〈 八 〉届かぬ名を呼ぶ夜に
夜の庭園には、雲ひとつない静かな空が広がっていた。
丸い月が池の面にゆらりと映り、淡い光が水面で静かに揺れていた。
霍明蕨は仕事を終え、ふらりと池のほとりを歩いていた。
冷たい夜気が衣の裾を揺らし、背中の疲れを少しずつ洗い流していく。
ふと視線を向けると、亭のふもとに小さな影があった。
月灯りに照らされた横顔。
春霞だった。
彼女はひとり、夜空を静かに見つめていた、
「何をしている」
問いかけると、春霞は驚いたように振り返り、そして小さく微笑んだ。
「……月を見ていました。あまりにも綺麗だったので」
「そうか」
「邪魔してしまいすみません。部屋に戻ります」
「いや、邪魔ではない。ここにいてくれ」
霍明蕨は彼女の隣へ歩み寄り、同じように月を見上げた。
池の水面に映る光がふたりの間を揺らし、言葉のない時間だけがゆっくりと流れる。
しばらくして、霍明蕨は亭の縁に腰を下ろした。
夜風がふたりの髪をかすかに揺らし、月の光だけが、届かぬものを照らすように淡く降り注いでいた。
霍明蕨はその光を見つめたまま、息を吸い込む。
声にするべきではないと分かっていても――胸の奥で押し込めてきた言葉が、どうしても溢れてしまう。
「……覚えていないと思うが、十年前のあの日――」
静かな夜に、彼の声だけが落ちていく。
まるで、今にもこぼれ落ちそうな想いを、月がそっと受け止めているかのように。
李飛凛は黙って彼の横顔を見つめていた。
「私は、お前を守れなかった」
その言葉には、長年押し殺してきた後悔が重く滲んでいた。
「お前はまだ幼かったが。私は幼いなりに、誰よりも強くお前を守れると思い込んでいた。なのに……」
霍明蕨はそっと目を伏せる。
膝の上で、衣の裾を強く握りしめていた。
「目の前で失った。……目の前で、何もできずに」
李飛凛は小さく息を呑んだ。
(いったい二人の間に、何があったのだろう……)
この身に降りかかった災いだというのに、実態のない感覚に違和感すら覚える。
胸の奥がかすかに疼いても、それが記憶なのか感情なのかすら分からない。
「……でもな」
霍明蕨はゆっくりと顔を上げた。
月光がその瞳に淡く映り、どこか遠いものを見ているようだった。
「こうしてまた会えた。……馬鹿みたいに嬉しかった。だが、当のお前は覚えていない。私が何を言っても、届かない。届かないと分かっている・・でも思い出して欲しいと願ってしまうんだ」
霍明蕨はそこで言葉を止めた。
夜風がふたりのあいだを通り抜け、池に映る月を揺らす。
「十年間、ずっとお前の名を心の中に閉じ込めていた。お前にとっては知らない誰かの名になってしまっているのだろうが」
霍明蕨はわずかに笑った。
だがその笑みは、李飛凛の目には痛々しく映った。
「……あの。私は、本当に死んでいたのですか?」
霍明蕨は短く沈黙し、低く答えた。
「詳しくはわからない。だが十年前に死んだ――はずだった」
李飛凛の瞳が揺れる。
「だが、お前は生きている。それだけが真実だ。……記憶を失っているというお前に、この問いを投げかけても仕方がない」
「いったい何があったのですか……?」
霍明蕨は李飛凛をまっすぐ見つめた。
しかしその視線はすぐにわずかに逸れ、池の方へと落ちていく。
言葉を探すように、目が微かに泳がせていた。
その姿は胸の内で揺れるものを押し隠すようだった。
その瞬間だった。霍明蕨はゆっくりと視線を戻し、真っ直ぐに李飛凛を見た。
夜の静けさの中、その視線だけが鋭く、そしてかすかに優しかった。
「お前の姿を見たとき、私は死んだはずの者が、霊体となってここに立っているのだと思った。いや――思わずにはいられなかった。だが、今は違うと思える、生きていると肌で感じるのだ」
李飛凛の肩が震えた。
その眼差しは、言葉以上に彼の苦悩と願いを物語っていた。
李飛凛は言葉を失っていた。
風が灯りを揺らし、池に映る月が波紋のようにほどけていく。
「もし、この話をして記憶が戻るというのなら・・。君に話そう、あの日の出来事を」
霍明蕨は思い出したくない記憶を、そっと掘り起こすように語り出したのだ。




