丘の船
騎士たちでさえ引き離される程、ヘクターの足は速い。杖で右足を庇いながらも、通行人を軽々と避け東南へ駆け抜ける。
幾つかの路地を曲がるとやがて石畳が途切れ、風景は一転した。
そこは飾り気のない土灰色の家屋が並ぶ、東地区の奥。無計画に曲がりくねった道は極端に狭く、左右から迫る壁に遮られ日の当りが悪い。未整備の歪な地面は雨にぬかるんで大きな水溜まりができており、脇の水路には一応、石蓋が被せられていたが、泡だった汚水が異臭とともに溢れ出している。
建物の殆どが、所謂そういった種類の工房だ。働く者も暮らす者も身分が低く、生活に困窮している。
廃物処理のままならない荒んだ道端で、餌を漁るカラスが艶かしく鳴いた。
ヘクターは足を止め、遥か後方の騎士たちを待ちながら記憶を辿った。
ミューラーから渡された十件の屍鬼討伐依頼のうち、既に討伐を終えたものが三件。残る七件中、東地区の奥で発生したものは、二件。
つまり、この地区で特に危険な場所は二箇所。
一つは死体処理場、もう一つは屠殺場。暗い建物の中ならば昼も夜も関係がない。もしこのどちらかにダリアとミューラーが帯剣もせずに入ったのなら……。
ヘクターはズキリと痛むこめかみを押さえた。嫌な予感は拭いようがない。
しばらくし、僅かに息を弾ませながら私服騎士たちが追い付いた。
見覚えのある壮年の赤鷲、赤蛇の新人、それと新たにもう一人、かなりの巨体を持つ若者。体格からしておそらく、緑の盾騎士だろう。
「おう、俺は狗だ。知ってるか? 最近この街には屍鬼が大量にでるんだとよ。……東地区なら、そこと、そこ。死体処理場と、屠殺場、だそうだ」
ヘクターは敢えてニヤリと笑い、心の焦りを隠しつつ言った。すぐさま意味を理解し、三人の騎士はサッと顔色を変える。
「……わかった。とにかくそこに迷い込んでいたら危険なのだな、いくぞ」
三人のリーダー役なのだろう、赤鷲の言葉に、まだ若い二人の騎士が頷いた。
※※※
「う……物凄い……」
屠殺場に立ち込める、皮膚が裏返るほどの醜悪な腐臭。
扉を開けた大柄な若者……緑鷲の騎士が言葉を詰まらせ動きを止めた為、他の二人も怯み口元を抑えた。
ヘクターは騎士たちを押し退け先頭に立つ。
天窓から僅かな光が射し込むだけの暗い建物内には、腹を裂かれた豚が所狭しと逆さ吊られている。豚の下ではすでに凝固しきった血液に、羽虫が貼り付きもがいていた。
管理が出来なくなり、数日が経っているのだろう。
ヘクターはそれらを一瞥し、臭いの強まる方へと歩む。躊躇なく踏み出した靴が、蛆をぷちゅと弾けさせた。
「この臭いで、肉が苦手になりそうです」
「俺だってもう、蟹は食いたくねえ。このままじゃ喰えるもんなくなっちまうかもな」
後に続いて呟いたカミュに、ヘクターはあえて茶化して答えた。事実二人ともハーリアの一件以来、蟹を口にしてはいない。
「となると、次は野菜か魚ですね」
「……やめてくれ。腐魚あたり、本当に出てきそうだ。……ん?」
ヘクターは気が付き、走り寄る。
建物の奥、解体斧やハンマーが掛けられた壁際では異様な光景が広がっていた。
吐瀉物のように床一面へぶちまけられた肉片。何匹分なのだろう、小山のように盛り上がった部分には、蛆の巣と化した豚の頭部が積み置かれている。腐肉に群がる羽虫の、鼓膜を直接なぞるようなおぞましい羽音に寒気がし、首を竦めた。
肉片の下に、上質なジャケットが覗いている。
拾い上げ、赤鷲は顔を歪めた。脱ぎ捨てられて間もないのだろう、ジャケットは雨水をたっぷり含んで重い。そしてその持ち主が誰なのかは解りきっている。
床に転がる、数本の血濡れた斧。小部屋の入口前が主な戦場だったのか、半乾きの血に足跡がついている。
ミューラーがどのように戦ったのかを物語るそれらを乗り越え、四人は小部屋へ入った。
室内は荒れていなかったが、血溜まりに男が一人、倒れている。
最悪の事態を想像した騎士たちは駆け寄り、顔を覗いた。しかしそれはミューラーとは似ても似つかない、灰色の髪を持つ痩けた男の死体だった。
その後、建物中を隈なく探し歩いたが、ミューラーもダリアも見つからない。四人は再び小部屋に戻り、死体に祈りを捧げ調べ始めた。
男は二十五歳位だろうか、ミューラーよりは年上のようだがまだ若い。目は落ちくぼみ痩せていたが、服は仕立てが良く、東地区の住人ではない事を示している。
血溜まりに浸る手首は先が無く、右手がすぐ脇に転がっていた。ヘクターはそれを持ち上げ、丁寧に眺める。
中指に、指輪の跡。
指輪。……屍鬼主、か?
ヘクターは死体の服を漁った。
肝心の指輪はなかったが、ポケットの中に摩擦燐寸と数本の巻きハーブが見付かった。巻紙をほどけば、青臭い濃褐色の粉が入っている。
「『花』。結構、質がいい」
ヘクターは『花』を包み直し、赤鷲に渡す。
「……『花』、か。禁制ハーブだな。この量なら相当な値段がするぞ。こいつ、余程の金持ちか」
「それとも、別の方法で入手したか、だな。常習者の顔だ。常に手に入れられる環境にあったってことだ」
ヘクターは喋りながらも淡々と死体を探り、調べ続ける。何しろ他に手掛かりがないのだから。
続いてヘクターは死体を持ち上げ、衣服を脱がしだした。ローブを脱がしシャツを剥ぐと、両腕に魔法陣の刺青が数個、並んでいた。ヘクターは自身の魔力をその陣一つ一つに注ぎ入れた。
「……『瞬動』……『発火』……『放水』……」
陣の輝きと反応から、その性質を読み取る。
「……そんなことが、できるんですね」
驚き、感心した様子でカミュが言うと、ヘクターは口角を上げてみせた。
魔導師が身体に刻む陣は緊急時の必殺技になるが、書き換える事が出来ない為、本人が確実に発動できる最高魔法を刻まなくてはならない。つまり、魔導師としての力量は、その陣の性質からも読み取る事が出来た。
上半身の陣を一通り調べたヘクターは不満げに唇を尖らせると、ズボンまでを脱がしはじめた。
「初歩的な陣ばかりじゃねえか。家柄が判るようなのがあれば、と思ったんだがな……。こんなカスが、屍鬼主になれる筈ないよなあ……っお?」
右の足首。
ブーツで隠されたそこに、様子の違う魔法陣がある。
まだ刻まれて間がないのか、刺青の周囲の皮膚は腫れが引ききっていない。しかし身体に刻まれた他の陣と比べ、非常に精緻で、複雑に描かれている。
ヘクターは静かに魔力を注ぐと、魔法陣が厳かな明滅を始め、騎士たちが息を飲んだ。
「……なんだ、これ。……ペット用、か?」
「は?」
「んー。なんていうかこれ、知能の低い魔物を捕まえた時なんかに刻む、ペット用の陣なんだよな。魔物がちゃんと家に帰れるように」
「え? どういう事なんですか?」
「つまりは、飼い主のいる場所まで、この陣が連れてってくれるって事だ。そこに行けば何か解るだろ」
解析を聞いた騎士たちは、狐につままれたような顔でヘクターを見た。
「……つまり、この男は、知能の低いペットだった、という事か?」
赤鷲が言う。
その通りなのだろう。少なくとも男にこの陣を刻んだものにとっては。
陣を刻んだのはおそらく屍鬼主。つまり指輪を嵌めたこの男は核持ちの従屍鬼、という事になる。
『花』を餌に、生きながらにして従属鬼に変えられた魔導師、といったところか。
「……まあとにかく、陣を持ってくか」
そこにはきっと、ミューラーとダリアがいる。
確信し、ヘクターは肉切包丁を手にした。信心深い騎士たちはサッと顔を蒼ざめさせ、止めに入る。
「いや、なんというか、それは流石に! 冒涜というか、涜神というか! 人の死体を刻むっなどっ!」
「……なんだよ。描き写したら失敗するぞ、こんな細かいの。それとも死体丸ごと持ち歩く気か? 俺なら平気だ。昨夜も何匹か屍人を刻んだからな。同じだ」
ヘクターはそう言った後、今度は神へ丁寧な祈りを捧げ、包丁を豪快に降り下ろした。
※※※
膝下から切り取った血塗れの足を野菜か何かのように掲げ、三人の騎士を引き連れたヘクターが大通りを駆け抜けた。
混雑する夕時ではあったが、通行人が悲鳴をあげて避けるため、道が大きく空き走りやすい。
おそらく気の狂った殺人犯と、三人の警吏だと思われている事だろう。
事実、今のヘクターは狂気に近い。こみ上げた怒りで胸が昂り、頬の疼きは狂笑に変換されている。
握りしめた死体の足に魔力を強く注ぐと、魔法陣が輝いて応えヘクターを引っ張った。
ヘクターはひたすらに魔力を注ぎ続け、引かれるがまま全速力で走る。一応杖をついてはいたが、全身に滾る高熱に足の痛みは完全に麻痺している。
城塞の門をくぐり、馬車道を外れ、ぐるりと壁沿いに北へ走り、森に入った。そのまましばらく走り続けると魔法陣が震え、目的地が近い事を示し、ヘクターは一旦、立ち止まった。
「……ハアッ……ハアッ……狗、……はや、すぎるぞ……。ほんとに杖……必要なのか? お前」
後を追っていた赤鷲が濡れた土に膝をつき、息を切らした。他の二人はまだかなり後方を走っている。
ヘクターが死体の足で前を指し言った。
「おい、見てみろ」
その声を受け、赤鷲は汗を拭いながら顔を上げる。
雨上がりの広々とした空は青紫に染まり、わずかばかり欠けた大きな月が、砂粒のような星屑に飾られ、青白く輝いている。
ヘクターと赤鷲はいつの間にか森を抜け、黄色い春の花が群生する草原に出ていた。
吹き抜けた強風に草が分けられ、花弁を散らしながら心地の良い波が走る。
しかし何よりも目を引くのは、細長い三日月のような身体から三本の巨大な十字架を夜空へ突き上げ、脇腹から無数の足をムカデのように生やした……。
「……ガレー?」
赤鷲が怪訝な顔で呟く。
まるで大海原を漂流しているかのように、草原の真ん中に海賊船が佇んでいた。
ガレーは手漕ぎの軍船だ。海を進ませる為に多くの漕ぎ手を必要とするが、小回りが効き逆風の中でもある程度自由な操舵が行える。が、それも海の上だけでの事、陸に上がり草原を漕ぎ進める程、自由な筈がない。
ようやく追い付き、息を整えたカミュがヘクターに訊ねる。
「あれ、なんでここにあるんでしょう?」
「俺が知るかよ。ただな、こいつは俺を、船に連れていこうとしているようだ」
ヘクターは足を掲げたまま、油断無く歩き始めた。三人の騎士も神経を尖らせ、後に続く。
草原を再び風が吹き抜け、危うげな『花』の白臭い香りが漂った。
近くから仰ぎ見れば、船体は凄まじく大きく感じられる。上下二段に重なる数十本の櫂に遮られ、僅かに覗く双尾の人魚像。
ヘクターは訝しみ眉を寄せた。
知らないと言ってはみたが、この船には何故か覚えがある。そう感じ記憶を辿った途端、焼け付くようなノイズに襲われ、考えることを断念させられた。
今は、それどころではない。
ヘクターは死体の足を右脇に抱えると、杖の柄を捻りレイピアを引き出した。
「猛々しき白の神姫ホルティアよ、我が剣に宿りその力を分け与えたまえっ!」
印を結び魔法剣を起動させる。白く輝きはじめたレイピアに草原の闇が深まった。
騎士たちもヘクターに倣い、それぞれの魔法剣を起動させ、構える。
甲板の上、影が蠢く。
縁から、衝角から、砲台から、海に飛び込むように次々と人影が墜ちた。
おおおお、と、獣じみた鬨の声を口々に叫び、立ち上がった軍勢はどこかふらふらと前進を始める。
「おい、カミュ。良かったな。今度は食べ物じゃないぞ。正統派の屍人だ」
ヘクターは右手に握る足で屍人の群れを指し示すと、魔物のように禍々しく笑った。