少女と歌
同じ日の昼、ダリアは中央地区の市場へ向かった。
ヘクターに渡されたメモを読みながら、顔馴染みの売り子たちから食材を仕入れ、次々と腕に積み上げていく。
兎人の『重力操作』は、荷物を運ぶ際に大変重宝する。女性の腕力ではとうてい無理な量であっても、殆ど重さを感じることなく持ち運ぶ事が出来るからだ。
しかし、小柄で華奢な娘が尋常ではない量の紙袋を抱え、平然と歩く姿は人目を引き、この市場の新たな名物になりかかっている事を、当の本人は気がついていない。
ダリアは一旦『青兎亭』に戻り食材を片付け、今度は大教会の方へ向かった。
日中、大教会前の広場は色とりどりのテントが並ぶ青空市になっている。
神の御前というだけあり広場は清潔で治安が良く、見上げるほどに高い時計塔の下、丁寧に整備された石畳が並び、海神を彫刻した噴水から眩しい水飛沫が舞う。透明な青空から降り注ぐ麗らかな日差しが通行人のコートを脱がせ、鳥はさえずりを交わしあう。
ダリアは深呼吸をし、春の空気を味わった。 鼻腔をくすぐる蠱惑的な花の香りに、ふにゃりと蕩けてしまいそうだ。
匂いの元を辿り花屋の傘へ入る。並べられた花束に顔を埋め瞳を閉じ、一つ一つ香りを確かめる。ダリアの花選びの基準は色や形ではなく、健康的な匂いだ。
花を嗅ぎ分けるダリアの背後で、子供の笑い声があがった。
顔を赤らめ振り返ると少女が二人、手を繋ぎ、屈託のない笑みを浮かべ立っている。
一人はダリアよりやや年下の、飴色に輝く長い直毛を降ろし、新緑のような瞳を好奇心で満たした活発そうな少女。もう一人はその少女より幼い、亜麻色の柔らかな髪と、零れそうな黒い瞳を持つ、大人しそうな少女。
学校の制服なのだろう、二人はお揃いの黒いマントと茶色のワンピースを身につけていた。
「ねえお姉さん、そんなにいい匂いがするの?」
愉しげに、少しだけからかうように年長の少女が訪ね、幼い少女はサッと年長の少女の影に隠れた。
「春の花はすごーくいい匂いがするんだから。そうね、コレと……コレ、とか……」
ダリアはニンゲンでも判るほど匂いが良い花を選び、少女たちに差し出した。
二人はおそるおそる、花弁に鼻をつけ匂いを嗅ぐと顔を見合わせ、声を揃えて叫ぶ。
「すっごーいっ! ほんとに、いい匂いっ!」
「この花、体調がとても良いの。きっと、店員さんが丁寧に花を扱っているんだと思うよ?」
突然誉められた花屋は慌ててお辞儀をした。それを見た少女たちは、またクスクスと笑いあう。
可愛いなあ、二人とも。……いいなあ。
友人がいないダリアには、同茎の花のように親密な二人が羨ましい。
年長の少女が歩み出、ダリアの袖を掴んで言った。
「お姉さん今日ね、ロージー……あ、この子、ロージーっていうんだけどね。ロージーが元気になったから私、お祝いのお花を買いにきたの。一緒に選んでくれないかな?」
ロージーはもじもじと恥ずかしそうな上目使いで、こちらを伺っている。
ダリアはにっこりと、できる限り優しく見えるよう微笑んだ。
「もちろん、いいよ? 一緒に選びましょう」
少女たちは歓声をあげた。
※※※
「ダリアさんそれでね、男子たちがロージーを……」
「ちがうよっ? それはきっとアイツがアネットの事が、好きだから……」
「えー! あんなのに好かれたくないっ! で、ダリアさんその時ね……」
買ったばかりの花束を足元の日影に隠し、噴水の縁、三人並んで腰をかけた。
時折頬を濡らす飛沫にはしゃぎながら、少女たちは学校での恋模様や噂、悪口に近いクラスメイトへの批判などを饒舌に話し続ける。
ダリアはただただ頷き、二人の会話を聴いていた。
年長に見えた少女はアネットという名で、ロージーと共に魔導師学校に通っており、二人ともまだ十二歳なのだそうだ。
ロージーは年相応の外見だが、アネットは大人びた美人で、スラリと背が高く発育も良い。ダリアは腕でさりげなく胸元を隠した。
間違いなく、数年経たずに追い抜かれる。
「……ダリアさんは、何かお願い事とかないの?」
突然の問いに、反射的に『胸を……』と言いかけ、急いで飲み込んだ。
「もう、聞いてなかったでしょ! あのね? 今、学校で人魚が流行ってるの。ハーリアの入り江で人魚にお願い事をすると、叶えてもらえるのよ」
「……人魚? そういえば、この間、ハーリアに行ったけれど、結局人魚には会えなかったなあ」
ダリアは冬の蟹旅行を思い出し、答えた。あの時は青月石の事で頭がいっぱいで、人魚についてはすっかり失念していた。
「ハーリア行ったんだ、いいなあっ! ロージーはこの前ハーリアで、人魚にあって身体を治してもらったんだって! ほとんど動けなかったのに、ほら、こんなに元気!」
アネットがロージーを指し示すと、ロージーはさっと顔を赤らめ視線を泳がせた。
『人魚』
その名は有名だが伝説ばかりが先ん立ち、あまり現実味がない。
「ロージーちゃん、人魚に会ったの? すごいね。本当にいるのね」
「……うん。本当に、いるのよ?」
ロージーが小さな声で、しかし『本当に』をハッキリと強調し主張した。
「人魚は、ハーリアの海の底に住んでるの。金の長い髪の毛をゆらゆら揺らして。キラキラ光る身体を珊瑚のベッドに埋めて。それで、月の夜に、白い入り江でお祈りすると、でてきてくれるの。……運が良ければ」
「そう、それでロージーは、人魚に歌を教えて貰ったのよ! ね?」
アネットが言うと、ロージーは顔をますます赤らめた。腕を掴んでせがむアネットから身を仰け反らせ、首をぶんぶんと横へ振って応える。
おそらくこのやり取りは、もう幾度も繰り返されているのだろう。
ねえねえねえ、アネットが邪気なく微笑み、ロージーは困惑に耳の後ろまでを朱に染めた。
やがて観念したロージーは溜息をつき、掠れるような声で呟いた。
「……じゃあ人魚の歌、歌うけど。私、すごく音痴なんだから……ダリアさん、笑わないでね?」
ロージーは深呼吸をし、噴水に座ったまま、兎耳のダリアにならどうにか届くほどに小さな、とても小さな声で歌い始めた。
わがイノりの フサフにあらねど
やさしきキミ ただアハレみたまへ
ココロのオクを みたしたまへ
ケガレしものは ヤキキヨめまし
……この歌っ!
ダリアは耳をそばだてた。
確かに調子外れだがこれは、ダリアの母がよく歌っていた歌だ。あまりの懐かしさについ、ロージーの歌声に合わせ口ずさむ。
母がダリアに歌い伝えたあの時のように。
燥けるものに 水注しめまし
すさべるものは おし和めまし
倦みつかれしを 癒しめまし
ひよわきものは 堅めたまひぬ
彼らに憩ひを 授けたまへ
歌い終えたダリアの真横で、アネットとロージーは目を真ん丸にしていた。結構な大声で歌ってしまったのだろうか。頬に血が登るのを感じ、急いで誤魔化し笑いを浮かべる。
「ご、ごめんなさい、つい。懐かしかったから……」
「……ダリアさんっ! 何でこの歌、知ってるの!? もしかして人魚と会ったの?」
アネットが興奮もあらわに大声を出し、ダリアの手を両手で握った。
「えっと、私のお母さんがよく歌ってくれてた歌だから……。私、ハーリア出身だから、地元の歌なんじゃないかなあ? ……あまり知らないんだけど」
「ハーリア出身なんだっ! ね、他にも歌、知ってるの?」
「うん、こういう歌なら、沢山知っているけど……」
ものごころつく前から、母は熱心に数々の歌をダリアへ歌い聴かせた。子守唄がわりのそれらは胸にしっかりと刻み込まれている。
アネットが歌をもっととねだる中、ロージーはただ、呆然とダリアを見つめ、ぽそりと声を漏らした。
「……にんぎょ、と……同じ……?」
※※※
足の治療を終え、ヘクターは城から帰宅した。真っ直ぐに自室へ入るとベッド脇の本棚から数冊選んで座り込み、膝の上で頁を繰っては閉じた順に積み重ねる。
カーテンを閉め切ったままの薄暗い室内を、羽虫のような埃が舞った。
「……兎に関しての本……なんて無い、か……」
兎人の魔力暴走を制御する方法を調べなくては。ダリアは魔導師にとって大変たちの悪い暴走をする。国に知られたなら捕獲どころか処分対象になりかねない。
「ミューに城の書庫を探してもらうか……」
王子とはいえ、ミューラーはダリアへ好意を抱いている。まだ若く青々しい彼なら、ダリアを王へ引き渡す事はあるまい。
魔導書、歴史書、実用書。
次々と棚から引き出し読み漁ったが、知っている以上の知識は得られそうにもない。
ヘクターは最後の一冊を乱暴に閉じて舌打ちし、今度は大陸の地図を広げた。
「魔導師の地図に、兎の里の在り方が書いてあるわけない……な」
他の兎人を見つける事が出来れば、魔力の制御方法がわかるかもしれない。が、ダリア以外の兎人を見かけた事など、生憎一度もない。
癖毛に指を絡ませ、頭を掻く。人間が作った地図だ、細かい地名を幾ら読んでも、兎の里がありそうな場所などは解らない。
ヘクターは丸めた地図を荒々しく床へ投げつけ、八つ当たり気味に呟いた。
「……兎の里なんて見つけても、絶対行かせねーけどな」
兎の里でオスの巨大兎と繁殖するダリアのイメージを、洒落にならない、と首を振って吹き飛ばした。
床から立ち上がり、ヘクターはベッドへ倒れ込んだ。身体を仰向けに返し、天井の梁と木目とを視線でなぞる。
暴走するほどに魔力量と器の大きさがあっていないのなら、獣人であっても大人になる前に身体が壊れる。ダリアはすでに十八、つまり潜在魔力と器のバランスには問題がない。
……じゃあ、何がダリアを暴走させている?
瞼を閉じ、ヘクターは体内の魔力を意識した。
器の淵まで満たされたヘクターの魔力は、奥深い森の湖水のように閉ざされ、波紋一つの乱れすらもない。どのように感情が乱れたとしても、制御不能になる事はまず無いだろう。
思考の海に沈んだヘクターの眉間に、深い皺が刻まれた。
ダリアは俺を見ると魔力が暴走する、と言っていた。『暴走原因を特定し、それに触れさせない』のが一番手っ取り早い解決方法なのだろうが……。
「……もう俺の、だ」
目蓋の裏に浮かぶのは、ヘクターに抱かれ切なげな息を吐く、扇情的なダリアの姿。
ようやく手に入れたのだ、腕の中から逃すつもりなど、無い。
※※※
「ダリアちゃん。少し、話があるんだけど」
バー『青兎亭』の営業を終えた深夜過ぎ、従業員部屋に戻ったヘクターは、自室に逃げ込むダリアを呼び止めた。
「あーっと、こっち見れないなら、無理に向かなくていいから。とりあえずソファに座りなさい、ね?」
ダリアは泣きそうな顔で頷き、ソファに座ると膝を抱きかかえ、小柄な背中をさらに縮めた。
暴走されては困る、今は顔を見ない方が良いだろう。
ヘクターはソファの背面に回り、ダリアのバンダナを抜き取った。追い出されるとでも思っているのか、兎耳は力なく垂れ下がっている。
「……そういう話じゃ、ないんだが」
頭を掻き、ヘクターは呟いた。表情を見なくとも、ダリアの感情は兎耳の動きで大体理解ができる。
ヘクターは兎耳から目を離さず、出来る限り優しげな声色を作り、言った。
「ちょっと魔力の暴走の事、調べてみたんだけど手掛かりがなーんにも無いのよ。とりあえずとことんまで調べてみるわね。……ダリアちゃん、魔力制御の訓練方法、わからないかしら」
兎耳はくるりと捻られ、ヘクターの声に文字通り傾けられている。
「……お母さんが昔、魔力の制御教えてくれたの。子供の頃よりは制御できるようになったけど、難しくって……今でも毎晩、練習してるんだけど」
「お母さん、魔導師?」
「違うよ。魔法使うの見たこと無いし、魔法陣の刺青も無かったもの」
ダリアの声は緊張に掠れ、兎耳は自信なさげに縮んでいた。
成人した魔導師は身体に陣を刻む。つまり刺青が無いのなら、それは魔導師ではないということに直結する。
しかし魔導師でもない女性が、魔力の制御方法など知っているのだろうか。何処か釈然としない。
「……兎人の知り合い、いないかしら? 種族ごとに魔力制御の方法が違うみたいなのよ」
そう続けると、ダリアはより一層、消え入りそうな小声で答えた。
「お父さん。もう十五年前から失踪中だけど。……でも他には、知らない」
兎耳が震えている。
耳だけではない。声も、肩も、微かに震えている。
ヘクターは思わず手を伸ばし、しかし押し留めた。
今、強く抱き締めたなら、兎の魔力が暴走しかねない。ヘクターは脆い花弁にとまる蜜蜂のように慎重に、兎耳へ指先を降ろした。
モヘアの手触りをもつ艶やかな毛へ指を埋め、そっと掻き分ける。薄ピンクに染まる暖かな地肌が覗き、衝動的に口付けを落としかけた。
汗ばみ、桜色に染まるあの日の肉体。
悩ましい記憶に支配されかけ、慌てて兎耳から手を離す。昂る本能を誤魔化し、ダリアの頭を軽く二回、叩いた。
「……ダリアちゃん、あのね? ダリアちゃんは私に対して、とても沢山思い違いをしているのよ?」
どうか暴走しないでくれよ。そう願いを込めつつ、ダリアの頭を撫でる。
「残念だけど私、ダリアちゃんが思ってくれている数百倍は性格が悪いわ。しかも秘密がすごく多くて責任もまともに取れない癖に、独占欲ばかりがとっても強いの」
「へ?」
ダリアが顔をあげ、振り向いた。目尻は赤く、頬には涙の筋が描かれている。
「本当に欲張りだから、一度手に入れたものは、逃すつもりなんてないの。解る?」
ヘクターはダリアの鼻頭を突つき、眉をハの字に下げ笑いかけた。
ダリアはダリアなりに意味を咀嚼しているのだろう、様々な表情を瞬時に作り、最後には唾を飲み込んで、叫んだ。
「え、え、えっと!? それってつまり、一度雇った従業員はそうそうクビしないってこと?」
「……私、もっともっと、根本的な話をしたツモリなんだけど。どうしてそう、回りくどい解釈を……」
しかしクビにならない事が余程嬉しいのだろう。緊張から解放されたダリアは安堵の息を吐き、弛緩しきった笑みを浮かべた。
葛藤すらも台無しにするその反応に、ヘクターは頭を抱え溜め息を漏らす。
「こいつ、本物のバカの子……じゃあどうせだし、もう一つ、とっても大事な事を言っておくわね」
ヘクターは目に力を込め、ダリアを見射った。
数拍の間。
あえての沈黙を挟み注視をさせ、ゆっくり丁寧に、口に出す。
「私は、女の子が、大好きなの。ていうかお前、いい加減気づけよっ!」
ヘクターがハッキリ言い切ると、ダリアは驚きのあまり声も出ないといった様子で、酸欠の魚のように口をぱくぱくと動かした。
……あんな事までしておいて、この反応とか。
ヘクターは苛立ち、ダリアの頭を思い切りはたく。
「痛ーーっ!!」
「っとにかく、ダリアは今まで通りここに住め! んで毎日みっちり、魔力制御の訓練をしろっ! こっちもできる限り調べて、暴走を防ぐ手立てを探す。……だから……俺から、逃げようとすんじゃねえぞ」
そう言い残し踵を返すと、ヘクターは振り返らずに自室へ戻った。
部屋ではカーテンの隙間から漏れ入る月光が、床に堆く積まれた本をあざ笑い、照らしあげていた。