〈 五 〉薄闇の轍(わだち)
あれからどれほど眠っていたか、わからなかった。
耳の奥で、絶え間ない軋みが響いている。
李飛凛はゆっくりと瞼を開いた。
視界は霞み、頭の奥が鈍く痛む。
(……また気を失って)
月光がかすかに差し込み、対面の人物の姿が淡く暗闇に浮かび上がる。
黒い布で全身を覆った男が、黙ったままこちらを見つめている。
その目には、仁麗と同じく感情というものがまるで存在しなかった。
「……あなたは、誰?」
絞り出した声で問う。
その影ははわずかに顎を上げ、冷たく言い放つ。
「目を覚ますとは思わなかったな。……薬が足りなかったか」
低く響く声が、あたりの空気を震わせた。
李飛凛は身をよじろうとするが、縄が食い込み、手首に痛みが走る。
「どこへ……連れていくの?」
「黙れ。命が惜しいならな」
吐き捨てるような声。
あの仁麗とはまた別の声だった。
外の風が強まり、馬車の荷台が大きく揺れる。
稲光が遠くで閃き、山々の影を浮かび上がらせる。
「チッ、降ってきやがった。おい急げ」
その男は怒ったように誰かに投げかける。
雨が李飛凛の体を蝕んでいた。
(寒いな……)
李飛凛の意識はまたゆっくりと遠のきはじめていた。
まぶたの裏に、父の笑顔が浮かんだ。
(父さん、会いたいよ)
その思いもやがて闇に沈んだ。
◇
夜明けも近いころだろうか、うっすらと遠くの稜線が見え始めていた。
山の奥深く、馬車が古い寺院の前で止まったのだ。
〝霄雲寺〟
李飛凛は目を覚ますと黒衣の男に荷のように担ぎ上げられていた。
荒れた石段を上るその足どりは、重く鈍い。
本堂に着くとその男はゆっくりと戸を開いた。
軋む音と共に、生ぬるい空気が流れ出す。
「ここでお前は待て、だそうだ。逃げるなんて考えるなよ」
男はそう淡々と告げると、李飛凛を床へ下ろし縄を解くこともなくそのまま外へ出ていった。
戸が閉まり、静寂が訪れる。
李飛凛は冷えた床の上で息を整えた。
線香と蝋の焼ける匂いが混じり合い、薄闇の中に漂っている。
瞳を正面に向けると、奥の祭壇にいくつもの位牌が並んでいることに気がついた。
ゆっくりと体を起こし祭壇の方へ近づいた。
——『蘭楚訟』『泰明秋』『蘭水蓮』『鄭謝燐』・・
祭壇には他にも『蘭』の文字が刻まれた位牌がたくさん並んでいたのだ。
李飛凛の背筋に冷たいものが走る。
(……ここは蘭の一族を祀っている場所なのかしら?)
風が吹き抜け、燭台の火が一瞬だけ揺らめいた。
その瞬間だった。
祭壇の奥の暗がりから低い足音が近づいてくるのがわかった。
影が二つ、祭壇の脇に立ちそっと囁き合う。
そのうちの一人が、懐から布包みを取り出し、祭壇の横に置いた。
布を解くと、小瓶と、白い粉の包みが姿を現したのだ。
李飛凛の体がこわばり、のけぞった。
後ろ手の縄が締めつけ、逃げ場のない恐怖が走る。
声も全く出なかった。
黒衣の男が近づき、李飛凛の体を強く起こすと正座の姿勢のまま腕を後ろに引かれ、顎をもち上げた。
まだ陽も上がらぬ暗がりの中で、吐息が鼻先をかすめた。
「大人しくしていろよ。さっさと片を付けなければ……」
男の囁きは冷たく、手際に迷いはなかった。
もう一人は遠巻きにこちらを監視している。
小瓶の口を開け何かを混ぜるようにして杯へ注ぐ。
まだ夜も明けきらぬ寺院の中で、盃は躊躇うことなく李飛凛の唇元に運ばれる。
——これは毒だ。
本能が叫んだ。
だが李飛凛は再びの死を悟り、ただ静かに涙を呑んだ。
(また死ぬ……すぐ死ぬのなら目なんて覚まさなければよかったのに……)
次の瞬間だった。
杯はぎこちなく震えてその男の手元から滑り落ちた。
何頭もの馬のかける音が近づいてくるのが聞こえてきたのだ。
液が床に零れ、おぞましい匂いが立ち上る。
その男は自身にかかったその液体を慌てて素手で拭い取り、低く罵った。
「チッ、いったい誰だ」
李飛凛は、力が抜けその場に倒れ込んだ。
男たちは顔を見合わせ、短い言葉を交わす。
——『計画は狂った』と。
李飛凛は寒さと恐怖から体が硬直し意識は朦朧としていた。
その刹那だった。
外から鋭い足音が石段を駆け上がる音がした。
本堂の戸が激しく開き、冷たい夜気とともに一陣の光が乱入する。
「何をしている!」
闇を切り裂くような鋭い声。
寺の空気が震え、燭台の炎が一斉に揺らいだ。
外から幾つもの人影が流れ込んできたのだった。
声の主は黒よりも深みのある色の装束を纏った若い男だった。
沈香の甘い香りが体を包みこむ。
その瞳が李飛凛を捉えた。
「おい! しっかりしろ」
彼の目に映るのは、床にこぼれた薬液と縛られた女。
その男の名は霍雨軒といった。
「誰がこのような真似を…… 」
その女性の姿を見るや否や悲しげな表情を浮かべた。
「操旻何か温められるものを。裴寧はこの寺院の周りの捜索を」
『はい……!』
霍雨軒は堂内を鋭く見渡した。
そして祭壇に飾られた蘭家の位牌の数々を目にしたのだった。
「ここはいったい……」
霍雨軒の護衛・操旻が毛布と湯を持ってくると急いで全身を毛布で包んだ。
「霍様、外にこんなものが」
もう一人の護衛・裴寧は小さな小瓶を持ってきたのだ。
「これは……」
すると李飛凛が、意識の淵でわずかに喉を鳴らした。
誰かが自分を呼ぶ声がした気がしたのだ。
霍雨軒はそっと頬に触れる。
その指先は柔らかく温かかった。
「大丈夫か」
(——助けが、来たのね)
李飛凛はうっすらと目を開けると、ゆっくりと頷いた。
「この一件を目論んだものは誰だ……調査するのだ」
「はっ」
霍雨軒の声が低く響く。
部隊の者たちは調査へと向かった。
霍雨軒の声は震え、静寂の中に怒りが立ち込めている。
黒衣の男たちはすでに立ち去っていて、無惨にもその残骸だけが残っていた。
霍雨軒は言葉を詰まらせ、押し黙る。
祭壇に目を向けると位牌の名を一つ一つ確かめるように目で追った。
「こんな場所聞いていない……もしや兄君、隠していたのか。それにこの女……」
「殿下、これは……」
「あぁ。通達通り、〝蘭鳳月〟が生きていたようだ」
夜明けの陽光が戸の隙間からわずかに差し込み、〝蘭鳳月〟の位牌を照らしていたのだ。




