〈 七 〉風に揺れる灯
格子窓の向こうで、静かに灯火が揺れているのが見えた。
霍雨軒は静かに筆を走らせる。
昨夜の報告を記した文書には、春霞という名の女の存在が大きく刻まれていた。
寺院の毒殺未遂、倒れていた彼女、そして『仁麗』という謎の官史を名乗る人物。
どの記録にも、そんな人物は存在しない。
だが――その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざわめいたのも事実だった。
霍雨軒は筆を置き、深く息を吐いた。
机の上には、一通の古びた木簡が置かれている。
かつて上官から密かに渡されたもので、その木簡はすでに色褪せていた。
その中に、見覚えのある一文字があったのだ。
──「仁」。
霍雨軒の指先が微かに震える。
この文書には戸籍にも記録にも存在しない『裏で動く者たち』のなが記されていた。
記憶の底に、長く封じていた名が呼び覚まされる。
蘭家の密命。内密に葬られたとされる一件。
あの名が、再び現れることなどもうないはずだった。
「・・まさか」
呟いた声が、静かな部屋に溶けていく。
──その時、霍雨軒の護衛・宋明が執務室に入ってきたのだ。
「例の女が目を覚ましたとの報が」
「そうか・・容体はどうだ」
「命に別状はございません。ただ、精神が少々不安定とのことで」
「あの惨事だったんだ、しばらく休養が必要だろう。・・兄君がそばにいるから心配はないだろう」
霍雨軒は立ち上がり、格子窓の外を見た。
遠くには、昨夜の寺院の明かりが小さく見える。
冷たい風が吹き抜け、紙が一枚、床に舞い落ちた。
それは彼が書いていた報告書の一部だった。
その末尾には、未完成の文が残されている。
──蘭家の真実は、仁麗という名の下に隠されている可能性がある。
霍雨軒は紙を拾い上げ、視線を落としたまま言った。
「・・あの女を保護下に置くのだ。目は離すな」
「承知しました」
宋明が去ると、再び静寂が戻った。
霍雨軒はしばらく動かず、拾い上げた報告書を見つめた。
あの夜、倒れかけた彼女を抱き上げた時の、あのこみ上げる熱。
なぜ、――あのとき、手が勝手に動いたのか。
生きているはずがない彼女をこの目で見た、そう思うよりも前に体が助けろと動いていた。
理性では説明がつかない。
だが、心の奥底で確信していた。
彼女と『あの事件』は、どこかで繋がっている。
窓から見える風に揺れる灯が一つ。
淡く震える光が、まるで過去の残影のように霍雨軒の瞳を照らした。
見ていた報告書はいつのまにか手の中でぐしゃぐしゃになっていた。
「春霞・・お前は、一体、何者なんだ・・」
その声は、誰にも届かぬまま、冷えた朝の空気に、静かに吸い込まれていった。




