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死霊

作者: 宇多瀬与力

 私は長年小学校の教壇に立ち続けていた。問題を起す生徒、成績の悪い生徒、病弱な生徒、イジメに苦しむ生徒、様々な生徒が私の前に現れ、旅立っていった。しかし、私はどんなに手がかかる生徒も真摯に見つめてきたとかつては思っていた。

 唯一、一人だけは、私を困らせた生徒がいた。既に定年を迎えて妻と老後を過ごしている私は、もう直接教壇に立つことはないが、後輩教師達から聞く生徒の話を聞くと、その少年の事を思い出す。

 夢を持とうとしない生徒が増えているという話を聞く。私は中堅から古武士に近い立場になっていた頃に、彼の担任になった。私は、その少年もそれらの生徒の一人だと思っていた。それは、私が六年生担任となり、彼と初めて出会って間もない5月初頭の連休に出した将来の夢についての作文発表の時の事であった。

「僕の夢は、平凡な人生を過ごす事です。一般的な大学を出て、起伏の少ない公務員の様な安定した生活のできる仕事をするのが、僕の夢です。郵便局員よりも市役所の方がいいです。それは、郵便局員だと配達で外に出ることがあるからです。僕はなるべく自分の机から離れる機会が少なく、必要以上の人と会う事のない仕事がしたいです。毎日、紙と電卓と向き合っていればいい仕事ができたら、僕の夢は叶います。しかし、僕はあまり算数が得意ではありません。なので、これからは算数を頑張って勉強しようと思っています。おわり」

 彼の発表は淡々と過ぎ、彼は着席した。すぐに後ろの席の生徒が立ち上がり、航空機操縦士になりたいという夢を発表し始めた。

 それ以降、私は彼の事を注意してみることにした。その時の私には、彼の淡々とした口調の裏にある平凡への切なる願いを気付くことはできなかったのである。

 その少年の名は、江戸川和也。父親は地元交番勤務の警官で、母親は専業主婦という一般的な家庭の子どもであった。



 江戸川はあまり自己主張のする事が少ない生徒であったが、彼の周りには決して多くはないものの数人の友達に取り囲んでいる事が多く、イジメや非行とも無縁な生徒であった。

 授業態度も特に悪くはないが、良くもない。時折、窓の先に見える校庭を眺めて、顔をしかめている事があった。授業に飽きるというよりも、外に見えるものが気になっているという様子だった。彼の視線は、大抵校庭の隅に植えられた桜の木や花壇の方に向けられていた。

 ある休み時間、彼が机に肘を立て、頬杖をついて例の校庭の隅を眺めているのを見つけ、私は話しかけた。

「江戸川君は時々桜や花壇を見ているけど、植物が好きなのかい?」

 ちらりと私の顔を見ると、直ぐに校庭に視線を戻して答えた。

「違う」

「そうなのか。じゃあ、何を見ているのかい?」

「キョタイ」

「え?」

 私は唐突に彼の口から出た言葉の意味がわからなかった。キョタイという言葉を直ぐに漢字変換することが出来なかったのだ。巨体という言葉を浮かべた私は、校庭を見た。

 校庭の中央には各学年の生徒達が各々好きなことをしていた。その中でも一際眼についたのは、ドッジボールをしている六年生の山本君だった。彼は縦にも横にも大きな体をしており、成人男性の平均的な身長をしている私と既に並ぶ程に大きい。ドッジボールをしている姿は子どもの中に大人が紛れている様だ。

「山本君を見ていたのかい?」

 私が言うと、彼は不思議な顔をして私を見た。直ぐに微笑を浮かべた。

「……視えないんだから仕方ないか」

 その時の彼の言葉は、諦めと嘲笑が入り混じったものに思えた。



「江戸川君、今日遊びに行っても良い?」

 梅雨に入ったある日の放課後掃除の後、机に置いたランドセルに教科書とノートをしまう江戸川に、三つ編みをしたほっそりとした少女が話しかけた。彼女は石坂涼といい、教室の中でも一、二を争う程に可愛いと評判の少女だ。しかし、家庭の事情や思春期も重なり、あまり女子生徒達とは仲が良くないらしい。いつも一定の距離を置いており、むしろ彼の様な淡白とした相手の方が接しやすいのだろうと私は想像している。

「別にいいぞ。お前が来るとお母さんも喜ぶし」

「うん!」

 石坂は笑顔で頷いた。しかし、直ぐに顔を曇らせた。

「……今日の江戸川君、わたしを見ないね? ……いるの?」

「別に今更の事だよ。それにお前も気にするようなものじゃない、多分」

 そんなやりとりをして、二人は下校して行った。六年生になると、他の生徒からの冷やかしなどもあり、あまり男子と女子が二人で帰るという事はないが、彼ら二人に関しては周りも特別冷やかす気がないらしい。その為、この光景は別段珍しいことでもなかった。

 しかし、今の二人の会話が妙に私の心に引っかかった。いるの? という石坂の言葉の意味。それは私に理解できていない江戸川和也という人物を理解した上での言葉に聞こえたのだ。

 その日、私は二人の会話が忘れられず、頭の中で何度も繰り返し思い出していた。その言葉の意味に近づく、ある誇大な想像が浮かんだのは、風呂に入っている時であった。

 石坂の家庭は少し非凡であった。母親が既に他界しており、父親と祖父母の家で暮らしている。父親と祖父の家業は、葬祭関係の仕事であり、納棺師と呼称される数十年前から現れた遺体を棺に納める際に必要な作業を行う職人である。

 そして、彼女が家に帰らない日は仕事がある日で、特に湿度や気温が上がりやすい時が多い。必然的に死体の持つ独特のにおいを持ち帰る可能性がある日に、彼女は江戸川の家に遊びに行く様だった。

 そこまで考えた時、私の脳裏にいるの? と聞いた石坂の顔が浮かんだ。不安を表面に出したその表情は、自分の周りに何かが居るのかと江戸川に確認をしていると考えることができたからだ。同時に浮かぶ、ある時彼が言った、視えないんだから仕方ないかという言葉。

 私は湯船から立ち上がっていた。湯露が滴る体で立ち尽くし、喉笛を鳴らしていた。

 江戸川和也は、霊の姿が視える。



 翌日、私は下校しようとする江戸川を呼び止めた。

「どうしたんですか?」

 彼は面倒臭いという気持ちを全面に出した声で前を歩く私に聞いた。私は何も答えず、例の校庭の隅に彼を連れてきた。

「……俺、植物は別に好きじゃないって言ったはずですよ?」

 彼は桜の木から眼を逸らし、近くにある花壇に植えられたパンジーを眺めながら言った。

「江戸川君、あの桜の木に誰か視えるのかい?」

「!」

 私の言葉に、彼は目を見開いて顔を上げた。

 その反応を見て、私は自分の誇大な想像が事実であった事を確信した。

「先生。なんで、それを? ……まさか、石坂が?」

 私はゆっくりと首を振った。

「いいや。彼女は何も話してはいない。……ということは、石坂さんは江戸川君が視えることをやはり知っていたんだね?」

「あぁ、はい。アイツとは一年生の時からの友達だから……。それに、アイツのお父さんが仕事だと、その前後に偶に石坂にくっついている時があるから……二年の時に、俺から話したんです。……先生、誰にも、このこと言いませんよね?」

 彼は不安で揺れる目を私に向けた。私は彼の両肩を掴んで、力強く頷いた。

「あぁ、先生は誰にも言わない」

「俺を、避けたりしない? 化け物を見る様な目で見たりしない?」

「あぁ、するものか! 先生は、もう二度と生徒から目を逸らさないと決めたんだ。大丈夫だ!」

 私は彼に言った。正直、少しは不安もあった。自分には理解のできないものが彼には見える。それを、私はどう受け止めればいいのか、それをどう尊重してあげればいいのか、彼の不安をどうすれば拭えるのか、まだ全くわかっていなかった。しかし、私は言いきった。

 それを聞いた直後、彼は視線を桜の木に移し、やがてポツリと呟いた。

「………そうか」

 彼はゆっくりと私から離れた。悲しさというよりも哀れみに近い視線を私に送る。

「先生、視えている。俺には視ることしかできない。声を聞く事もできない。だけど、俺は入学した時からずっと視ていたんだ。この桜の木の下に立って、ずっと寂しげな顔をしている女の子の姿を」

「………」

 私は何も言わずに彼の話を聞いた。

「でも、時々ただ寂しいだけの表情じゃない時があった。悲しいって言うか……絶望っていう感じの。そして、今、全く違う顔をしたんだよ、彼女」

 江戸川は一歩、私に近づいた。私は思わず一歩、下がった。

 彼は一瞬、息をついた。私の動きを予想していた様だった。

「初めてみたよ。人が鬼みたいな顔をした時の辛そうで、だけど許せない気持ちが溢れていて、でもそれをどうしようもできない苦しみで一杯になった顔。……俺だって一度くらいは聞いたことがあるんだ。この桜の木で首を吊った女の子がいたんでしょ? 随分昔だから、本当か嘘なのか皆はわからないみたいだったけど、俺は本当だと思っていた。だって、実際にその子の姿見えているからね」

 私の顔が歪んでいくのがわかった。しかし、江戸川はそんな私から一切目を逸らさない。

「俺は、ずっとわからなかった。噂だとイジメが原因だったんじゃないかって話していたけど、イジメられても、石坂みたいに前向きに生きている奴もいる。……まぁアイツは喧嘩に持ち込んだりするからちょっと違うけど」

 一瞬、苦笑混じりに言い、直ぐに元の表情に戻り、話を続ける。

「でも、もしも俺まで石坂をイジメたり、無視したら、アイツでもやっぱり辛くなるんじゃないかって思ってる。俺だって、さっき先生が、俺が視える事を話した時、一瞬でも石坂に裏切れた気がした。そして、今さっきのあの子の顔を見た時、俺にもわかったよ。先生だったんでしょ? あの子が自殺するきっかけを作っちゃったの」

「……私は、生徒に真摯に向き合ってきたつもりだった。ただ、あの子は時々無茶苦茶な事を言っていた。夜中に電話をして、学校に来てほしいと言われた」

 気がついたら、私は彼にあの時のことを話し始めていた。

「行かなかったんですか?」

 私は頷いた。

「校門には鍵がかかっていた。それに、夜間警備の人も当直していた。……だから、学校に入れるはずはないと思って」

「何て言ったんですか?」

「今日はもう遅い。早く寝なさい。宿題を忘れるんじゃないぞ。話したい事があるなら、明日職員室に来てくれ……と。まさか、まさか本当に門を越えて侵入して、首を吊るなんて思わなかったんだ!」

 私は声を荒げた。あの時は、その対応でいいと思ったんだ。親もいる。警備もいる。イジメがあったことも知っていたが、彼女はそれを悩む素振りを見せていなかった。友達もいた。だから、大丈夫だと思っていたのだ。

「………全ての責任は、その警備の人にかかったんですね?」

「え?」

 私は江戸川の顔を見た。彼は花壇の先、塀になっている辺りを見つめていた。

「坂田さんが、いるのか?」

「坂田さんって言うんですか。……大学生みたいな感じのお兄さんですよ。酷くやつれた顔をして、先生とそこの女の子を見ています」

 膝が崩れた。私は、土の上に膝と両手をついていた。

「すまない………。すまない」

 私は搾り出すように、その言葉を呟いて、花壇に向って頭を下げた。教育系の学生をする警備のアルバイトの坂田は、その日、酒を飲んで寝ていた。当時の新聞は、こぞって彼の事を非難した。彼は次の季節を待つ前に手首を切り、自殺した。その知らせを聞いた時、私は正直、安堵した。これで、騒ぎは治まると。そして、事実、まもなく少女の自殺の話は世間から忘れられた。

「先生、謝る順番、間違っていますよ。……まだ、認めないんですか? 先生が、正しくなかったのは、彼に責任を擦り付けたことだけじゃない。イジメに苦しんで、それで最期の望みで頼った先生が、裏切った事なんですよ?」

 私は、顔を上げられなかった。ただ、視界が霞み、揺れ始めていた。

「先生は、実体すら見えていないんです。見えることから目を逸らさないで下さい。……最近、俺もやっと霊の姿から目を逸らさないでいられるようになりました。霊が視える理由はわからないけど、霊が現れるってことは視える俺に何かを伝えたいんだと考えるようになったんだ。……この木の女の子は、今まで一日と欠かさずにずっとここに立ち続けている。あの子は、ずっと先生を待っているんですよ!」

「!」

 私は、ゆらりと立ち上がると、ふらつく足取りで桜の木の前に歩き、膝をついた。倒れる様に、両手を地面についた。地面に滴り落ちる透明な液体を、私は見つめていた。やがて、その額をその濡れた土に擦り付けた。

 そして、声を、絞り出した。

「私が、間違っていた。……許してくれ。すまなかった。………櫻井さん、来なくて、ごめん」



 どれだけ時間がたったのだろうか、私は花壇から夏虫の音が流れだした事に気がついた。日も落ち、薄暗くなっていた。

 ゆっくりと顔を上げた私の前に、無地の青いハンカチが差し出された。

「顔、拭きなよ。先生」

 ハンカチを照れくさそうに江戸川は差し出していた。どうやら彼はずっと私のそばにいたらしい。

「……流石に、笑顔で許せるって訳には行かないみたいだけど、いつまでも謝り続けて顔を上げない先生に苦笑いしていたよ」

「いた?」

「もう、ここにあの子はいない。ちょっと前に姿が視えなくなった。あぁ、坂田さんだっけ? あの人は元々、先生が話したから現れただけみたいだから、あの後直ぐにいなくなったよ」

 彼は私の返事を待たずに話していく。彼なりの気遣いなのだろうか。

 彼はいつの間にか花壇の脇においていたランドセルを背負うと、笑った。

「んじゃ、俺は帰るよ。もう先生、大丈夫だろ? あ、ハンカチは洗って返せよ」

「あぁ……」

「そうそう、わかってると思うけど、俺が視えること、誰にも言うなよ! 俺も今日のこと誰にも言わないからさ!」

 そう言うと、すたすたと私から校門に向って歩き始めた。

「江戸川!」

 私は思わず彼を呼び止めた。彼は足を止め、振り返る。私は立ったまま、頭を下げた。

「ありがとう!」

 顔を上げると、彼は鼻頭を照れくさそうに掻いていた。

 そして、苦笑すると彼も頭を下げた。

「先生、また明日!」



 江戸川和也という少年は、平凡を何よりも望んでいた。それは、非凡な才能を持ってしまった彼故の叶わぬ願いだったのだろう。

 彼との出会いが、定年まで残り数年に迫っていた私の教師生活を変えた。

 櫻井さんの両親にも謝罪をした。一時は裁判にもなりかけたが、今は私の償いに捧げる日々の生活を観察している。彼らの憎しみは私が死んでも尚、消えることはないだろう。私も、それを知った上で、余生を暮らしている。

 江戸川からは、数年おきに連絡が不意に来る。現在、彼は警視庁の刑事をしているという。どうやら平凡を望んだ彼は、まだその願いを叶えられていないらしい。

 ただ、確信を持てることは、江戸川和也は今も虚体を視て、実体を理解しようとしていることだ。




『終』

【あとがき】


 まずは読了ありがとうございます。


 今回の作品は、完全書き下ろし作品です。

 二次創作SFとして投稿した「異邦人」に登場する霊視刑事、江戸川和也の少年時代を描いてみたくて書きました。何故か、重い内容になってしまいました。


 題名は、埴谷雄高先生の長編小説「死靈」から引用しました。

 江戸川が作中で言った実体に対する虚体は、この小説の中に出てくる「虚體」という思想から連想した彼が視ている霊の概念です。「虚體」が数学の虚数の様に存在しないわけはないが、実際に存在しているのともまた違う曖昧不現実なイメージに対して、江戸川は存在しないものを視える現実を捉えて、そのものが可視する理由にある実体を知ろうとしているわけです。彼は虚数解から幾つかのヒントから、元になる方程式を想像しようとしているんです。

 あぁ、なんと面倒な奴なんだ!


 ではでは、また別の作品で☆

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