二章エピローグ 後
市街地と王城とを繋ぐ橋を渡り、鉄柵門をくぐる。規則正しく並べられた石畳に杖を付き、王の前庭をカツカツと進む。
以前は毎日のように歩いたこの城も、三年の空白ですっかり居心地の悪いモノとなった。
何かと理由をつけ登城を拒んでいたのは、虚栄か羞恥か、それとも罪悪感か。年月だけを無駄に重ね、与えられた役割を淡々とこなし、今はただ、屍人のように生きている。
隣を歩く若い王子、ミューラーは緑の髪を輝かせ、たわいもない話を楽しげに語る。三年前は少年だった彼も、しばらく会わない間にだいぶ背が伸び、人の女と知りながら拐う程には大人になった。
ヘクターは会話を打ち切るようにため息をつき、視線を上げた。
きらびやかな廻廊の天柱には、大理石の幼児像が飾られている。彼らは下界に住む人間の心の内など気に留める様子も無く、背中に羽を生やし運命の錫杖を無邪気に、残酷に玩ぶ。
いったいどこから、歯車は狂い始めたのだろう。
「おい、ヘクター。手当て室はあちらだ。何処へ行くつもりだ?」
「……王室礼拝堂。ちょっと祈って行こうかと」
「何故。白竜をあまり待たせると面倒な事になるぞ。懺悔なら後にしろ」
ヘクターは頭を掻き、足の向きを戻した。
白竜はこの国の守護魔導師の頂点にあたる。白竜や黒竜の多くは城に住み、殆ど外へ出る事がなく、常識のズレた研究肌の変人ばかり。ヘクターが城に暮らしていた頃も、騒動の中心はたいてい白か黒の竜だった。
ミューラーが王城手当室の奥にある小部屋……特別医務室の扉を開けた。
高い天井は金の浮き彫りに縁取られ、搬入出用の大きな硝子窓からは、白薔薇の咲き乱れる見事な中庭が見える。
部屋の中央には天蓋の貼られた寝台が置かれ、その脇に白竜の長、魔導師ザルバが佇んでいた。
「久しいな、狗。……おや、野性の魔力が纏わりついているぞ?」
黒いローブをすっぽりと纏いフードも取らないまま、幼さの残る口角を愉快そうに上げてベッドを指差し、脱げ、と言った。
※※※
「……解りやすく言えば、切ったり繋いだり剥がしたり戻したりしてみたのだ。おかしなくっつき方をしていたからな。後、代用品も埋め直した」
目を覚ましたヘクターへ、ザルバが淡々と話す。
ベッド自体に誘眠の魔法がかけてあったのだろう、横になった途端意識が途切れ、気が付けば夕陽が射し込んでいた。
シーツが血飛沫に染まり、何を見たのかミューラーの顔は青白い。ベッドに横付けされたテーブルには、様々な大きさの小刀や赤黒い何かが浮いたバケツ、血濡れのタオル、魔法陣の描かれた板が並べられている。
処置はとっくに終わっているようだ。右足が包帯で硬く巻かれ添え木をされていたが、しかし一切痛みが無い。
「……全く痛くないな」
「ああ。術中に起きないよう、足の痛覚そのものをを切った。一週間後、再検査のついでに痛覚を戻す。痛みが無いままでは、取り返しのつかない無茶をしてしまうからな」
そう言った後、ザルバは口の端を大きくあげ、にいっと笑った。
「つまり一番危険なのは、今から一週間だ。痛覚が無いまま足を動かす事は、足を失う事だ。理解したか?」
ヘクターが頷くのを確認し、ザルバは続ける。
「人ではない魔力がお前に執着しているな。魔物を飼いはじめただろう」
「……いや、魔物では無いが」
「ふむ、ならば形が魔物ではないだけだ。魔力の質は、完全に魔物そのものだ。屍鬼狩の魔物使いとはな。狗が何を思って愉快な事業を始めているのかは知らんが、今しばらくはどちらも廃業しておくがいい。身体に障るぞ」
「どっちも開業してねえっ」
「屍鬼狩の方は俺から王に言っておく。術後の経過を見て、許可が出てから再開するように。魔物は大型か? 小型か? じゃれるのはほどほどにしておけ」
「じゃれるなよー」
魔物が誰か勘づいたのだろう、ミューラーが手で兎耳を作りながらニヤニヤ笑う。と、ザルバは咳払いをした。
「魔物もだが、お前の場合、何よりも心配なの性関係だ。足を引き換えにしてでもやりそうだからな。そこで、ちょっと呪ってみた」
「呪っ!?」
裸のままのヘクターの首元に、ザルバが指を添えた。いつの間にか革製の首輪がぐるりと巻かれている。
「これは、嫉妬深い魔女が恋人の浮気を疑い、作った魔導具だ。魔女が浮気と感じる行為を魔女以外に行った場合、もげる」
「はあ!? な、もげっ!?」
「そうだ。ただ、刻まれた魔法が古過ぎて、魔女の思う浮気の基準がよくわからん。研究を兼ね、とりあえずつけてみたが、もげたら状況を報告をしてくれ。……ああ、一応もげる前に警告は出る。それさえ無視しなければ大丈夫なはずだ。警告の出た行為についても、報告しろ」
「本当に実験台じゃねえか!? すぐに外せ!」
ザルバは指を引っ込めると、首を傾げた。
「お前は、たった一週間、欲望を断てぬ程、馬鹿なのか?」
「……俺の事を、呪わなければ欲望に負ける程度に馬鹿だと思っているだろう」
「おそらくいい実験サンプルがとれてしまうだろうと思う程度に、お前には期待している」
どこか投げ槍に返し、ザルバは中庭に停められた馬車を示した。
さっさと帰れ。
懐かしい誰かとよく似た、しかし黒い瞳が、そう訴えている。
※※※
「ただいま」
玄関扉を開けると、リビングは暗いままだった。返事もない、ダリアはおそらくダリアの部屋に戻り寝ている事だろう。
全く、とんでもない呪いをかけられたものだ。ヘクターは肩を落としつつも慎重に杖を付き、不貞腐れて自室へ入った。
すると、カーテンを閉め切った暗い部屋のベッドには、薄いシーツを纏い枕を抱くダリアがいた。
「……ダリア、ずっとこっちで?」
熟睡しているのだろう、呼びかけても反応がない。
ただ部屋には、近くにいるだけで動悸の狂う、発情期の牝の匂いが充ちている。
ヘクターは静かに近寄り、ベッドの淵へ腰をおろした。
「……魔物、には見えないよな……」
白いパジャマから覗く華奢な首も、兎耳も髪も、空気に溶け消えてしまいそうなほど頼りなく白く、甘い果実のような瑞々しい唇だけが紅く色づき、その存在を主張している。
きめ細やかな頬をつつくと、少しだけ眉がしかめられ、長い睫毛が揺れた。
影が、重なる。
ヘクターは右の足を庇いつつ、ダリアには体重をかけないよう、丁寧に覆い被さった。
眠る瞼に唇を押し当てると、甘い匂いに脳が痺れた。唇へ唇を這わせ、脆い果実を味わうように、挟んで吸う。
より深い接合を求め、唇を貪る。空気を吸おうと薄く開いた割れ目に舌を差し入れ、強引に歯列を押し開けた。
んっ、と籠った声。
それを合図に舌が絡む。顎の角度を動かす度に唾液が絡まり、艶かしい水音が響いた。
シーツの下へ身体を潜り込ませ、腕を絡め抱きしめる。密着した胸からダリアの心音が震動となり、はっきりと伝わってきた。目を覚ましたのだろう、体温はすでに汗ばむほど上昇している。
静かに舌を解放すると、唾液が唇との間に銀の糸を引き、光った。
ダリアの青い瞳が薄く覗き、潤んでいる。頬は紅潮し、短く粗い呼吸に兎耳が揺れる。
こくりと喉を鳴らし、混ざりあった唾液が飲み込まれた。
ヘクターは満足げに笑むと、再び顔を沈め、砂糖菓子のようなニンゲンの耳に囓りついた。ダリアは腰を跳ねさせ、高く甘い声を発し、逃げる。
浮いた腰から手を抜き取り、パジャマの下の滑らかな肌へ、指を這わせた。
「……っ痛っっっ!!!!」
突然の激痛。
下腹部が千切れるように痛み、跳ね飛んでうずくまった。
『魔女が浮気と感じる行為を魔女以外に行った場合 、もげる。』
白竜の長、ザルバの言葉が頭を過る。
「なんって、中途半端な基準なんだ!」
しかしヘクターは足を庇い、果敢にも再びシーツの中へ潜った。ダリアが甘え、身体を摺り寄せる。唇を重ね、音を鳴らし歯牙を舐めあう。
ここまでは、浮気には入らないようだ。
続いて寝巻きの上から身体を優しくなで回す。ゆっくりと前ボタンを順に外すと、心音を味わおうとふっくら丸い膨らみへ指を伸ばした。
「っっ痛!!!」
悪夢のような痛み。直接触れてはダメだと魔女は言うのだろうか。
ヘクターは気を取り直し、啌内を貪っていた舌を首筋に這わせた。塩辛い汗を舐めとり歯を立てると、ダリアが仰け反った。
痕が残るほどに強く吸う。可愛らしい子兎の鳴き声。
舌を這わせる位置をそろそろと下げる。
「いっっっ!! もげっ!」
襟を暴いた位置に差し掛かると、またもや激しい痛みに襲われた。汗に濡れた背筋に、種類の違う冷えた滴が伝うのが、シーツの内側でもはっきりと感じ取れる。
もげるかと思った!! なにこれ、酷い!!
ここは一旦、諦めるべきなのだろうが、魔女の思う浮気の基準を探るかのように、一心に攻め続けた。ヘクターは白竜の期待を裏切らない貪欲な探求心を持っている。
ココなら、おそらく大丈夫だろう。
ダリアを引き寄せ腰を密着させると、緊張に伸びた兎耳を食みながら、ベルベットの手触りを持つ兎尻尾をぎゅっと掴んだ。
魔女も、浮気相手に耳と尻尾があるなど、想定外な筈だ。
尻尾を揉みはじめると、耳はぐったりと動かなくなった。
リズミカルな手の動きにあわせて吐息が零れ、甘さを充分に含む子兎の鳴き声が漏れる。そのままパジャマのズボンを剥ぎ取ろうと、尻尾の周囲へ手を差し込む。
「っ痛!!!!」
ナイフを突き刺すようなかつてない痛みに、意識が飛びかけた。思わず握り、存在を確かめる。
心の狭い魔女め。多少の浮気くらい許してやれ!
魔女の恋人に同情し、繰り返し制裁を受けながらも、ヘクターは半ばムキになり、まだ摘まれたことのない花がもどかしさに震えるほど優しい愛撫を続けた。
「……ね、ママ……もう……おかしくなっちゃってるよ……」
焦らされ続けたダリアが求め、耳元で甘く、囁いた。
※※※
「……なんとか、やり遂げた気がする」
横にはピッタリと身体を寄せて眠るダリア。
挿れたらもげる。触るだけで激痛。
当然、ヤりたい事は一切出来ない。口づけを落とし服の上から身体を撫で、尻尾や耳を玩ぶという、どこか子供じみた行為だけで満足させ、どうにか眠りにつかせた。
そういった経験のない娘である事も、幸いしたのだろう。
「魔女に、勝った……!」
実際、この場合の勝敗はよくわからないが、どうにか誤魔化しきったという一点に、ヘクターは誇らしげに拳をあげる。
が、自身はストレスだけが溜まりに溜まり、全く満足出来ていない。昂ぶる芯を抑えるため、自分のベッドから抜け出し、うらがなしくリビングへ向かった。
※※※
窓が勢いよく開いた。
春の強い風が吹き込み、ぐったりとソファーに身を投げ出すヘクターの頬を撫でる。
おぼえのある魔力の渦を感じ、ヘクターは重い瞼を抉じ開け、窓の方へ視線を移した。
青白く大きな月が室内の隅々までを、明るく照らしている。
窓際に立つ、華奢で柔らかな影。
兎耳が髪の毛とともに風に靡き、白いパジャマはヘクターがボタンを開け、はだけさせた時のまま。手のひらがまわせそうな程に細い腰の輪郭が、逆光に透けて見える。
未成熟な下腹部は薄い下着に包まれ、真っ直ぐに伸びた長く細い足は、少女の弾力と、獣のようなしなやかさを供え持つ。
「……ダリアちゃん? ズボン脱いじゃったの?」
今それは、色々とマズイ。
ヘクターが戸惑い混じりに言うと、ダリアは赤い兎の瞳を糸月の形に変え、微笑んだ。
『重力操作』
突然の圧にヘクターの身体が沈み、ソファーへ縫い付けられる。
兎の魔物は月のように音もなく近づき、捕らえた獲物を這い上がる。両肢で顔を包みこみ、餌を喰らうようにヘクターの唇へと噛みついた。
「こういう場合も浮気なんですかっ!? 魔女さんっ!」
あまりの重力に、腕すらも動かす事が出来ない。しかし無抵抗な身体から、ぎこちない手付きで服が剥ぎ取られていく。時折襲われる激痛に耐え、なすがままに目を閉じた。
※※※
「……凄い表情をしているぞ」
一週間が過ぎ、王城手当室を訪れたヘクターを見た途端、ザルバが後ずさった。
ヘクターの目の下は青黒いクマにくっきりと彩られ、無精髭が伸び、頬は痩け、首筋には無数の青痣が打たれている。
赤の兎と化したダリアは、身体中を舐めまわし、噛みつき、散々玩んだ後、何をどうしたらいいのかサッパリわからないといった表情をして、上に重なったまま寝たため、魔女の呪いによる特定部位への激痛は意識が途切れるまでヘクターを襲った。青い瞳と赤い瞳のダリアによる朝も夜もない攻勢が丸一週間、続いた。
「最悪の拷問だ……」
「……まあ、とりあえず横になれ」
ヘクターは服を脱ぎベッドに倒れこむと、魔法の力を借りることなくすぐさま寝息を立て始めた。
再び目を覚ますと、まだ昼の光がさしていた。右の足に巻かれた包帯は一回り細くなり、しかしやはり添え木をされ、ガッチリと固められている。
「腫れが引いても動かしてはならないからな。無理はするなよ」
ザルバが言う。
ヘクターが上半身を起こし、ベッドに座り直すと、首に付けられていた首輪を外し始めた。
「……解呪、とかしないのか?」
「必要ない。これはただの『暗示の首輪』だからな。報告も特にはいらないぞ。効果がキッチリあったことは見ればわかる」
「……は?」
ザルバは外した革の首輪を指でつまみ、楽しげに左右に揺らした。
「そもそも、女が男に、ペットや奴隷が填めるようなデザインの首輪を贈るわけがないだろう。これはもともと、捕らえた罪人に暗示をかけるための補助魔具だ。暗示によって実際に痛いような気分にさせる為のな。無害な玩具、だな」
「……暗示? じゃあ、もし挿れても……」
「もげないもげない。物理損傷はしない。むしろ、暗示が解けるだけだ。ちなみに痛みを感じる基準は、お前自信の倫理基準に準拠する。頭の片隅で、これは魔女への浮気だ、と思うことは出来ないって事だな、ヘクター。……古い魔導具だからな、効果があるかちゃんと判らなかったのだが……。いやあ、いい玩具だ! しばらくいろいろと遊べそうだな」
高らかに笑うザルバに、ヘクターの肩が揺れ、殺気、と言っても過言では無いほどの怒気が、周囲の空気を震わせる。
「……ミュー。剣を、よこせ」
「だ、だめだっ! 目が本気すぎるっ!」
ベッドから立ち上がろうとすると、ミューラーに押さえ込まれた。ミューラーはそのままザルバへ、さっさと行けとしぐさで示している。
「邪魔すんなっ! せめて殴らせろっ!」
「ザルバとじゃ腕力が違い過ぎるだろっ。お前が本気で殴ると骨折じゃすまん。さすがにフォローしきれないっ!」
「ははっ、じゃあ、また来週な。狗よ、安静にするのだぞ」
ザルバはひらひらと手を振り、鼻唄混じりに退室していった。
「年に一度の発情期がっ……。せっかく大チャンスだったのに……」
ヘクターはベッドに倒れ、天を仰ぎ悔しそうに呟く。
「発情期……?」
ミューラーは押さえつける手を緩めないまま、不審げに目を細めた。
「……発情期……もしかしてあの、ダリアさんの、発情期か?」
「……じゃあ、俺、帰るわ。ミュー、また来週」
「詳しく話せ。……ザルバ相手ならともなく、その足では私からは逃げられないぞ」
ミューラーがさらにぐっと、起き上がれないよう腕に力を込めた。ついでに、痛覚の戻った足を強く叩く。
「っぐあっ! いって!! 馬鹿ミュー! 離せっ!」
「話したなら離す。発情期、とは、どういう事だ?」
「いや、ホラこの部屋、中庭からめちゃくちゃ見えるからっ! 変な噂が立つぞ? 間違いなくっ!」
「……さっさと話せ」
ヘクターがもがき逃げようとすると、ミューラーは足を叩いて悶絶させる。それは観念したヘクターが事情を全て話すまで、続いた。
※※※
「ただいまー」
「おかえりなさい!」
ヘクターが城から帰宅すると、パタパタと音をたてダリアが嬉しそうに迎え入れた。
「足、どんな感じ?」
「……馬鹿ミューに散々殴られて、かなり痛いわ……。ダリアちゃん、体調はどう?」
「ん、いい感じ! 繁殖期終わったみたい」
「……そう」
オカマ言葉に口調を戻したヘクターは、膝をついた。足が痛むの? と、心配そうにダリアが駆け寄り、しゃがんで覗き込んできた。ふわふわの白髪が鼻先を擽る。つい笑みがこぼれ、手を伸ばし絹糸のような髪を撫でた。
あまりの手触りの良さに、荒んでいた心が安らぎ、甘く解れた。
「それでね、ママ。あの……ありがとう。私、いろいろ変なことしちゃったのに……その、なんていうか大事にしてくれて。……すごく、大好きだよ?」
そう言って、ヘクターの口に啄むようなキスをし、ぴょんっと離れた。
「えへ。私、負けないように、頑張るからねっ!」
「……負けないって……誰に?」
ヘクターが首をかしげ呟いたが、ダリアは恥ずかしそうに小走りをし、ダリアの部屋へ隠れてしまった。
※※※
城塞内部
©赤穂雄哉