伯爵邸
鳥のさえずりが聴こえる。
カーテンの隙間から刺し入る光に起こされ、ダリアはゆっくりと瞼を開けた。真っ白な袖口で顔を擦り、んっ、と伸びをする。
いつもの自分の部屋、いつものベッド、いつものパジャマ。――僅かな違和感。
首を捻り昨夜の出来事を反芻したが、寝起きの頭はどうにもうまく働かない。
「……んー?」
ダリアは呟いてベッドを降り、リビングへ続く扉を開けた。
「おはよ、ママ」
「おはよう、ダリアちゃん。朝御飯できてるわよ」
「……ママってほんと、お母さんみたいだね」
冗談めかして言ったダリアに、ヘクターは慈愛の微笑を返した。傾けた首の角度までもが計算し尽くされた、完璧な笑顔。
頬が燃えたように熱くなり、ダリアは慌てて視線を反らす。
寝起きにあの顔は、反則だ。
家具は隅に追いやられ、リビング中央では結界の魔法陣が悠々と光を上下させている。
昨夜の出来事は夢ではなかったようだ。
ダリアは顔を洗い口を濯ぐと、部屋の隅を歩いてソファーに座り、いただきますと呟いて朝食に手を伸ばした。
「ああ、魔方陣、解呪するまで消えないから踏んでも大丈夫よ。絨毯の模様くらいに思ってて構わないから」
「はーい。……ところでママ。昨日私、アネットちゃんの家で寝てたよね?」
「そーよ。ダリアちゃん寝てたから自家用馬車で送ってもらったわ。その後、夜中に一回起きたじゃない」
「うん。で、そのままリビングで寝ちゃったんだよね、確か」
ヘクターが頷くのを確認し、ダリアは耳を揺らした。
そう、リビングで寝た、そこまではしっかりと憶えている。
が。
「……私、いつお風呂入ったんだろ」
髪の毛を引っ張り臭いを嗅げば、仄かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
「あ……っと…………きっと、私が寝た後に、もう一回起きたんじゃないかしら」
「……かなり寝ぼけてたのかなあ。私、お風呂入った事、全く覚えてないんだよね。でもちゃんとパジャマ着てるし、下着もキチンと……」
「ダ、ダリアちゃん、それよりもっ! 今日私、一日忙しくって! お店お休みにするんだけどね? 絶対、家から出ちゃダメよ」
ダリアは朝食を中断し、ヘクターをまじまじと見た。
「え、なんで? 今日、アネットちゃんと約束があるんだけど」
「……絶対ダメ。どーしてもダメ。それにアネットさんも来れないはずよ。……だけどもし、誰かが迎えに来ても決して家から出ないで、お願い。とても危ない、から」
出掛ける準備はすでに整っているのだろう。
ヘクターはピッタリとした黒革のジャケットを纏い、厚手の黒いマントを羽織っている。そのどちらもが素っ気ないまでに装飾がなく、しかしとても頑丈そうだ。
腰にはレイピアとボディバッグが下げられ、昨夜作っていた魔法陣のカードが覗いている。
その姿はあまりにも――。
「……ママ、なんだか軍人さんみたいね。……何処にいくの?」
黒で被われた鋼のように屈強な肉体。
捉えどころのない不安が、ダリアの声を自然と震わせる。
「ちょっとした、御呼ばれなの」
いつもより固く包帯の巻かれた右足へ慎重にブーツを被せるとヘクターは立ち上がり、ダリアの頬をそっと撫でた。
※※※
「『亜人大全』、『民族と文化』、『獣人の生活』……」
片付けを終えたダリアは分厚い本を机に立て、背表紙を睨んだ。
ダリアは読み書きは出来る。が、読書は苦手だ。読んでいるとビッシリ並ぶ文字が蠢き始め、内容が頭に入ってこなくなる。
その上ヘクターが昨日買ってきた本はどれも、タイトルからして小難しい。
「『史実・人と亜人』、『種別生息圏』、『魔物図鑑』……あ、これなら……」
これならば読めるだろう。ダリアは『魔物図鑑』を抜き取り、パラパラと挿絵を眺めた。
やがて後脚で立つ兎が描かれている頁を見つけ、解説を指でなぞる。
「『兎人。温厚な草食の魔物。群れで行動し、重力を操る。人間の魔法を暴走させる事がある』……って、これ……」
ダリアは不満げに頬を膨らませ、紙を爪先で弾いた。頁の上部に『人間と敵対』している事を示すマークが付けられている。
「……な訳ないじゃない。お母さん、お父さんの事を愛してたって言ってたし。それに私だって……」
ヘクターの顔が脳裏を過ぎり、胸が甘く疼いた。人間を嫌うのなら、こんな感情が生まれるハズがない。
「敵対なんて全然してません! こんなウソ図鑑、ママには読ませられない」
別の頁から切り抜いた『極めて友好的』のマークを兎人の頁に張り付け、押入れに図鑑を投げ棄てた。
ダリアは読書を諦め、リビングの窓を大きく開ける。
午前の暖かな日差しが入り込み、街へ向かう人々の声が楽しげに聞こえてきた。急いでバンダナを巻いて耳を隠し、窓から身を乗り出すと、空き地の陽だまりで重なり合う猫の群れが見えた。風が穏やかにそよぎ前髪を揺らす。お喋りな鳥たちが囀りを交わす。
いつも通りのしごくのどかな朝の風景。
ただ、家には新たな結界が貼られ、ヘクターは危険だと言い残し、物々しげな格好で出掛けて行った。
平和そのものに見えるこの街で、何が起こると言うのだろう。ダリアは窓枠に肘をつき、春風に流れる雲をボンヤリ眺めた。
と、玄関扉が外から二回、トントンとノックされた。
「ダーリーアーちゃんっ! へんたーいっ!
いないのー?」
アネットの声だ。ダリアは急いで玄関へ走り、鍵を開けた。
「おはよっ、アネットちゃん、来たんだ! ママ、今日は来れないって言ってたんだけどなあ」
「……やっぱり! あの変態、きっとお爺ちゃんに言い負かされたのね。家から出してもらえなかったのよ。……だから隙をついて裏口を出て、柵とか乗り越えて来たんだけどね。ねー、変態どこ? 文句言わなきゃ」
「とりあえず上がって。ママ、今日は用事があって出掛けてるの。でも、家から出ちゃダメって言われてるから、中で遊ぼう?」
「じゃあ、ちょっとロージー呼んでくる。変態に会いたくないって下で待ってるから」
アネットはすぐさま階下に駆け降りて行った。
「……ほらね。兎人は『極めて友好的』なんだから。人間の友達だってちゃーんと出来たもの!」
ダリアが唇を尖らせ、図鑑の著者に文句を呟くと、アネットがまたバタバタと駆け上がって来た。
「……ロージーちゃん、ここ来るの嫌なんだって。下、行こう」
息を切らせつつアネットはダリアの腕を掴み、強引に連れ出した。
※※※
バー『青兎亭』のある雑居アパートの前に、ロージーは一人、佇んでいた。
真っ直ぐに伸ばした手のひらが、白い煙を上げてチリチリと焼けている。これ以上進めば身体から火柱があがるのだろう。
昨日はこれほど強固ではなかったのに。
ロージーは地団駄を踏み鳴らし、膨大な魔力を目の前の結界へ注いだが、全く壊れそうにない。
あの男はただ残虐なだけではなく、魔道士としても優秀なようだ。
苛立ちを露に結界を殴れば、ジュッと音を立て拳が焦げた。
「ロージー、何やってるの? パントマイム?」
声に振り返るとアネットとダリア、愛しい少女たちが並び笑っている。ロージーもようやく安堵を浮かべ、手をひらひらと振り返した。
「んー、何でもないの。おはよ、ダリアねーさま。二人に見せたいものがあるから、青空市場、一緒に行こう」
そう言って差し出した手には、赤い石のついた指輪が三つ、陽光に煌めいていた。
※※※
ロージーの暮らすセンダーク伯爵邸は、ヴェルガー公爵邸からほど近い、街を一望できる丘の上にあった。
鉄の蔓薔薇が飾られた門柵から中を覗けば、英雄像が整然と並ぶ庭園と、天を貫く尖塔を持つ厳しい宮殿が見える。
「……きっつ」
門柱にもたれるようにして頭を抱え、ヘクターはボヤいた。その背後には草原の船の時と同じ顔触れ……赤鷲、緑鷲、カミュの三人が控えている。
今朝方、ヴェルガー公爵より兵を要請する書状を提出して貰ったのだが、大臣たちの反応は芳しくなかった。
センダーク家は天才的な魔導師を幾人も輩出した、王族に列する歴史と由緒ある名家である。前触れもなく国軍を引き連れて訪問したならば大問題に発展するだろう、と。
しかし、と食い下がるヘクターの耳へ、ミューラーが顔を寄せ囁いた。
『……いますぐ兵を渡す事は出来ない。が、即時派遣できるよう待機させておこう。今は……そうだな、私の護衛を連れて行け』
ヘクターはあからさまに顔を歪めたが、ミューラーは黙って首を振った。王子といえども近衛のいないミューラーが無条件に動かせる兵は、その日の護衛くらいだ。
足の手術を終えたばかりのヘクターは、走るどころかしゃがむ事すらままならない。
隊を動かせないにしろ、せめてもう少し頼れるメンバーを用意して欲しかった。
だが今さら文句を言っても仕方がない。
ヘクターは現実へ意識を戻し、よしと呟いて気合いを入れ直した。
「……カミュ、中に入って俺が合図したら、すぐ城に戻って援軍要請な」
「わかりました。……しかし本当に伯爵邸に、魔物の群れがいるのですか?」
「わかんね。可能性がある、ってだけだ。……だが俺は、いると思っている」
確認したわけではない。公爵と状況を話し合い、そう結論づけただけだ。
一週間ほど前にハーリアでの休暇を終え、ヨルドモ城塞に戻ったはずのセンダーク伯爵とその息子である黒獅子の魔導師が、未だ登城していないのだと言う。
しかし、死の淵を彷徨っていた孫娘、ロージーだけは学校へ通いアネットと走り回っている。
そのため公爵は、魔導師か魔物によるロージーへの成り代りを疑っていたらしい。
ヘクターも自分の知る限りの事を話した。
崩壊しかけたロージーの器を直したのは、ハーリアの『人魚』なのだとアネットは言っていた。
また、核の見当たらない奇妙な屍人モーリスは『人魚』に歌を教わったそうだ。
死なない少女、歌う屍人、人魚。
船に居た、生きた屍人たち。街に蠢く無数の屍鬼。いまだ見つからない、屍鬼主。
人魚と関係のある赤い指輪の屍鬼主が、ロージーとその家族を生きた屍人に変え、操っているのではないだろうか。
「最悪、厄介な屍人がウヨウヨいるかもな。……一応、ヤバそうな一匹が居ない時間帯を見計らって来たんだが」
ヘクターが酷く嫌そうに言うと、三人の騎士は顔を見合わせた。
と、突然門が内側から開き、優しげな女性が微笑みを浮かべ現れた。
「お客様、いつまでそんなところに……私、中でずっとお待ちしておりましたのに。さ、どうぞ。歓迎いたしますわ」
ロージーの母親だろうか。
透きとおるまでに白い肌と、気品の漂う物腰は、召使のそれとは思えない。
戸惑う四人を他所に、彼女は静々と歩き始めた。
ヘクターは起動済みのレイピアへ手を添えたまま、後ろに従う。首を伸ばし、肩越しに覗き込んだが、彼女の手は前で交差されており、指輪を見つけることができなかった。
午前中だというのに庭は寒々しく、庭師や使用人の気配が全く感じられない。その代わり、犬の低い唸り声が風に乗せられ方々で響いていた。
前庭を抜け、階段を登る。
古めかしい石造りの玄関アーチをくぐると、重たげな扉が音もなく開いた。
窓が締め切られているのだろうか。中は暗く、点々と灯された蝋燭の光だけがひっそりと揺らいでいる。
「……どうぞ、お入りください」
全員が入った途端、バタンと音を鳴らし玄関扉が閉まった。蝋燭が一斉に消え、か細い煙がゆらりと上がる。
薄闇に包まれた室内に、ポウッと橙色の火が灯された。女性が銅の手持ち燭台を握り、上下に光を揺らしつつ四人を奥へ誘導する。
ヘクターはカミュの脇をつつくと、玄関まで戻り待機するよう促した。
幾つかの部屋を通り抜けると、中庭を囲む回廊へ辿り着いた。
庭の木々が鬱蒼と茂り薄暗かったが、周囲が認識できる明るさになった事で、赤鷲と緑鷲の騎士は顔を見合わせ安堵の息を吐く。
だが直後、ギラリと刃が煌き宙を引き裂いた。
赤黒い血液を撒き散らしながら女の胴が二つに別れ、上半身が床へ崩れる。
「お、おい、何をしてっ!?」
「カミュ、聞こえるか!? すぐに行け!」
慌てる赤鷲の声を遮るようにして、ヘクターは玄関まで届くほどの大声をあげると、レイピアを引き構え油断なく睨んだ。
地に転がる上肢の指には、赤い指輪が嵌められている。
「まだ客間についてませんのに。全く、せっかちな方ですわね、人魚の恋人様は」
「……人魚の……恋人?」
「あら。私はそう、伺ったのですが」
骨や臓器、血管がぐちゃぐちゃに絡んだ切断面から血を溢れさせ、トルソのように佇む輪切りの胴体。
女は両腕を床に付き屈曲させた。二本の腕で支え、身体を数度揺すると、カエルのように大きく飛び跳ね下肢へ登った。ぼとぼとと溢れ落ちた臓器が蠢く血液に手繰り寄せられ、束ねられ、繋がる。
女の形へと戻った化け物は微笑み、手を翻した。
途端、黒い大型犬が音もなく滑り込み、涎を流しながら狂ったように吠え喚く。
「……風の翁キジルよ、我は地を駆ける小狼、命に従いその疾さを我らに貸し与えよ!」
ヘクターがレイピアを下ろし、厳かな詠唱を始めた。赤鷲、緑鷲は一歩前へ進み、武器を掲げ護り立つ。
体内の魔力が詠唱に呼応し、指先から溢れ出す。結印を重ねることで編まれた複雑な紋様を魔方陣の板へ一気に注ぎ込む。
「……風よ、我らに従え! 『疾風』!!」
ごうっと突風が走り、渦巻いて三人へ纏わり付いた。
犬が歯を剥き出し、地を強く蹴る。
杭のような牙がヘクターに届く前に、風を纏う斧が顎を砕いた。ギャンッ、と耳の軋む悲鳴をあげ、犬の体が宙を舞う。
緑鷲の騎士が魔力に輝く盾と手斧を構え直し、と同時にヘクターは新たな詠唱を始めた。
「……その雷杓を持って黒雲を呼び眼前の障りを拭い去りたまえ……」
タンッと犬は着地し、辛うじて皮膚で繋がる裂けた口から唸り声をあげた。ぼとり、黒い塊が滴り、唾液と血液とで口が光っている。
女が再び手をあげた。
指輪が輝き、回廊の屋根に新たな黒犬が四匹、現れた。犬が一斉に撥ね飛び、屋根が軋む。
赤鷲が剣を払い、緑鷲が斧で打つ。犬の身体はたやすく千切れ、しかしすぐさま繋がりあった。
双頭となった犬がゲフゲフと、生臭い血肉を垂らしのし掛かってきた。緑鷲は盾で力任せに払い、赤鷲はその頭を一つ削る。
五つの犬の身体は、三人を囲み距離をとった。
女が指を振る。低く構えた犬が、一斉に跳ねた。
「……雷よ、虚空を裂け! 『迅雷』!!」
青白い閃光が、空を引き裂く。
強烈な轟音とともに落ちた無数の雷が、庭を飲み込み、燃やした。
ぶすぶすと白煙を上げる黒炭が、草むらに落ちる。
「……どうにかいけたな。女が魔導師じゃなくて、助かった」
ヘクターはそう言って未だ蠢く黒焦げの炭を割り、核の指輪を踏みつぶした。
額に浮かぶ汗玉を拭い、ふうと息を吐く。
「カミュが援軍を連れてくるまで、とりあえず待機……って、そりゃあ無理だよなっ!!」
回廊の向こう、建物の奥からそれぞれの武器を手に走り集まる屍人の群れが見えた。
※※※
「お、お母さん……」
ロージーの華奢な指先で、赤い指輪が音もなく砂に変わった。
「どうしたの? ロージー」
蒼白のロージーにアネットが尋ねる。ダリアも不思議そうな顔でロージーを見つめている。
「……ね、アネットちゃん、ダリアねーさま! 今すぐここから逃げなきゃいけないの! 一緒に行こうよ!」
大教会前青空市場。
噴水の飛沫を浴びながらロージーは叫ぶ。
時計塔が正午の鐘を鳴らした。