指輪と首輪
その日は朝から初夏の冷雨が降っていた。
ここ連日、ヘクターは明け方まで呑み歩き、午前中はぐったり倒れている。
今朝も新調したてのソファにもたれ、二日酔いの日の習慣になり始めた、コプニスの解毒剤を飲み干した。
あまりの苦さに顔をしかめ、そして言う。
「……ダリアちゃん、私、ちょっと今日、泊まりがけでお出掛けしなきゃいけないの。出来るだけ早く戻るつもりだけど、お留守番、御願いね。戻ってきたらもう夜出掛けないで済むから」
「はーい。どこにいくの?」
「北の方。そんなに遠くはないんだけど」
ソファに並び座るダリアは手元の書類をペンでなぞり熱心に読みながら、ふうん、と呟く。ヘクターはソファの肘掛けにもたれ掛かり、少しでも身体を休めようと、静かに目を閉じた。
パラリ、頁を繰る音が雨音に混ざる。
「……ダリアちゃん、何を読んでるの?」
「えっとね『特殊ペット登録書』?」
急いで身体を跳ね起こし、ダリアの手元を覗き込む。そこには城で白竜のザルバから受け取ってしまった例の書類。
まずい。女の子をペット登録するド変態だと思われる。
顔からサッと血の気が引いた。
「……何でっ、いつの間に!? えっと、これはっ、勘違いした友達に強引に渡されただけでっ!」
慌てるヘクターにダリアは苦笑し、ペンで下線を引いた箇所を指差しながら言う。
「この間、ママをベッドに運んだとき、本棚から落ちてきたんだよ。見つけたときはすごーく驚いたし。ママって、本物なんだなって思ったけど。
……ほら、見て? 『……半年以上の保護飼育実績と使役動物自身の同意によりペット登録する事が出来る』だって。もう半年ここに住んでるもんね」
「……何の、話?」
ダリアはヘクターに向き直り、書類で口元を隠し、頬を赤らめながら言った。
「ママがそうしたいなら、ペットに登録、してくれていいんだよ?」
窓を打つ雨音が聴こえる。
ダリアの長い兎耳がくるりと前を向き、答えを待つように静かに揺れる。
二日酔いはどこかに吹き飛んだ。
「……え……えぇーーっ!? どういう事っ? ねっ、受け入れないでっ、そこはっ!」
「……もしかしてコレ、私じゃなくて別の人用だったの? この前のネコさん用? 最近いつもネコさんの匂いがするし」
兎耳がぺたりと倒れた。
「ダリアちゃん匂いでそんなこと解るの? 獣人、怖っ。あのヤマネコは只の呑み仲間で、別にペットにしようとしてないから!」
ここ毎晩、ヘクターが歓楽街に向かおうとすると、ヤマネコのブルーノが何処からともなく現れ、匂いを嗅いで刷り寄ってきていた。
もしや水面下で獣人同士の縄張り争いが行われていたのか、と背筋が冷える。
「……そう。それで、ここなんだけどね。よく読んでもわからなくて……」
ダリアが書類を捲り、ヘクターへと指し示す。そこにはダリアの名前と直筆のサイン。その横の『使役動物分類』欄が空欄になっている。
「こういう書類に気軽にサインしちゃいけません 。あなたみたいな娘が騙されて売られたりするんです!」
「この分類項目にハーフの兎獣人が見当たらないの」
ヘクターはダリアの手から書類を奪い取り、言った。
「そんなレアな項目があるわけないでしょうっ! これは処分しておくから。普通に性癖としてそういうのを楽しみましょうっていうならともかく。『私は変態です』って国に申請するメリットがサッパリわからないわっ!」
「……それもそっか」
さすがにママはそこまでじゃないよね、と、ダリアは腕を組み、考えこんでいる。
「何でこの制度あるの?」
「ああ、確かね、魔獣が迷子になった時に処分されないように、だって」
ダリアはへえ、と呟いたが、すぐ納得がいかない、という表情に変わった。
「じゃあさ。どうして獣人や亜人も登録できるの? 迷子になっても殺されないし、道を聞けば自分で帰れるのにね」
「……どうしてかな」
ヘクターはダリアの頭を撫でた。
おそらくこれは旧時代の名残。
ヘクターが騎士になる為にヨルドモを訪れた頃よりも、ダリアが兎人と魔女の間から産まれた時期よりも、数年昔。
獣人や亜人が魔導師の武器であり財産だった時代。
ちゃんと登録しておかなくては、逃げられたり奪われたりしてしまうような、ヨルドモはそんな国だった。
長く白い耳に指を埋める。
もうヨルドモに獣人や亜人は殆ど住んでいない。それだけ人間以外が暮らしにくい国、という事だ。
窓を打つ雨足はますます強くなる。
「……これだけ雨が強いと、感覚がおかしくなっちゃうね。お出掛け気を付けて。私も今日は用事があるんだ」
「どんな用事か、聞いてもいい?」
ヘクター自身は、何処に何をしに出掛けるのか、ダリアに話す事が出来ない。後ろめたさを感じながらも、何となく気になり訪ねる。
「マイヤスさんに呼ばれてるの。お母さんの半年祭のお祈り、してなかったから」
その名前に、思わず顔をしかめた。
※※※
ダリアは自室に戻ると、鏡台の上に置いていた桜貝の小物入れを開け、壊れた指輪を取り出し、眺める。
祭りの日に手に入れた卵は、その夜の魔力暴走で割れた。中から銀の小さな指輪が出てきたが、暴走に巻き込まれたようで、青い石のついた石止めが外れてしまっている。
「多分これ、ママがくれたんだよね?」
いくらダリアが鈍くてもその程度はわかった。
ヘクターが卵にプレゼントを入れ、アネットにはピアスを、ダリアには指輪を渡した事くらいなら。
「うん。修理に持っていこう」
ダリアは指輪と石止めをハンカチに包み、バックを開けた。
「……」
バックの中には青月石の入った硝子玉。ハンカチと交換するように取り出し眺める。
マイヤスがヘクターにと渡した御守りだ。結局ヘクターは受け取らなかったが。
ダリアはヘクターの旅行鞄にそれを忍ばせる事にした。
※※※
「こんにちは、兎さん。……それと怖い顔の狼さん」
待ち合わせ場所の大教会入口。
ダリアは黒いワンピースを着、黒の帽子で耳を隠し、花束を抱えている。香り高く優雅な白百合をダリアの母親は好んでよく飾っていた。
ヘクターはそのダリアを後ろから抱えるように傘に入れ、マイヤスを睨む。
「こんにちは、マイヤスさん」
ダリアが言う。
マイヤスは芝居がかった仕草でヘクターの格好を上から下まで眺めた。
「狼さんは、何処かにお出掛けですか? あまり教会むけの格好では無いですね」
黒い革の服を古ぼけたマントで隠し、右手にはレイピアを仕込んだ杖、左手には傘、腕に旅行鞄を抱えている。
「……ちょっとね」
「ママ、旅行なんだって」
そうですか、なんと間の悪い、と、マイヤスは愉しそうに笑った。
「馬車で行かれるのでしょう? お時間は大丈夫ですか。兎さんの事はご心配なさらず。可愛い従姪です。大事にお預かりいたしますね」
「……従姪って、所詮遠い親戚じゃない。ダリアちゃん、このおじさんにおかしな事されそうになったら容赦なく潰すのよ。力一杯やっちゃいなさい」
「兎さんに殺人させようとしないでくださいね」
殺される対象が自分だというのに、マイヤスは優しく微笑む。そして後ろを振り返り、時計塔の大時計を指差した。
「祭りの夜の暴走で、あの時計まだ修理中なんですよ。鐘だけは定時に鳴らしているようですが、時刻はずっと一の刻から動きませんからご注意下さい」
「なにっ!?」
ヘクターが大時計を見ると確かに先程から全く時間が変わっていない。太陽は雨雲に隠され時間がわからない。
「……今、何時?」
ヘクターが呟く。マイヤスは両手を広げ、答えた。
「さあ、時計なんて高価なモノは持ってませんから。ちなみに何時に馬車に乗られるんです?」
「……一刻半」
と、カランッ、と大時計が半刻を示す高い鐘声をあげた。
※※※
半年祭の祈りを捧げ終え、マイヤスとダリアは教会を出る。
「ママ、間に合ったかな……」
ダリアが呟く。と、マイヤスはそれを聞き付け答えた。
「大丈夫だったみたいですね。間に合わなかったならきっと、教会前で兎さんを待ってたでしょうから。……狼さんが旅行に一人で行くのは構わないのですか?」
「だってママ、お仕事でしょう?」
ダリアは傘を広げながら当たり前のように言う。バラバラと雨粒が傘に当たり弾ける。マイヤスも傘を広げ歩き出しながら言った。
「狼さんからお仕事の事、聴いたのですか?」
「聴かなくても、そのくらいなら」
雨は二人の周囲を水の壁でくるみ、会話を曖昧にする。
「では、狼さんの正体を知っていますか?」
「……」
ダリアはわざと小さな声で答えた。雨音に紛れ届かないように。
石畳に水溜まりが出来、飛沫が跳ねる。東地区職人街へと足元に注意しながらゆっくり歩く。
「兎さん。もうサラサが亡くなって半年がたってしまいました。……後半年しかありません。サラサの遺した最大の遺品は兎さん自身だと、ちゃんと自覚して行動して下さいね。兎さんは危なっかし過ぎる」
強い雨が分厚いカーテンのように、会話を遮断した。それを特に気にも止めず、独り言のように話を続ける。
「今、船を造らせています。半年後、一緒に旅に出ましょう。この国はあまりにも整然と正しく、魔導師以外には冷たい。
その船は月夜に空を飛びます。人魚を乗せて、兎を乗せて。三人で歌を歌いながら、月の向こう側まで世界を見に行きましょう」
「……ママも、一緒なら」
「聴こえていたのですか」
マイヤスは舌を巻いた。
さすが兎耳。どさくさに紛れ聴こえないように喋っていたつもりなんですが。
「そうですね。狼さんも一緒に来ていただけるなら、こちらも都合がいい。……全てが終わり、彼が許してくれたなら、是非一緒に船に乗りましょう」
まあ、許してはもらえないでしょうね。
「世界は混沌としている事自体が、素晴らしく美しいのです。さ、着きましたよ。ここです」
広い通りに面した立派な店構え。常であれば職人の高い技術を見せるために開けられている鎧戸は、雨のために閉ざされてはいたが。
そこはヨルドモ王国内で最も技術の高い、金細工職人の店。マイヤスが魔導具等の製作に金や銀を使う場合に必ず依頼する馴染みの店でもある。
ポーチを昇り、木製の厚い扉を開ける。店内には幾人もの徒弟。金を打つ小気味良い音が響く。
マイヤスとダリアを見た髭面の親方が、驚いた顔をし、作業を中断して歩いてきた。
「マイヤスさん。そんな若く可愛い女性への贈り物だったんですか。……なんて羨ましい。どんな手を使ったんですかっ!?」
「……従姉妹の娘です。とても健全な間柄ですよ」
マイヤスは苦笑いし、ダリアを部屋の中央に置かれた椅子へと座らせる。
「いやー、女っ毛の無いマイヤスさんにねえ、まさかこんなに若い相手が……。大丈夫なんですか? 犯罪の片棒を担ぐのは嫌ですよ」
「だから、従姉妹の娘ですっ! 私は相変わらず人魚一筋なんですから」
親方は人懐こく笑い、マイヤスに完成した品物を渡す。マイヤスはダリアの後ろへ回り、それをダリアへ着けた。
「『暗示の首輪』です。女性向けにデザインを変えてもらいました。兎さんが魔力暴走してしまう原因は心のバランスの悪さだけですから。あなたくらい器が膨大な方は他にいませんし」
親方が丁寧に長さの調整をする。
デザインを女性向けに変更された暗示の首輪は、革の部分がチョーカーのように細くなり、銀細工のペンダントトップには青月石が填められていた。
もしも最悪、暴走してしまった場合にダリアを止められるように。
「……外れないように、留め金は取っちゃって下さいね」
マイヤスが言うと既に了承済みなのだろう、親方が頷いた。
「あ、そう、これも直して貰えませんか?」
ダリアが壊れた指輪を取り出し、マイヤスに渡す。
「……狼さんからの贈り物ですか? なんだかんだ、やることやってるんですね、あの方」
呆れたように笑う。石止めが外れた指輪はすぐに徒弟へと渡され、修理された。
「兎さん、解ってますか? あの指輪を嵌める指はこの指です。アレは間違いなく男避けの御守りでしょうから。首輪と同じで、飼い主がいるぞという証明ですね」
左手の薬指にそっと触れながらそう言った。
「……じゃあ、やりますね」
マイヤスはダリアの前へと回る。親方や徒弟たちは少し離れた場所に移動した。
マイヤスには魔力が殆ど無いが、魔導具を起動できない程ではない。
青月石のペンダントトップに指を重ね、魔力をそっと込め暗示をかける。
「この首輪を身に付けている限り、兎さんの魔力はバランスを崩すことはありません。兎の力は凪いだ海のように平静で、満月のように満たされ、浜を打つ波のように規則正しい。月がどのように強く呼ぼうとも月へ帰る必要は無い」
そこまで言うと一度首輪から指を離し、哀しげにダリアを見た。
「すいません、一点つけ加えさせて下さい」
返事を待たず指先を首輪へ戻し、再び魔力を込める。
「……私の味方になってくださいね」
そう言って指を離した。