兎の月
「てめえナニ勝手に縄ぬけてんだよっ! ザけんなっ!」
ぱっくり開いた赤黒い斬り口から盛大な血飛沫を散らしながらも、茶髪はヒステリックに喚き続けた。
そうか、これは既に人ではない。
血の雨を顔に浴び、ミューラーは目を眇める。
先ほどの一太刀は背骨を断ち心臓を裂いたが、相手は屍人だ。指輪を割らなくては倒せない。
ミューラーは手首を返し、茶髪の腕へ刀を落とす。
だが茶髪は刃が届く前に、指を咥えて噛みちぎり、ゴクリと指輪ごと飲み込んだ。口の端から溢れたおびただしい血液で、顎が壮絶に濡れる。
茶髪が肩と指、二つの断面から骨肉の覗く肉塊を拾い上げ、肩口に近づけると、腕はすぐ元通りに繋がった。
「ふ、ふははっ……やっぱり、スゲえ……! 指輪の……俺の、力っ!」
捲れた唇が小刻みに震え、愉悦が漏れた。湧き出る笑いは膨れ上がり、身体がくの字に折れ曲がる。狂気に堕ちた二つの瞳は極限まで見開かれ、焦点を定められないまま揺れ動く。
茶髪は突然横に飛び、足の刺青を弄っていた黒髪の男の手を踏み抜き、指輪を割った。
呆然とするミューラーの目の前で、黒髪の男は崩れ、息絶える。
茶髪の狂笑が獣の吼声に変わる。黒髪の男は今度は茶髪の屍人として、ゆらり蠢き始めた。
「ついでだ!」
茶髪が投げた小刀は、蝋燭を掠め火を消した。
いまだ煙に澱む船内は暗闇に包まれ、壁の割れ目から滲む月明かりだけがやけに眩しい。
剣を抜いた音。
ミューラーは五感を張り詰め、気配を探った。
床板が大きく振動し、軋む。
来るっ!
体当たりを試みた屍人を、ミューラーは海賊刀の背で押し飛ばした。捌いてしまえば肉塊となって数を増やしてしまう。
『氷砕』で核持ちを指輪ごと砕かなくては。
ミューラーは左手で結印しつつ、詠唱を始めた。
屍人が野犬のように喉を唸らせ飛び掛かる。刀を捻じり頭部を串刺すと、茶髪の剣が左肩を狙う。掠めた刀身が傷口を開き、どろりとした熱に頭が痺れる。
月光に刃が煌めく。
眠るダリアへ茶髪の剣が翻った。新たな屍人を作ろうというのだろう。ミューラーは黒髪の屍人から刀を抜き、茶髪を殴り飛ばす。
茶髪の狂笑が闇を揺らした。
これでは印が結べない。
ミューラーは詠唱を止め、刀を構える。
※※※
酷く生臭い、血と肉の臭い。
激しい剣戟の音と、獣じみた唸り声。
周囲は真っ暗で、薄っすらと入り込む月明かりだけが、煙る船内を断片的に照らしている。
ダリアは目を覚ました。
薬のために記憶が混乱し、眠る前の事が思い出せず、何故ここにいるのかが全くわからない。
しかし目の前では、三つの影がもつれあい、斬りあっている。豚や蟹ではない、人と、人と、人だ。
喉が縮み上がり、悲鳴さえも出ない。生理的な恐怖感に目眩がし、全身から冷たい汗が吹き出した。
誰が戦っているのかなど、混乱に陥ったダリアには判別がつかない。が、何故かヘクターの顔が胸を過る。
……ママ?
ダリアはパクパクと口を上下させた。心臓が痛いほどに強く打ち鳴らされる。
斬られた生首がガンッと鈍い音をたて壁にぶち当たる。斬った男をもう一人が羽交い締めると、首を失った胴体が立ち上がり、捉えられた男に剣を振り下ろす。
「嫌っ!」
鮮血が散り、男はがくりと膝をついた。
「嫌ああああっ!!」
ダリアの絶叫が木霊する。
全身が震え、鳩尾が締め上げられた。兎の魔力が吹き荒れ、嵐となって渦巻く。
引き裂かれんばかりの衝撃に、ダリアは心と瞳を閉ざし、立ち竦んだ。
月が兎に応える。
木目の隙間を割り裂き、青白い光が洪水のように雪崩れ込む。
怒涛の勢いで月光を注がれ、兎の魔力は一気に増幅し、じわりとダリアの身体をはみ出した。
ゆっくり、兎の魔力が船内を満たしていく。
ダリアは再び目を見開いた。
青い瞳はすっかりと、王を示す赤色へと塗り変えられている。
兎は甲高い声で月に吼えた。
※※※
三人の騎士は船の外周を巡り、入り口を探していた。
胴体から櫂が二段に飛び出たこの船は、ガレーにしては大型で、よじ登るのは難しそうだ。うまく櫂をつたえば甲板に上がれるかもしれないが、櫂が固定されている保証はない。
ふとカミュは足を止め、前を歩く先輩二人に声をかけた。
「あの……この壁の向こうから、声が聞こえた気がします」
赤鷲と緑鷲も手を当て様子を伺った。確かに、中に動く誰かがいるようだ。
緑鷲が手斧に魔力を込め、振り上げながら言う。
「この辺りを開けてみるか」
その時カミュは、違和感を覚えた。
コップの水に墨汁を滴したかのように、空間をじわりと塗り潰す怪異な魔力。既に船内は飽和しているのだろう、木目の隙間から魔力が溢れ、船全体を包み込もうとしている。
カミュは手を離し、後退った。
コレと同じタイプの魔力に、触れた記憶がある。
あれは確か十年前。学校で魔法剣の修練をしていた時の事だ。
おかしな魔力は津波のようにカミュを襲い、魔法剣を飲み込み狂わせた。法則を見失った魔法はただひたすらに暴れ、刀身とカミュを切り刻み、学校中に暴走を連鎖させた。
「危ない! 斧を離してください!!」
カミュが叫ぶ。
斧は投げ下ろされ、船に当たる瞬間に粉々に弾け、周囲を切り裂いた。
尻もちをつく三人の目の前で、船体に大穴が開く。
騎士たちは目配せをし魔法武器をしまうと、穴へ近づこうとした。
船が小刻みに震える。
空気の塊を押し込んだかのような圧が巻き起こり、船底に集められる。
「……これは、何が起きているんだ!?」
立っている事すら難しい、激しい風圧。
騎士たちは急ぎ、風に逆らって船から距離をとった。
船がぐらり、大きく傾く。
※※※
これは、ダリアか!
夜毎の鍛錬で身体に馴染んだ兎の魔力。
ヘクターは輝く月を一瞥すると、レイピアへ魔力を注ぐのを止めた。月に膨れた兎の魔力は、法則を狂わせる。
ただの脆い細剣となったレイピアを嘲り、モーリスは高笑いした。
「あれ、どうしたの? ようやく、無駄だって気がついたのかな。だけど、今更命乞いをしても助けてあげないけどね」
ヘクターはモーリスから距離をとった。
大雨に水嵩が増すように、兎が甲板を侵食する。重力が空気の流れを歪め、吹き荒れた風がガタガタと船を揺さぶる。
「……っね、おじさん! なにこれ、どうなってるの!?」
ヘクターは帆柱を掴み、策具に腕を絡め固定した。
稲妻が走ったかのように、ほんの一瞬、蒼白い強烈な光を放って月が眩く輝いた。
嵐同然の強風に船体が軋む。
船は斜めに傾くと反動をつけ、勢いよく宙に浮かび上がった。
「船が!?」
床へ転んだモーリスは兎の魔力へ落ち、浸された。兎は発動直前の強大なモーリスの魔力を食い潰し、それ自体が怪物であるかのように、一回り大きく膨らむ。
「んなっ!! なんだ、この力!? ぼくの、魔力、があああ……っ!? っふざっけんなっ!! なんだ、これ!?」
『狂炎』
焦ったモーリスがキーを叫び、魔法を発動させる。既に兎へ溶け込んだ魔力は命令を理解できず、狂騒した。
破壊の竜巻が立ち上る。
「うわああぁぁぁぁっっ!!!」
渦の中心で、モーリスは原型を留めない程に細かく割り刻まれた。船の木片や金属と混じり合い、ただの粉末となったモーリスは、月明かりに煌めいて夜空に溶け消えた。
「……核が、無い? 一緒に壊れた、のか?」
ヘクターは呟いた。
青紫の星空の下、月は地に墜ちそうなほど重たげに輝き、船は一直線に月を目指す。
「……ダリア」
やはり船内にはダリアがいる。ヘクターは急ぎ、階段を駆け降りた。
※※※
赤い瞳の少女はじっと茶髪を見詰めていた。
足が地に着いていないのか、船が揺れ傾いても姿勢を崩さず、地上に対して垂直なまま佇んでいる。
「バケモンか!」
そう叫んだ直後、茶髪の身体は床板へ押し付けられた。
重力は徐々に強まり、容赦のない圧を全身で受ける。じりじりと骨が軋み、眼球は押し込まれ血が垂れた。
痛みを感じない屍人の身体は抵抗を知らず、なすがままにひしゃげていく。
いつの間に開いていたのだろう、船尾に割れた穴から月光が差し込み、船内をくまなく照らしあげた。
這いつくばる屍人を前に、少女は目を三日月に曲げ無邪気に微笑む。
パン、と水風船が割れるような音が響いた。茶髪の頭蓋骨が、胴が、手足が砕け、赤黒い水溜りの中、雨後のカエルのように薄く潰れる。
圧縮された屍人は、しばらく皮を波立たせ蠢いていたが、胃袋に隠されていた指輪が兎の魔力に砕けた途端、完全に静止した。
※※※
海賊船が空を上っている。
船尾に開けられた大穴から巨大な月が煌々と輝き、船内は突風が吹き荒れていた。
茶髪への仕返しを終えたダリアは、引き寄せられるように通路を進み、穴の前に立つと、何のためらいもなく床を蹴った。
ダリアがぶわりと夜空を舞う。
が、その足首はしっかりと掴まれていた。
「……あっぶね!」
ヘクターはダリアを船内に引き摺り下ろし、抱きとめた。
「おい、正気に戻れっ! ダリア!!」
月へ吸い込む風は、ますます強まる。ヘクターは櫂を握り身体を支えつつダリアをしっかりと抱え、兎耳へ叫び続けた。船はぐんぐん高度を上げ、船内は凍えるほどに冷えていく。
ダリアの赤い瞳には、月しか映らない。
ヘクターは漕座にしゃがみ、月光からダリアを庇い、影に閉じ込めた。
「ダリア、俺だけを見ろ」
呟き、毎晩そうしているように顎を掴み固定させる。月をけして見せないよう、視界を自らで埋める。
赤い瞳をじっと見詰め、中に映る影を確認すると、柔らかな唇に唇を重ねた。
長く、しかし押し付けるだけの優しい口づけに、ダリアはようやく瞼を閉じる。
やがて静かに唇が離れ、ダリアは目を開いた。瞳は元の青へ戻っている。
睫毛が擦れあうほどの至近距離に、ダリアは顔を真っ赤にし、口を拭って跳ねた。
「ママ! な、なにしてるのっ!? もーっ、ダメだよーっ!」
まあ、いいか。
ヘクターは溜め息をついた。
あれほど吹き荒れていた風が、いつの間にか凪いでいる。狂気に満ちた月光もなりを潜め、星空にはただの月がぽかりと浮かんでいた。
間違いなく、全てはこの少女の力だ。あの無惨に潰れた屍人の残骸も、モーリスが粉末となったのも、今この船が空を飛んでいるのも。
「ねえママ、ところでここ、どこ? なにここ、船?」
「……記憶、無いのね」
ヘクターはオカマ言葉に戻ると、ダリアの視界に死体が入らないよう、さりげなく位置を変えた。月明かりが弱まり船内は暗い。死体を見せずに済むならその方が楽だ。
「……ヘクター。こっちにも手を貸せ。屍人に刺された」
「馬鹿ミュー。迂闊すぎるんだよ、お前は。黙って死んで猛反省しろ。……こっちまで這って来れるか?」
「すまなかった……」
ミューラーはずりずりと通路を這い進む。ヘクターは顔面と肩、腹の傷を調べ、布を裂いて巻いた。
それほど深い傷ではないが、早急に城へ戻り処置を施す必要があるだろう。
「じゃあ、ダリアちゃん! このままお船をお城まで運んじゃって頂戴っ!」
「は? ……あ、これ、私が浮かせてた……の?」
途端、船が大きく傾いた。
「ごめんママ、私ムリーーッ!!」
「えっ!? うわっ船が、落ちてるーーっ! ダリアちゃん、ちょっと頑張って!」
「流石にこのサイズは、持ち上がんないって。ごめんなさいーーっ! 月明かりに当たったら暴走しちゃうしっ」
船が加速度をつけ、月から離れ、墜ちていく。
ミューラーが転がってきた葡萄酒樽を抱きとめ、口を向けた。
「月光に当たらず、小さければいいんだろう!?」
「ミュー、よし、それでいこうっ!」
「なに、ちょっと、えーっ入るの? ここに!? いやああっ!」
酒樽にダリアを押し込め、上着を脱いで蓋をする。その樽を船尾の穴の前へ運び、弾みを付けて落とした。
ヘクターとミューラーは樽に覆い被さり、しがみつく。
「ダリア! 浮かせながらゆっくりおろせっ!」
「お酒臭いっ、酔っちゃうよー!」
樽の中でどこか趣旨のズレた悲鳴があがる。
しかしダリアはきちんと力を使ったのだろう。葡萄酒樽は落下速度を落とし、ふわりと星空へ浮かんだ。
凄まじい轟音。地響きに森が揺らぐ。
豪快な土煙をあげ、船は草原に激突しぐしゃぐしゃに潰れた。
樽はゆっくりと、高度を落としていく。
酒の匂いに酔っ払ったのか、小さなしゃっくりが聞こえ始めたのは恐ろしいが、どうにか無事に降りられそうだ。
ヘクターとミューラーは樽に掴まったまま、顔を見合わせた。
「凄い、な、アレは」
「……だろ」
そう言って、ヘクターは目配せをする。
兎人の力を持つダリアの事を国に報告されては困る。ミューラーならどのようにでも誤魔化せるハズだ。
意図が伝わったのだろう。ミューラーは口の端に苦笑を浮かべ、話題を変えた。
「……ヘクター。少し、気になったんだが。お前、珍しく、先に進めていないんじゃないか? ダリアさんと恋人同士と言うよりも、母娘みたいだったぞ。第一、呼び方が変過ぎる」
ヘクターは思い切りミューラーの腹を蹴った。
「堕ちて死ね」
「やっ、やめろっ! 痛い痛い! 本当に死ぬだろうがっ!」
ふざけあいながら、しかし墜落することなく、地面に降り立った。
樽から転がり落ちた赤葡萄酒まみれのダリアは、完全に酔っていた。ヘクターに抱き上げられると一瞬だけ幸せそうに笑い、すぐ眠ってしまった。
※※※
騎士たちにミューラーを引き渡し、ヘクターが帰ろうとした時、腕の中の少女を見たカミュは思わず声をあげた。
「……ダリアちゃん?」
しかし春の強い風に紛れ、声は二人までは届かなかった。