青兎
「何だ、また今日もずいぶんと奇妙な仮装をしているな、狼」
王子ミューラーが緑に輝く髪を揺らし、まだあどけなさを残した瞳でヘクターを見上げた。
幼い頃は少女のようだったミューラーも、ここ数年でずいぶん逞しく成長し、ともすれば厳威たる父王を想起させる程だ。
今夜はこの船で盛大な月見のパーティが催されており、ヘクターはスタッフに扮した護衛として乗船している。
だが主賓であり警護対象でもある煌びやかな王子が、ヘクターのいるバーカウンターに親しげに顔を出していては、変装の意味が全くない。
ヘクターは声をひそめた。
「ミュー、遊んで欲しいのはわかるが、さっさとあっちに戻れ。城じゃねーんだ、子供が一人でうろちょろすんな」
「もう子供ではないぞ。それに狼があまりにも面白い格好をしているから、からかいに来てやっただけだ。……じゃあ、な」
ミューラーはそう言うとマントを翻し去っていった。
面白い格好……似合っていると思うのだが、とヘクターは改めて確認する。
白いシャツに黒ネクタイ、丈の短いベストとスッキリした細身のパンツ。『青兎亭』の営業時とそう変わらない、極めて普通のバーテン姿だ。
『青兎亭』……?
直後、脳が焼けつくように痺れる。視界が黒い羽虫のようなノイズに遮られ、ようやく気がついた。
これは夢だ。
月見船でのミューラーとの会話で始まり、城でザルバに殴られ醒める、いつもの長い悪夢。
自覚した途端、船内の床がぐにゃりと歪み、脳は加速をつけシーンを進ませた。ヘクターは意識してそれを押し留め、順序正しくなぞり直す。
『お前の記憶は何者かに弄られているようだ。俺には治しようがない、自力で思い出せ』
ヘクターを殴った数日後、どうにか怒りを鎮めたザルバがそう診断を下した。
とにかく、思い出さなくてはならない。
この虫喰いだらけな夢の中に、おそらく『何者か』……あの男にとって都合の悪い事実が隠されている。
これは三年前の出来事。
一年で最も巨大な満月が輝く仲秋の夜、まだ若い王子と輝かしい狼の騎士を乗せた豪華帆船が、ハーリアの海をゆったりと巡っていた。宮殿とそう遜色のない絢爛な船内では、貴族の男女がくるくると踊り、月の光に満ちた広々とした甲板では、恋人たちが肩を寄せ、愛を語る。
イベントはつつがなく進み、華やかな宴が佳境に入ると、船は海上で碇を降ろし、向かいの小島から花火が上がった。
じわ。
奇妙な感覚を覚え、ヘクターは眉を顰めた。
花火の炸裂音に紛れ、荒々しくも怪しげな魔力が、水滴を一粒づつ垂らすように船を侵している。
ヘクターは急いでホールを離れ、従業員通路に入った。感覚を鋭敏に尖らせたまま船内を歩き回ったが発生源が見つからず、甲板に上がる。
と、火の粉が駆け登り空を射抜いた。
鮮やかな光が視界いっぱいに広がると、とてつもない爆音に耳が痺れ船体が揺れる。
花火の煙で空が濁ってはいたが、それでも力強い満月は青々と滲み、その位置を明るく主張していた。
次々と花火が打ち上がる。
甲板にいる誰もが上を向き、空を眺めていたが、あたりは既に不可解な魔力で満たされている。
ヘクターはレイピアを起動し、より濃度の高い船尾へと慎重に足を進めた。
ジリッ。
ざらつく音と共に、また視界にノイズが走る。
一歩踏み出す度に歪み、乱される景色。
ノイズは黒斑を撒き散らし、過去の出来事を闇へ隠す。
毎回、こうだ。
どれほど抗おうとも船尾に着く前に記憶が塗り潰され、あの部屋に墜とされる。
警鐘にも似た不快なノイズが頭を埋め尽くしていく。次第に溶け消える意識の中、しかしヘクターは一つの事実に辿り着いた。
これはダリアの……『兎人』の魔力と同じ。
『兎人』
硝子の割れるような甲高い金属音が響き渡る。この単語は閉じられた記憶の『鍵』だったのだろう。集まった羽虫が逃げ飛ぶようにノイズが散った。
場面が変わる。
ヘクターは今度は、やけに細長い暗闇でレイピアを振るっていた。
腰を屈ませなければ歩けないほどに天井が低く、狭い通路の足元は常に揺れ続けている。
目の前には唸り声をあげ襲い来る屍人の群れ。ヘクターは次々と刺し貫いて捌き、奥へと進んだ。
今までの夢で見ることが出来なかった、新たな場面のようだが、あまりに深い闇にここが何処なのか解らない。
この間の『ガレー船』と似ているが……。
そう思い浮かべた途端、再び金属音が脳を揺さぶった。
『ガレー船』
新たな『鍵』だったのか、周囲を曖昧に包む闇が消え去り、潮混じりの腐敗臭が鼻を突いた。
記憶の穴が塞がれる。
先ほど月見船の船尾に向かったヘクターは、横付けされたガレー船を見つけ、魔力を追って飛び込んだ。
今は甲板から船内に降り、左右に漕座を配した通路を進んでいるところだ。
これは草原にあったガレー船そのもののようだ。
突然、船が大きく傾く。
思わずバランスを崩したヘクターが漕座へ手をつくと、次の瞬間、強烈な魔力が轟き、嵐のように通り抜けた。
遠くで悲鳴があがっている。
ミューラーたちの乗る船が、大きく揺さぶられているようだ。
三年前のヘクターは通路を振り返り、顔色を変えた。戻りかけた足をしかし、踏みとどめさせる。
原因は間違いなく、この先で待ち構える魔力の主。今は月見船に戻るのではなく、転覆させられる前に魔導師を倒すべきだ。
ヘクターは群がる屍人を叩き斬り、通路を駆け抜けた。
青白い月光が、天井に裂かれた穴からサアッと射し込む。
闇に慣れた目には眩いほどの光の中に、白いローブを纏うずんぐりとした影が浮かび上がる。
「……兎人」
人ほどもある巨大な兎が賢者のように粛然と瞳を閉じ、月明かりを浴びて青く輝いていた。
この兎人が海を揺らし、月見船を傾けているのだろう。
ヘクターはレイピアを構えたまま加速し、勢いよく突き出した。が、兎人は切っ先を逃れふわりと飛ぶ。
船首が持ち上がり、船体が浮き上がった。漕座にしがみつくヘクターをよそに、青い兎人は悠々漂う。
「風の翁キジルよ……」
ヘクターは印を結い、詠唱を始めた。青兎が僅かに微笑み、ガレー船は軋音を鳴らし上も下もなく揺れる。
「……風よ唸れ! 『風刃』っ!」
左手の陣へ魔力を注いだその瞬間、青兎の口が愉悦に裂けた。
青兎は目を開く。
真紅の瞳がヘクターを捉え、痺れさせる。
無数の刃が投げつけられたかのように、突然皮膚が裂け、激痛に襲われた。血飛沫が噴き出し、全身が灼けつくように熱い。狂った『風刃』がヘクターをズタズタに切り裂いている。
真っ暗な死に落下するように、意識が途切れた。
※※※
「…………っ!!」
叫び声にすらならない悲鳴をあげ、ヘクターは目を覚ました。心臓は壊れそうなほどの早さで打ち鳴らされ、全身が冷たい汗でぐっしょりと濡れている。
身体を起こしたまま胸を押さえ、息の乱れを直した。
「っなんだ、今の……」
真夜中の自室は静まり返り、虫の声と風の音だけが聴こえている。
あまりの苦痛と恐怖とに、せっかくの記憶の夢を強引に目覚めさせてしまったようだ。
再びベッドに倒れたが、目が冴え心臓は荒く脈を打ち、眠れそうな気配はない。
「……酒でも、呑むか」
杖を突き、足を引き摺りながらリビングに向かう。白葡萄酒の瓶を掴んでソファに座り、グラスに注いだ。
開け放たれた窓から見える夜空では、あの日とは違う、細く儚げな月が浮かんでいる。
「あの兎……ダリアの父親かもな」
兎人を殺してはいない。
戦って負けた訳だが、その事に安堵し息を吐く。
「あいつを、見つけなくては」
ダリアの魔力を制御するために、兎人から話を聞きたい。出会いが出会いだ、敵視されてしまうかもしれないが、事情を話し説得すれば、どうにかなるかもしれない。
白葡萄酒を一息にあおる。
ひやりとした酸味が、カラカラに乾いた喉へ心地よく吸い込まれた。
あの時発動しようとした『風刃』の刺青陣は、もう失っている。
ヘクターは焼け爛れた手の甲を見詰めた。全身を覆う惨たらしい傷は、『風刃』の暴走によるものではない。
兎人に負け、捕らえられたその後、あの男によって刻まれたものだ。
あの男。
記憶を弄ってまで『兎人』の事を隠していたのなら、あの男のもとに『兎人』が……ダリアの父親がいるのだろうか。
ヘクターは目を閉じた。ソファにゆったりと身を預け、打ち切ってしまった悪夢を手繰り寄せる。
※※※
気がついた時には衣服を剥ぎ取られ、石造りの部屋で跪かされていた。
両の手首が天井から下がる枷で吊りあげられ、足首は一繋ぎの捕錠により固定されている。
「ようこそ、美しき狼殿」
何処か愉しげに『何者か』……あの男が口を開いた。
椅子に座り、ヘクターを眺めるその姿は、ノイズに隠され認識出来ないが、『見覚えの無い男』だという感想だけが浮かぶ。
ヘクターは周囲を見渡した。
天井から下がる無数のフック、壁にかけられた物騒な器具類、石の床を黒く染める血の痕跡。背筋を嫌な汗が伝い落ちる。
「……拷問部屋……か?」
ヘクターが呟くと男は首を振って笑う。
「違う違う。ここは、処刑部屋だ」
そう言うと壁面の器具から、小剣を一本選び出した。もったいをつけるようにゆっくり、わざとらしく足音を鳴らし、ヘクターの右横に立つ。
「お前に聴きたい事など、何もない」
男は剣を振り上げた。
※※※
処刑部屋での出来事を思いだし、肌が粟立った。全身からまた汗が吹き出し、注ぎ直したばかりの白葡萄酒が波を立てる。
再手術を受けたばかりの右足をヘクターは撫で擦った。
まず最初に男は小剣で、この足の筋を断った。続いて悲鳴を堪える口へ、自殺されては面白くないからと革の轡を嵌めた。
部屋の隅には暖炉が置かれていた。
男は火の中から焼き鏝を引き抜くと柔かに微笑み、ヘクターの顔面に躊躇なく押し当てた。
顔が焼ける。髪が焦げ、人間が燃える独特の臭気が立ち昇る。瞼が爛れ、視界が濁り狭められる。轡の下、断続的な呻き声が他人事のように漏れた。
男は暴れる姿を堪能し、続いて全身の刺青陣を鏝で焼き消した。身体は痙攣を繰り返し、幾度も意識が途切れる。しかしその度に責めは中断され、目覚めた途端に再開される。あまりの苦痛に気が狂いかけると、純度の高い『花』を嗅がされ感覚が麻痺させられる。
どう殺そうか。
純粋な悪意のみで続けられる、無意味な処刑。
時間の感覚はあっという間に消え、永遠と嬲られ続ける錯覚にすら陥った。
「あの男にどんだけ恨まれてんだ、俺……」
ヘクターは呟き、グラスの酒を呑み干した。
単独で暗躍する『無色』は、酷く恨まれやすい。それでなくとも奔放で、私生活は昔からロクでもない。
恨みを抱いている男、とだけでは特定しようがない。
「全く酔えんな、ツマミが悪すぎる」
さらにグラスへ注ぎ足す。
だがこの瓶を呑み切ったとしても、寝れるほどに酔えるとは、とても思えなかった。
口にざらりと残る酸味を飲み降し、再び記憶を反芻する。
緩やかで歪な処刑は突然、終わった。
小刀で火傷の隙間を刻んでいる最中に、部下らしきものからの報告を受け、男は忌々しげに舌を鳴らす。
「今すぐ殺しては興が醒めるな。……まあ、いい。もはやお前には狼としての力は無い。野に放ってやろう。だがその前に……」
男は板に魔法陣を描き、詠唱を始めた。ノイズが邪魔をし思い出せないが、おそらく記憶を弄る魔法だったのだろう。
ぐらぐらと脳が揺すぶられ、轡の端から酸いた涎が零れた。
男は嘲笑を浮かべ、錆びた小振りの斧を掴み、振りかぶる。
絶叫は轡に遮られ、音にならなかった。
裂かれた腹が灼熱に焼かれたように熱い。視界がぐらりと揺れ、血が濁流に変わり身体中を走る。ぬるりとした液体が股を伝い、床に赤い池を作った。
目が見えない。
音も聞こえない。
枷に繋がれたまま身体は崩れ、意識が薄れていった。
※※※
真っ暗な闇の中、ヘクターに魔女が話しかけた。あるいはそれは、走馬灯のようなものだったのかもしれない。
「体内の魔力に命令をして、動きかたを教えてあげるのが魔法、なの。だから実は、『陣』『詠唱』『結印』どれかが欠けたって魔法は組み上がる。
……例えば『詠唱』だけでも、余程巧みであれば理論的には発動出来るのよ。うちの一族はそういった『命令の省略』に長けていてね。
そうね、一つ、教えてあげましょうか。……生意気。違う、ただの気紛れ、よ」
とうの昔に亡くなったはずの黒竜の長、黒の魔女ヘクスティアはそう言って、穏やかに歌い始めた。
「続けて」
ヘクスティアに促され、ようやく轡から解放された口で、ヘクターもボソボソと歌い出す。
空から落ちる大粒の雨が、唇を濡らした。
※※※
気が付けば城の手当室で寝かされていた。
意識が戻った事を喜び顔を覗き込む影に、ヘクターはそっと名を呼び、指を伸ばす。
「……ヘク……」
途端、思い切り頬を殴られた。
「狼っ! 今、よりによってあの魔女と俺を間違えただろうっ! ふざけるな、今すぐ死ね!」
白竜の長ザルバが叫び、ミューラーが羽交い締めている。
「ああっ、俺がせっかく魔術を駆使し真っ当な手当してやったというのに、気色の悪い間違いをしおって! もー二度と助けてやらんからな、この馬鹿っ!」
さらに数発、続け様に殴られ、戻りかけていた意識は再び沈んだ。
後日、ヘクターは、東地区の死体置き場で朦朧と歌っていたところを発見されたと聞かされた。そのためザルバ以外からは、完全に気が触れたと思われていたらしい。
※※※
ヘクターは白葡萄酒のグラスを月の光に翳す。
彼らに憩ひを 授けたまへ
歌っていたのはおそらく、へクスティアに習った唯一の詠唱魔法、『癒しの歌』。
発動した魔法が出血を抑え増血を促し、体内を整えた事で一命を取り留めたのだろう。
金色に輝く最後の一杯を月ごと呑み込むと、足を引き摺って自室に戻り、ベットへ倒れた。