指輪
二段ベッドが四つ並ぶ、暗く小さな八人部屋。寝ていた筈の六人の男たちが、一斉に奇妙な唸り声をあげる。
閉ざされた鎧戸の外、雨はいつの間にか嵐に変わっていた。雷が轟き窓枠が揺れる。漏れ入る閃光にのたうつ影が一瞬、形を見せた。
なんだっ、この状況……。この指輪が?
ブルーノは握り締めていた指輪を投げ棄てた。同じベッドに座るヘクターは無表情のまま、魔法陣を書き換えている。
ヘクターが板にペンをはしらせる。水面に波紋が産まれるように、精緻な魔法陣が一瞬のうちに描き上がり、ゆったり輝いた。左手の指先を揺らすと光の印が産まれる。
「……『疾風』!!」
詠唱を行い、印を魔法陣に注ぐ。身体に風が纏わる。
続いて杖を取り、柄を捻りながら新たな詠唱を開始した。印を結い魔力を注ぐと、杖から白く輝くレイピアが引き抜かれる。
「魔法、剣……!?」
ブルーノは思わず呟く。魔法剣など、見るのは初めてだ。
ヘクターは疾風を纏いレイピアを握り、無言のままベッドを降りる。
「置いて行かないでくれよっ!」
ブルーノも急ぎ帽子を被り、ヘクターの後を追い、唸り声に充ちた部屋を逃げ出た。
同じような扉が幾つも並ぶ寄宿舎の回廊。窓は無くヤマネコの闇目であっても薄暗い。
そこに一歩踏み出し、うっ、と鼻を摘まんだ。
大量の『花』が燃える強烈な臭い。反射的に脳がぐらりと揺れる。
「『花』焚きまくってるなあ。どんだけ焚けばこんなに……」
「あっちか?」
ヤマネコが見詰める方向、寄宿舎の奥に向かってヘクターが早足で歩き始める。
「あっ、そっちだけじゃなくて、建物中いろんな所で焚かれてるみたいだけど……。行かない方がいいよっ! きっと危ない」
ヘクターは歩みを止めず通路を進み、闇へと溶けた。
あっさりと置いていかれてしまった……。
開け放たれた扉から唸り声が聴こえる。急いで閉め、もたれかかり崩れ落ちた。悪夢のような出来事に膝が笑っている。
背筋を凍えさせるような、獣じみた咆哮。
周囲全ての扉から響くその音に、心臓が大きく跳ね上がった。よく耳を尖らせると、それは言葉になっていた。
防火の結界を消せ
『花』を焼け
狼を生け捕りにしろ
……何で、狼?
突然、背後の扉が内側から激しく叩かれ、衝撃につんのめった。扉は勢いよく開き、虚ろな目をした男たちが歩き出てくる。
「……狼か?」
「!? 違うっ、うわっ!」
男がブルーノへ指を伸ばす。咄嗟に避けると帽子が落ち、大きな三角の耳が露になった。
「狼だ」
「狼」
「……狼だ」
次々と廊下の扉が開き、虚ろな男の群れが歩み出てきた。狼、と呟きながら。
「っう、うわあああああっ!! 狼じゃないっ! 僕は只のヤマネコだっ! 助けて!!」
ブルーノは飛び上がり全力で走る。男たちは数を増やしながら、ゆっくりと後を追ってくる。
回廊の角を曲がり、やや開けた箇所でヘクターの後ろ姿を見つけ、抱きつかんばかりに駆け寄った。
「追い付いたっ! ヘクターさっ……、」
肉を断つ音。光の帯が横切る。赤が跳び、男の首が宙を舞う。ヘクターはそのまま手首を返し目の前の男の腕を落とすと、踵で指輪を踏み割った。
はだけたままの胸元が鮮血に染まる。
「ん……」
ブルーノは言葉を失った。
ヘクターの前にはぼんやりと構える数人の男たち。鉄鍋の中、パチパチと音を立てる『花』がくべられた焚き火。
男たちはブルーノの三角耳を見、口々に『狼を生け捕りに……』と呟いた。
「ブルーノか。こいつらは屍人だ。指輪を割るのを手伝え」
「……屍人って?」
ヘクターは腕を引き、レイピアを構え直した。咆哮。屍人が飛び掛かる。左手を大きく振ると屍人の腕が宙を飛んだ。
それを掴み取り、ブルーノへ投げる。
「指輪を踏め!」
「え、えええっ!?」
「さっさとやれ」
ブルーノは腕を地面に落とし、指輪を力一杯踏む。ぐしゃり。指輪と共に細い骨が割れるような感触がした。
「ほら次だ」
「うえっ!」
また一つ、もう一つと腕や手が投げ渡され、その指輪を踏み潰す。
充満する『花』の臭い。気が昂ぶり、目が廻り、笑いが混み上がる。きっとこれは酷い夢だ、いつの間にか寝てしまっているんだ。そう思いながらも足を振り上げ、踏みにじる。
最後の一本を砕く。
その感触がやたらと身に響き、意識を引き上げられた。
「……うしろからも、きてるよ」
「そうか」
背後から唸り声が迫る。
男たちはブルーノに追い付くと、『狼』と呟き、ブルーノへと手を伸ばす。ブルーノはヘクターの影に逃げ込んだ。
「なるほど。 お前、少し時間を稼げ」
「どうやって? ……っうひゃあ!?」
ブルーノを抱えあげ、男たちの群れに投げ入れた。
「うっわああああっっ!?」
「狼は生け捕りにするそうだ。なら死にはしない」
男たちがブルーノを掴む。ヤマネコの魔力は目が合った相手を昏倒させる事が出来るが、何しろ数が多い。
身体を床に倒され地面に押し付けられる。力が込められた無数の手が無遠慮に身体を床に縛り、圧力に潰されそうになる。
逃れようと必死でもがき、身を捻る。捻ったままのおかしな体勢のまま押さえられ、肋骨が軋む音がした。
し、死ぬっ……!
ブルーノが呟いたその瞬間、耳が裂ける程の轟音に世界が揺れ、突如男たちは凍ったように動きを止めた。
男たちを強引に押し退け這い出ると、大粒の雨滴が砂利のように降り注ぐ。『花』は鎮火し、臭いは風に吹き飛んだ。
ブルーノは天井を見上げる。
黒く分厚い雲から落ちる滝のような雨。壁を軋ませる嵐。
「……屋根は?」
「嵐の力を借りて飛ばした」
魔法陣の板を抱え、ヘクターが事も無げに答えた。
※※※
耳をつんざく雷鳴に建物が揺れる。続いて地を揺るがす轟音。
「……な、何だ!?」
殴られたような衝撃に、男は意識を取り戻した。
「私は何を……!?」
管理所内の奥まった一室。転移の魔法陣が静かに輝き、数人の屍人たちが男からの命令を待つ。
『混乱』が解けたばかりのまとまらない頭で、ふらふらと魔法陣へと歩み寄った。
「そ、そうだ。これは、間違いなく狼だな。罠に気がついたか。… …狼が来る。急いで宮殿へ戻らなくては」
男はブツブツ呟き、詠唱を始める。が、混乱が残る頭では、精密な上級魔法『転移』を発動させる事が出来ない。
魔法陣の中央、光に包まれながら何度も何度も魔法を失敗させた。焦りが募り、次第に顔色が白く変わる。
「お前たちっ! 狼を足止めしてこいっ!」
男がそう叫んだ瞬間、壁が大きく切り裂かれ、左手にレイピアを握る狼……ヘクターが部屋に入ってきた。
と同時に 転移の魔法陣が強く光輝く。
「……ああ、久し振りだな。ようやく、思い出した」
ヘクターが静かに言う。
「お久し振り。女の子の前だというのに、随分とはしたない格好だね、『人魚の恋人』さん」
応えたのは転移陣の上に現れた少女、ロージー。男を背後に庇いながらモーリスの声でそっと囁く。
「チカチカと転移陣の様子がおかしかったので来てみたのですが……。あいつは僕に任せて、父上はお戻り下さい」
「あ、ありがとう。……あいつが狼だ」
男はそう言ってヘクターを睨んだ。
ヘクターは男にされた処刑の痕を見せ付けるかのように服をはだけさせ、雨にぐっしょり濡れたまま、感情無く立っている。
「狼……? そうだったんですか。『人魚の恋人』が『狼』だったのですねっ!?」
モーリスはヘクターに向き直り、吼えるように叫ぶ。
「すごいね、君は僕の欲しいもの全部持ってるんだ。っむかつく!」
その間も、同じ口からロージーの声で、歌の詠唱が重なり出ている。
ヘクターが強く地面を蹴る。一閃。レイピアが唸りをあげ、煌めく。
ロージーの小さな頭が血飛沫をあげ、弧を画いた。頭はそれでも歌い続ける。
部屋の隅、ブルーノが悲鳴をあげた。
ヘクターはそのままレイピアを引き、男を串刺そうと突き出す。
頭の無い少女がそれを胴で受け止め、捻る。ヘクターはレイピアに注ぐ魔力を増やし少女の身体を裂いた。
二人が血に染まる。
いつの間にかロージーの頭部が繋がり、舌打ちをした。
「可愛い女の子にも容赦ないね。……『迅雷』っ!」
歌声が止み、室内を走る無数の雷。
しかし身構えていたヘクターは平然とそれをかわす。
雷が一つブルーノの目の前に落ち、その場にへたりこんだ。ヘクターは一瞥もせず、再び男へと刃を向ける。
ロージーはそれをまた腹で受け、切り口を魔力で補い固くし、刃を埋めるように裂けた端から修復する。
ぐいっと、ヘクターが刃を押し込む。
ロージーの後ろ、庇われるように立つ男に刃が届く。
ロージーは舌打ちをし、刃を抜きながら勢いよく後ろに跳ね、男を突き飛ばす。そのまま男を拾いあげ叫んだ。
「父上っ! 屍人を呼んでください! とにかく沢山っ!!」
「そうかっ!」
男が指を振った。ロージーも詠唱を始め、ヘクターから距離をとる。
ヘクターの開けた大穴から、廊下に続く通路から、沢山の屍人が雪崩れ込んできた。その中にはチラホラ、馬車で見知った顔もある。
「……まだ生きている奴が多いな」
ヘクターが呟いた。
レイピアを杖に納め、まとわりつく屍人たちを杖で払う。
恐怖に暴れるブルーノを肩に担ぎ上げ、周囲の屍人を横倒しにし、手を踏みつけ指輪を割った。
「……正印により強力を用いて天幕の房をここに引かん……郷に続く扉よ、ここに開かれん……『転移』!」
ロージーの声。
ヘクターは屍人を押し退け跳ね飛ぶ。
眩く光輝き、魔法陣の上に浮くロージーと男。ヘクターはレイピアを再び杖から抜いた。
「ばいばいまたね」
ロージーはそう言って手を振る。
ヘクターの放った一撃は宙をかき、ロージーたちは魔法陣に吸い込まれた。
強い圧力に空間が歪み、ゆっくりと収束する。後には役割を終え、輝く事を止めた魔法陣が残った。
一斉に屍人たちは動きを止め、倒れる。
ヘクターは魔法陣に手を翳し、暫く陣を読んでから言った。
「……まあいい。ブルーノ、こいつらの指輪を壊しておけ、全部」
そう言って部屋の出口へと歩く。
「どこ行くの?」
「用事を思い出した。帰る」
「置いてかないでよっ!
やだよ、こんなところに一人なんてっ」
ヘクターはふむ、と頷いた。
※※※
「……今日は遅いな」
王城手当室、奥の間。
王子ミューラーは独り言のように呟いた。白竜の魔導師長ザルバも、憮然とした顔でそれに同意する。
城下では嵐が小雨に変わり、未だ降り続いているという。しかしこの城を守る結界は雨を通さない。
濡れることの無い中庭には、相変わらず多くの見学者が訪れていた。その為、大窓のカーテンは固く閉ざされている。
いつもであればとっくに馬車が到着し、ヘクターが足の治療を受けている時刻だが、今日は姿が見えない。
「戻るか……」
ザルバが荷物を纏め始めた直後、急に中庭が騒々しくなった。ガラリ窓が開きカーテンを掻き分け、ヘクターが室内へ入って来る。
「……」
「……」
「遅くなったな」
ザルバは急いでカーテンを閉め直した。ミューラーは呆然とし、ヘクターを指差しながらパクパクと口を動かす。
ヘクターはそのままベッドに座った。
「……な、何だ!? その格好は!」
ミューラーが叫ぶ。
ヘクターは池に落ちたかのようにぐしゃぐしゃに濡れ、薄いシャツはぴったりと肌に張り付いている。
そのシャツの前ボタンは留められておらず、鍛え上げられた身体と処刑の痕が露になっていた。
魔導師ばかりのこの城では、身体中に刻まれた魔法陣を隠すため、男女を問わず常に長袖の服を纏い、肌を露出させる者はそういない。
ほぼ半裸のヘクターは、ここでは露出狂にしか見えない。
「……馬車は使わなかったのか?」
ザルバが問う。
「ああ。出先から馬で来た。厩舎に預けてある」
「厩舎からここまでは、どうやって?」
「普通に歩いてきた」
中庭は未だ騒然としている。
肉体美を堂々と晒し、噂の王子がいる部屋に乗り込む、ずぶ濡れで傷だらけの美形は、恐ろしくインパクトがあった事だろう。
「お前っ! これ以上噂をややこしくするつもりかっ!?」
ミューラーが顔を赤くし叫ぶ。と、ザルバがポンと手を打って言った。
「なるほど、『面白くなくなる』指輪のせいか」
ザルバはヘクターの指から赤い石の指輪を引き抜いた。
「……あああああー!!? なんなんだこの指輪っ!? 俺、せっかくの復讐チャンス逃したじゃねえかっ! あそこまで追い詰めたのにっ! あー、せめて一発、殴っときゃよかった……。しかもブルーノに俺の正体バレバレっ! なんで無駄に堂々としてたんだ!?」
突如我に返ったヘクターが叫ぶ。
『花』の農場で面談をする際、赤い石の指輪を着けなくてはならなかった為、対ブルーノ用に隠し持っていた『面白くなくなる』指輪にすり替えた。
それ以降、感情の起伏が薄くなり、ヘクターにとっての宿敵を前にし、処刑の日の記憶が戻り、復讐の機会を得たというのに、特に怒りなど湧かず、淡々と任務をこなしてしまっていた。
慌てるヘクターを見て、ザルバは目を細め、楽しげに言う。
「……『面白くなくなる』指輪、案外面白いな。ヤマネコの惑乱に対抗するようにな、精神異常耐性、感状抑制の効果をつけてみた。
煙草みたいなものだろう?」
「煙草はそういうんじゃねえっ! ザルバ、もう変な魔道具作るなっ! ……もしかして『面白くなくなる』というのは、面白いと感じられなくなる、という意味か?」
「違う」
ザルバはヘクターの足の裾をまくり上げ、検査を始めた。
「感情の無い狗など、見ていて面白くない。
つまり、『俺が面白くなくなる』指輪だ。……足、かなりの無茶をしただろう。杖を使わず走り回ったな」
「それも指輪の性だろ! 痛みとか殆ど無かったぞ!?」
ザルバは印を結び、足を治療する。急に軽くなった足の感触に、相当負担がかかっていた事を思い知らされた。
「……で、結局、屍人に関して何か解ったのか?」
ミューラーが言う。ヘクターは苦い顔をし、答えた。
「まあな。後で報告書を纏める。屍鬼主は恐らくハーリアの侯爵だ。以前、俺の身体を壊したのも同じ奴だ。奴が消えた転移陣がハーリアの宮殿に繋がっていたからな」
「そうか。ではここから先は国の仕事だ。復讐は諦めておけ」
ヘクターは悔しげに顔を歪めた。
※※※
ハーリア宮殿の子供部屋。
海を臨む窓際に、可愛らしい猫足の椅子が置かれている。
その椅子に座るロージーは、雨の海を眺めながら溜め息をついた。
「守りながら戦うって難しいのね。おじさまが居なかったら私、もっと強力な魔法で焼き殺せたのに」
「父上は優秀な魔導師だけど、人間だからね。騎士じゃないから剣も使えないし」
ロージーの中のモーリスが答える。
「おじさまに屍人になってもらったらどうかな。今よりは強くなるから守りやすいよ」
「そうだね。大切なものが沢山あると守りきれないからね。
父上、人魚、ダリアさん、アネットちゃん……」
ロージーが顔を綻ばせ、モーリスに言う。
「私、凄く良いこと思い付いちゃった!!」
※※※
ハーリアの侯爵が疲れた身体を寝室で休めていると、突然扉が開き、満面の笑みを浮かべたロージーが来て言った。
「父上、人魚になってください。魔女が人魚と融合したように」
「私とモーリスが融合したみたいに」
「意識を残せば大丈夫ですから。さあ、人魚の所に行きましょう」
「人魚がおじさまと融合したら、力を取り戻すから、丁度いいと思うのっ!」
モーリスとロージーが交互に矢継ぎ早に話し、ぐったりと倒れるハーリア侯爵を持ち上げ、宮殿から走り出る。
「な、何を!? 私には魔女ほどの力がない。人魚に取り込まれたら消えてしまうっ!?」
「大丈夫、消えないですよ。もし意識が無くなっても、人魚の力として存在しますから」
「ま、まてっ!!」
ロージーはハーリア侯爵を抱えたまま、崖の上から雨の海へと飛び込んだ。
白い飛沫が高く高く上がり、深い深い海の底へ沈んでいく。
『父上、人魚に会う前に、水中で死なないでくださいね』
モーリスが、父親にそう囁いた。