進展
ダリアの腕を捕らえる。鎖に繋がれたまま戦う闘技奴隷のように。引き寄せ、重心を崩す。
頭上で金属の擦れ合う高音。
空間の唸りを合図に、腕を放し飛びすさる。
床に刺さる無数のフォーク。それは再び宙を舞い、上空に煌めく。
切っ先をヘクターへと向け、静止した。
ダリアがそっと指を捻る。重力の檻がヘクターを囲み、リズミカルにフォークが落ちる。
「刃物は止めなさいっ!」
ヘクターはそれを軽々と避け、叫んだ。
「ママ、すぐ避けるっ! もーっ」
ダリアが楽しげに笑う。フォークがまた浮き上がり、擦音を立てた。
「避けなきゃ、痛いでしょうっ!」
「大丈夫、当てないからっ!」
ダリアが手首を返し、兎の魔力が震える。降り注ぐフォーク。ヘクターは強く床を蹴り、間合いを一気に縮めた。ダリアの腰に腕を回し、強く抱き寄せる。
そのまま優しく斜めに倒し、顔を近付けた。黒い癖毛がダリアの瞼にかかる。
ふと、悪戯を企むように、ダリアが笑う。ヘクターの首に腕を回し、背中から床に倒れ、指先で扇いだ。
「うおっ!!」
背中を軋ませる重圧。ダリアを首にぶら下げ、覆い被さるような体制のまま、肘と膝で身体を支える。もう一度、ダリアが指を揺らす。さらに重くなる重力。 腕が震える。
「……ダ、ダリアちゃん? このままじゃ、潰しちゃうんですが。……んぐっ!」
限界を調べるように、次第に強さを増していく圧力。歯を食い縛り、肘を張る。ヘクターが重力に負けてしまえば華奢なダリアなどあっさりと潰れるだろう。
脂汗が伝い落ちる。
ダリアが耳元で笑い、言った。
「……ママ、スープ冷めちゃうよ? 普通に朝御飯、食べようよ」
「そ、そうね。朝御飯にしようかしら?」
ヘクターがそう答えると、ふっと重力が弛む。ダリアごと上半身を起こし、軽く唇を重ねた。
「なんだか修行時代を思い出すわ……。女の子とご飯食べるだけなのに」
「……うーん。毎朝毎晩、ガッてくるママがすごいと思うよ」
「そういうものよ」
そういうものなのかあ、と呟きダリアがフォークを洗いに行く。
「……なし崩しにできそうなもんなのになあ……」
ヘクターが頭を掻きながら呟いた。
ここはダリアとヘクターが暮らす従業員部屋の共有リビング。
低いテーブルの上に、パンとスープ、茹で玉子の軽い朝食が並ぶ。
ダリアが暴走を防ぐ魔導具を手に入れてからというもの、兎の魔力操作は巧みになり、細かい物を浮かし、方向性を与える事が出来るようになった。
同時に、暴走前と同じような鍛練が再会され、ヘクター自身も兎の魔力をある程度察知し、かわせるようになってきている。
もちろんヘクターは直接ダリアを殴ったりなどしないし、ダリアもヘクターに傷をつけるつもりはない。しかし、より容赦の無い攻撃を行えるダリアの方が、有利な鍛練だった。
「ねえママ、シャツくらい着てよね」
「下着は履いてるし、もう夏なんだからいいじゃない」
相変わらず裸族なヘクターだが、鍛練の際には、一応下着は身に付けている。以前、本当に全裸で襲い掛かった際に、パニックに陥ったダリアの重力操作により半死常態まで追い込まれた為だ。
朝食を食べ珈琲を飲む。
のんびりとした、いつもの朝。
改装工事を終えた『青兎亭』は、今日営業を再開する。料理メニューは夏用に入れ替わり、麦酒の仕入れを増やし、制服も薄手の物に仕立て変えた。
再開初日とはいうものの、昨日までに殆どの準備が終わり、今日はあまりすることが無い。
朝食を終え、ダリアは忙しそうに仕入れへと向かっていった。昼前にはアネットが店に遊びにきて一緒にカクテル作りをするため、早めに用事を終わらせたい、と言いながら。
「……暇だ」
リビングで一人になったヘクターは、ぼんやりと呟く。
まだ真新しい深緑のソファ。整った木目模様のローテーブル。
屍鬼避けの結界が描かれた魔方陣は黒いカーペットの下に隠され、明滅を続けている。
自室に入り、もう紙が擦りきれる程に読んだ報告書の写しを手に取った。再びリビングに戻りソファへ腰かけ、一枚一枚捲る。
ハーリアの侯爵はあの日以来、城に登る事は無かった。その為、国は侯爵の住むハーリアへ騎士を派遣したが、宮殿に生きた人間は居なかったそうだ。
内部に荒らされた様子は一切無く、厨房で支度中であったり、庭の手入れ中であったり、その姿のまま動きを止めた、彫像のような死体が幾つも立ち並んでいた。
それら使用人たちの死体はどれも死後数年、しかしおそらく、屍人としての終わりを迎えてからは数日、が経過していた。
報告書には、ハーリアの侯爵の行方は不明、と書かれている。
ヘクターは書類を封書に戻し、テーブルに投げ置いて天井を見上げた。
王子ミューラーに、口頭で付け加えられた事を思い出す。
街にあんなにも居た屍鬼は、核の無い雑魚以外、一匹も居なくなったそうだ。
核持ちの屍鬼は、それを操る屍鬼主に生死を左右される。
屍鬼主が全屍鬼に死ねと命じたか、それとも屍鬼主自体が死んだか。
「……『花』の農園で転移した時には確実に生きてたんだけどなあ……。だれが、アイツを殺したんだ」
三年前にヘクターを捕らえ、処刑の末、足と魔方陣の刺青を奪い、狼から墜とした男。
出来るならばこの手で、と、未だに考えてしまう。
「それに……」
モーリスは、何処に消えたのだろうか。
アネットの親友ロージーの姿を持ち、歌による詠唱魔法を行う、核を持たないやっかいな屍人、モーリス。
屍鬼主の死により、共に消えてくれたならばいいのだが。何しろ同じように核が無い癖に意思を持つ屍人を知らないだけに断言ができない。
部屋の結界は未だに外せそうにない。
「なんか、モヤッとしてんなあ……」
一見、何もかもが解決したようでいて、全く解決していない。
ヘクターはソファに寝転がり、溜め息を吐いた。
※※※
昼を過ぎ、料理の仕込みを行う時刻になったため、ヘクターはバー『青兎亭』の扉を開けた。真鍮の鐘が澄んだ音を響かせ、新しい樹木の柔らかな薫りが鼻孔をくすぐる。
「あ、変態だ。お邪魔してまーす」
テーブル席を陣取るアネットが、ヘクターを見て右手を挙げた。ダリアも笑いながら手を振っている。
テーブルの上には、赤白の葡萄酒、果実酒やジュース類、薬草酒が並び、葡萄酒ベースのカクテルを作ろうとしている事が見てとれた。
「はい、こんにちわ。そろそろ『変態』って呼ぶのは止めてちょうだいね。それと、お酒は呑まないようにね」
ヘクターが手を降り返し、厨房に入る。アネットが、呑まないわよー、と大きな声を出した。
仕込みを開始し忙しく手を動かしながらも、静かな店内に女の子の高い声が響き、二人の会話は自然と耳に入ってきてしまう。
「今までのコンクールの傾向を調べてきたんだけど……今回、開催が夏じゃない? だから……前の出場者が甘めのカクテルだった場合は……」
アネットが真剣な口調で語り、ダリアが相槌を打つ。
アネットもダリアも、本気だ。
ヘクターは厨房で一人、引き笑いを浮かべた。
バー『青兎亭』は国の仕事の隠れ蓑として、市井に紛れる為に経営している。
狗としての褒賞金がそれなりに入っているため、売上が無くなったとしても困りはしないのだが、ヘクターの懲り性の為か、それなりの繁盛店になってしまっていた。
店が今以上に流行ってしまい、ヘクター自身の顔が広く知れ渡ったり、急な休みを取ることが出来なくなるようでは本末転倒だ。
もし、カクテルコンクールでそれなりの賞を取ってしまったなら、一躍有名店になってしまう。
国の隠密が実は人気店の店長なんです、など、隠れたいのか目立ちたいのか、訳が解らない。呆れられる程度で済めばいいが、処分されないとは言い切れない。
しかし、勝負事に熱く、計画性の高いリーダータイプのアネットと、コツコツと地味な作業を行う事を得意とするダリア。
強力なチームがいつの間にか出来上がってしまっている。
「ダリアちゃん、どうかな、私の完璧な計画っ!」
「うん、いいんじゃないかな? 後は見た目が良くなるように、グラスや果物、混ぜ方なんかもいろいろ試してみるね。アネットちゃん、ありがとう。優勝出来るといいなあ」
二人には悪いが、裏から手を回してでも入賞を阻止しなくては。
厨房から聞き耳を立て、固く決意した。
「優勝したら副賞が『従業員一同、内海の孤島でバカンス』だものね! ダリアちゃんと泳ぐの楽しみだわ」
……。
「そうだね。耳と尻尾があるから泳いだこと無いんだけど、人の居ない島だったら泳げるかなあ。優勝したら一緒に水着、買いに行こうね」
「ダリアちゃんっ! 尻尾もあるの? うわあ、楽しみ!」
兎尻尾に、水着。
おそらく露出の少ない水着では、尻尾が邪魔をして着ることが出来ないだろう。
ワンピースならば、尾てい骨のギリギリまで背中が開いているタイプ、ビキニならば相当浅いタイプ。
身体を包む布が殆ど無いような水着から、真っ白な兎尻尾が飛び出す。もちろんパレオなどを身に付ける事は許されない。
ダリアは泳いだことが無いという。ならば、泳ぎ方を教えてあげなくてはならないだろう。
「……いや、そうじゃない、そういう事じゃない。尻尾と水着の組み合わせは確かに凄い破壊力だが、俺が今破壊されてどうする。水着が見たい為だけに人生を狂わせる、とか、どんな思春期だよ。……しかし、エロい水着に尻尾、触り放題か」
「……変態?」
ヘクターが仕入れの手を止め、顎に手を当てたまま思案を廻らせていると、いつの間にか厨房の入口に、アネットが立っていた。
「……アネットさん、聞いてた?」
「どうせ変態な事を考えてたんでしょ。そういうの聞きたくないから聞いてないわ。私、そろそろ帰る時間だから一応声をかけたんだけど。ほっといた方が良かったみたいね」
「あ、あっそう。もう夕方なのね。ちょっとのんびりし過ぎてたみたい。急いで仕込みを終わらせなくっちゃ。じゃあ、アネットちゃん、気を付けて帰りなさいね」
どうやら驚くほど長い時間、物思いに耽ってしまっていたようだ。アネットの後ろではダリアが不思議そうな顔を浮かべている。
大教会の時計が夕刻を告げる荘厳な鐘の音を響かせた。
重々しく空気が震え、それとほぼ同時に『青兎亭』の玄関扉につけられた真鍮の鐘が高い音を響かせ、一人目の客が店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ」
接客モードのダリアが客を案内する。真っ直ぐにカウンターに座ったその顔を見て、アネットが小さく呟く。
「……ミューにい?」
「もしかして、アネット?」
厨房から顔を覗かせるアネットに、ミューラーも驚きを隠せないでいた。
「アネットちゃん、ミューさんと知り合いなの?」
ダリアがアネットに聞く。仕込みがまだ残ってるんだったわ、と呟き、ヘクターは厨房奥で作業を始めた。
「うん。昔、パパの職場でよく遊んでもらったお兄さんなの」
「あれ? もしかして、最低な初恋の……」
「違う違う、全然別。アレとは違ってまともな人よ、ミューにいは」
アネットがダリアにそう答えると、ミューラーはダリアに麦酒を注文し、アネットに問う。
「アネットは何故ここに」
アネットはダリアの腕を掴み、得意気に答えた。
「お友達のダリアちゃんのところに遊びに来たの。今、二人で新しいカクテル作ってるんだからっ! カクテルコンクールで優勝して一攫千金なのよ」
「……本気か?」
ミューラーがカウンター越しに厨房を眺めヘクターを見ると、ヘクターは顔をしかめながら手を横に振り、困っている、という事を伝える。
「本気に決まってるじゃない!」
「本気だもんねえ」
アネットとダリアが楽しげに笑った。
ダリアが麦酒を注ぎにカウンターへ入ると、アネットはミューラーに並んで座り、声を潜め言う。
「ミューにい、何でここに? 眼鏡までかけて。……護衛とか、居なくて平気なの?」
ミューラーも声を出さず、手で外を指差し、護衛は外にいると伝えた。
「……ふうん」
「ミューラーさんはうちのお店の常連さんなのよ。アネットさんと知り合いなのね」
厨房から顔をだし、ヘクターがわざとらしく言った。
「へー。ミューにい、変態なオカマさんがやってるバーの常連なんだ。再開初日の夕刻丁度に店に入っちゃう位に」
アネットがチラリとダリアを見て、からかうように笑った。ミューラーは慌て、答える。
「いやっ、そういう理由じゃないっ! 今日は他の客が来る前に店長にしたい話があってだなっ!?」
「変態オカマに話がねー。久しぶりに店が開くから、可愛い子とやっと会えるー、とか思って急いで来たんじゃないの?」
ダリアが注いだ麦酒をカウンターへ置き、アネットの横に立った。ミューラーの耳がやや赤く染まる。
「違うっ! 本当に、用事があって来たんだ。私はそう簡単に城下に出れないんだからなっ」
「用事を作って大喜びで来たんでしょ?」
「だから、店長に話があるんだっ!」
ダリアが不機嫌そうに眉をしかめ、静かに言う。
「ミューさんは……ママの事を今でも大好きなんですね」
「……は?」
アネットとミューラーは固まった。
「ママと会いたくて、用事を作ってお店に来ちゃう位に」
真剣な表情。ダリアはミューラーを強く見詰める。
「……ね、ダリアちゃん、何で今の流れで、ミューにいが変態目当てに店に来てると思ったの?」
「確かにあいつに用が会って来てはいるが、凄く心外だ。ダリアさん、もしかして酷い勘違いをしていないか?」
ミューラーは助けを求めるように厨房を覗く。ヘクターは目を反らし、気付いていないふりをした。
「……ミューさんがどんなにママの事を好きでも、私、負けないですから。最近少し、進展しましたしっ!」
「わあっ、進展って、何があったの!?」
急な恋話にアネットが嬉しそうに食い付いた。ダリアは指輪を見せながらアネットに言う。
「えへへ。指輪貰ったよ! あと、母娘関係から、飼い主とペットの関係に昇格しましたっ!!」
「ダリアちゃんっ、その言い方は誤解を招くっ! あとそれ普通、昇格って言わないっ!」
ヘクターが厨房から飛び出てきた。
「……それはなんというか、人として駄目な部類の男だな。ヘクターは」
ミューラーがぼそりと呟く。
「ロリコンで露出魔、痴漢な変態のオカマが女の子をペット扱いとか……。最低のクズね」
アネットはダリアを抱き寄せ、ヘクターを睨む。
「違うっ! そういう意味合いじゃ無いっ! ダリアちゃんの言い方はいつも凄く誤解を呼ぶ事くらい、アネットさんはもう解ってるでしょうっ? それにもう遅いしそろそろ帰りなさいっ。次の機会に言い訳させて頂戴!」
ヘクターが叫んだ。
※※※
「それで、アネットは何を何処まで知っているんだ?」
ミューラーがヘクターに言う。
ダリアはアネットを送りに馬車乗り場へ行っている。
「ああ、ダリアとほぼ同じだ。俺が狗である事も、ロージーが屍人である事も解っていない。ダリアが兎ハーフな事はしっているがな」
疲れた様子でヘクターが答えた。
「そうか。……他の客が来る前に要件を手短に話そう。ハーリアの宮殿に新しい役人を派遣したんだが、次の日には使用人もろとも屍人となっていた。今、宮殿は白の魔導師によって屍鬼結界で封鎖され、騎士たちが定期的に見回っている。屍人の核は指輪ではなく、直接喉に埋め込まれた真珠だったそうだ」
ミューラーはそう言うと、麦酒を一息に飲み干し、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ城に戻る。……それから、ダリアさんの不気味な誤解を解いておいてくれ」
「気を付けて、帰れよ」
『青兎亭』の扉が鐘を鳴らし、ミューラーが帰って行った。
「モーリスがやったのか?」
独り言が自然と漏れる。
そろそろ、普段であれば一人目の客が来る時刻だ。ヘクターはまだ少し残る仕込みの作業を再開した。