薬と魔女と兎と学者
目を開くより先に感じた、痛みを伴うほどの異臭。『草』に似た、しかしどこか甘ったるい、今までに一度も嗅いだことが無いタイプのハーブ臭。
ベッドから身を起こしたヘクターは、不安定に揺れる頭を押さえ、匂いの元へと意識を向けた。
リビングか、台所か?
ゆっくりとベッドを降りる。一歩足を踏み出す度、割れ鐘のように頭痛が走り、吐き気が胸をかき混ぜた。下唇を強く噛み堪えつつ、リビングへと続く扉を開ける。
「おはよう、ママ」
「……何やってるの?」
ハンカチを鼻に当て水差しを抱えたダリアが、台所から顔を出した。
「はい、とりあえずこれ、どうぞ」
「あ、お水? ありがと」
「うん。これ飲んで、もし吐けたら吐いてきてね。二日酔いだよね?」
「……そうだけど」
ダリアが忙しそうに台所へと引っ込む。
ヘクターは早速水をグラスに注ぎ、喉に流し込むと人心地ついた。台所で一体何をしているのだろう、と、覗くと、独特の悪臭漂う鍋を童話の魔女のようにかき混ぜている。
二日酔いの為か臭いの性か、背筋を悪寒が走る。ヘクターは口元を押さえ、トイレへと駆け込んだ。
「ママ、出来たよー」
しばらく経ち、ヘクターがリビングのテーブルに伏していると、ダリアが異臭を放つグラスを二つ、目の前に並べた。中には泥を溶いたように黄色く濁る液体が入っている。
「……何、それ」
「コプニスの解毒剤。二日酔いに効くんだよ。私も昨日呑みすぎたから、飲んどこうと思って」
ダリアはヘクターの隣に座り、片方のグラスを手にし、鼻を摘まみながら飲み干した。
「まずいっ」
顔をしかめ、舌を出す。
「……見るからに不味そうね。何をどうやって作ったの?」
「えっとね。コプニスとペリラの根っ子と、サンシシの実と、アミュレンスの樹皮を砕いて、冷水でふやかしてから煮詰めて濾すの。お母さんの遺品に材料残ってたからちょっと借りちゃった」
「……ひとっつもわかんないんだけど。ダリアちゃんのお母さん、薬師?」
ヘクターがそう訊ねるとダリアは首を傾げ、さあ? と呟いた。
「お母さんが二日酔いの時、これ作るのは私の役目だったから。味は酷いけど、効果はすごくあると思うよ。飲んでみて!」
ダリアが満面の笑みを浮かべ、グラスを差し出す。液体の表面には濾しきれずに残った植物の繊維が浮いている。
「……あんまり、飲みたくないかなー」
「だーめっ! ちゃんと飲んで。ほんとーに、よく効くんだよっ!」
ダリアが笑顔を張り付けたまま、悪臭漂う泥水を鼻先に押し付けてきた。
腰を浮かし後ずさる。ダリアの左腕が首の後ろを捕らえた。ぐいっと胸元に密着するよう引き寄せられ、鼻を摘ままれる。
唇を割るように当てられるぬるい硝子。
ダリアはグラスをゆっくりと傾ける。
生温い液体がどろりと口腔に注がれた。
※※※
ヘクターは床に倒れている。コプニスの解毒剤とやらの効果は確かにあるのだろう、二日酔いによる不快感はだいぶ抑えられてきた。
「どう、効くでしょ。お母さんのお薬」
「確かに効くけれど、あんな苦いもの飲んだの初めてよ。……ダリアちゃんのお母さんって何者なの。本当に薬師じゃないの? お仕事何やってたの?」
「うーん。専業主婦?」
そんな筈がない。
片親だけでダリアを十八歳まで育てているのだ。
「お母さんって、どんな人?」
「見た目は私の髪の毛を黒くして人間にした感じ。おっとりしていて、すごーく優しかったの。いつも一緒に居てくれて、毎日いろんな物語を話してくれて」
笑いながら首を跳ねる厄介な女。マイヤスはそう言っていた。
「……他に、何処か変わった特徴とか無かった?」
ダリアは顎に指を当て、暫く考えてから答える。
「服が派手」
「……そう」
「後、歌が上手でいつも歌ってたの。お料理中も、お洗濯中も。ほらこの間の、ママも知ってる歌とか。他にも色々。私、いっぱい教えて貰ったのよ」
癒しの、歌。詠唱魔法。
「……他にも沢山? ね、ダリアちゃん。ダリアちゃんのお母さんが誰から歌を教わったのか、知ってる?」
「さあ? お母さんの知り合いなんてわからないよ」
「例えば、お城の人とか……黒の魔女ヘクスティアとか、人魚とか……」
全くわからない、というようにダリアは首を傾げる。
「うーん。時々ドレスを着て何処かに出掛けては居たけど、家に人を連れてくる事は無かったから」
ヘクターは身体を起こし、顎に手を当て考え込む。アパートに暮らす市井の主婦がドレスなど着るだろうか。
ダリアの母親はあからさまに普通ではない。詠唱魔法を歌い、薬を煎じ、ドレスを纏う、首を笑顔で跳ねる厄介な女性。
「……魔女、なんだろうな」
しかも、かなり特異な。
ダリアは母親の事を殆ど知らない。おそらく、あえて知らされていないのだろう。
何のために、ダリアは何も知らされず、無邪気に育てられたのだろうか。
魔女、ヘクスティアによく似た青の瞳を丸くし、ダリアは不思議そうにヘクターを見詰める。
幾つかの可能性が頭を過り、ヘクターは首を振った。
「ママ、どうしたの。まだ頭痛い?」
ダリアが心配そうに言う。
ヘクスティアと同じその声に、可能性が事実だと確信しながらも、ヘクターは心の何処かでそれを否定した。
※※※
汐の香り高く、海を一望できる丘の上。白と薔薇色の大理石で外壁を飾られた古い宮殿がそびえ立っている。その宮殿には地下を除く全ての部屋に大窓があり、月と海を眺めることが出来た。
最上階には特徴的なアーチを描く尖塔があり、その下に優雅なバルコニーが広がっている。まだこの宮殿の美しい女主人が存命だった頃には、数日おきに賑やかなパーティが行われていた。
しかし、宮殿から笑い声が絶え、すでに20年もの歳月が流れている。
バルコニーに面した大広間、その中央にポツリと一卓、深緑のクロスがかけられた長テーブル。そこに座るのは壮年の男と幼い少女、ただ二人だけ。
優雅で高い天井からは、蝋燭をふんだんに必要とする贅沢なシャンデリアが下がり、壁一面を占める大きな飾り窓からは、朝陽にざわめく海が見える。
あえて魔導具を一切使わない室内に、召し使いは男女二人。
チキンのクリームスープが静かに運ばれた。
「私、鶏肉の皮と脂、あんまり好きじゃないんだよね」
少女がスプーンを手にし、言った。少女は少年の声色でそれに答える。
「そう? 僕は美味しいと思うけど……ほら、食べてごらんよ」
少女がスープの中の鶏肉をすくい、口に含むと、少女は眉をしかめる。
「そうかな。ぐにゃぐにゃして、不気味じゃない?」
「芳ばしくて良いと思うんだけどな」
さらにもう一口。
美味しそうに頬張ったかと思うと、不味そうにクチャクチャと音をたてた。
それを聞き咎めた壮年の男は、カトラリーをテーブルに置き、朝食を中断する。
「……二人とも静かに食べなさい。ロージー、好き嫌いはしないように」
「はい、父上」
「はーい、おじ様」
ロージーの口から男女の声が同時に響いた。
一転し、静まり返った食卓。時折カトラリーがカチャリカチャリと高い音をたてる。その度に男の眉が上がり、ロージーが首をすくめる。
デザートのプディングを食べ終わり、口元を拭うのを見届けると、男が話し始めた。
「モーリス、人魚はどのようだったか?」
「昨夜は一度、子供の名前を呼んだだけで、あとは目を覚まさなかったよ」
ロージーの中のモーリスが答える。
モーリスがロージーと融合し、十二歳の少女の外見となって以来、寝惚けた人魚はモーリスを、姉か息子と間違える事が増えた。
十七歳の青年の外見を纏っていた時は、恋人と間違える事が多かったのだが。
「そうか」
男は考え込むように押し黙った。
人魚がどんどん弱っている。海の魔物、『不死』の人魚だ。まさか死ぬことは無いだろうとは思うが、モーリスを『不死』にしているのが人魚である以上、もしもの事があってはいけない。
先日のように、モーリスが身体を失うことが無いとは限らない。
「兎を手に入れなくてはな」
男がそう言うと、ロージーは不満げに唇を尖らせた。
「兎、兎って。いつもそればっかり。で、肝心の兎は見つからないんだから。兎が居たら、何が出来るっていうの?」
「……人魚への、食事のスムーズな供給だ。
人魚は魔力の高い生き物を吸収し、自分の魔力に変える。兎は魔力の高い生き物に対しての絶対的な強者だからだ」
男がロージーに答えた。モーリスが後に続く。
「一度いい魔導師を食べると数年もつからね。調子の悪くなる頃を見計らって、父上が船に魔導師を乗せるんだ。そうすると兎が船を傾けて魔導師を落とす。兎はいつも笑いながらやってくれたよ。とても優しかったんだ」
「そして、兎はとても美しかった」
また始まった。
男が言うと、ロージーは呆れたように呟いた。
いつもの事だ。この宮殿に住んでいた兎がどれほど美しく聡明で魅力に溢れていたのか、男は熱に浮かれたかのように捲し立てる。白い毛並みはビロードで赤い瞳はルビーなのだとか、ブウブウ響く鳴き声は終末を告げる天使のラッパだとか、到底正気とは思えない。
「父上、もうとっくに兎にやられちゃってるから。……まあ、僕もだけど」
モーリスはロージーに小さな声でそう言うと、ニッと笑った。
「僕が兎に初めて会ったのは、もう十五年も前。僕の身体の崩壊を止めるために、父上と研究者の家に行った日の事だったよ」
モーリスはロージーに昔を語り始めた。
※※※
ハーリアの都心から少しだけ離れた、切り立った白い丘の上。
こじんまりとした建物の前には怪しげな魔物像が並ぶ。室内には今にも動き出しそうな異形の生物が飾られ、机に並ぶ硝子瓶の中にはドロドロと蠢く虫のような物が詰まっている。
まだ八歳の信心深い少年、モーリスの目には、悪魔の館に迷い混んでしまったように感じられた。そっと父親の背後に回り、目の前の悪魔から身を隠す。
「こんにちは。私は人魚と合成魔獣の研究をしている学者、マイヤスです」
悪魔はそんなモーリスを楽しげに眺めながら名乗った。
父親は客間のソファに腰掛け、人魚の力でモーリスの崩壊を止められないか、尋ねている。マイヤスは紙の資料や本を広げ、 できるのかできないのかは曖昧なまま、父親へ人魚の解説をする。
回りくどい物言いに父親の苛立ちは高まり、その表情を楽しむようにマイヤスが笑う。
モーリスを助けるつもりなど無いのだろう。父親の顔が赤く染まり、声が荒立ち身振りが大きくなる。
と、リンッと、澄んだベル音が響いた。
「……失礼」
そう言うとマイヤスは席を立ち、奥の部屋へと続く扉を開ける。ベルを鳴らした者は扉のすぐ前に居たようで、マイヤスは滑り込むように隣室へと入り、扉を閉めた。
しばらく経ち、再びマイヤスが室内に戻ってきた。白いローブを纏った大きな人物を連れて。
「紹介します。兎さんです。あなたのお子さんを助けてくれるそうですよ。良かったですねっ!」
マイヤスが酷くなげやりに怒鳴る。
と、ローブのフードが外され、兎の白い顔が露になった。赤い瞳が妖しく光る。
「……ああ、成る程。すっかり忘れていました。そういう事ですか」
マイヤスが安堵の息を漏らし兎に話し掛ける。兎も愉しげに瞳を細め、頷いた。
「では、兎さんをよろしくお願いいたします。彼が望むようにしてあげたなら、きっと全てが上手くいきますから。何しろ、本物の兎さんですからね」
モーリスも父親も返事が出来ない。兎の赤い瞳に魅入られ、呼吸の仕方すら忘れていたからだ。
「……魔法使いどもは本当に憐れだ。強い力を求め、抗うことができない」
マイヤスが悪魔の顔でそう囁き笑った。
※※※
モーリスが話終えるとロージーが言った。
「で、その素敵な兎さんは、なんで今は居ないの?」
モーリスは両手を広げ眉を寄せ、知らない、と呟いた。
「……兎は、月に帰った。彼の全ての目的を成し遂げたからな」
男……モーリスの父親が答える。
「だからこそ新たな兎を手に入れなくてはならない。私の力では強い魔導師を捕らえ人魚に食べさせるなど、なかなか難しいのだ」
そう言った後、父親は神に祈りを捧げた。ロージーも続いて祈りの言葉を呟き、朝食を終える。
「……既に罠は用意した。新たな兎を手に入れるのは時間の問題だ。安心するがいい。私はお前たちを愛している」
父親はそう言ってロージーの頭を優しく撫で、大広間を後にした。
※※※
モーリスの父親