歓楽街
太陽が白々と昇り、群青の空では横雲が桃色に染められた。建物の隙間から刺す朝陽に目が眩み、悪酔いした頭に鶏の金切り声が反響する。
疲れに鈍る足を交互に動かし壁に手をつきながら、どうにか従業員部屋まで辿り着く事が出来たようだ。
「……ただいま」
扉を開ける。ううう、と呻きつつ台所に移動し、水を口に含み吐き出す。
「きっつ……あいつら、悪魔だろ……」
そう呟き水を飲むと、その場に崩れ落ちた。
昨夜、禁制ハーブ『花』の流通網を調べようと歓楽街へと向かったが、しかしヘクターは『花』や『草』のような多幸系ハーブと相性が悪い。
処刑部屋で散々『花』を味あわされたトラウマか、特に記憶を思い出してからは、喫むと寒気がし気分が悪くなる。その為、バー『青兎亭』は『草』ですら置いておらず、客が店内で服用する事も控えさせていた。
魔導師が圧倒的に多いヨルドモでは、魔導具や薬の精製に便利な『草』は当たり前に販売されている。しかし中毒性が高い『花』は服用が禁止され、普通のルートでは買うことができない。
ハーブは極力吸いたくない。その上で『花』の流通を調べるには……と考えながら歩いていると背後から声をかけられた。
「こんばんわっ! お嬢さん」
振り向くと帽子で猫耳を隠し、金の目を弓なりに曲げて笑うヤマネコが立っていた。
「……ああ、ヤマネコ、さん?」
「匂いですぐわかったよ。バーの服装も似合うけど、そういう格好もとっても可愛いね。
さっき『青兎亭』見に行ったらお休みだったけど、あの爆発の性なのかな?」
予防用の指輪持ってこりゃ良かった。
そう思いながらも、営業用の笑顔を作り言った。
「ええ、一昨日の騒ぎの性でリニューアル中なのよ。またオープンしたら遊びにきてちょうだい」
「ね、今から何処に行くの? せっかくだし良かったら僕のいきつけのお店に一緒にいかない? いいハーブと美味しい酒のある店、知ってるから」
「……ハーブねえ」
ハーブの苦手なヘクターが一人、闇雲に店を巡るよりも、詳しい相手に連れて行かれる方が余程情報も入るだろうし、極めて自然だろう。渡りに船だ。
「私、夜は毎日お仕事だからあんまりお店に詳しく無いのよ。いい店に連れて行ってもらえるなら助かるわ」
そう言ってヤマネコの手を両手で包む。ヤマネコは金の目を嬉しそうに細め微笑むと、ブルーノと名乗った。
ヨルドモ城塞西地区歓楽街。ここは南西のスラム街から程近い、城塞内ではもっとも治安の悪い地域のうちの一つ。あたりは既に暗いというのに、何処から集まって来たのか、肩が触れあうほど人が溢れていた。
舗装のされていない路地の幅は両手を広げた程度しかなく、三階、四階と、何層にも積み上げられた木造家屋が不揃いに突き出し、薄汚い天井のように空を覆っている。
賭博所や居酒屋等の前では、カラフルな看板が道を塞ぎ、韻を踏むようなしゃべり方の客引きが、カンテラ片手に声を張り上げる。あちらこちらから悪態をつく声、男を誘う春売りの声、怒声や悲鳴が聞こえ、あたりは独特な喧騒に満ちていた。
馴染みの店があるのだろう、ブルーノは地下に続く階段の前で立ち止まる。
「こっち降りて」
そう言うとヘクターの手を取り土の階段を降りた。地上から下卑た笑い声が聞こえる。
土壁とは不似合いな青い鉄の扉。
蝋燭に照されたメニューには『青兎亭』よりもだいぶ高価な酒類が書き並べられている。
ブルーノが重い扉をゆっくりと開いた。
「いらっしゃいませ」
そこは正に異世界。
汚ならしく雑然とした地上とも、清潔で落ち着いた『青兎亭』とも違う、退廃的な店内。
まず目に入るのは、神話の神々が酒を掲げ人と交わる姿が描かれた壁画。その淫靡な一部分は想像を煽るように緋色のカーテンで隠されている。
店内に椅子は無く床は毛足の長い白の絨毯がひかれ、天井からは薄く透ける何枚ものカーテンが床に降りていた。
『草』の鼻につく異臭を隠すように甘く幻想的な香が焚かれ、くぐもった嬌声を隠すように楽師がリュートを奏でる。
ブルーノは靴を脱ぎ素足になって絨毯に上がった。ヘクターもそれに従い靴を脱ぐと装具に覆われた右足が露になる。
「足、悪いんだったね。……じゃ、ここじゃなくても逃げられなかったね」
ブルーノが耳に口を寄せ小さく笑う。
大きく柔らかなクッションにもたれ床へ座ると、薄いカーテンが閉じられ小さな部屋ができた。
髪の毛を崩し、逃げる気が無いことを示すように帽子を投げる。それを見てブルーノも嬉しそうに帽子を脱ぎ、大きな猫耳が露になった。
いつの間に注文したのか、銀の脚付盆の上に、林檎の匂いをした乳濁色の酒が二人分置かれている。
「……珍しいお酒ね」
「変わってるだろ。米の醸造酒。甘くて呑みやすいんだよ」
ふーん、と呟いて口をつける。舌に痺れる辛さとさらりとした甘み。
「美味しい……」
しかし度数が高い。ヘクターが呟くとブルーノが身体をすり寄せてくる。
こいつ、捕食するつもり満々だな……。当たり前だが、捕食される気などさらさら無い。ある程度親しくなり『花』の情報への足掛かりを作ろうとは思っているが。
「……ここまであからさまだと、流石に引くわー」
つい呆れた声を出してしまった。
「っ! 引かないでっ。解ってついて来てるんだよね?」
「まー、何となくはねー。でも引いちゃうものは引いちゃうわよ。あんまりガツガツされると」
どうにかしてブルーノを煙に巻き、友人としての距離を確保したい。ぐるぐると考えを廻らせながら、顔に笑みを張り付かせ、酒をゆっくりと口に含む。
「……ね、ちょっと」
ブルーノが呼び掛ける。気付くとすぐ近くに顔があった。アーモンド型をした金の瞳、黒く縦長の瞳孔。瞳孔の周囲は青く縁取られ上質な琥珀のように妖しく美しい。
吸い込まれるように瞳を覗き込む。ゆっくりとした瞬き。愉しげに金色が細められた。
意識が抜け落ちる。
喉の奥まで差し込まれた薄く長い舌。表面の棘がザラリと扁桃腺を舐めた。皮膚が粟立つような感触にヘクターの意識が戻る。
覆い被さるようにのし掛かり、獣の顔で獲物へと喰らいつくブルーノと目が合った。ブルーノが金色を細めると再び、ゆっくりと身体が崩れ墜ちていく。床に倒れる反動を使い、ヘクターは反射的に膝で蹴り上げた。
数分の後、ようやく戻ってきた意識に身体を起こすと、ブルーノが鈍痛をこらえ吐き気と戦いながらうずくまっていた。
思わず安堵の息を漏らす。
「……当たったか。……うわあ、御免なさいね。つい」
声色を切り替え、労るように腰を軽く叩いてやる。
「うー」
「ブルーノ。今回はてこずってるようだな」
カーテンが割られ男の顔が覗く。ようやく痛みが消えたのか、呻いていたブルーノが顔をあげ男に答えた。
「すぐ陥落させるから」
「本人の前で何を言うのよ。私、強引な人は苦手なの。無理矢理しないで頂戴」
ヘクターが苦笑いし、からかうような口調で言う。ブルーノは気を取り直し、誘うように膝へ登った。
「僕、ヤマネコだからさ。人間と違う感じが癖になるよ。ほら、舌もざらざらしてたでしょ? 最初のうちは刺さって痛いけど、慣れるとそれも快感になるから。試してみない?」
「遠慮しますっ!」
「……む」
ブルーノがヘクターの顔を両手で掴み、目線を合わせようとする。覗いていた男が陽気に笑い、ヘクターに言った。
「気を付けるといい。ブルーノはすぐズルするからな」
「ズル?」
「やっぱり気が付いてなかったか。ブルーノの目を見ると意識飛ぶだろう? 惑乱のヤマネコって言うんだがな。目を見詰める事で意識を奪ったり混乱させたり出来るらしいぞ」
「それ、バラしちゃダメだろっ!」
ブルーノは咎めるように叫び、ヘクターの目を強引に覗き込む。ヘクターは急いでブルーノから目線を外した。
回り込む。向きを変える。頭を掴む。目を遮る。子供の喧嘩のように掴み合い必死の攻防を繰り広げる。
ヘクターがブルーノの頭をクッションに埋め一息つくと、隣のカーテンが大きく開けられた。
「ははは、ブルーノと仲良くしてやってくれ。面白いネコだからな」
「友人としてならねっ」
ブルーノがバタバタともがく。クッションに押し付ける力を少し弛めると、勢いよく顔を上げ、ぷはあと息を吸った。
カーテンの向こう、隣の空間に居たのは若い男。上等で仕立ての良い服を身に纏い、壁にもたれ酒を呑んでいる。
捲れた袖口から魔法陣の刺青が見えた。
一筋、紫煙が上がる。
男は巻きハーブを吸い、灰を落とさないよう慎重な手付きで皿に置いた。息を止め、長く肺に溜め込み十分に味わう。やがて野草の臭いがする煙を細く吐き出した。
男が皿に戻したハーブをブルーノに渡すと、ブルーノは幸せそうに目を細め喫み、今度は皿をヘクターに廻した。
『花』の匂い。
「……ヘクターさんも、どうぞ」
「私、ハーブがダメなの。体質的にすぐ悪酔いしちゃうから。……こういうお店の雰囲気は凄く好きなんだけどね」
「ここのはいいヤツだから、あんまり悪酔いしないよ」
ヘクターは困ったように笑い、首を振った。何しろ本当に苦手なのだから。
「じゃ、その分呑むから」
仕方なくそう言うと男が店員を呼び、目の前に高そうなボトルが次々と並べられる。
「奢るから、全部呑むんだぞ」
男が笑う。背中を汗が伝うのがはっきりとわかった。
……潰れたら確実に喰われるな。ブルーノだけでなく男も捕食者の目をしていた事にようやく気がついた。
※※※
ダリアが夢から醒めると、喉が酷く渇いていた。
ああ、昨夜はカクテルを呑みすぎたんだ、と思いだし、目を擦りつつ静かに台所へ向かう。
「……あっ」
ダリアは小さく声をあげた。
台所の床。服を着たまま眠るヘクターを踏みそうになってしまったからだ。起こさないよう静かに水を飲み、枕元にしゃがみこむ。
「……ママ、こんな所で寝ちゃ、ダメだよ」
ダリアがそう囁くと、ゴロリと寝返りを打ちダリアの膝に額を当てた。汗に混じる酒の強烈な臭い。形の良い額に髪の毛が張り付いている。
「仕方ないな」
ダリアは重力を操作し、ヘクターを腕に乗せ持ち上げた。そのまま静かに慎重に、ヘクターのベッドへ運び入れ、丁寧に靴紐をほどき靴を脱がせた。
「服、脱がさなくていいよね?」
ヘクターにそう話し掛け、シャツの前を弛めベルトを抜き取り、薄い毛布をかける。
ダリアは床に跪いたままベッドに頬杖を付き、寝顔を眺めた。
広い胸が寝息に揺れ、毛布がゆっくりと上下する。
薄く滑らかな耳。堅く引き締まった顎骨。彫刻のように尖った鼻に深い眼窩。長い睫毛に飾られた瞼はしっかりと閉じられ、唇は薄く開いている。
何歳も年上の男性に対し、そう思うのは可笑しいかも知れないが。
「可愛いなあ」
ダリアはそう呟いた。
「……ダリア?」
ヘクターが柔らかく瞼を開く。眠たげな黒い瞳が睫毛の隙間からのぞき、ダリアを捕らえた。
「あ、……な、なあに?」
目が合う。顔に一気に血が昇り、鳩尾がぐるぐると掻き回される。心臓が跳ねるように高く音をたて、静かな室内に響いた。
「……俺、頑張った。褒めて……」
俺?
普段のオカマ言葉とは違う、男らしい口調。
まあいいか、と、ダリアは指を伸ばし、髪を鋤くように優しく撫でた。
ヘクターは満足したように目を閉じ、再び夢へと墜ちていった。