、蟹と出会えなかったそうです。ふふ、きっと今夜も蟹退治に走り回るんでしょうね。蟹と赤の騎士団、どちらが強いんでしょうか」
いまだにふわふわと、船の模型は規則正しく上下し続けている。
「結構長い間浮いていられるんですね。青月石ってすごいなあ」
ダリアが何処かボンヤリとした声で呟いた。
「ええ、ですが今夜、あなたたちはきっとこの海岸で、青月石を拾うことが出来るでしょう」
マイヤスが地図に付けられた二重丸を指差し、口の端を大きく吊り上げて笑う。ぐらりと脳が痺れ、船が歪んだ。
石を拾いに、行かなくては、ならない。
※※※
地図を確認すると、印の付けられた海岸はマイヤスの研究所からそう離れていなかった。そのため二人は夕方まで海岸を観光し、その後、繁華街のレストランで蟹料理を食べる事に決めた。
冬の海岸に吹き荒ぶ風は凍えるように冷たい。貰った地図を覗き込みつつ、二人は恋人のように身を寄せた。
足を踏み出す度、小さな星型の砂粒がしゃくしゃくと鳴る。ヘクターは足のせいか少し動き辛いようだが、巧みに杖を付き、ダリアと変わらない速さで並び歩いた。
白く輝く冬の海は、幾つもの小島を海面に浮かべ、穏やかで単調な波を寄せ続けている。
「そういえば、蟹、倒せてないんだってね。少し心配かもね。……でも騎士団が来てるならすぐ倒せちゃうんだろうけど」
ダリアが言うと、ヘクターは僅かに無精髭の残る顎へ左手を添え、眉間に深い縦筋を刻んだ。
「ダリアちゃんってまだ成人したばっかりよね? じゃあ、あの赤の騎士団にいた昔の友達も、十八歳かあ。残念ながら、新人がいる騎士団って赤の騎士団でも一番弱い、『赤蛇』だと思うわ。どんな蟹の化け物かわからないけど、ちょっと不安だわね」
よくわからない、と首を傾げたダリアに、ヘクターは国軍の仕組みについて説明を始めた。
ヨルドモの軍は守護系統の魔導師からなる『白の魔導師団』と、攻撃系統を得意とする『黒の魔導師団』、また機動力が高い剣士を中心とした『赤の騎士団』、大型の盾を使いこなす重兵の『緑の騎士団』、その四色に縦割りされている。
さらに個人の能力や性質により上位から『竜』『獅子』『狼』『鷲』『蠍』『蛇』の六階級が与えられ、チームとして分けられる。例えば『赤竜の騎士団』、『黒鷲の魔導師団』などのように。
「……まあ、他にも『無色』ってのがいるんだけどね」
ヘクターがそう付け加えると、ダリアはへえっと呟いた。
「でもカミュ、とっても魔法が上手だったのよ?」
「カミュっていうの、彼。魔法が使えないと騎士にはなれないわよ。剣とか全部魔法剣だし。ヨルドモ王国って魔法主義だからね」
カミュ、魔法剣士なんだ。すごくかっこいいなあ。と、ダリアが頬を上気させた。
ヘクターはわずかに片頬を上げ、小さく呟いた。
蟹に喰われちまえ、赤蛇の小僧ども。