プロローグ
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大きな青い月は昼間のように明るく輝き、ぐしゃぐしゃに壊れた船と、花畑のように輝く波を照らしました。
兎の哀しげな歌が微かに響き、波間で人魚がバシャンと跳ねました。
※※※
「ダリアちゃん、樽の今日のオススメは何? 苦味の強いのが気分なんだけど。それから、小魚のオイル漬け一つ」
二人掛けのテーブル席に一人で座る男性客が、ダリアに親しげに話しかけた。ダリアは小さな顎に指を添え、考えながら答える。
「んー。確か、ハーリアのさっぱり目の麦酒ですね。少しフルーティーなので、いつもの黒麦酒の方がクインスさん好みかもしれない……かも?」
語尾を濁し、大きな青い瞳を不安げに瞬かせるダリアに、カウンターに立つ『ママ』が艶のある苦笑を浮かべ、頷いた。
どうやら正解だったようだ。
良かった。ダリアが照れ臭そうに小首を傾げると、癖毛の白いポニーテールがふわり、肩口から柔らかく零れた。
ここは王都ヨルドモの西地区。雑多な飲食店が連なる裏路地の、猫の多い坂道の下。極めて小さなアパートの二階にあるこじんまりとしたバー、『青兎亭』だ。
客が十人も入れば満席となるこの店は、種類の豊富な酒と塩気の強い軽食がメニューに並ぶ、いわゆる隠れ家的なバーである。
ダリアはここで三ヶ月前から働き始め、ようやく仕事を覚えたばかりの新米ウェイトレスだ。
「……ハーリアか。僕はハーリアに思い入れが強くてね。その麦酒をもらうよ」
男性客……クインスは少し間をおいてから答えた。
住居のような扉の隅に『青兎亭』と書かれた紙が貼ってあるだけの素っ気ない外観のため、この店に常連以外の客が来ることはほぼなく、クインスもダリアが入る前からの常連だ。
ダリアはオーダーを繰り返すとカウンターに戻り、ハーリア麦酒を慎重に注いだ。こぽこぽと軽快な音をたて、特徴的な紅い麦酒の淵を爽やかな泡が飾る。
まだ刻が早いためか、それとも冷たい冬の雨のせいか、他の客はいなかったが、クインスはカウンターではなくテーブル席に座っている。おそらく恋人と待ち合わせなのだろう。ダリアは麦酒をテーブル席までそっと運んだ。
三ヶ月前、ダリアの母が亡くなった。
ダリアにはだいぶ前から父親が居らず、これで本当に一人きりになってしまった。
葬儀の後、会ったこともない親類から、保護者になろうという趣旨の手紙を貰ったが、丁度成人していたためその申し出を断り、自活の道を選んだ。
それから数日後、職業斡旋所で『青兎亭』の店長……『ママ』と出会った。
まず、店の名前が気に入った。青い兎だなど、まさしくダリアの事を示しているようじゃないか。
次に、住み込みで働けるという事。母と暮らしていたアパートは家賃を払えずに追い出されかけている。
さらに、ダリアの苦手な流行のハーブ類を一切置かない、健全で古風な店だという事。全て好都合だ。
「ダリアちゃん、これ、御願い」
カタンと硬質な音を鳴らし、カウンターに小魚のオイル漬けが置かれた。ダリアはやや間延びした返事をし、クインスに提供する。
店の外では相変わらず、真冬の雨が降り続いているようだ。今夜はあまり客が来ないだろう。ダリアはカウンターに入り、グラスを磨きながら欠伸を漏らした。
暇、だ。
『ママ』も暇そうにサーバーを掃除している。相手をして欲しかったが、仕事中の『ママ』は無口で、誰かに話しかけられるまで喋ったりはしない。クインスはすっかりハーリアの思い出に浸っているのだろうか、ダリアや『ママ』に話しかける気配がない。
暖炉の炎が小さく弾け、踊るように揺らいだ。
暇過ぎる。
ダリアは暇を完全に持て余し、その視線は『ママ』の顎の下へ釘付けになった。
剃り残しだろうか。整えられたラインを乱すように一本、やけに長い髭が生えている。
開店前から気になって気になって仕方のなかったソレが、暇になった今、やたらと存在を主張してきた。
昨日はなかった……多分。が、一晩であの長さまで成長するとは思えない。他はキッチリ剃れているというのに、あの一本だけが残されたのは何故だろう。
びょーん。動くたび髭はバネのように震え、ダリアの本能をムズムズと誘う。
と、その時、カランと鐘がなり入口扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
『ママ』は長い腕でダリアの額を押し返し、ダリアは手を精一杯に伸ばし一本髭を狙いながら、声をハモらせた。
「こんばんわー。ママたちずいぶん仲がいいのね。……外、すっごく寒いの。雨が雪になるかもしれないわ、クインス」
入ってきたのは女性客、クインスの恋人のミズナだった。ミズナは傘を傘立てにしまい、クインスの向かいへ座った。
「やあ、ミズナ。今日のオススメはハーリアの麦酒だって。さっぱりしているからこんな雨の日には丁度いいかもしれないよ」
「あらハーリアだなんて懐かしいわね、ステキ! 私もいただくわ。あとそれと……」
ミズナは壁に掲げられたメニューボードを見ながら軽食を次々と注文し、そして最後にこう付け加えた。
「……で、ママとダリアちゃんって、ラブな関係なの?」
「はあああっ!? そんな訳ないじゃないですか、こんな薄気味悪いオカマのおじさんっ!」
「ダリアちゃん酷っ! でも、私だってさすがに、こんな子供には興味ないわよ」
どんなに好みの顔で親切だとしても、オカマは恋愛対象外だ。
『ママ』にとっても、まだ若く、しかも女性であるダリアは恋愛対象ではないだろう。形のよい眉をハの字に寄せ、苦々しく笑いながら否定している。
「そうなの? 二人、すっごく仲良さそうだし、お互い相手いないんでしょ? 付き合っちゃいなよ」
「わ、私のさっきのは、ママの髭が気になって抜いてあげようとしてただけですよー。……恋人は……募集中ですけど」
「そうよ。この娘ったら、店を開ける前に教えてくれたらいいのにね。わざわざ営業中に髭を引っこ抜こうとするだなんて。きっと性格の根っ子が悪いのね。だからカレシできないんじゃないかしら」
『ママ』の言葉にダリアはむうっと表情を強張らせた。性格の根っ子が悪い、はあまりな言い種だ。
ダリアに睨まれても平然と表情を崩さない『ママ』……店長のヘクターは、鍛え上げられた長身を黒のベストに包みネクタイを締めた、野性的で妖艶な二枚目だ。
右目を縦断する火傷痕と、杖をつかなくては普通には歩けない右足。それさえ無ければ、舞台俳優としてやっていけそうな整った外見をしている。 年令は『乙女の秘密』……とかで教えてはくれないが、三十をとうに越えているだろう。
正直、勤め始めた頃は側にいるだけでドキドキして、マトモに仕事にならなかった。
しかし、好みの外見でも所詮オカマだ。慣れきった今、ダリアの心臓は静かに落ち着きびくともしない。
「そうなの? ママ、すっごく格好いいし優しいじゃない。私だったら押し倒しちゃうけどな」
ミズナの言葉に、クインスが頬を引き攣らせコメカミを押さえた。
これは、後で揉めるだろう。
そう予感しつつ、ダリアはオーダーを繰り返した。
※※※
一刻ほど経過し『青兎亭』の店内は修羅場と化していた。
雨が雪に変わった事が幸いしたのか禍いしたのか、他に客は来ていない。狭く静かな店内には、互いを責め合う男女のヒソヒソ声がだけが響いている。
単純な痴話喧嘩。男が女の心を疑った、それだけだ。
話を聞いてはダメだと解ってはいるものの、ダリアは構造上とても耳がいい。黒いレースのバンダナの下で感覚を研ぎ澄ませる耳の穴を、たしなめるように引き締めた。
やがて小声の中に怒声が混ざる。
さっさと厨房へ避難し、明日の仕込みをはじめていたヘクターにも、きっと聴こえてはいるハズだ。
だがヘクターは仲裁に入ることなく、空気と化している。確かに今、喧嘩の一因でもあるヘクターが割り入りどちらかに肩入れすれば、話は余計ややこしくなるだろう。
「無駄に格好いいって、ほんとに迷惑……」
ダリアはそっと溜息を吐いた。
男女の諍いは、頬を打つ高らかな音で幕切れた。
ミズナは椅子をガタガタと鳴らし席を立つと、怒りの涙で顔を歪ませながら、傘を引っ掴んで店を飛び出した。クインスは左頬を赤く腫らし、呆然と腰を浮かす。
「急いで追いかけなさい。今日の分はつけにしておくわね」
ヘクターが厨房から現れ、そっと肩を押した。クインスは我にかえって立ち上がり、荷物を抱え雪の街へと走り出た。
客の居なくなった店内は、重苦しい程に静かだ。暖炉の炎が繰り返し弾け、乾いた音をたてている。
ダリアはテーブルの上を片付けると、ぼんやり壁に凭れた。
私には恋愛とか、無理だなあ……。
もう十年も前、ハーリアに住んでいたダリアはある男の子に恋をした。同じ学校、同じ組、隣の席の、魔法が上手で運動が得意な、サラリとした金の髪を揺らす王子様のように優しい少年だった。
しかしダリアは感情を押さえきれず、魔力の渦を暴走させてしまった。巻き込まれた少年は長期入院する程の大怪我を負い、ダリアは母と二人、逃げるように引っ越すハメとなった。
思い出す度に落ち込む酷い思い出だ。今では多少、魔力の制御ができるようにはなったが、誰かを好きになるのはまだまだ怖い。
「今日はもうお客さん、こなそうね。ダリアちゃん、はい、これどうぞ」
ハーリア麦酒にオレンジジュースを混ぜ、可愛らしくオレンジの輪切りを添えたモノを、ヘクターが差し出した。
受け取り口をつけると、爽やかな香りとともに甘くほろ苦いカクテルが、乾いた喉に吸い込まれていった。
「ね、甘くて爽やかなのに、ほろ苦いでしょ? 失恋で終わった初恋、って味よね」
心を読んだようなヘクターの一言に、ダリアは噎せかける。
「っ鼻に入った! 樽酒が余ったから作っただけでしょっ。もー、変なことばっかり言う」
口をハンカチで拭うと、ヘクターはふわり、母親を思い出させる笑顔で優しく言った。
「あの二人ならきっと大丈夫よ。もうずっと前からあんな感じなんだから。喧嘩して、仲直りして、また喧嘩してって、その繰り返し。ほんと、お互いが大好きなのよね。
クインスさん、そろそろプロポーズするつもりだって言ってたわよ」
「……いいなあ、そういうの……」
思わず漏れた言葉に、ヘクターはダリアの頭をぽんぽんと叩く。
「いまにダリアちゃんも、ステキな男の子と巡り会えるわ。そしてきっと、このカクテルみたいに爽やかな恋におちるんじゃないかしら」
「……そうだといいんだけど……って! このカクテルみたいな恋って、失恋じゃない! ママ本気で酷い!!」
「当たり前じゃない。私だってカレシいないのに、こんなゆるゆるふわふわ空っぽな小娘に先を越されるなんて、絶対許せないんだから!!」
ヘクターは艶やかに笑いながら、ダリアの鼻を摘まんだ。
「ふがっ、ゆるふわなのは髪型だけだってば! 見かけによらず、しっかりやさんだねって、みんなが言ってくれるんだからっ!! 痛いから離してっ」
「はあ? みんなって誰よ、みんなって」
涙目のダリアはヘクターの指先から逃れた。鼻を押さえ、上目使いで恨みがましく睨むと、指折り数えつつヘクターの問に答えた。
「えっと。近所のパン屋の男の子と、花屋のおじさんと、それとお酒運んできてくれるお兄さんと……」
「呆れた、全部あんた狙いのハイエナじゃない。口説かれてんのよ、この脳味噌わたあめ娘! ……もう、仕入れの酒屋変えようかしら……」
「えー、そんなわけ、ないと思うけどな」
兎の尻尾のようなポニーテールを揺らし、ダリアは呟いた。
「……本当にバカなのね。しょうがない子……」
ヘクターはまるで兄か姉か母親かのようにダリアの貞操を案じ、頭を抱えた。
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ヨルドモ城塞
©赤穂雄哉