三章エピローグ
「赤蛇の……たしかカミュ、だったな。朝飯まだなんだろう? 一緒に行かないか、美味い店があるんだ」
新米騎士カミュにとって、今日は久し振りの非番だ。
こころゆくまで春眠を貪ろうと思っていたのだが、つい普段通りの時刻に目覚めてしまい、持て余した時間を大教会での礼拝にあてた。
そして祈りを終え教会を出たところを、同じく非番なのだろう、一つ上位の階級、赤蠍に属する騎士から声をかけられたのだ。
顔見知り程度の仲ではあるが、先輩だ。つまりこれは誘いではなく、命令なのだろう。
「はい。お供させて頂きます」
カミュは畏まって応え、赤蠍に従った。
連れて行かれた先は中央市場だった。
大型の倉庫のような建物の中に幾つもの店が寄せ集められ、一階では肉や魚、二階では野菜や果物が売られている。
まだ朝早い時刻ではあったが建物内は既に活気づき、喧騒を縫うようにして焼きたてのパンの香りが漂っている。
赤蠍は慣れた様子で通路を進み、片隅に設けられた簡素な食堂へと入った。
「ほら、なんでも頼め。俺の奢りだ」
二人がけのテーブル席に腰掛けた赤蠍は壁に掛けられたメニュー札を指差し、人懐こく笑う。
カミュは札を睨むフリをしつつ、眉を顰め考えた。
面識の薄い相手が食事を奢るというのだ、当然、相応の裏があるのだろう。後輩である自分にはもともと拒否権が無い。遠慮などせず豪快に頼んでやろう。
そう心に決め、カミュは軽く呆れられるほどの量を注文した。狭いテーブルがあっという間に、旨そうな料理で埋め尽くされる。
盛大に、腹の虫が鳴いた。
赤蠍が苦笑を浮かべて促し、カミュは牛肉のサンドイッチを鷲掴む。微かに焦げたほの甘いパンをサックリと噛めば、塩辛い牛脂が口腔に溢れ出た。
美味い。
夢中になってかぶりつくカミュへ、赤蠍は得意げに言った。
「すげえだろ? ここのは安い上に何食ったって美味いんだぜ。ほら、これも食ってみろよ」
差し出された赤蠍の皿、ただの肉団子に見えるソレを口に運べば、軟骨の歯触りとともに旨味の強い肉汁が弾ける。
熱さに火傷をしかけながらもハフハフと飲みくだしていると、赤蠍は唐突に声を潜めた。
「ところでカミュ、お前に聴きたいことがあるんだが」
「……なんでしょう」
やはり、きたか。
水を飲んで肉を流し、わざとらしく耳を寄せる。
「実は、な。……殿下が男色で、相手がお前だと言う噂を聞いたんだが」
カミュは盛大にむせた。
肉片が鼻に入り、じんじんと痛い。備え付けの紙で鼻を拭ったが、あまりに予想の範疇を越えたストレートな質問に、動揺が隠せそうにない。
「何がどうなってそんな話に!?」
「いや、最近殿下が手当室に男を連れ込んで押し倒したとか、暇があればオカマバーに通っているとか、そういう目撃情報があるんだ。それに殿下、あの外見のわりに浮いた話が無いじゃないか」
「……それでなんで、相手が私になるんです」
カミュはジト目になって言う。
「お前、赤蛇の新人なのに何回も殿下の護衛に呼ばれているだろ。それになかなかの男前だからな。みんな、そう言ってるぞ」
「みんなって! みんなって誰なんですか! 酷い冤罪だ……」
「城は今、その噂でもちきりだ。貴族令嬢たちがこぞって、真相解明に励んでいるからな」
カミュは呻き、頭を抱えた。
おそらく、貴族令嬢による推理は明後日の……それもろくでもない方角で、カミュを巻き込み盛り上がっている。
赤蠍は令嬢なり侍女なりに可愛らしく頼まれ、非番の重なる今日、真相を探るべく食事へと誘ってきたのだろう。
しかしこれはある意味、弁解のチャンスだ。
「ええっと。まず、私にはそういう性癖はありません。これっぽっちも、全く。それにおそらく殿下も、男色では無いと思いますよ。たしか……」
殿下……ミューラーは市井の娘に想いを寄せているはずだ。そう続けようとし、慌てて飲み込んだ。
その市井の娘……カミュの幼馴染のダリアだと思われる……の事を狗、ヘクターが『嫁』と呼んでいた。つまりミューラーは、既婚女性に懸想しているという事になる。それはそれで、別種のスキャンダルなのではないだろうか。
「ほう、何故殿下が男色でないと言い切れる?」
赤蠍が顎を引き、探るような目でカミュを見つめた。このまま言い淀んでは『疑惑の関係アリ』と報告されてしまうだろう。それだけは避けなければ。……何が何でも、絶対に。
「…………とにかく! 私とは、そういう関係では無いですからね!」
※※※
事情聴取が終わり、二人は店を出た。
聴きだした内容に満足したのか、赤蠍は足取りも軽やかに、城の方角へ去って行った。くだんの令嬢への報告があるのだろう。
対するカミュは肩を落とし、大教会へ続く道をとぼとぼと歩いていた。
「殿下、申し訳ありません……」
足先へ懺悔の呟きが零れる。
追い詰められたカミュは、雲の上の存在であるミューラーとはマトモに話した事すらない、と熱弁し赤蠍を言いくるめた。が、帰り際に『お前、気をつけろよ』と背を叩かれ、そこでようやく、ハッと我にかえった。
ミューラーにかけられた疑惑を誤ちと知りながら、晴らそうとすらしていない。
膨れた腹と、のし掛かる罪悪感が重く、ますます足取りは鈍くなった。
ノロノロと辿り着いた教会前の広場では、いつも通りの花市が開かれている。
鮮やかな色彩に誘われ顔をあげると、花に顔を埋める少女の姿が目に飛び込んだ。
「ダリアちゃん……?」
つい漏れた声が聞こえたのだろうか、ダリアは青く丸い瞳を驚きに見開き、振り返った。
「久しぶり、カミュ!」
長い睫で縁取られた青い瞳が柔らかく綻び、優しく細められた。
※※※
噴水の周囲に設置された石のベンチに、カミュとダリアは並んで座っている。
カミュはダリアに気がつかれないよう、さりげなく背もたれに腕を掛け、身体を寄せた。
ここはヨルドモ城塞の中心部にあたり、人通りが多い。是非、偶然通りかかった城の関係者に、女性の恋人がいるとの噂を広めてもらいたい。
切実に。
「久し振りだね。あれから十年くらい経つかな。ダリアちゃん、俺が入院している間に引っ越しちゃったから、挨拶も出来なくてさ。また会えて良かったよ」
「……うん。あの時は……ごめんなさい」
本当に悔やんでいるのだろう、ダリアは消え入りそうな小声で応え、俯いた。
家庭の事情で引っ越した、と聞いていたのだが、何故こんなにも落ち込み、謝るのだろうか。カミュは慌て、話題を変えた。
「謝る必要ないよ。……えっと、それより。聞いたよ、結婚したんだって? おめでとう」
「え……結婚してないけど。誰から聴いたの、それ。言われるの二回目よ」
「へ……? 結婚、してないの?」
『……その馬鹿王子が連れ回しているのは、うちの嫁だ 』確かそう、ヘクターは言っていた。
アレ、か。恋人を指して言うところの『うちの嫁』か。なるほど、彼女を嫁と呼ぶ男も時折いる。カミュは納得し、頭を掻いて微笑んだ。
「結婚してないんだね。じゃあ、彼氏が言ったのを俺、勘違いしたみたいだ」
「彼氏、いないけど」
「……」
どういう事だ。あの男は恋人でもない女性を嫁と呼んでいるというのか。
だが、ダリアに恋人すらいないのであれば、ミューラーの想いは懸想などではない。
仲を取り持つ事で罪悪感を禊ごうと、カミュは声を裏返しながら言った。
「あ、な、ならさあ、殿下、のこと、どう思う?」
「……殿下? そんな雲の上の人、顔も見た事無いよ」
「あ……ああそうか」
まだ立場を明かしていないのだな。しかしともかく脈があるのか、聞いておきたいところだ。
「ダリアちゃん。今、好きな人いる?」
「……なっ!? き、急に、なにっ?」
途端、ダリアの顔が熟れた苺のように赤く染まった。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。いや、なんとなく、ね?」
「好きな人……いる、けど……」
「……そ、そう」
誤解を与えかねない質問をした事に気がつき、カミュも顔を赤らめ視線を反らし、僅かに距離を離す。
ぎこちない、緊張感。
幼い頃に抱いていた淡い感情がなんだったのか、今更ながらに理解ができた。転校したと聞かされて感じた途方もない喪失感。あの頃はきっと、お互いに……。
「ダリアちゃん、ナンパ?」
と、少女の声。
否定する間も与えず、少女はダリアとの間に割り込み、座った。
「アネットちゃん、ナンパじゃないのよ。私の友達で、カミュって言うの」
「ふーん。こんにちわ。でもこんなとこ見られたら変態が怒り狂うわよ」
「……変態?」
不穏な単語だ。カミュが眉を顰めると、アネットという名の少女はふふん、と鼻を軽く鳴らした。
「うん、変態。ダリアちゃん、変態さんの事が大好きなのよ」
「……大好きな、変態?」
思考が、停止する。
アネットは足を組んで反り返り、ダリアの方を向いて話し始めた。
「私、ダリアちゃんが変態の事を好きな理由がイマイチわかんないのよね。完全に本物の変態じゃない、あの人」
「うーん、ママは言うほど変態じゃないよ。多少変わり者ではあるけど、すっごく優しいし、とても大事にしてくれるもの」
ママ……?
「えっとダリアちゃん。ママって、授業参観に来てた小柄で黒い髪の毛の、ダリアちゃんと顔がそっくりな……」
カミュが昔を思い出しつつ言うと、ダリアは笑いながら首を振った。
「違うよ、本当のお母さんじゃなくて、私が今働いているお店でママをやってる人の事」
「……お店の、ママ?」
「そー。すっごい変態でロリコンな上に露出狂なんだけどね」
困惑するカミュへ、アネットが追い打ちをかける。
カミュの常識では『お店のママ』とは呑み屋の女主人の事だ。それでいて本物の変態、なおかつダリアの想い人……という事は。
「……俺、なんだか目眩がする。寮に帰るよ」
カミュは痛むコメカミを押さえなつつ立ち上がった。
「風邪かしら、お大事に。またね、カミュ」
「お兄さん、またねー」
歩き出すカミュへ、二人の少女がにこやかに手を振った。
「……聞かなきゃ良かった……寝よう」
十年前の思い出の甘さに気がついた途端、真っ向から否定されてしまった。
先ほどまでとはまた違う空虚な足取りで、ヨロヨロとカミュは帰宅の途についた。
※※※
カミュの後ろ姿が見えなくなった途端、ダリアは大きく息を吐き出した。
「あー、緊張したー」
「緊張してたの?」
「うん。もう、ものすごーく」
そう言ってベンチの上で膝を抱え、頭を伏せる。
「……アネットちゃん。カミュは私の幼馴染みでね……実はずっと、ずうっと、好きだった人なの。それもつい、最近まで」
「えぇっ!?」
「……でも、今日会ってわかったの。私、本当の本当に、ママの事が好きになったみたい。……もう、カミュには苦しくなるほどドキドキしない」
ダリアは僅かに顔を上げ、照れ臭さを誤魔化し笑った。対してアネットは衝撃を顔に貼り付けたまま、口の端を引きつらせる。
「うわあ、悪いことしちゃったあ。あのお兄さん、盛大に勘違いして帰っちゃったわ。……私、ダリアちゃんがナンパされてるのかと思ってたから」
「勘違い? アネットちゃん、何か勘違いされるような事、言ってたかなあ」
首を傾げるダリアに、アネットもベンチの上で膝を抱えた。
「ダリアちゃん、鈍っ! ……ね、変態の事が好きで、もっと関係を進めたいならもう『ママ』って呼ぶのはやめた方がいいよ。だって、それってお仕事上での名前でしょ。……そういえば変態って、名前なに?」
「……へ……ヘク……」
名前を呼ぼうと口を開いた途端、荒れ狂う兎の魔力に目眩がした。
ダリアの顔全体があっという間に朱に染まる。湯気が上がるほどに熱く脈打つ頬を両手で押え、また口を開いたが、声は音にならなかった。
あまりの恥ずかしさに、ますます顔が赤くなる。心音が勢いを早め、兎がグルグルと唸り走り回る。
「ふわああああー!!」
ダリアは両手を上げ、魔力を解放した。空高く兎の魔力が吸い込まれ、昼の白月が力強く輝いた。
「……何、今の。……ダリアちゃん、よくわからないけど、なんだか特訓の必要がありそうね。これは」
アネットはそう言ってニヤリと笑う。
ダリアがヘクターの名前を正しく呼ぶまで特訓は続き、月は何度も何度も兎に呼ばれ、ギラギラと激しく輝いた。
※※※
その夜。
バー『青兎亭』の営業を終え、ヘクターとダリアは従業員部屋に戻り、ダリアが入浴をしている間、ヘクターはリビングで思案にくれていた。
ロージーを騎士たちが連行している時の事だ。彼女は突然、笑いながら歌い始め、直後『狂炎』の魔法が発動したという。
その混乱に紛れてロージーは消え、いまだ行方はわからない。
ヘクターは重いため息を吐いた。
リビングを大きく占領するこの屍鬼専用結界は、しばらく消せそうにもない。屍鬼以外には効果が無いため、別のものに書き換えたかったのだが。
歌による詠唱。
ヘクターの知る限り、それを行っていたのは黒の魔女ヘクスティア、歌う屍人モーリス……モーリスは人魚に教わったと言っていた。さらに人魚に会ったというロージー、それに付け加えるのなら、ヘクター自身。ただ一度だけではあるが。
「どんな歌、だったかな。 」
魔女に歌を教わったのはもう十五年も前、騎士になったばかりの頃だ。すでに歌詞はうろ覚えで、三年前の発動は奇跡としか思えない。
丁寧に記憶を辿りつつ、ヘクターはそっと『治癒』の歌を口ずさんだ。
わが祈りの ふさふにあらねど
やさしき君 ただあわれみたまへ
心のおくを みたしたまへ
穢れしものは 焼き浄めまし
燥けるものに ……
「……すすけるものに……なんだったっけ」
「みずさしめまし、だよー」
「そっかダリアちゃん、ありがと」
「いえいえー」
そう言うと入浴を終えたダリアは、髪の毛をタオルで拭きながら楽しげにくるくると躍り、続きを歌い始めた。
穢れしものは 焼き浄めまし
燥けるものに 水注しめまし
すさべるものは おし和めまし
「……あれ、ダリアちゃん……何でこの歌、知ってるの?」
愕然と口を開けるヘクターの前で、ダリアは歌を続ける。賛美歌を思わせるほどに澄んだ、透明で美しい声色。
倦みつかれしを 癒しめまし
ひよわきものは 堅めたまひぬ
彼らに憩ひを 授けたまへ
「……ダリア……?」
全身から血の気が引いていくのがハッキリと感じられた。
頭に巻いたタオルで白髪を隠し、『治癒』を歌い踊るダリア。
その声は、黒の魔女ヘクスティアと同じ響き。くるくると舞い踊る結印も、楽しげな青い瞳さえも、黒の魔女のそれと全く同じに見えた。
「……ヘクター」
「どうしたの? ヘクター、さん」
脳が混乱にぐらりと揺れる。
違う、その名前は、君のものだ。
彼は頭を押さえ、崩れ落ちるようにしゃがんだ。
「ヘクターさん大丈夫っ!?」
「……ダリア。なあ……ダリアだよな?」
「うん。私はダリアだけど」
それがどうかしたの? と、青い瞳を瞬かせ、ダリアは答える。
彼はダリアの頬に親指を這わせ、顔をじっと観察した。
青く丸い瞳は色こそ同じだが、形は違う。柔らかな輪郭にシャープな印象は無く、見詰めるほどに紅く染まる頬は圧倒的に幼い。
「……そっか、別人、だよな」
彼は頭を振り、安堵の息を吐いた。
「ヘクターさん?」
ただ、その声は魔女と同じだ。
ダリアが彼を『ヘクター』と呼ぶ。その度に彼の脳は混乱し、心臓が棘で刺されたかのように痛む。
「……ごめん、ダリアちゃん。気持ちは嬉しいんだけど、その名前で呼ばないで。本気で、痛え……」
「えーっ!! ……あ、あんなに特訓したのに……」
『名前で呼んで二人の距離が急接近計画』は、失敗に終わり、ダリアは彼の呼び方をママへ戻した。
彼にはもう、名前が無い。
※モーリスとロージー
※※※
貴族住宅街
中央地区
©赤穂雄哉