兎と狼
港町ハーリア。
大小様々な島を無数の橋でつなぎ、干潟を埋め立てた複雑な地形の都市。王都ヨルドモからほど近く、古くから海上貿易を支配している。
青緑の屋根と白い壁で統一された街並みを縫うように運河が走り、小舟を使った物品の運搬を行っていることも特長の一つだ。
穏やかで暖かい海に面しているため気候がよく、特に夏場は大勢のバカンス客で賑わう。
名産品は海産物、蟹、柑橘類、大理石彫刻等々。
「……っですって! やっぱり夏場のリゾートのイメージが強いわよね、ハーリアって。んー、潮の匂いがしてきたような……気がするわ」
観光冊子を読み上げ、ヘクターは興奮の声をあげた。確かにダリアの獣人の鼻も、甘く爽やかな潮風を微かにとらえている。
私服の上に黒いウールコートを着込み、薄暗い乗り合い馬車の狭い座席に身を押し込めるヘクターは、顔の痣のせいか兵士か騎士かのように厳つく、そして下手に見栄えも良いために、車内の注目を集めてしまっていた。
ダリアは慌て、咎めるように唇に人差し指をあて声をひそめる。
「ママ、恥ずかしいからもう少し小さな声で喋って」
「なんでよー。せっかくのミニバカンスなんだからちょっとはしゃぐくらい、いいじゃない」
唇を尖らせたヘクターが、プンプンッと擬音が飛びそうなコミカルな仕草で怒ってみせると、乗り合わせた女性たちから絶望の溜め息が漏れた。
朝一番で乗り込んだこの馬車は、片道約半日かけてヨルドモとハーリアを往復している。
通常の馬車とは違い、魔導師の御者が二本角を持つ大型の蒼馬を操り、整備された高速道路を駆け抜けるという、かなりの速度と安全性を誇る人気の交通手段だ。
その分割高ではあったが、ヘクターは金銭に頓着しないタイプらしい。
「そういえば、泊まるホテルとかどうするの? 昨日の今日だもん、予約してないよね」
「なーんにも考えてなかったわ。観光地でホテル多いし、オフシーズンだからどうにかなるんじゃないかしら。
ああそう、もしかしてダリアちゃん、部屋、一緒がいいの? キャーえっちー。だけど残念。ママは現地のカワイイ子とデートするつもりだから、部屋は別々ね。でも蟹のレストランは待ち合わせして一緒に行きましょう。……食べ放題とかやってないかしら」
おかしなテンションにダリアは憮然としたが、しかし兎人ハーフのダリアにとっても、部屋は別の方が都合がいい。
「はいはい。好きなだけナンパしてきたらいいじゃない。部屋は別々、私も大賛成です」
やがて、乗り合い馬車が速度を落とした。どうやら高速道路を降り市街地に入ったようだ。
ダリアが木窓をカタカタ押し上ると、刺すような寒気が馬車内へなだれ込んだ。急激に下がる室温にダリアは急いで窓を閉める。
隙間から僅かに見えたのは冬枯れのない高木と、青緑の屋根に彩られた白壁の建物。確かにハーリア独特の街並みだ。
懐かしい。目を閉じれば、幼い頃の甘酸っぱい思い出が胸に蘇る。
あの少年は、どんな風に成長しているのだろう。あの時の怪我はちゃんと治っただろうか。ダリアの事を、少しでも憶えていてくれるだろうか。
「さ、着いたわよ」
馬車が駅に止まり、乗客を降ろし始めた。ダリアとヘクターも馬車から降り、天井に乗せていたスーツケースを受け取った。
足の悪いヘクターは器用に杖を付き、スーツケースを転がしながら意外なほどの歩行速度でホテルを探す。ダリアも気持ち早足で、白い息を吐きながらヘクターに並ぶ。整備された土の地面に二人分の靴と杖の跡がリズミカルに刻まれた。
ヘクターはまず、ハーリアで最も大きなホテルへ向かった。が、オフシーズンのため部屋数を制限しており空きがない。また次に向かったホテルは、冬の営業自体を行っていなかった。
ヘクターは次々とホテルに入り交渉を行ったが、二人分の空きが見つからない。
ハーリアの街を駆け回り、冬の太陽が沈みはじめた頃、賑やかな大通りからはかなり離れた小さなホテルの、急にキャンセルが出たという部屋へ、ようやくチェックインする事ができた。
大きなベッドが一つあるだけの、所謂カップル部屋になってしまったが。
「ママ、この部屋にナンパ相手連れ込むのはやめてね」
「……そうね。私、そこまでアレなアレは求めてないから大丈夫よ……」
部屋の入り口でガクリと膝を落とすヘクターを放置し、ダリアはさっさとベッドに荷物を広げ、中の服を手際良くハンガーにかけた。
あらかじめ暖炉に火がくべられていたようで、室内はすでに暖かい。
ダリアはコートと、さらに中に着ていたシャツを脱ぐ。半裸になった上半身へ動きやすいピンクのワンピースを被り、尻尾を見せないよう慎重に、着ていたスカートを裾から抜き取る。
脱いだ服を整え、カーディガンを羽織り着替えを終えると、ダリアは言った。
「えっと。今日はもう遅いし、親戚の家は明日行くのよね?」
「……ごち……じゃなくて。……こら、小娘。もう少し恥じらいなさい。男とホテルで二人っきりなのよ。堂々と生着替えするんじゃないわよ」
「えー。ママって男の子にしか興味ないでしょ? だから大丈夫です。どうせ一緒に寝るんだし、着替えくらい視られても平気かな。女同士みたいなもんじゃない」
男の子にしか興味ないなんて、言った覚えないんだけど……と、ヘクターは入り口に座ったままごにょごにょと呟いた。
「ダリアちゃんがそう思ってるなら、今はまあ、それでいいわ。……どうせ一緒に寝るんだものね。ああ、なんだか今日はもう疲れちゃった。蟹パーティは明日にして、今夜はホテルで美味しい美味しい夕飯を食べて、一緒に疲れて寝ちゃいましょう」
「はーい。……ねね、さっき見かけた雑貨屋さんだけ、ちょっと見たいなあ。あ、でもこのホテル、レストランなさそうだよ。どっちにしても外行かなくちゃね」
「……ほんと、危機管理の出来てない子だわね。『もしかして夕飯は私!?』くらいの敏感さは持っていて欲しいわ……」
ヘクターの言葉を全く理解せず、ダリアは楽しげに小さなバッグへ荷物を移し入れた。ヘクターも苦笑いを浮かべながら、スーツケースの中身を整理し、散歩に行く準備を整えた。
※※※
大通りにある雑貨屋は観光客目当てなのか、安価で可愛らしい土産小物が所狭しと置かれていた。ダリアが人魚のピアスホルダーや、貝殻の小物入れを手に取り、夢中になって選ぶ間に、ヘクターも名産の果実酒を見比べ、何本かまとめて購入した。
と、嗎が聞こえ、大通りがざわめく。
二人が好奇心に引かれるまま店を出ると、赤い皮鎧に身を固め、馬に跨る騎士たちの後ろ姿が見えた。
「赤の騎士団、ね。……ダリアちゃん、次、どうしましょうか。別のお店も見る?」
ヘクターは一目で興味を失い、ダリアへ話しかけた。
だがダリアはその中の一人、金髪の若い騎士の背中から目を反らす事が出来ない。跳ね上がった心臓はデタラメに脈を打ち鳴らし、肋骨がギシギシと痛む。
あの人は、おそらく、きっと。
兎の魔力が急激に膨れ、暴れ狂う。
いけない。このままじゃまた、街を壊してしまう。ダリアは鳩尾に力を込め、必死で兎を押さえ込んだ。漏れかえる魔力を体内に閉じ込め蓋をすると、ダリアの器が嵐のような魔力の渦にぐちゃぐちゃと掻き乱され、あまりの衝撃に立つことができなくなった。
「え!? ダ、ダリアちゃん? ……真っ青よ、どうしたの?」
突然、ダリアは膝から崩れた。苦しげに胸を押さえるダリアを抱きとめ、ヘクターは背中をさする。
大きな手の、心地好い感触。身体は次第に落ち着きを取り戻し、兎の魔力は凪いでいった。
「大丈夫? ダリアちゃん。落ち着いたみたいね」
「……持病、みたいなものだから……ごめんママ、もう少し……」
未だふらつく身体をヘクターに預けたまま、ダリアはそう答えた。
何年かぶりに発症した持病、兎の暴走。
とっくに思い出に変えたつもりだったのに、まだこんなにも気持ちが昂ぶるなど思ってもみなかった。
ヘクターの手が優しく背中を撫でる。母親にされるような心地の良さに、ダリアはヘクターの首へ腕を回ししがみついた。綿毛のような髪の毛が鼻先を擽る。密着した小さな肉体が、柔らかな心音と汗の匂いを伝える。
戸惑い混じりの呼吸と熱に気がつかないまま、ダリアは存分に身体を休めた。
※※※
「さっきのあれ、魔物討伐隊らしいわよ」
レストラン帰りに購入した白葡萄酒を光にかざし、水色を確認しながらヘクターが言った。
ダリアとヘクターは大通りのレストランで夕食をとったのだが、状態が悪かったのだろう、出された白葡萄酒は酸味が強く、呑めたモノではなかった。
そのため二人はホテルのベッドに座り、呑み直し会を始めている。
「ね、魔物……討伐って?」
ダリアは既に風呂上がりだ。ワンピースのパジャマをまとい、兎耳は髪の毛ごとタオルでしっかり縛りあげ隠していた。
「雑貨屋のおじさんから聞いたんだけど。なんでも最近、ハーリアに蟹の化け物が出るんですって。すっごく大きな蟹が小さな蟹をわさわさ引き連れて、夜の浜で家畜を襲うらしいわ」
「……あんまり怖そうじゃないよね、それ」
ダリアが言うと、ヘクターはニヤリと笑った。
「美味しく食べられちゃう蟹の反乱かしらね。蟹がわさわさなんて、網で捕まえてまとめて食べちゃえそう。でもダリアちゃんは危機感足りてないから、蟹にだって美味しく食べられちゃうんじゃない?」
「やだあ、そんなの」
ヘクターが人差し指と中指を蟹の鋏に見立てチョキチョキと戯けてみせたが、蟹に喰われるなど馬鹿らし過ぎて怪談話にはならない。
ダリアが怖がらずに苦笑いをすると、どうでも良くなったのだろう、ヘクターは白葡萄酒を睨んだ。
「……これもイマイチね。果実酒と混ぜましょう」
雑貨屋で買い込んだ果実酒から、甘味の強い黒すぐりの酒を取りだし、白葡萄酒に沈めた。ヘクターがマドラーで掻き混ぜると、グラスは桃色に染まり、美味しそうな甘い匂いを沸き立たせる。
ダリアが思わず手を伸ばすと、ヘクターはからかうように言った。
「これ、甘くてとっても呑みやすいけど、白だけで呑むのよりも少し強いからね。気を付けて呑むのよ? 女の子を酔わす為のお酒なんだから」
グラスを受け取り、こくりと呑む。強い酒とは思えないスッキリとした甘さが喉を通り抜けた。
「呑みやすい……すごく甘くて美味しいし」
ヘクターは眉を下げて笑い、自分のグラスにも同じように注ぐ。
「……ほんと油断しすぎよねえ。私もこういう酔わせちゃって……っていうのは、どうかと思うんだけど」
ダリアはジュースのようにカクテルを飲み干し、もっと、と言いたげな上目使いで空のグラスをヘクターに渡した。
「ダリアちゃん、本気でもう少し気をつけなさい。誘ってるわけじゃない事は解るけど、今、男とホテルのベッドで二人きりなのよ?」
「だって……ママだし」
あっという間に酔いが回ったのだろう。目尻と頬を紅く染め、ダリアはまたカクテルに口をつける。
「……それ、私なら、いいって事?」
ヘクターはダリアの肩を抱くように寄り添い頭を撫で、自分のグラスを側机に置いた。
短い沈黙の後、ダリアが小さな声で話始める。
「ママ、聴いて。さっき赤の騎士団の中に、私の初恋の人がいたの」
そう。相槌を吐息で打つと、ヘクターはダリアを腕の中に引き寄せた。静かなベッドに、二人の心音が大きく響く。
「まだ八歳の頃、学校で隣の席だった男の子。すっごく好きだったんだけど、私が怪我をさせちゃって。それからすぐ私、ヨルドモに引っ越したんだけどね」
ヘクターは後ろからダリアの首筋に口をつけたまま、言った。
「……今でも、好きなの? 見かけただけで苦しくなるくらい」
唇の動きにダリアはくすぐったいと身を捩り、逃れながら頷いた。
「……」
ヘクターは無言で腕を開き、ダリアを解放する。
「ちょっと私、シャワー浴びて頭冷やしてくる。ダリアちゃん、お酒呑みすぎちゃ、だめよ?」
「……うん」
しばらくするとバスルームから単調な水音が聞こえ、ダリアは一人、グラスの甘い液体を虚ろなままに飲み干した。
※※※
ヘクターがシャワーから出ると、ダリアは既にベッドへ倒れていた。薄いワンピースの裾が太腿の中ほどまで捲れ、細っそりと瑞々しい脚が露わになっている。
「……えー。ダリアちゃーん?」
呼ぶと、ダリアは返事をするように寝返りを打った。すっかり朱に染まった喉と、布の下で規則的に上下する二つの頂が無防備に曝される。
床には空になった白葡萄酒の瓶が転がっていた。
「……俺、今回は我慢するツモリでシャワー浴びて来たんだが……ここに来て据え膳、か?」
んん、と、ダリアが悩まし気な声で答える。無防備にもほどがあるだろう。ヘクターは裸のままベッドに乗ると、じっくりと覆い被さった。
「ダリアちゃん? 狼さんが全部、美味しく食っちまうぞ」
小さな耳に口を近づけて囁き、しかし違和感を覚え身を僅かに引いた。
耳の穴が、塞がっている。
ダリアの人間の耳を模した器官は、機能を持たない飾りのようなものだ。
構わずに食むと、血液の集まるような甘い嬌声をあげ、ダリアはイヤイヤと首を振った。
すると、頭を覆うタオルがずれ、長い兎耳がぴょんと飛び出る。白銀の毛で覆われた耳も身体と同じように、毛細血管が広がり紅く染まっていた。兎耳はタオルの拘束から逃れた事を悦ぶように、くるくると廻って主張する。
「……ホンモノの獣人……かよ」
ヘクターは驚き、また同時に目の前の小さな少女の抱える秘密を理解した。
母を喪い、見知らぬ親戚以外に身寄りがなく、仲の良い友人も居ない。おそらくヘクター以外で正体を知るものは、その親戚だけだろう。
他に頼る者の居ない、貴重で愛らしい獣人の少女。それが全身全霊で油断し、見せるべきではない全てを曝け出している。
自然、口角が釣り上がり笑みの形に結ばれた。
「……絶対やらねえ、お前には」
ヘクターはまだ見ぬ親戚へ挑発的な宣戦布告をする。
今、強引にコトを行えば少女の機嫌を損ない、親戚に泣きつかれてしまうかもしれない。そうすれば折角の檻に入れた子兎を取られてしまうだろう。
ヘクターはダリアから少し距離をとり、ベッドの端で横になった。狼の牙のすぐ前で、美味そうな兎の子は安堵の寝息をたてている。
まずは兎自身に狼を選ばせてから、だ。
ヘクターは呟き、欲を押さえ込んだ。