人魚の記憶
春の祭が終わり、暦の上での夏が始まった。
王城手当室に面する中庭では、春先の白薔薇に替わり赤い薔薇が見頃を迎え、強く華やかな芳香を放っている。
週に一度の足の検査に来たヘクターは、幌馬車を手当室へピタリと横付けさせ、大きく開いた硝子窓から室内へサッと入り、急いで濃紺のカーテンを閉めた。
「すげー。やたら人がいるな、ミュー」
「……これは、どういう事態なのだろうか……」
中庭から手当室を伺う人影は以前より数を増やしている。
王子ミューラーは当初、根も葉も無い噂などすぐたち消える、と考えていた。しかし、消滅どころか歪な尾ひれを伸ばし、真実味を増しながら広がり続けている。
「結局、どんな噂がたってるんだ?」
ヘクターがベッドに腰掛け、パンツの裾をたくし上げながら言う。
白竜の長、ザルバは椅子をヘクターの前に動かし、足を診ながら答えた。
「俺もその噂なら耳にしたぞ。市井で男娼を扱う店に通っているだの、若い騎士に手を出しただのと。概ね事実で魔導具と各種薬品を処方したと広めておいた」
「エグい煽り方をするなっ! 変態さが増してるじゃないか!」
ミューラーが顔を赤くし叫ぶと、ザルバは不思議そうに首を傾げる。
「こんな馬鹿げた噂、ちゃんと正式の愛人を定めるか、婚約したならばすぐ消えるだろう? 何故さっさとそれをしない」
ミューラーはうっと言葉をつまらせ、ベッド脇の椅子に腰掛け頭を抱えた。
「それより狗、足はだいぶ良いな。簡単な装具を作っておいた。しかしまだ走ったりはするなよ。杖もちゃんと使え」
ザルバは口元に笑みを浮かべ、傷口を浄化した。削り出しの木材で出来た装具をヘクターの足に装着し、細部を調整する。
ヘクターはベッドから立ち上がり、ほんの少し、右足に重心を移動させる。木製の装具は見た目よりも軽くしなやかで、要所をしっかりと固定するようだ。
「……呪われてないよな?」
「残念ながら今回は補助魔法と祝福のみだ。次からは期待に応え呪っておこう。着けた感じはどうだ?」
「うん。杖なしでも歩けそうだ」
「杖を使えと言ったばかりだ。随分と哀れな脳だな。絶対、杖なしでは歩くな。もちろん屍鬼狩もまだ駄目だ」
「……ちなみに、どのくらい経てば依頼の許可が出るんだ?」
ミューラーが顔を上げ、口を挟んだ。
「経過にもよるが、一年半は駄目だな」
「いっ……! いくらなんでも長すぎるだろう。ザルバの補助具と魔法があればもっと早くどうにかなるのではないのかっ? すぐに調べてほしい事件が幾つかあるのだが」
「治療する立場の人間が、完治前に暴れる許可を出す訳が無いだろう」
「……な、ミュー、どんな事件があったんだ?」
足の動きを確認しつつ、ヘクターが尋ねる。
「ああ。昨夜、西地区から中央地区にかけて、大規模な魔法の暴走が起きた。時計塔の大時計は夜半過ぎを指したまま停止している。おそらくその時刻に魔導師によるテロのようなものが……」
ヘクターは思わずその場で床に伏した。
「それ、迷宮入りさせといてくれ。犯人はうちのアレだ」
「……あの子か、すごいな」
「なんだ、狗の所の魔物の仕業なのか? どんな魔物なんだ。一度見物に行かねばな。……そうだ、渡しておかなければならない物がある。暫く待て」
ザルバが思い出したように立ち上がり、部屋を出ていった。
その後ろ姿にミューラーが呟く。
「ファザコンめ。一年半は長過ぎだ」
ヘクターは片眉を上げ、ベッドに座り直しながら言った。
「父親とかじゃねーよ。あいつ、完全に俺を只の馬鹿だと思ってやがる。ほら、他の依頼は何だ?」
ミューラーは懐から指輪と書類を取り出し、ヘクターに渡す。
「例の指輪と船の報告書だ」
まだ『従』の呪いが解呪されていないその指輪は強い魔力を放っている。
と、部屋の扉のノブが動いた。ヘクターは書類を丸め、指輪と一緒にポケットに入れる。
ザルバが大きめの封書を二つ抱え、戻ってきた。
「これだ。早めに手続きをしておけ」
そう言ってヘクターに手渡す。中にはそれぞれ、『魔獣取扱い資格取得試験案内』と『特殊ペット登録書』が入っていた。
「……こんな資格があったのか」
「昔はありふれた資格だったそうだがな。魔物使いになるのなら必須だ。……獣人にも好かれたか。ヤマネコの魔力を浴びているぞ。ある意味羨ましい才能だな」
「そんな才能はいらん。むしろヤマネコ予防にいい物は無いか? また店に来られると困る」
ふむ、とザルバが言った。
暫く考え、ヘクターに向けて右手のひらを広げて見せる。
「とりあえずポケットの指輪を渡せ」
ザルバはミューラーを振り返り、嘲るように口角を上げた。
「そんなに解りやすい魔力を放つものを移動させて、気がつかないと思うか?
……ほら、これを使え。ただし、常に付けるのは駄目だ。面白くなくなる」
ザルバは指輪を受け取ると呪いを『解呪』し、上から新たな魔法を掛けた。
ヘクターの手のひらに戻された指輪は、清浄な魔力を放っている。
「面白くなくなる?」
「ああ、言葉通り、面白くなくなる。用は済んだ。そろそろ帰るがいい。俺は今からこの馬鹿王子とちょっとした話し合いをしようと思う」
ミューラーの顔色がサッと青ざめた。
※※※
「ただいま……ダリア、いないのか?」
ヘクターは城から従業員部屋に戻ったが室内には誰も居ない。
以前にも似たような展開があった事を思いだし、心臓が僅かに跳ねた。
窓を開け、明るい午後の日射しを部屋に入れる。
魔力の暴走で店内が滅茶苦茶になってしまったため、バー『青兎亭』はしばらく休む事になった。十八歳の娘が休日の午後に一人で出掛けているからといって気にする必要は無いだろう。
殆どの家具が切り裂かれてしまったリビング。城に行く前に急いで床に描いた結界が、静かに光を上下させている。足の踏み場が無いほど散らばっていた家具の破片は全て片付けられ、どうにか歩き回れるようになっていた。
しかし座れる場所は無い。リビングから自室に入り、ベッドに座り書類を広げる。
「魔獣取扱い資格取得試験案内……。ザルバのやつまさか本当に、俺が魔物使いを目指していると思っているのか? それから、特殊ペット登録書か。……ダリアをペット登録……って出来るかっ。あとは、草原の船の報告書……」
片膝を立て、ベッドの上でじっくりと文字を追う。
草原の船はダリアによって空から墜とされ、ぐしゃぐしゃの木片になった。
報告書によれば、上下二層の漕室を持つ中型の海賊ガレーで、内海にある小島で造られていたタイプだそうだ。
近年では大量の奴隷を必要とするガレー船は殆ど造られていない。この船は何年も前に造られた古い廃船なのだという。
船首には金メッキされた双脚の人魚像がつけられていた。これも内海の小島で造られたもののようだ。
他には、幾振りかの古びた海賊刀。何樽もの赤葡萄酒。屍体の懐から上質の『花』。
赤葡萄酒はヨルドモ城塞では極ありふれたもの。樽に中央地区西よりの酒販店の印があったが、酒屋と船との間に関連性は見られなかったらしい。
城塞内の人間が船に酒を持ち込んでいた、という証拠にはなるだろう。
それから指輪。
ヘクターはポケットから取り出し、魔力を込めつつ眺めた。
「相変わらず、解りにくい魔法のかけ方してんな……。『面白くなくなる』指輪って何なんだよ」
ザルバが呪いを解き、新たな魔法を掛けた指輪から、清浄な気配が放たれている。
悪いモノでは無いのだろうが『面白くなくなる』が引っ掛かり試しに着ける気にはなれない。
指輪の石の品質は低級。屑珊瑚を硝子で固めたものだそうだ。割れやすく、この辺りではもっとも手に入りやすい駄石と言える。
そのため寧ろ、『従』の指輪を作った魔導師の力量の高さが伺えた。
「ガレー船、屍人、葡萄酒、『花』、人魚、珊瑚の指輪。屍鬼主と……兎。船は空を飛んで、屍人と人魚とダリアが歌う……」
頭が痛くなりそうだ。眉間を押さえ、首を振る。
と、本棚に乗せられた石が目に入った。青月石。昨日マイヤスに渡されたものだ。
マイヤスはこの石を使ってダリアの暴走を止めていた。
「……青月石と飛ぶ船の模型、それから兎の魔力」
ヘクターの記憶に残るガレー船が、このガレー船と同じもので、中にいた兎がダリアの父親だとしたら。
「マイヤスも何か絡んでそうだよな……」
ヘクターは仰向けに寝転がった。
※※※
「ママ、ただいま」
部屋の扉がそっと開き、ダリアが顔を覗かせる。
「ダリアちゃん、お帰りなさい」
起き上がり、書類を本棚へ差し込みつつ微笑むと、顔を赤らめながら部屋に入ってきた。
ダリアの腕の中には大きな紙袋。甘そうな香りが漂う。
いつの間にか日が落ちてきている。魔導具の照明は全て壊れてしまったので、カーテンを閉じ、ランプに灯を点した。
「夕御飯買ってきたよ。台所もあんな風になっちゃったから……」
ダリアはベッドの上に座り、ヘクターに紙袋を渡した。
ライチ、苺、オレンジ、グレープフルーツ。レーズンのパンと無花果のパン。
全部甘そうだ。俺は肉も食べたいんだが。味覚も兎なのか?
「……ダリアちゃんってあんまりお肉好きじゃないわよね」
「うん。果物とパンが好き。お野菜も好きだけど。お肉って臭いし、豚の気持ち悪いの見ちゃったから、あんまり食べたくないかな」
明日からは自分で食糧を手に入れようと心に誓った。
※※※
「昨日は暴走しちゃって、ごめんなさい」
ヘクターのベッドの上、ダリアがパンをかじりながら言った。
バンダナを引き抜くと、兎耳は力なく揺れている。
「……迷惑かけちゃった。あの帽子の人って、やっぱり昔の……?」
「違うわよ。昨日始めて会うお客さん。私もああいうの久し振りで油断してたわ。大丈夫、特に好みじゃないから」
「お店もお家も、私、壊しちゃった。修理、結構かかるよね?」
店どころではなく街や大時計までも破壊しているのだが、その事は伝えていない。
「ん、まあね。明日内装業者に来てもらうけど、月の一巡りくらいは修理にかかるんじゃないかしら。その間はお休みにしなくちゃね」
「……お金も、すごーくかかるよね」
兎耳がぐにゃりと落ちる。
「そりゃ、かかるけど別に気にしないで良いわよ。貯金あるし」
「っでも、弁償するね! ごめんなさい……」
「……弁償ねえ」
ヘクターは企むように目を細めた。
「そんなに気にしないで大丈夫よ。何十年かタダ働きしてもらうから。その間ちゃんと、食事や生活費は面倒みるし、お小遣いも少しあげるわ」
その方がとっても都合がいいし。ダリアには聴こえないように呟く。
「……何十年かタダ働き……。それは流石に嫌だし。お仕事増やして早く返そうと思うの」
「いいわよ、別に。のんびりで」
「だから今日、職業斡旋所に行ってきました! 見てこれっ!」
「行動早いなっ!」
ダリアがベッドの上にメモを広げる。
「前回はお仕事未経験だったからあんまり選択肢が無かったんだけど。ほら今回はこんなに色々! お城の騎士寮のメイドさんでしょ? お城の食堂の給仕さんでしょ? お城の部屋付きの掃除婦さんでしょ? それから……」
「ちょ、ちょっと待って。何で城ばっかりなの?」
ダリアは少し得意気に笑った。
「今回、お店がお休みの一巡りはみっちりお仕事できるけど、その後は午前中だけになるから。そうなると、仕事を覚えてすぐ時間を減らす感じになってあんまり良くないんだって。
でもお城の場合、一巡り分マナー研修を受けてからお仕事だから、丁度いいって聞いたの」
「……城は却下ね。特に騎士は飢えてるから」
「えーっ! お給料いいのにっ! ほら、騎士さんが駄目でも、お城のお仕事他にも沢山あるのよ」
メモを一枚づつ、ヘクターの手に乗せていく。
「……ダリアちゃん、これ……」
「あ、ね、それ、すっごくお給料いいよね。湯女っていってね、王様とかのお風呂のお手伝いをするんだって」
「職業斡旋所の係りの人、教えて。殺しに行くから」
「ええーっ!?」
何も解っていない娘にこういった仕事を勧めるなど、質が悪い。
「とにかく、城はダメよ。魔導師だらけだし、灯り一つでさえ魔法がかけてあるわ。頑丈な結界に包まれているから、もし中でダリアちゃんが暴走したら、お城壊れちゃう」
それにおそらく、魔物に近い魔力を持つダリアは、結界に拒まれて中に入れないだろう。
「うーん。城以外だとどれがいいかなあ……。貴族の館のメイドさんとか……。住み込みばっかりだけど」
「ほんと、そういうお仕事やめて? 結構洒落にならないから。お給料高いのには高いなりの理由があるのよ。せめて普通のにして、普通の」
「普通のかあ……。じゃあ明日また探しに行ってみるね」
「今日と同じ係りの人は止めなさいね。あと、他に住み込むのもダメよ。うちにいなさい」
ダリアはハーイと間の抜けた返事をしながらベッドを降りる。
どうしたもんかな……。
ヘクターは頭を抱えた。ダリアは自分自身が稀少で特殊な存在である事をあまり理解していない。
『いつでも回収します』
そういって笑うマイヤスの顔が頭を横切り、枕を殴った。
※※※
紺碧の空に月が大きく輝き、凪いだ海に青白く筋を落とした。人魚の入り江では波頭が弾け、飾り罫のように岩の縁を彩っている。
少女が海へ落ちる。黒い海面にぱしゃり、丸い銀波が残った。
下に下に。直立の姿勢のまま、海面から遠ざかる。すぐに髪の毛まですっぽりと闇に溶け、足の裏が砂に触れた。
浮き上がらないよう肺を海水で満たし、身体を小さく丸める。水をかく必要は無い。潮に身を任せれば人魚の住処へと勝手に運んでもらえる。
『毬藻みたいだよね』
少女が呟く。クスクス、と、少女の中で少年が笑う。そのまま、少女は白い毬藻になったつもりで海の宙を漂った。
『ロージー、もう着くよ』
少年にそう言われ、少女……ロージーはゆっくりと手足を伸ばす。
人魚の滑らかな肌に指先が触れた。
目を開く。闇の中、青白く輝く人魚。
身体を珊瑚のソファーに委ね、金の髪は潮流に揺れる。夢を見ているのだろう、時折ひくりと跳ねる水平な尾びれは真っ白で、上質の絹のようだ。
『十五年前は、もっと力強く輝いていたんだ』
ロージーの中の少年、モーリスが哀しげに言った。
『……起きないね』
『うん。もう、力が無いから。僕たちの為に、魔力を使っちゃった』
ロージーが人魚の上に登る。柔らかな白い皮膚が重なり、人魚は優しく腕を開いた。
細い指先がロージーの髪を穏やかに鋤く。
目を覚ましたのかと期待し人魚の顔を見たが、瞳は硬く閉じられたままだ。
『……歌声が、聴きたいな』
『僕はせめて、あの青い瞳が見たいよ』
身体を失ったモーリスの為に、崩壊間際のロージーの為に、残り僅かな魔力を使ってしまった。目を覚ます頻度は次第に下がり、今では殆どを眠って過ごしている。
『兎さえ捕らえればって、僕の父上が言ってる。……ちょっと前までうちには兎がいたんだよ』
『兎なんて、もうどこにもいないじゃない』
「……兎?」
人魚がそっと声を出した。
ロージーは人魚の顔を覗き込む。
「……サラサ、兎の赤い瞳を見ないで……」
眉が哀しげにしかめられた。それはいつもの人魚の寝言。
まだ人であった魔女の夢。
ロージーも人魚に抱かれたまま瞳を閉じ、眠りについた。