豚の主
現れたのは灰色の身体に黒斑を散らす、大型犬程の豚だった。
不安定な角度へ傾けられた顔は醜悪にえぐれ、蛆にまみれた赤黒い粘膜がぬらぬらと剥き出しになっている。蝿に喰われたのだろう、ゼリー体を失った歪な眼球は筋繊維でかろうじてぶら下がり、此方を睨んで揺れた。
ごぶうと、豚が不快な鼻音を鳴らす。ところどころ臓器や骨のはみ出た皮膚が波打ち、口から、胴から、白く細い糸を引きながら、腐った肉片が蛆とともに垂れ落ちた。
甲高い羽音をたて、羽虫が一斉に死肉へ群がる。
「豚の……屍鬼」
酷い悪臭が鼻に突き刺さり、おぞましさに全身が総毛立った。
ミューラーは豚から目を離さず、腰にあるはずの剣を探り、青ざめた。身分を隠しての散策に剣は邪魔だと、城に置いてきてしまった。
豚が鼻を突き上げ、けたたましい高音を警鐘のように鳴らす。途端、無数の豚の鼻息と喚き声が上がり、二人を四方から取り囲む。
ゆらり、と一匹、さらに一匹。
黒ずんだ涎で口元を泡だらけにした屍鬼の豚が肉林の影から姿を見せ、包囲を狭めた。
「……仲間を呼んだか」
ダリアを抱き寄せると、怯えているのだろう、震えが伝わってきた。守らなくてはならない。ミューラーは安心させるように、ダリアの肩を強く握った。
幸い屍鬼は動きが鈍い。ダリアをひょいと抱きかかえ、思い切り地面を蹴る。怯ませる程の勢いで群れに飛び込むと、僅かな隙間をくぐり走り抜けた。
吊り下がる肉壁の影から次々と豚が現れる。それらを素早くかわし、肉の迷路を縫い、武器となるものを探す。
入口まで逃げきれたなら一番いいのだが、どこに潜んでいたのだろうか、豚は要所要所へ立ち塞がり足の向きを変えさせる。
と、壁面に列び掛けられた何本かの解体用の斧やハンマーと、その脇の小さな扉が視界に入った。
よし。
呟き、扉に走り寄る。
ガチャガチャとノブを捻ったが、扉は開かない。ダリアを壁際へ降ろすと斧で叩き壊し、蹴破った。中は暗く狭く、無数の解体道具が積み置かれている。おそらく倉庫なのだろう。ダリアをそこに押し入れ、振り返った。
二人を囲む腐った豚たちの半円が、一回り縮む。
ミューラーは濡れたジャケットを脱ぎ捨てシャツの袖口を捲った。
腕に刻まれた幾つもの刺青、『陣』。全身に描かれた魔法陣は戦いの気配を感じ取り、魔力を吸い上げ明滅を始める。
魔法の発動には『詠唱』『結印』『陣』を必要とする。
正確な『陣』を緊急時に描くのは難しく、そのため魔導師たちは本人の質にあった陣を身体に直接掘っていた。
魔法は強力だが使い勝手が悪い。特に単独で戦う際には、片手で剣を振るいながら詠唱と結印をこなさなくてはならず、かなりの曲芸とも言える。
「……風の翁キジルよ、王命に応え、その疾さを貸し与えよ!」
ミューラーは右手に斧を構え、左手で印を描いた。幾重にも重なる光を右腕の魔法陣へと注ぎ込む。
「風よ、従え! 『疾風』!!」
即座に風が唸り、鎧のようにしっかりと纏わりついた。今度は斧を両手に持ちかえて握り『疾風』を腕へ集める。
斧を振り上げ、思い切り下ろす。
風を纏う高速の刃は豚の頭部を直撃し、腐った血液と生白い脳漿を撒き散らした。
魔法剣とは勝手の違う、重く鈍い手応えに肩が痺れ、思わず顔を顰める。
ダリアのいる部屋へ豚を入れるワケにはいかない。ミューラーは入り口に立ち塞がり、近寄る豚の首を切断する。振り上げ、殴る。次々と頚椎を砕くと、べとべとの体液と蛆虫を撒き散らし、豚の頭が転がった。
刃を血が濡らし、斬れ味が落ちるに連れ、肩の痛みは増していく。
壁から新たな斧を取り、古い斧を豚の群れに投げ込んだ。斧は一匹の後頭部へ命中し、鈍い炸裂音とともに頭蓋骨を砕いた。豚たちは怒りに狂い、やかましく鼻を鳴らす。
『疾風』にのせた斧を振り上げる度、滴る豚の血が両手をどろどろに穢す。
構わず斧を振り下ろすと、柄がぬるりと手を逃れすっぽ抜けた。肩がまたズキリと痛む。
舌打ちと同時にまた別の斧を取り、痺れる肩に顔を歪めながら次の豚を割った。黒い羽虫が血まみれのミューラーに群がり、耳穴を犯し視界を遮る。
豚の包囲は、無限に続くかのようにも思えた。
数匹殺れば退くだろうと斧を振るったのだが、知能の低い屍鬼たちは距離を縮める事にばかり熱心で、退く気配が無い。
それどころかどこからともなく次々と集まり、数を増やしているようだ。
きりがない。このままでは肩が壊れてしまう。
魔法を使おう。一度に全て葬れる程の強い魔法を。
ミューラーは斧を右手に構え直し、左手で複雑な印を結び始めた。
※※※
ダリアは迷っていた。
ヘクターの元カレ、ミューラーは魔導師のようだ。親しくない魔導師の前で兎の魔力を使うのは避けたい。兎人は魔導師の天敵でもある。
豚の首が宙を跳ねる。赤黒い血液と白い蛆が弧を描き、飛び散った。辺りに充満するグロテスクな臭気。恐怖と吐き気で気がおかしくなりそうだ。
肩を傷めたのだろうか、ミューラーが顔を苦痛に歪ませる。
豚が押し寄せる。ミューラーはダリアを守るため、痛みを堪え斧を振り下ろす。
ダリアは立ち上がり、震える身体を腕で抱き押さえ、落ち着かせた。
洞窟で蟹にしたように、豚を潰そう。
兎とバレたとしても、きっとヘクターが言いくるめてくれる。
鳩尾に貯まる魔力を探り当て、ゆっくりと引き出し、目を閉じる。
体内の兎へ道を指し示し、指先を部屋の外に向けた。
ドンッ、と、頭部に強い衝撃。兎の発動前にダリアの意識は白く濁り、呆気なく途切れる。
床に倒れたダリアを、部屋に潜んでいた黒い服の男が見下ろした。
※※※
「……凍え、砕かれよ! 『氷砕』!!」
ミューラーが陣に魔力を注ぎ、叫んだ。耳をつんざく高音、強烈な閃光が鋭く闇を散らす。
幻想的な輝きとともに白く舞い飛ぶ氷の粒子。それは屍鬼たちを包み込み、たちまち凍り付かせる。指揮者のように指を揺らすと空気が震え、氷の像は粉々に砕け散った。
ミューラーは血塗れの眼鏡を捨て、顔を拭うと、静まり返った屠殺場を眺めた。他に屍鬼はいないようだ。
「ダリアさん、もう大丈夫……っ!?」
部屋を覗いた瞬間、ひゅんと風を切った凶器が目の前に迫り、反射的に斧で弾く。部屋から投げ飛ばされた肉切り包丁が床でカラカラと回った。
暗い倉庫の中、ぐったりと意識の無いダリアの前に魔導師風の男がしゃがんでいる。小刀を握る右の手には赤い石のついた指輪が輝いていた。
指輪。
「お前が屍鬼主か」
男の顔に表情は無い。代わりに右の手の赤い石が輝き、応えた。
バラバラに崩した肉片が、再び蠢く。
血肉が粘り合い、一まとめに積み重なって山となった。無数の頭部は我先にと頂を目指し、蛆が白く細い糸で臓器を繋ぎ、固める。
豚肉で出来た歪な巨大スライムが、たちどころにそびえ立った。
豚の頭をボコボコと生やしたゼリー状の体は、揺れる度に赤い雨のように血肉を振り撒く。
スライムが身体を波立たせる。肉片が生々しく千切れ、ミューラーへ投げ付けられる。
肉は鳥餠のような蛆糸で本体と繋がっており、素早くかわすと足元の木片を掴みあげ、スライムの中へ飲み込んだ。
夜明けの悪夢に近い異様な光景に息を飲み、冷や汗が噴き出る。
弾丸のように次々と撃たれる肉。触れればスライムに取り込まれてしまうのだろう。ミューラーは避け、新たな印を結ぼうと左手を掲げた。
その時、視界の端で刃が煌めいた。
能面のように表情を動かさない男が、ダリアへ小刀を振りかざしている。
「っ! 先にこっちか!」
ミューラーは慌てて身体を捻り、男へ向き直る。と、男が指輪を振った。
豚の首を乗せた肉塊が伸びる。
身を反らしかわすと、スピードに乗った首が振り落とされた。顎が裂ける程に口を開け歯を剥き出した豚の頭を、しゃがみ避けつつ叩き割る。溢れた赤黒い血液で、顔がまた斑に染まった。
足元の包丁を掴み上げ、左手に盾がわりに持ち構えると、こびりつく血肉を求め、羽虫が舞った。耳や顔にぶつかり、羽を擦らせる不愉快な虫に、思わず目を細める。
指輪がまた、豚スライムに命じた。
首を乗せた大量の触手が、ミューラーを一度に襲う。
細くなっていた視界へ唐突に迫る豚の頭。重い、衝撃。激しい痛みに撃たれ、斧で薙いだ。
身体が吹き飛び、這いつくばる。起き上がろうと腕を立てたが左手にうまく力が入らない。首を捻り見れば、左肩の服が破け、裂けた肩から赤く熱い液体が溢れていた。
『疾風』が、切れかけている。
身体に纏う強化の風が、威力を落とし始めた。が、疲れを知らないスライムの攻撃は激しさを増している。
肉塊が千切れ飛び、背後に数本、杭のように落とされた。
ミューラーを取り囲むスライムの分身。
逃げ場はない。勝利を確信したスライムは天井近くまで伸び上がり、ミューラーの頭上へ覆い被さった。
影が落ちる。
と同時に血肉が舞い散った。
ざく、と鈍い音を立て、男の右手が手首ごと宙を跳ぶ。再びダリアへ小刀をかざした男に、ミューラーが包丁を投げつけていたからだ。
スライム片が降り注ぐ。視界が赤に染まり、ミューラーは一気に肉塊へ飲み込まれた。
静まり返った屠殺場で、崩れた肉片が蠢く。
腐肉を押しのけるようにして這い出たのは、ミューラーだ。
豚スライムは何故か唐突に蠢くのを止め、沈黙していた。
「……助かった、ようだが……」
しかし右の肩が熱く痺れ、血が流れ続けている。破れた袖を引き裂いて包帯がわりにし、とりあえずの止血を行った。
小部屋の中では男がすでに息絶えている。
ダリアの無事を確認した後、ミューラーは訝しげに眉を顰めた。
男は手首を切り落とされただけで、呻き声一つ立てず、人形のように倒れた。断面からは赤い血がおびただしく溢れているが、死に方としてはあまりに不自然だ。
落ちている手首から指輪を抜き取り手のひらに乗せる。脆い宝石なのだろう、赤い石が衝撃にヒビ割れていた。
成る程、そのおかげで豚は動きを止めたのか。
刻まれた呪いを読み取ろうと魔力を籠め、目を細めた。
「これは……どういう事だ?」
指輪の呪いは『主』ではなく『従』。つまり……。
「うっ! なっ!?」
後ろから何者かが突然、ミューラーを羽交い締めた。口に布があてがわれ、鼻腔にツンと刺激臭が広がる。
急速に失われていく意識に膝をつき、倒れながら理解した。
つまりは、指輪の男は屍鬼主ではない。従屍鬼だ。屍鬼主は、別にいる。
ミューラーは力なく床に倒れ、目を閉じた。
広い屠殺場に何人か分の靴音が響く。
※※※
ヘクターが昼寝から目を覚ますと、ダリアがいなかった。
昨日は開店準備を終えたダリアがリビングで待っていてくれたのだが。
充分に眠れたのだろう、身体は軽く、随分と調子がいい。
汗ばむ髪を掻き崩しながらリビングの窓を開けると、昨夜から降り続く霧雨がようやく止む気配を見せ始めていた。
しかしいったい今は何刻なのだろうか。雨雲に遮られ太陽の位置が解らない。
「……鐘、鳴らねーかな……」
窓から首を伸ばし目を細め、大教会の時計塔がある方角をみつめた。当然、そんなにタイミング良く鐘はならず、時計の文字盤も見えるはずがない。
ヘクターは大きく伸びをし、右足を包帯で硬く巻くと、黒いシャツと灰色のよれたパンツを身につけ、杖を持ち、髭も剃らずにふらりと部屋を出た。
同じ建物の二階にあるバー『青兎亭』は戸締まりされ、玄関前に酒屋が運んできたらしい酒類が並べられている。
ダリアが酒を受け取れなかった、ということだろう。
しかし厨房にはちゃんと、買い出しの食材がしまわれていた。
「……ダリア、何処にいったんだ?」
別に仕事前に軽く出かけるくらい、普通の事だ。しかし、酒屋から酒を受け取るのは以前からダリアの仕事になっている。
仕事を放置して遊び回るようなタイプではない。
過保護、と笑うダリアの顔が頭を過った。
ヘクターは酒を店内に押し込み、『本日休業』の札を玄関にかけ、中央地区へと向かった。
※※※
ヘクターが大教会前に到着する頃には、雨はすでにあがっていた。広場のあちこちに出来た水溜りを避けつつ、人々が行き交っている。
見上げれば時計塔の針は昼をだいぶ過ぎた時刻を示していた。
「さて、と。何処を探せばいいんだ?」
周囲を見渡せば、帯剣の私服騎士らしき人物が目に入る。慌てたような調子で道行く人に声をかけ、何かを尋ねる彼の近くへさりげなく移動した。
「緑がかった金髪で眼鏡をかけた、整った容貌の男を捜しているのだが……」
耳に入ってきた会話に思わずつんのめる。……ダリアがいない理由に察しがついた。
思わず足を止め頭を抱えるヘクターにも、私服の騎士は声をかけてきた。
「すまないが、人を探している。緑がかった……」
「……そいつ、白い髪の毛の娘を連れていなかったか?」
半ば確信を込めそう言うと、騎士は目を輝かせ、ヘクターの手を握った。
「おそらくそうだ、何処で見かけた!? 案内してはくれないかっ!」
「残念だが俺は見かけていない。むしろ、その連れの方を探している。お前は……『赤鷲』だろう、何度か見た顔だ」
「……っな、お前は誰だ!?」
「只の狗だ」
ヘクターは声を潜めた。
顔を思い出そうとしているのだろう、赤鷲の騎士はヘクターを訝しげに見詰めている。すると、一人の若い私服騎士……カミュが息を切らし赤鷲へ駆け寄った。
「東地区奥で、白髪の娘を抱えて走っていたと、目撃がっ!」
東地区、奥、か。治安が悪いな。
ヘクターは呟き舌を打つ。
「……おい、俺も行くぞ。その馬鹿王子が連れ回しているのは、うちの嫁だ」
「は? どういう……」
その言葉に騎士たちは目を丸くした。
「だから、俺はうちの嫁を探してるんだよ。まあ、王子もそれなりに剣が使えるから、大事に至らないと思うがな。カミュ、とりあえず案内しろ」
名を呼ばれ、カミュはヘクターの顔をまじまじと眺めると、小さく叫んだ。
「あ、あなたは蟹の時の! 彼女はあのときの奥方でしたか! ……って何故私の名を? しかし王子は今日、帯剣をしてはおりません。急いで見つけなければ」
「……は?」
今度はヘクターがカミュを呆けたように見つめた。
「ですから、王子は帯剣しておりません」
「……っあんの、馬鹿ミュー!!」
怒声とともに、ヘクターは東地区へと走り出した。




