〈8〉妖女
しばらくすると宋明に連れられて、姚燕が冥王殿にやってきたのだった。
2人は執務室に入るやいなや姚燕は深くお辞儀をした。
「姚燕はそなたか」
「陛下、お会いできて光栄です」
「聞きたいことはわかっております、盧丞相のことでございますよね」
「そうだ」
なんと物分かりがいいのかと霍明蕨が感心していると、少し間をおいて姚燕が口を開いた。
「私はあくまでも盧丞相の侍女ですのであまり盧様のことは詳しく存じておりません。ですが蘭鳳月こと春霞お嬢様のことはよく存じております。陛下・・・私のことを覚えてらっしゃいませんでしょうか。陛下が楊陵洸として蘭様の屋敷にに出向いていた頃、世話係として蘭家に勤めておりました」
霍明蕨はまじまじと姚燕を見つめた。
「まさかあの時の・・・。以前とは雰囲気もだいぶ変わっていて全く気が付かなかった。まさかあの世話人が盧氏の侍女になっているとはな」
霍明蕨は咳払いをし場の空気を変え話を続けた。
「単刀直入に聞くが盧双善は何故小隊をあの場所に召喚したのだ・・・仁麗とは一体誰なんだ・・」
「仁麗という方は存じませんが、あの日春霞お嬢様を身請けしたのは盧丞相に間違いございません。小隊は処刑のために送られ、私もその見届け人として送られていました」
「・・・私はなにも聞いていない。彼は内密に妻をめとりたかったと言うのか。蘭鳳月と知って?いや慎重な盧双善のことだ、そんなことはしないはず。だがなぜ身分を偽る。まぁそれはあとでいい・・・それよりも春霞だ。なぜ彼女は記憶がないんだ」
「それは私にもわからないのです。私もあの日久方ぶりに再会したもので・・・」
「ではお前は蘭鳳月が盧双善に処刑されることを知ってあそこにいたのか・・・」
「それは・・」
「それはなんだ」
「はい・・知っておりました。ですが最初から私は彼女を逃すつもりで。身の危険を覚悟で・・・ですが彼女は記憶をなくし、何も悪いことをしていないとおっしゃり、自分で運を試すと私を払いのけ出て行ってしまったのです。霍殿下があの場にいなければきっと」
「なぜ蘭氏の人間が生きてることを知って私に知らせなかったのだ」
「・・・」
姚燕はひざまずき霍明蕨に懇願した。
「私の口から申し上げられないことをどうかお許し下さい、どうしても言えないのです。命だけは・・どうか」
姚燕はプライドが高いことで有名であった。カメレオンのようにその風貌を変え、他の侍女とは異質的なことで宮廷内でウワサされているほどであったのだ。そのことを霍明蕨は知っていた、そんな姚燕がひざまずき懇願をする姿に驚きを隠せないのであった。
「面をあげよ、なぜ言えないのか申せ」
「守りたいものがあるのです。言ったことが知られたら皆殺されてしまう」
「そうか・・・もう戦いはうんざりだ。私たちはあの日蘭鳳月を失った。事故であれ、なんであれもう大切な人が死ぬのは見たくない」
「はい・・・」
「彼女に危害が及ばないうちはそれで良い。蘭鳳月に免じて・・・」
「ありがとうございます」
「盧双善はなぜ春霞を処刑しようとしたのだ」
「国家に対する反逆を犯したとおっしゃっておりました」
霍明蕨は盧双善の手が思ったより幅広く伸びていることに気がつき、手を額につけた。
完全に信用していたからこそ、多少なりショックだったのであろう。しばらく考えた後、顔を上げた。
(本当に春霞が罪を犯したのならまだしも″春霞″を蘭鳳月だと知って処刑しようとしたならば私に対しての反逆である。蘭家のことはよく知っているはずだ)
「とりあえずこのことは盧双善には何も言わないでくれ・・・雨軒、お前もわかるまでなにもするな。・・・蘭鳳月を頼んだぞ」
そういうと霍雨軒と姚燕はお辞儀をし執務室をでていった。
「姚燕、それでは春霞に会っていただきます。よろしいですね」
姚燕は静かに頷き、陵洸殿へと向かった。
◆
「春霞、姚燕に会いに行こう」
霍雨軒が迎えにきたのだった。
李飛凛にとって待ちに待った時がやってきたのである。
(やっと春霞の正体が知れるかもしれない)
緊張とは裏腹に喜びという感情が李飛凛の中で込み上げていた。
「春霞、ここで待っててくれ」
霍雨軒に案内されたのはあの庭の亭であった。亭の下にあった石の腰掛けに座り、池を見回すと、この間見た白色と金色の2匹の鯉がゆうゆうと泳いでいた。どちらとも輝きを放ちとても美しかった。
しばらくすると「お嬢様、失礼致します」と何やら派手な女性がもの静かに亭の中へと入ってきた。その女性は目線を伏せ、足音すらも立てずに入ってきたのだ。
「姚燕・・・なの?」
顔や姿形は間違いなくあの姚燕であったのだが、小屋で初めて会った時とはまるで別人であり、派手でどことなく身軽そうに見えた。まるで妖女のようであったのだ。
李飛凛は、その姿を見て身軽であるという印象を隠すかのように派手にしているのではないかと感じたのである。
するとあれだけ冷静だった姚燕がいきなり取り乱すように近づいてきて、ささっと椅子に座り李飛凛の両肩に手をかけ揺さ振りながら話し始めたのだ。
「蘭鳳月どうして。・・・どうして生きているの」
(蘭鳳月?私は春霞なの、それとも蘭鳳月なの?どっちなの) 李飛凛の頭の中はぐちゃぐちゃになり始めていたのだ。
そもそも生前自分が『なぜ生きているのか』について考えたことはあったが、人から『なぜ生きているのか?』とは一度も聞かれたことがなかった。その為、そのような突拍子のない言葉に驚愕したのだった。
どう考えても、その言葉から読み取れることは自分が『生きているのがおかしい』ということにしか聞こえなかったからである。
「どうして・・・2人で決めたじゃない、あの子達を守るって。妓楼のみんなはもうどうでも良かったっていうの」
すると姚燕は突然涙を流し始め、両手で顔を覆ったのだ。あのどこか気品の高い姚燕の姿はそこにはなく人間味が溢れるその様子にどこかほっとしたのである。
李飛凛は自分の置かれている状況がいまいち理解できずにいた。そしてどこか物々しい状況に背筋が凍り鳥肌が立って仕方なかったのだ。言葉を失い、呆気に取られていた李飛凛は全身の力が抜け空っぽになったような気分になっていた。
あの小屋にいた時のあの違和感、初対面であるはずなのに他人行儀のようなあの立ち振る舞いの理由が今わかったのである。
とても親しげに話すその姿は、生前蘭鳳月と親密な関係であったことが伺えたのだ。どういう関係で繋がり、どうしてあの時あのような振る舞いをしたのかはわからないが一つ確かなことはきっとこの人は蘭鳳月にとって信頼できる人だったということだった。
「さっきからうわの空だけれど、もしかしてしらばっくれるつもりなの?」
李飛凛は姚燕の目を見て首を横に張った。そして震える声で話し始めたのである。
「それは・・・私には、記憶がないのです。何が何だかわからなくて」
「まさか、あの小屋で言っていた記憶喪失って、本当だと言うの?あの時はをあなたを守るために話を合わせていたけれど、記憶喪失って・・・おかしな話じゃない。だけどあなたが平然とあの小屋に来た時は本当に驚いた。まさか嘘つくなんて。あなたに限って思わないもの。・・・盧双善は用心深い、だからあの場で絶対に話すわけにはいかなかった」
「盧双善?」
「ええ、盧双善、あなたのことを身請けした男よ」
「あの男って仁麗じゃ」
すると姚燕は疑いの目をこちらに向けた。
「あなた本当に記憶がないというの?仁麗は盧双善が身分を隠すためにつけた仮名よ」
「あの、私は春霞なのでしょうか。それとも蘭鳳月なのでしょうか」
2人は一瞬時が止まったかのように見つめ合った。流れ出る変な汗がさらに緊張を深める。
なんと言っても嘘に聞こえてしまうだろうと、李飛凛は何度も自分の頭で考えて言葉を繕っていたのだった。
「記憶喪失というのは嘘じゃないんです。記憶がないのは本当で、けれど私は・・・・・」
沈黙の末李飛凛はゆっくりと口を開いた。
「私はこことは全く違う世界から来た、李飛凛といいます。蘭鳳月とは全くの別人で、なぜこうして成り代わってしまったのかはわからないのだけれど」
「違う世界・・・そんな事、記憶喪失よりも信じられないわ。じゃあ仮にそうだとして、蘭鳳月の魂はどこへいったというの・・・?」
「わからないんです。そもそも私は前世で病死していて。だから目を覚ました時天国とばかり。全てを信じてもらえるとは思ってないです、だけど蘭鳳月の記憶がないことには変わりないから信じて欲しくて。どうか春霞を探し出すために力を貸して下さい」
すると姚燕の空気が一変し少し小声気味に話し始めた。
「このことを知ってる人物は?」
「私と玉玲、そして姚燕あなただけです」
「なぜ私に打ち明けようとしたのかしら。私はそもそも盧家側の人間だということをご存知で?」
「それは蘭鳳月があなたを信じていたからです。きっと家族のように仲良くされていたのでしょう・・・彼女の思いを汲んで色々動いていたんじゃないですか?あなたは信じれる人だってなぜか思うんです」
「なぜそれを・・・」
「話を聞いていればその人がどんな人くらいだいたいわかります。私はずっと病床にいたものですから、人の会話を聞いたり察したりすることくらいしかやることがありませんでしたから・・・」
李飛凛は少し得意げに話した。
「あなたが小屋から去ったあの後、みんなを助けようと蓬莱春楼に向かったわ。だけれどもう、すでに誰も・・・手遅れだったの」
その瞬間、春霞と姚燕が何かしらに巻き込まれていることを悟ったのだ。そしてふとあの玉玲のことを思い出したのだ。
「まさかあの玉玲も?」
「玉玲って、あの幼い女の子のこと?小さな花の耳飾りをつけた」
李飛凛は小さく頷いた。そしてだんだんと心臓の音が大きくなるのを感じた。
「もちろんあの子の姿もなかった。・・・あんなに可愛がってたのに見捨てるなんて、とてもじゃないけど信じられなくて」
「私、玉玲と約束したんです。本当の春霞を探すって。なんでこの世界に来たのかはわからないけれど、でも春霞を探さなきゃって思うんです」
「あなた、さっき自分が春霞なのか蘭鳳月なのか聞いたわね。・・・あなたの名は蘭鳳月が本当の名よ。春霞は私がつけた仮名なの。身を隠すために」
「身を隠す・・?」
「そう、蘭鳳月が見つからないようにね。だからどんな人でも紛れやすい妓楼に隠したの」
すると何かを察したのか姚燕は急に話を変えたのだ。
「それに・・・妓楼のみんなもまだ殺されたとは限らないわ。だって亡骸がそこにはなかったのだから」
姚燕は何かの気配を感じ、口に人差し指を立てて李飛凛に合図するとともにあたりを見回したのだ。李飛凛は突然の出来事に驚くも悟られぬよう冷静に話を合わせたのだった。
「・・亡骸?」
「ええ、妓楼はもぬけの殻よ。きっとまだどこかに監禁されている、私はそう信じてる。あなたの話も信じ切れた話じゃないけれどわかったわ。それからあなたをなんと呼ぼうかしらね・・・じゃあ春霞と呼ぶわ、蘭家の名は目立つ。それと一つ約束してちょうだい。このことは誰にも話さないで、その時がくるまでは。記憶喪失のままでやり通すの」
「わかりました」
「それと敬語はやめて。あなたはお嬢様で私は侍女なのよ」
亭の下で交わされた会話は、池のほとりを散策していた霍雨軒には聞こえることはなく淡々と進んでいた。
「まず初めにもう一度妓楼に向かって、手掛かりを」
「ここからどのくらい離れてるの?」
「そんな遠くないわ。ただ彼の助けがいる」
すると姚燕は霍雨軒の方を指さした。
「楊瑞寧」
姚燕が大きい声で呼ぶとこちらに振り向き、亭の方へと戻ってきたのだ。
「その名で呼ばないでくれ」
李飛凛には姚燕と霍雨軒が仲睦まじそうに見えた。
「李飛凛、あなたのお陰で初めて黒幕が尻尾を出した。まずはそいつが初めて見せた尻尾を紡いでいくしかない」
「それって」
「まだ確信がないから言えないけれど、きっと掴んでみせる姚家の威信にかけて。蘭鳳月は妓楼の皆を人質に自死しろと脅されていたの。そいつの名は言えないのだけれど、あの時霍雨軒が偶然居合わせてくれなかったら今頃」
「じゃあ・・・」
「えぇ・・・一緒に手掛かりを探すのを手伝って、お願い。そうすればきっと春霞についても何かわかるはずよ」
李飛凛はこの世界に来て一度殺されそうになったからこそ、真実を自分の目で確かめるまで死ねない。そし本来存在していた春霞こと蘭鳳月の行方も必ずや見つけなければと、そう決意したのであった。