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迫る悪が蘇るまで  作者: アスノヨミタ
第一章 終わりの始まり

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〈 六 〉証

 頬に、柔らかな光が触れた。

 李飛凛はゆっくりと瞼を開け、見知らぬ天井をぼんやりと見つめる。

 甘い香の匂いが鼻先をやんわりとくすぐり、格子窓から差し込む朝の光が薄く床を照らしている。


 身体を起こそうとした瞬間、腕に走る鈍い痛みに息を詰めた。

 手首には縄の痕が残っていて、喉の奥に薬の匂いが貼りついている。


 枕元には湯気の立つ茶と薬包み。

 その向こうには、背を向けた男が静かに立っていた。


「目が覚めたか」

 

 柔らかい声だった。 

 李飛凛が戸惑って瞬きをすると、その男はゆっくりと振り向いた。

 穏やかだが、どこか悲しげ名眼差し。

 昨夜の出来事が夢ではなかったと、その表情だけで悟らされる。

 

「あなたは昨日助けてくださった人・・によく似ている気がします」

「よく気がついたな。・・助けたのは私ではない、弟だ。だがその違いに気づくものは少ない。・・まさか本当に『蘭鳳月ランフォンユエ』なのか」

「え・・?」


初めて聞く名に、李飛凛は眉を寄せた。

 

「宮中ではある憶測が広まっている。お前が・・蘭鳳月ではないか、とな」

  

男は一歩近づき、まっすぐな視線を向けてくる。


「だか、まるでその名を知らぬような顔をしているな。・・お前はいったい何者だ」

問いは鋭いが問い詰めるような冷たさはない。 


何かを見極めるように言葉を投げかける。

むしろ、真実を知りたいという願いすら滲んで見えたのだ。


「私は春霞チュンシアと申します。それ以外に名は――」

「春霞、か」


 男は机に置かれた帳簿を一枚取り上げ、低く息をついた。


「あの寺院にいた理由、襲撃者の正体、そして『春霞チュンシア』という名の出所。調べさせたが、どれも確証が得られずにいるのだ」

 

彼は帳簿を閉じ、静かに告げた。


「名乗るのが遅れたな。私は霍明蕨フォミンジュエ。身分については・・気にしなくていい」

 

その声音こわねは穏やかだが、どこか踏み込ませない。

名乗りの端々から、彼が決して凡庸ぼんような立場でないことだけは分かる。

しかし、それ以上を語るつもりはない――そう告げているようでもあった。

 

 李飛凛は胸の奥に小さなざわめきを覚えつつも、問い返すことができなかった。

彼の背にまとわる気配が、身分を隠してもなお、異様な重みを持っていたからだ。


「昨夜、何があったか覚えているか」

 

 霍明蕨の問いに、李飛凛は喉を押さえながらゆっくりと言葉を紡ぐ。


「眠っている間に、薬を嗅がされ・・攫われました。覚えているのは・・馬車の音と、祭壇。それと黒衣の男が二人。その奥に誰かいたような・・」

「攫われた、だと? 一体誰に。顔は見たか?」


霍明蕨の声に焦りが滲む。


「黒衣で顔も覆われていたので・・分かりません」

「そうか・・。では蘭鳳月ランフォンユエという名に覚えは?」

「ありません」

「では、なぜお前があの寺院にいた。なぜあの祭壇に『蘭』という名が並んでいたその意味がわかるか?」

「・・本当に何も知らないんです」


霍明蕨は額に手を当てて、短く息を吐いた。


「しらを切るつもりなのか・・? どうしてだ。私のことが信じられないのか、それとも――」

「違います! 私は・・」


李飛凛は必死にかぶりを振った。

しかし言葉はすぐには続かず、胸が締め付けられる。

 

「まだ言えてないことがあるんだな・・」


霍明蕨は声を落とし、優しく促した。


「私は・・数日前、身請けされる前の記憶がないのです」

「記憶がない・・だと?」

「気がついたらあの妓楼にいて・・身請けされて。気持ちを整理する時間もありませんでした」

「・・・」


霍明蕨フォミンジュエは長く沈黙した後、静かに問いを重ねた。


「ひとつ聞きたいのだが。昨晩、玄冥殿げんめいでんに通達を送ったのは君ではないのだな」

「はい、違います」

「そうか」


 霍明蕨の脳裏には、疑念がよぎっていたのだ。

 昨夜の通達——自作自演かもしれないという考えだ。

 だが、もしそれを仕掛けていたのなら彼女のの行動も発言も不審なところだらけであった。

 目の前の事実だけを見極めることが先決——そう、彼は心の中で結論を下していた。


「化けて自作自演しているというのも考えたのだが・・」


李飛凛は首を傾げた。


「実は昨夜、玄冥殿に匿名の通達が届いた。『蘭鳳月の命が危ない』と」


霍明蕨の声は少し震えているようだった。


蘭鳳月ランフォンユエは私にとって、かけがえのない存在だった。だから嘘でもいい、ただもう一度会いたかった・・。だから弟を向わせたのだ」


何も知らないはずなのに切ない想いが重くのしかかる。

霍明蕨の想いは、言葉以上の重みを持っていた。


「それと伝えなければならないことがある。・・お前がいた妓楼は、荒らされ・・もぬけの殻になっていた」

「え・・?」

「つまり、お前は証拠ごと消されようとしているのだ」


一瞬にして李飛凛の背筋が凍りつく。

この短期間に起きたことが脳裏に次々と蘇る。


「さらに――あの寺院は蘭家の祀られている場所、いわば墓所なのだ。皇族内でも最も高貴な血とされ敬われていた。そんな場所に襲撃者たちはお前を連れて行ったのだ。繋がりがないとする方が不自然だろう」

「私が・・皇族・・?」

「春霞という戸籍には改ざんの痕跡があった。恐らくはお前を守るために」


霍明蕨はそこで言葉を止めた。

口を出すのも躊躇うような事情があるかのように。


「・・数刻前、また通達が届いた。その通達には『春霞を保護せよ。蘭家につながるものである』と」


李飛凛は震える声で問いかけた。


「ひとつ・・聞きたいことがあります。・・仁麗レンリーという名をご存知でしょうか? 私を身請けした人物です。攫われるまでその屋敷にいました」

「仁麗・・。調べはすでについている。しかしそのような人物の戸籍はどこにもなかった」

「そんな・・侍女は『官の職務』もある方だと言っていました。そんな方が・・存在しないなんて」

「信頼できる者にも調べさせた。だが、宮中にも廷臣にもその名はなかった」

「いない・・?」


昨夜まで寄りかかっていた支えが音を立てて崩れていく。

李飛凛の瞳がわずかに揺れた。

仁麗の微笑、遠くを見るような視線。


「あの人はいったい・・誰なの・・?」

 

遠くが霞んで見えて、霍明蕨の表情がわずかに揺らぐ。


「今の私には話せないことが多い。ただひとつ確かなのは――誰かが、お前の命を狙っている、という事実だけだ」


霍明蕨は立ち上がり、戸口へ向かう。


「私の屋敷にいろ。真実は・・一つずつ紐解くしかない。例え君が嘘をついていたとしても」

「なら――証明できたら・・私のこと信じてくださいますか?」

「君を信じるかどうかは・・次にお前が『何を選ぶか』で決まるだろう」


霍明蕨は振り返らなかった。

そう言い残して、戸が静かに閉じられた。

一人残された部屋に、静寂が落ちる。


李飛凛は布団の上で膝を抱え、涙をこぼした。

恐怖も喪失も行き場をなくして胸を締め付ける。


けれど――

その奥底で誰にも消せない、小さな決意が芽生えた。


(私が・・見つける。真実を。この世界にきた理由を)


 格子窓から差し込む朝の光が、彼女の決意を照らすように揺れていた。


 

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