兎の祭・後
大教会前青空市場。春の女神の誕生祭が行われている今日は、花売りのテントに代わり、焼き菓子や果物の砂糖浸けを売る屋台、玩具くじの出店等が並んでいる。
『青兎亭』の開店準備を終えたダリアが祭の屋台を見学していると、おそらく学校の友人たちだろう、女の子の集団に笑顔で手を降り別れるアネットを見かけた。
アネットも頭に兎耳のカチューシャを付け、鼻の頭を黒く塗っている。
「アネットちゃん、どうだった?卵」
走り寄り戦果を尋ねる。するとアネットは急に笑顔を崩し、項垂れた。
「……今年も、ゼロだったわ」
「そっか。私、一度も見つけたことないよ。難しいよね」
ダリアが言うと、アネットは訝しげに顔をあげる。
「そういうんじゃなくてね。何個か見つけたんだけど、つい他の子にあげちゃって。気がついたら今年も全部無くなってたの。……見つけたこと無いって、どういう事?」
「えっ。毎年、一生懸命探してたけど見つからなくて……」
「……そっか。そういう子もいるのね。なんだか私、元気がでた! ダリアちゃんありがとう!」
「……」
春の祝いを兼ねた祭だ。用意される卵の数は子供の人数よりもだいぶ多い。
毎年数人、卵を手に入れられない要領の悪い子供がいるが、殆どの子供は複数個の卵を手に入れる。
「まだ残ってるかもしれないよ? アネットちゃん、探してみたら?」
「えー、もう無いって。みんな帰ってるし。それより、おやつ買って一緒に食べようよ」
「おやつ……そうだっ! チョコレートケーキ!」
ダリアが叫ぶ。
今朝目が覚めた頃、ケーキ作りを終えたヘクターがようやく家に戻ってきた。
調理と清掃に明け方までかかってしまったとかで、そのまま不機嫌そうにベッドに入って寝てしまい、ダリアはケーキを食べたいと言い出す事ができなかった。
厨房をこっそり覗いてみたが、ケーキはわざわざ鍵のかかる扉に仕舞われており、つまみ食いさえできていない。
「チョコレートケーキ?」
「うん! ママがね、お祭り用に沢山ケーキを焼いてたの」
「相変わらずママって呼んでるのね」
「……名前で呼んじゃ、ダメだって」
ダリアの声が小さくなった。
「なんでよ? もういっそのこと、変態って呼べばいいじゃない。変態なんだから。
それよりそのケーキ、ちゃんと食べれるの? 変態が焼いたケーキなんて……」
眉をしかめるアネットに、ダリアが得意気に言う。
「ママは料理上手だから、きっと美味しいよ。いつも私の分の食事、ママが作ってくれてるんだから」
「……ダリアちゃん。それ、女子としてダメだと思う」
「……あ。そっか、ダメだね……」
このままでは完全に母娘だ。
「と、とりあえず店に行こうよっ。あー私、すっごくチョコレートケーキが食べたいなー」
駄目過ぎる事実に気が付き、呆然とするダリアをズルズルと引き摺りながら、アネットは『青兎亭』へと向かった。
※※※
『青兎亭』の厨房。ヘクターは一人、チョコレートケーキを棚から降ろしながら昨夜の出来事を思い返していた。
「……獣人だから、なのか……?」
ヨルドモ城塞に亜人自体が殆どおらず、接する機会はないため、生態がよく解らない。
獣人は人間より本能に忠実、と聞くものの、いくら何でも食欲だけで男の指を舐めるようでは扱いに困る。
自分だからそうしたと思いたいが、少し親しい相手であれば同じようにするのではないだろうか。
試しにアネットで想像してみる。
昨夜と同じように、アネットにチョコレートシロップがかかったなら……。
「大喜びで舐めまわすな」
アネットであればまだいい。とても怪しい光景だがじゃれあっているように見えなくもない。
しかし問題は男の友人が出来た場合だ。あのように無邪気に指をしゃぶられて、冷静でいられる男がいるはずがない。
深い溜め息が漏れた。
「ただいまっ! ママ!」
「へんたーい、ケーキ食べにきたよ」
入口扉の鐘を鳴らし、ダリアとアネットが入ってくる。
ヘクターは、微妙な想像をしていた事など微塵も感じさせない笑顔で、二人を出迎えた。
「おかえり。アネットさん。卵はどうだったの?」
「……そんな事よりケーキ」
アネットが軽くヘクターを睨む。ヘクターは笑いながらケーキを切り分け、生クリームとレーズンで飾り付ける。
アネットとダリアはテーブル席に座り、肘を突いて話を始めた。
「私が隠した卵も無くなってたよ」
「へー、何処に隠したの?」
「下の植え込み」
「……そりゃ見つかるわよ。普通に」
二人分の足がテーブルの下でブラブラと揺れている。
ヘクターがチョコレートケーキと牛乳を並べると、二人は急いでフォークを握り、口へ放り込んだ。
「なに美味しい、変態の癖に! ……あれ、これ?」
「……私のもだ」
ケーキの中からウズラの小さな卵。
アネットがフォークの背でくしゃりと卵を潰すと、兎を型どった銀のピアスが出てきた。
「うわあっ」
アネットが嬉しそうに笑い、耳に当てる。
ピアスには屍鬼避けの陣が刻んである。気休め程度の効果でしかないが、無いよりはましだ。
変態おじさんとしか思われていないヘクターが直接渡したところで、受け取っては貰えないだろう。
「ね、ダリアちゃんも卵開けてみてよ」
アネットが言う。ダリアは自分の卵をしばらく眺めた後、答えた。
「開けない。初めての卵だもん。このまま宝物にする」
「えーっ! 中身、食べ物とかだったら腐っちゃうよ?」
ダリアは卵を鼻に当てる。
「……大丈夫。金属の臭いがするから」
そう言ってハンカチを取り出し、卵をそっと乗せた。
ダリア、開けないのかよ……。
優しく穏やかに卵を眺めるダリアに、ヘクターは頬をひきつらせる。
「……変態。卵ありがとね。ケーキも美味しかったし」
いつの間にか隣に来たアネットが、ヘクターに耳打ちした。
「あら意外。子供騙しだって怒るかと思ったら」
「十二歳にはね、大人の仕掛ける子供騙しに騙される義務があるのよ」
アネットが笑う。
ヘクターはふんっと鼻を鳴らし、言った。
「その子供の哲学、三年も経たずに砕かれるわ」
「地味に酷いっ! ……まあ、いいけど。ところで」
アネットは声を潜め、ダリアを見ながらにやっと笑う。
「ダリアちゃんの卵、何を入れたの?」
「酷い大人だから。教えてあげない」
「……うっわ」
「そろそろこっちも仕事だから、さっさと帰りなさいよね。ここは大人のお店なんだから」
だいぶ日の落ちるのが遅くなった空も、ようやく紅く染まりはじめている。
※※※
夜を迎え、子供の祭りは大人の祭りへと様相を変える。
バー『青兎亭』は兎や狼の仮装をする大人の男女で溢れかえり、本日ばかりはとスタンディングでの飲食も許可された。
蒸留葡萄酒がたっぷりかかったチョコレートケーキは、随分と早い時間に全て捌けてしまっている。
忙しくなる事が最初から予想済みだった為、繁忙な時間帯を越えるまではメニューを麦酒のみに絞り、一杯毎にコインと交換する方式に変えた。
それでも目が回るほどに忙しい。
この『お祭り騒ぎ』は長々と続き、通常の営業に戻す頃にはいつもの閉店時間近くになっていた。
「こんばんは」
カラン、と扉が音をたて、小柄な中年男性が店内へと入る。
「いらっしゃいませ。あ、マイヤスさん、もうケーキ終わっちゃいましたよ」
「残念。少し遅くなりすぎでしたね」
ダリアがカウンターへ誘導しようとしたが、マイヤスは首を振り、テーブル席に荷物を置いた。
「……こんばんは。お久し振り、ですね」
ヘクターは戸惑い、言った。
まだ店内には数名の客。常連3組と、カウンターで静かに呑み続ける新規の客がいる。
「ああ、狼さん。ちょっとお話ししたいと思っていまして」
「おおかっ……」
マイヤスは平然とヘクターを『狼』と呼んだ。そして極当たり前のようにズカズカ厨房へと入り込む。
ヘクターもカウンターの内側から厨房に入ると、マイヤスは笑顔で言った。
「狼さん、兎さんを飼うのは大変でしょう? いつでも回収いたしますが、いかがですか?」
「……何故、狼と?」
「兎を追いかけるのは狼の役割、じゃないですか。私、名前を覚えるのが苦手なんです」
楽しげに答えるマイヤスに、どちらの顔で接すればいいのかが解らない。ヘクターは無難にバーのママとして話す事に決めた。
「……別に、大変じゃないわよ。変だけど真っ直ぐでいい子じゃない。回収って何。あの子は自分の意思でここにいるんだからね」
「おや、失礼。兎さんを育てた母親がずいぶんと厄介な女性でしたから。真っ直ぐに育ってくれたとは、奇跡ですね」
「母親?」
ダリアがどんな育てられ方をされてああも無邪気になったのか、少し興味をひかれる。
「気になりますか? 私の従姉、サラサは変わり者でして。何しろ兎人と結ばれたほどですから。例えるなら、愛らしく笑いながら首を跳ねるタイプ、と言えば解りますかね」
「……ダリアちゃんは、そういうんじゃ無いと思うわ……」
「それは良かった! ああ、あの光景は衝撃でした……。サラサが一人で育てた、という時点で嫌な予感しかしなかったのですが」
例え話じゃ無かったのか……。
ヘクターは動揺を隠し、表情を平静に保とうとした。マイヤスは身振り手振りも大袈裟に話を続ける。
「まだしばらく、お願い致しますね。しかし棄てる場合はお早めに。手遅れになると困りますから。いつでも回収いたしますから、何かあればすぐ言ってくださいね」
マイヤスはヘクターの返事を待たず、ふいっと厨房から出る。そしてそのままホールにいるダリアへと話しかけた。
「ダリアさん、大事なお話、終わりました。
もし良かったら私と席で話してくれませんか?」
「あ、はい」
ヘクターが口を挟む隙を与えず、マイヤスはダリアと席につく。
ヘクターも厨房からカウンターへと戻り、苦い顔でマイヤスを睨んだ。
「……可愛い子だね」
カウンターに座る新規の客。茶色の長い髪を一つに束ね、つばの広い帽子を被った細長い男が二人を眺めながら呟いた。
「うちの従業員に手を出しちゃやーよ。あの子、いろいろ免疫低いんだから。……何か呑む?麦酒以外も出せるわよ」
帽子の客のグラスが空になっている。ヘクターはメニューを広げ、手渡した。
マイヤスが何か喋る度、ダリアが柔らかく笑う。
あいつ、ダリアの事、物みたいな言い方しやがって。親戚ってだけなくせに。
親しげに笑いあう二人に苛々と首の後ろが熱くなる。
「じゃ、葡萄酒下さい。……よかったら貴女もどうぞ」
「あら、ありがとう。頂くわ」
帽子の客は葡萄酒を奢ってくれるという。お言葉に甘え、ヘクターは酒に口をつけた。
「やっぱり、すごく可愛いね」
「そうかしら。まあ、見た目はね」
他愛ない会話を続けながらも意識はつい、マイヤスへと持っていかれる。
もう夜遅い。常連客たちもポツリポツリと帰り始め、店内に残るのはマイヤスと帽子の客だけになった。
「この店、『草』とか、置いてないの?」
「うちは中央から近いでしょ?それに女手二つで切り盛りしてるから、ハーブ置いたら危ないじゃない?」
ヘクターは冗談めかして言う。
「そうだね、危ない」
帽子の客も笑って答えた。
「顔の怪我、どうしたのか聞いてもいいかな、お嬢さん?」
「ふふ。料理中に油かかっちゃっただけよ」
「……ふうん。綺麗な顔なのに、勿体無いね」
「どーも、ありがと」
違和感。
あ、このパターンはもしやあっちか、等と考えていると、カラカラと響く高い音に思考が分断された。
マイヤスが沢山の宝石を卓上に並べている。
青月石?……女を買い漁る中年親父みたいだな。
心の中で悪態をついた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰るね。いい店だね。また来るよ」
帽子の客が言う。
お会計を、と、金額を伝えると額面の大きなコインを一枚手渡された。カウンターから出て釣りを手渡す。
跳ねる金属音。
手が滑ったのだろう、少額のコインが床にばら蒔かれた。
ヘクターは膝を折りコインを集め、それを手渡そうと帽子の客を見上げる。
帽子の影で光る金の瞳。黒く細長い瞳孔。
亜人?
つい瞳を覗き込むと、金の瞳が嬉しそうに細められた。
頭を揺さぶる衝撃。目の前が真っ白になる。
一瞬の喪神。
口腔を意思を持つように蠢く薄く長い舌。ざらざらした棘が歯の裏を摩り、その痛みに意識が戻る。
より深く舌を差し入れようと強く掴まれた顎が捻られ、覆い被さるように視界を塞いでいた帽子が落ちた。
うわ、喰われてる。
噛みつくように舌を貪られ、ようやく状況に気がつく。焦り視線を泳がすと、頭越しに叫びだしそうな顔でこちらを見つめるダリアと目があった。
ダリアの顔が歪む。
兎の魔力が雷のように空気を割いた。
「臥せっ!」
ヘクターが帽子の客を引き摺り倒し、地面に臥せさせる。背後の厨房から耳をつんざく轟音が響き、背中の上を嵐が走った。
瓶が、グラスが次々と割れ椅子が飛ぶ。
「ーーーーっ!!」
ダリアの叫び声。
顔を上げ走りよろうとすると、マイヤスが青月石を掲げるのが見えた。
ぐらりと、ダリアが揺れ、倒れる。
兎の魔力が収まり、暗く静まり返った店内でマイヤスの手に握られた青月石だけが強く輝く。
「……次は、本当に、回収しますよ。これ以上、兎さんに無駄に力を使わせないで下さい」
腕にダリアを抱え、マイヤスが怒りを露に呟いた。
マイヤスは青月石をランタン代わりにヘクターに近寄り、ぐったり眠るダリアと青月石を押し付ける。
「では、私は帰ります。おやすみなさい」
扉がカラン、と音を鳴らし、マイヤスが店を出た。
石に青白く照らされた帽子の客。彼は既に意識を失っている。
帽子は傍らに落ち、その猫を思わせる耳は高く延び、茶色の毛に覆われていた。
……ヤマネコの獣人か。ヘクターはヤマネコを玄関の外に置き、帽子を被せる。
ダリアを抱えて従業員部屋に戻ると、案の定、室内の結界の魔法陣も、床を切り裂いてぐしゃぐしゃに壊れていた。