兎の暴走
魔女たちは、踊りながら歌います。大きな兎をくるりくるり、振り廻して。
一人目の魔女が静かに歌うと、兎たちは春の眠りへ、二人目の魔女が無邪気に歌うと、兎たちの首がころりと体から落ちました。
やがて兎の里には誰も、いなくなりました。
※※※
ヨルドモ城塞西地区にある隠れ家的なバー、『青兎亭』。食材や酒類の仕入れを終えたダリアは、一心不乱にモップで床を拭いていた。
店長のヘクターは足の手術を終えたばかりだ。
本来ならば絶対安静なのだろうが、じっとしてはいられない性質なのか、術後すぐ、営業を再開している。もちろん充分に動ける身体ではなく、そのためダリアは準備と片付けを丸々引き受けていた。
磨かれた床に椅子を下ろし、掃除用具をしまい、ダリアは我に返った。
無心になり過ぎたようだ。オープンまでまだだいぶ時間があるというのに、掃除が終わり暇になってしまった。
直後、恥ずかし過ぎる記憶が津波のように押し寄せる。
「ひやああああっ!」
ダリアは奇声を発しながら壁の煉瓦を殴り、床へ崩れ落ちた。
今、ダリアは汚れても構わない着古したワンピースに、エプロンを重ねている。いつものバンダナはカウンターに投げ置かれ、頭上では剥き出しの兎耳が力なく倒れていた。
開店準備は終わった。
ならば従業員部屋へ戻り、バーの制服に着替えなくてはならない。が、部屋にはヘクターがいるだろう。
「……会いたく……ない」
そう呟き、首を振る。
違う、むしろとても会いたいのだが、合わせる顔がない。
ダリアは熱を持った頬を両手で覆った。
つい先日、ダリアは兎人の繁殖期を迎えた。そして足の再手術を行ったばかりのヘクターに発情し、丸々一週間、襲い続けた。
どのように誘惑し、重なり合い、口づけを交わし抱き締められたのか。汗ばんだ皮膚も唾液の水音も、呼吸とともに漏れたおかしな声までも、全てハッキリ覚えている。
こんな記憶、無くなってしまえ。
ダリアは唸り、壁に額を何度も打ち付けた。当然、痛いだけで記憶は消えてはくれない。
「……しかも、告白まで……しちゃった」
あの時はおそらく、アタマがおかしかったのだ。
ヘクターはダリアを受け止めながらも、最後まで手を出しはしなかった。服を脱ぎ捨て迫った時も、ヘクターはベッドシーツで包み直し、布越しの抱擁をくれた。
繁殖期終了後、『大事にされている』と舞い上がったダリアは、思わず『大好き』と告げてしまった。
少し考え直せば解る、あまりに愚かで惨めな勘違い。
オカマで大人のヘクターだ。
手を出さなかったのは単に、成人したてでしかも女性であるダリアに、微塵も興味がないからなのだろう。
だが『大好き』と口にした途端、育ち始めていた恋心を自覚してしまい、ダリアはまともにヘクターを見る事が出来なくなった。
視線が重なれば兎の魔力が渦を巻き、胸に棘が突き刺さる。
兎の魅了は切れている。人生二度目の恋も、失恋真っしぐらのようだ。
「私の、バカ……」
のろのろと立ち上がり、服の裾を払った。
椅子に座りテーブルに突っ伏すと、活けたばかりの青い一輪挿しが、二本にぶれて見える。清潔なテーブルが、紅潮した頬をそっと冷やした。
恥ずかしい。
発情中の行動も、その後の勘違いも。
再び奇声をあげ、額をテーブルに打ち付けた。が、やはり記憶は消えず、それどころか都合の良い妄想が、されなかった行為の続きが、悶々と浮かんでは膨れあがる。
これではマトモに働けそうもない。
あれ以来ヘクターのいる部屋を避け、何かと理由を作っては街に出たり店に入ったり。
おそらく行動を怪しまれてだろう。
仕事の出来ない挙動不審なバイトなど、どんな店だって雇いたくはない。
「クビになったら、どうしよ……」
八歳の頃、ハーリアの学校を崩壊させたダリアは、兎人である事がバレないようヨルドモの学校には通わず、自宅で母親から知識を学んだ。
その為か親しい友人など一人もおらず、この街にはヘクター以外、未練が無い。
ここをクビになったなら、ハーリアの学者を頼り助手になろうか、それとも兎人の里を探す旅に出ようか。
ダリアはニンゲンと兎人のハーフだ。純粋な兎人たちに受け入れて貰えないかもしれないが、繁殖期に悲惨な迷惑をかける心配はないだろう。
「……でも、出来るなら、まだママのそばに居たいな」
たとえ叶わない恋だとしても、せめてそばにいれたなら。
思考はループし続ける。
ダリアは伏せたまま右の兎耳に力をいれ、真っ直ぐに伸ばすと、一輪挿しの花をぺしぺしと叩いて弄ぶ。花はゆらり、大きく回転しそっぽを向いた。
「ねえ、面倒な子だと思われて、嫌われて追い出されちゃうかなあ?」
耳に揺らされた花は、首を横に振った。
「でも、すごく迷惑かけちゃったよ。足……きっと痛かったよねえ」
「……全く違う場所が痛かったわ」
ついと頭上に乗せられた大きな手が、耳の付け根を掻き分け、ゆっくりと撫でた。
気持ちがいい。
ダリアは耳を倒し、目を閉じる。
「やっぱり私、旅に出た方がいいよね」
「旅に? じゃあ近いうち、また旅行にでも行きましょうか」
「ううん、兎の里を探すの」
「……そんなのがあるの?」
「うん。あるってお母さんが言ってた。来年はちゃんと兎の里で繁殖するの」
頭を撫でていた手がピタリと止まる。
「……ちょっ、何? 兎の里で繁殖っ!?」
「え、あ、ママ! いつの間にここに?」
ダリアが顔をあげると、テーブルの向かいの席でヘクターが目を丸くしていた。
動悸が急速に速まる。急いで視線を反らしたが、頬はカアッと熱を持ち、鳩尾で兎の魔力がぐるぐる暴れた。
「ダリアちゃんが耳で花と遊んでたから、器用だなーって眺めてたんだけど。ね、それよりも兎の里って? そこで繁殖って……相手は巨大な兎だからね! 種族は間違ってないかも知れないけど、見た目はものすごーくエロ……じゃなくて倫理的に危ういわっ!」
「で、でも私のお母さん、兎の里でお父さんに一目惚れしたって言ってたよ? だからそういう事もおかしくはないとおもうけど……っひゃあっ!」
横を向き早口で話すダリアを、ヘクターが軽々持ち上げた。ヘクターの左足の腿に対面で跨らせ、コツンと額をぶつける。
顔が、近すぎる。
長い睫毛の下で妖艶にダリアを捕らえる、黒い瞳。
心臓が跳ね、兎の魔力が体内を蹂躙する。ダリアは目を硬く閉じ、暴れ狂う魔力を抑えようと深呼吸をした。
「最近、何で逃げてるの? 兎とじゃなくて、私と繁殖しましょう。このまま、ここで」
太い弦を弾くような、低く響く声。鼓膜を指先でなぞられたかのように、全身がゾワリと痺れる。
大きな手が腰を掴んだ。引き寄せられ、ワンピースの裾がめくれる。剥き出しの太腿の上を、からかうように指が這う。
広い胸に埋められた顔に、記憶と妄想を思い起こさせるヘクターの熱が伝わってきた。
ぐるぐる、眩暈がする。
このままでは魔力が溢れる。ダリアは焦りもがいて、膝から飛び降りた。
「んじゃあ、ママ、先に戻りまーすっ!」
叫びながらカウンターのバンダナを掴み、脱兎の如く店を出る。階段を一足飛びに駆け上がり、従業員部屋へ飛び込んだ。
暴発寸前、全開に開けた窓に向かって、一気に吐き出した。
魔力の渦が昼の白月へ真っ直ぐ吸い込まれた。月が太陽に負けないほど、大きく強く輝く。
「間に合った……」
街の何人かは月の異変に気付いたかもしれない。急いで窓枠の下にしゃがんで隠れ、荒れた呼吸を整えた。目を閉じ、祈りの言葉を呟き、軽くなった魔力を深く深く閉じ込める。
と、唇に触れた何かに、祈りが途切れさせられた。
そのまま肩を押され、身体が斜めに倒れる。
目を薄く開くと、ヘクターの癖毛が揺れていた。覆い被さるようにして、口づけされているようだ。
緊張に乾いていた唇が、舌先で濡らされる。
ぐりん。
急激に膨らんだ兎の魔力が弾けた。
「ふひゃああああっ!!」
ダリアはヘクターを跳ね除け立ち上がった。両手を窓から出し、再び兎を解放する。魔力の渦は焦りのためか地表を軽く撫で、空に吸い込まれた。
月がまた、鮮やかに輝く。
「魔力が、ママを見ると暴走しちゃうみたいで……ね、ママ、どうしたらいいのかな?」
ダリアは俯いた。
密集した街並みに、細い煙が数本、たなびいている。運の悪い誰かの魔法や魔導具が兎に飲み込まれ暴発させられたのだろう。
「……とりあえず、どうにかなるまで近付かないようにするわね」
ヘクターが呟き、頬をひくつかせた。
※※※
翌日の昼、ヨルドモ王城内特別手当室。
中央に豪奢な寝台が置かれ、天井に金細工が彫刻されたこの部屋は、緊急時の搬入用に中庭へ面した壁が硝子窓となっている。
足を気遣った配慮なのだろう、ヘクターを乗せた馬車は庭園を通り、中庭から搬入窓ギリギリまで車体を寄せた。
庭に張り詰める、ただ事ならぬ気配。
ヘクターは溜息と杖を突き、顔を腕で隠して馬車から降りた。早足で室内へ上がると、白竜の長、ザルバが濃紺のカーテンをサッと閉めた。
「見学者が多過ぎる。一体、何があった」
黒いフードの下、憮然とした表情でザルバが言う。
今日の中庭は賑やかだ。
白バラの茂る垣根に侍女や召し使い、掃除婦や庭師たちが潜み、それぞれの仕事をしているような顔で、馬車や手当室の様子を観察している。
「……足の治療が余程の話題になっているのだろうか」
付き添いの若い王子、ミューラーが腕を組み、不思議そうに呟いた。
何を呆けた事を。
いつもなら軽口を飛ばすヘクターだが、今日はそんな気分にはなれない。
「この国の王子様がこの前、全裸の俺を押し倒したからに決まってるだろう。……それよりザルバ、聞きたい事があるんだが」
「はあ? あれは全くそういう事じゃなくて、お前がなかなか口を割らないからっ!」
「そうか。そりゃどうでもいいな。狗、聞きたい事とは、何だ?」
弁解を練り始めるミューラーを他所に、ザルバはヘクターを促しながらベッドに座らせ、包帯をほどき手術の経過を確認した。
ヘクターは慎重に言葉を選び、言う。
「なあ、魔力が暴走しやすいタイプって、どうしたら治るんだ?」
「……魔力の暴走、か。器より魔力が高すぎる子供にはよくある事だ。然るべき教育を受け、無事大人になれば治る。魔力に器が耐えきられなければ、大人になる前に身体が瓦解する」
「もう、十八だ。幼い頃、魔力の暴走で学校を崩壊させた、と言っていた」
ザルバは足を診るのを止め、ヘクターを見上げた。
「学校を、崩壊……? 魔導師の子供が集まる機関は暴走に備え、頑強な結界に護られているはずだが。それに十八にもなって暴走が治まらないなど、おかしいだろう。もしや……亜人の長命種か? 何族だ」
「……長命種では、無いんじゃないかな」
曖昧な答えにザルバは目を眇め、ヘクターを睨んだ。
「何族かと聴いた。事実を隠すのなら正確な答えなど返せない」
ヘクターは言葉を詰まらせる。
白竜の長ザルバは、この国の魔導師の頂点だ。兎人は魔導師の天敵であり、過去、兎人たちに対して行われた獣狩りは、ヨルドモの黒歴史にも触れる。
今、兎人の存在をザルバに告げて、良いのだろうか。
話題の中心が誰なのか気付いたのだろう、ミューラーも身を乗り出した。
仕方が無い、とザルバは手当を再開し、投げやりに話を続けた。
「亜人や獣人、魔物ならば、魔力の暴走が即、魔法の発動に繋がってしまう。もし、たちの悪い魔法が発動するのであれば、俺としては捕獲、もしくは処分をしなくてはならない。……そうだな、お前が出来ることは、暴走原因を特定しそれに触れさせないか、魔力の適切な訓練をみっちり行うか」
「適切な、訓練……?」
「どんな種族でも暴走しやすいタイプの子供は産まれる。同族の集団に戻せば、暴走を抑える術がそれぞれにあるハズだ」
ザルバは縫い口を浄化し足の反応を診ると、話題を切り上げた。
「経過には特に問題は無さそうだ。今週は大人しくしていたようだな。まあ、屍鬼狩はまだこの足では無理だ。引き続き大人しくしておけ」
縫い口に軟膏を塗りつつ新たな布を貼り、添え木をして包帯を巻く。
しばらくの沈黙。
施術が終わったようだ。ヘクターは重くなりかけた口を開いた。
「……ああ、そうだ。指輪と、あの船は結局なんだったんだ?」
「それに関しては、足が良くなり次第、こちらから新たな依頼状に詳細を添えて送る」
ミューラーが言う。おそらく何かしら解っているのだろう。
「なら後もう一つ。……な、ザルバ。モーリスって知ってるか? 歌による詠唱を行っていた。あれは、お前の一族……竜の詠唱方法だろう?」
ザルバは少し考え、答えた。
「モーリスという名に心当たりは無いな。第一、その詠唱は口伝だ。俺まで伝わっていないし、むしろお前の方が詳しいだろう? 歌による詠唱を行っていた最後の魔導師は、ヘクスティアだ」
「他には、いないのか。例えば、人魚、とか」
「……人魚。何の事だ? なにしろ口伝だからな。誰の気まぐれでどこに伝わったか、見当もつかない」
施術が完全に終わったのだろう、ザルバはさっさと帰れ、とでも言うように、カーテンに閉ざされた窓を指差した。
※※※
左がザルバ
右がミューラーです