幽霊船
月明かりをうけ、海面は葡萄酒色に輝く。
激しい西風が三角帆の腹にぶつかり、高く持ち上げられた舳先で双尾の人魚が金切り声をあげた。
二十人余りの乗組員を乗せた三本マストの小型商船。黒い歪な岩にも見える影を五隻並べ小規模な船団を組み、白波を鋭く裂き航路を駆け抜ける。
朝に港を出てから、風向きは殆ど変わっていない。黄昏の海を抜け青い弦月を迎え、このままならば航路を誤る事など無く、翌昼にはオレンジの実る小島に着けてしまうであろう。
順調で平穏な近距離交易。乗組員たちは心地好く酒に酔う。
前後左右、船は内海でゆったりと揺れる。
この船団の主である男は、酒に鈍る頭を冷まそうと、覚束無い足取りで甲板を昇った。
彼は魔法の腕こそは平凡なものであったが、溢れる商才と冒険心により船貿易で財をなし、一族内でもっとも成功した商人となった。
所有する船は全て舳先が青く塗られ、この辺りの島の名産でもある双尾の人魚像が飾られている。そしてこの船団の五隻全てが、青の舳先と人魚に護られていた。
甲板に少女の調子外れな歌声が響く。
船には、少女どころか女など、一人も乗っていない筈だ。しかし、やや舌足らずな愛らしい歌声は、風の音に紛れながらもハッキリと聴こえている。
急速に酔いが覚め、肌が粟立った。
海の、亡霊か?
足がすくむ。
と、歌声と共にまだ年若い少年の甘えるような笑い声。
男は、なるほど、と呟き声のする方、舳先へと歩みを進める。
おそらく若い甲板員が恋人をこっそり船に乗せたのだろう。いくら短い船旅とはいえまったく困ったものだ、と苦笑しつつ、帆軸に隠れ覗き見た。
青い。
月の光に照らされ、青白く浮き立つ、少女の滑らかな裸体。
柔らかな弧を画く亜麻色の髪はしっとりと濡れ、西風に煌めきなびく。
「……なっ!?」
つい、小さな声をあげてしまう。
少女は歌を止め、振り向いた。
凹凸がなく、落ちる影の薄い幼い肢体。
あばらの上で膨らみ始めたばかりの双丘。幼児のように丸く、くびれのない腹部。華奢な腰骨。毛のない恥丘から真っ直ぐ地面に降り立つ細長い足。桜色の爪先は、水溜まりに浸っている。
足さえ見なければ、幼い人魚だと思い込んでしまっただろう。
少女の黒く大きな瞳が蠱惑に歪んだ。
ゆっくりと、誰もいないタラップを降り、こちらへと近付いてくる。
少年の声がした筈だが……何処に?
戸惑う男の前、互いに全身をじっくり眺められる位置で立ち止まり、しっとりと微笑んだ。
無邪気な童女か、魅惑の遊女か。
幻想的な誘惑に踏みとどまったのは、少女の全身が水に濡れ、潮の香りが漂っていたからか。
小島の多い内海とはいえ、少女が海を泳いで渡るとは思えない。また、高速で走るキャラベル船に、海から自力で這い上がれるとも思えない。
傷一つ無い、滑らかな肌を持つ幼い少女。愛らしい右頬にエクボを浮かべ、男の手首にそっと触れた。
陶器のように冷たい指先。
男の袖口を捲りながら、安心させるように人懐こく笑う。
高い、舌足らずな甘い声。
「おじさん、魔導師なの?」
「あ、ああ」
「そう。私、魔導師さんが大好きなんだ。だって、とっても強いじゃない?
強い人って、素敵」
少女は男の腕に彫られた魔法陣の刺青を触りながら言った。
余りにも月並みで解りやすい誘惑に、男は安堵の溜め息を漏らす。
少年が隠れているのは、あの樽の向こう側だろうか。チラリとそちらを流し見た。情緒的な撒き餌を用意し、事が済めば少年が出てきて金品をたっぷりふんだくる、そういった手筈なのだろう。
「幾らだ?」
男は少女にではなく、樽の向こうにむかって話し掛けた。
少女は一歩距離を縮め、繭のような指先を操り、男の襟ボタンを一つ一つ外していく。潮の甘い香りを纏う柔らかな髪が男の胸元をくすぐる。
ひんやりとした指先が男の胸板をじかになぞり上げ、この先に待つ快楽を予感させた。
「ふんっ」
樽の向こうからの返答はない。男は荒々しくポケットからコインを掴み、樽の上へ投げ捨てた。
「先払いだ。色はつけてある」
樽にむかって叫ぶ。
このような美少女と甘美な舞台を用意した少年の手腕には、金を払う価値がある。船から降りた後、望むならば劇場演出家の口を紹介してやってもいい。
そう思いつつ、少女の冷たく柔らかな尻を掻き抱き、左手で耳を剥き出しにして噛みついた。
くすぐったさに身をよじり、瑞々しい柑橘類のような矯声をあげる。逃げるような動きを受け、男は唇を顎間接に押しあて、息を荒くした。
「……あはは。違うよ、魔導師のおじさん。
私を買って貰うんじゃなくて、私が買うんだよ。おじさんを、全部。コレで、ね」
少女は男の目の前で右手を解す。
手のひらには二つの大粒の真珠。
男はそれを一瞥し、しかしそのまま事を進める。舌を尖らせ塩味の顎をなめ回し、少女を軽々と持ち上げ斜めに倒した。
自らの腰ひもを抜き取り、下半身の戒めを脱ぎ去ろうともがく。
ずぶ。
肉を押し割る異物感。全身を跳ね回る熱い血流。胸骨が軋む音をたて、骨と骨との間を縫うように、少女の細い指が男の体内を潜る。
「……あ、がっ……な、なにを……」
少女は、喉より心臓の方がロマンチックだよね、と呟き、ぐりぐりと指を捻り丹念に胸内を探る。やがて心臓を探しあて真珠をそこに押し込むと、満足げに微笑んでから、指を一気に引き抜いた。
男の口から空気が漏れ、胸に空いた丸い穴から血液が噴出する。
「血を出しちゃダメ。ちゃんと止めて。核が流れ出ちゃう」
再び、血塗れの指先を胸の穴に刺し入れ蓋をする。
「ね、ロージー、自分にも核を入れなきゃだよ」
「あ、そっか。忘れてた」
少女……ロージーを咎めるような口調で、モーリスの声がロージーの口から出る。
ロージーはもう一つの真珠を左手に持ちかえると、男の胸に刺さる右手の甲に埋めた。
再度指を引き抜くと、男の身体が大きく反り、跳ねた。小刻みな痙攣を続ける男を押し退け、甲板に這い出る。
のたうつように暴れる男を足元に眺め、ロージーは媚びるような声で言った。
「ふふ。魔導師のおじさん、私の従屍鬼にしてあげる。ほら、他にも船に魔導師さんがいるなら連れてきてよ。みんな、仲間にするから。魔導師以外は全員、殺しちゃっていいからね。後で普通の屍人にするから」
男はようやく苦痛から解かれ、コケやカビに汚れた甲板に横たわったまま、ぼんやり見上げる。この少女に支配されている、何もかもが。と、脳がじわり、理解し始めた。
ロージーは、早く行きなよ、と言いながら男の頬を足の指で撫で回し、男は従順な飼い犬としてうっとり目を細める。足先が顔から離れたのを合図に、どうにか身体を起こし、船室への階段を気だるげに降りていった。
「ロージー、どう思う?」
「うーん、ハズレだね。多分アレじゃ、転移の陣を開いておけない。おじさま、いいペットを沢山飼ってたんだなって羨ましくなっちゃう」
転移の陣は送還、召還双方の陣を起動し、扉を繋げなくては使用することができない。ハーリアの宮殿の召還陣は侯爵の優秀な従屍鬼により、常に起動状態を維持されていた。
しかし、今捕まえた魔導師では、陣を維持する事は出来なそうだ。
唇を尖らせるロージーに、モーリスは優しく言う。
「今日の目的は、家を手にいれる事だったんだから問題ないよ。魔導師が居ただけでも運が良かったんだし、これから沢山の船を墜として魔導師を捕らえていけばいい。いつかは、いいペットができるから」
と、甲板の下から悲鳴が響き渡った。
耳を澄ませ、階下の音に意識を集中させる。
いわゆる、断末魔の叫び、というやつだったのだろう。二人は弾けるように笑いあった。
モーリスが楽しげに言う。
「さあ、幽霊船を作ろう。人魚を呼んで、歌いながら夜の海を走ろう。僕たちの新しい家は海の上だよ。……ああ、そうだ。これは、間違っている」
舳先に飾られた双尾の人魚像。
その片尾に手をかけ、力任せにへし折る。人魚は一本尾の正しい姿となり、モーリスが満足げに笑う。
「ね、アネットちゃんも、ダリアねーさまも、この船を気に入ってくれるかな?」
「どうかな。二人とも可愛いものが好きだから。可愛らしく飾り付けて、綺麗に掃除して、お菓子や果物を沢山乗せたら、気に入ってくれるんじゃないかな。準備ができたら二人を迎えにいこう。狼から女の子たちを助け出さなきゃね」
五隻並ぶ商船団。
その主が乗っていたもっとも立派な船が、急に航路を変え、夜の海に消えた。
※※※
バー『青兎亭』が新たな従業員、ヤマネコのブルーノを加えてから、数日が経過した。
今の所、とても順調な営業が続いている。
ホールに立つブルーノは獣人である事を隠さず、三角に尖る大きな猫耳を堂々と出し、メッシュの入った長い髪を一つに束ね、長い尻尾を出す事が出来る細身のボーイ服を身に着けていた。
特徴的なその容姿は男女を問わず好奇心を惹くらしい。度々客に話しかけられ、それを上手くあしらっている。
時折、兎の魔力がブルーノを驚かす気配を感じる。
もしナンパ等をした際には遠慮なく脅すようダリアに伝えてあるので、そういう事なのだろう。
ダリアは主にカウンターでカクテル作りを担当している。
以前とは違い、魅せる事を意識した作り方に切り替え、常連客の感嘆がよく聴こえるようになってきた。
また、後輩が出来た為か、妙に張り切って働いているようにも感じられる。
ヘクター自身は厨房に籠り、汚れてもいいコックコートを羽織り、常連のみになるまでは顔を出さないようにした。
もちろん、その方が仕事上の都合が良いからだ。
ブルーノを雇うことでだいぶ楽になったが、問題点が無い訳ではない。
ブルーノとダリアは獣同士気が合うのか仲が良く、ブルーノは自分の方が年上だというのに、ダリアをねえさん、ねえさんと呼び慕い、時には朝早くから家に押し掛け、遊びに連れて行ってしまう。
ブルーノが女性に興味が無いという点では安心だが、本質的に小悪党だ。教育上、大変よろしくない。
また、アネットがブルーノを『ブルーノさん』と呼び、ヘクターを『変態』と呼び続けている事も気に食わない。
「ダリアちゃん、お昼、何処に行ってたの?」
従業員部屋のリビング、ねじれた長いスプーンをグラスの淵に当てず美しく混ぜる、という練習を繰り返すダリアに、本を読むふりをしながら尋ねる。
今朝もブルーノがアネットと共に押し掛け、ダリアを連れて出掛けてしまっていた。
「今日は三人でね、カクテルコンクールで着るバーテン服を取りに行ってたの。尻尾があるから私、うまく服着れないじゃない? 獣人用に服を作ってくれるお店があってね、ブルーノくんが教えてくれたから」
「へー、それ見てみたいっ! その服、家にあるんでしょ?」
「あるけど、まだ内緒。っていっても、尻尾があっても着れるってだけの普通のバーテン服だけどね」
ダリアが笑いながら答えた。ヘクターも何気なくダリアの肩を寄せ、微笑みながら話の続きを促す。
「その後は本屋さん覗いて帰ったよ」
「本屋さん? ダリアちゃんとブルーノが?」
思わず手元の本から顔をあげ、ダリアを凝視する。
学生のアネットはともかく、活字が苦手なダリアと、軽薄なブルーノが本屋に行くなど、あまり考えられない。
「何の本買ったの?」
「か、買ってないよ!! あんなの、買うわけない!」
ヘクターが訊ねると、ダリアが額まで染まる程に赤面した。
「あああ、なんでもないっ! なんでもないから! ママはぜんっぜん、関係の無い事だから!!」
怪しすぎる。
間違いなく、ヘクターと関係のある、ろくでもない何かを三人で調べていたのだろう。
「……ね、ちょっと、ダリアちゃん?」
「ああああああっ!! そうそう、今日っ! お客さんから聴いたんだけど。ハーリアの海に最近、スイーツ幽霊船が出るんだって!
ハーリアすごいね! もう何でもありだね!
大屍蟹、願いを叶える人魚、呪われた領主宮殿に続いて、今度はスイーツ幽霊船だよっ! 幽霊船なのにとっても可愛いんだって」
「……そりゃ、凄いね」
客に聴いたというその話を、ダリアは怪談話をするように、小声で語り出した。
「夜中、船であの辺を走っているとね、何処からともなく生暖かい風と、潮の匂いを打ち消す程の甘ーい香りが漂ってきて、スイーツ幽霊船が……」
「ダリアちゃん、それ、怖そうに話す意味が分からない」
ヘクターがそういうと、ダリアは口調を普通に戻し、やや投げやりに話を続けた。
「……船が、ガコーンってなって、お化けがわーって乗り込んで来るんだって。でもそのお化け、ドレスを着て金髪のかつらをつけて、可愛くお化粧した船乗りらしいの! お化けは普通の人を全部殺して、魔導師だけを捕まえるらしいんだけど」
「魔導師だけを?」
「うん。うまく逃げ延びた魔導師さんが一人だけいるらしくてね。その魔導師さん、他の魔導師と一緒にスイーツ船に無理やり乗せられたんだって。幽霊船なのに、甲板は真白くて清潔で、マストは可愛らしく屑宝石とリボンでデコられていて、帆は白いレース付き。ピンクの樽の中には甘いお菓子と果物。いい匂いのお花があちこちに飾り付けられていて、お姫様の幽霊が、捕まえた魔導師さんを一人づつ殺していくんだって」
本当に、訳が分からない。
「……凄い話ね」
「ちょっと見てみたいよね」
恐らくは、季節がら作られた頭のおかしい怪談話の一つなのだろうが、『魔導師だけが船に乗せられる』という点が気掛かりだ。
何故、わざわざ船を移動させた魔導師を、一人づつ殺していくのか。
ヘクターが顎に手を添え、考え込んでいるといつの間にか、ダリアはリビングから居なくなっている。
「……逃げたな」
ダリアが本屋で何を調べたのかは、明日にでもブルーノに直接聞いてみよう。そう思い、また、思案の海に沈んでいった。