〈5〉夢のような
慌ただしく足音が廊下に響き渡る。
執務室に入るや否や霍雨軒はすぐさま霍明蕨に報告した。
「兄君、兄君!あの蘭鳳月が生きていたんだ」
霍明蕨は冗談を抜かすなと言わんばかりに呆れ返った様子で言葉を返した。
「蘭鳳月・・・?・・・まさかあの蘭家の娘、蘭鳳月のことではなかろうな」
「そう、あの蘭家の娘、蘭鳳月のことだよ」
「ありえない。蘭鳳月は10年以上前に死んだ」
「兄さんも知っているでしょう。蘭鳳月の死体は出てきてないと」
「だがあの火災で生き残れる確率の方が少ない」
「どうして兄さん、大好きだったじゃないか。もう一度会いたくないのか」
「俺はもう2度と、彼女を失いたくないのだ。無駄な期待もしたくない。本当に彼女は蘭鳳月なのか?」
蘭家は皇族の末裔であったが代々高い知能と容姿を持ち合わせており皇族の中でも重宝され高い地位を築いていた一族であった。だがしかし屋敷は10年以上も前に火災が起き焼けてなくなり、住んでいた人も全滅していたのである。
するとさっきまで冷静に話を聞いていた霍明蕨がそわそわしだし執務室を右へ左へとうろうろとし始めた。
「・・・確かに最初は自分の目を疑ったよ。だけどこの僕が蘭鳳月を見間違える訳がないよ」
「似ているだけとかじゃないのか」
「本人は記憶喪失だと言ってるし、証明できることはなんにもない・・・だけど兄さんも会ってみればきっとわかるよ」
「・・・まったく信じられない」
「確かに蘭鳳月とは俺が決めつけたようなものだから」
「・・・」
「そういえば隣にいた姚燕という女性が蘭鳳月だと言っていた。・・・それは確かだよ。生きていることに驚きの余りあの時は気にも留めなかったけど、あの姚燕という女性は・・・一体誰なんだろうか・・・今証明できることはそれしかない」
「姚燕・・・?どこかで聞いた名だな」
すると何かを思い出したように霍明蕨は目を見開いた。
「・・・まさか、盧双善の雇っているあの怪しい侍女」
「確かにあの侍女に似ていたかもしれない。兄さんこの一件・・・盧双善が関わっているに違いないんだ」
「それは一体どういうことだ。ただでさえ頭が混乱しているというのに、盧双善?なぜそうなるのだ」
「実はあの処刑の現場に来ていたのが盧氏直属の部隊だったんだ」
「私は彼に絶大な信頼を置いているのだ。もし仮にその女が蘭鳳月だったとして盧双善が皇族と知った上で殺めたなんてことが私に知れたら重罪なんだぞ。そんな馬鹿げたこと信じられる訳がない」
盧一族は先祖代々冥国を取り仕切る皇帝である霍氏に支えてきた一族である。
「信じてもらえないかもしれないけれど・・・昨晩いつもどおり宮廷内の警備の見回りをしていたら兄君の屋敷の前に怪しい部隊がいて、どこに向かうのかと聞いてみたんだよ。だけど私に対して何も答えなかったんだ。というよりも私だから答えられなかったと思うのが普通だろう。・・・だから怪しいと思ってついて行くことにしたんだ。そしたら宮廷からかなり離れた場所の小屋の前に辿り着いたんだ。到着するや否や急に物々しい事態に発展して何かと思えば、春霞と名乗る女性の処刑の現場だったんだ。罪人の処刑ということだったけど・・・蘭鳳月にどことなく面影が似ていたから聞いたんだ。本人は困っていたようだったけれど、とりあえずえず私の責任で取りやめさせた。それに・・その小隊の奴らを問いただすと兄さんの命ということだったけど身に覚えはあるかい?」
「・・・それは、聞いていないが。彼に絶大の信頼を置いているからこそ任せている部分もある」
「わかってるよ。僕だって信じられないんだ。何十代と受け継がれてきた立場だ、きっとなにか訳があるに違いない」
「おい雨軒まだ盧双善だと決まったわけじゃないだろう」
怒った様子の霍明蕨がどことなくふてくされたように立ち上がった。
「その女は本当に蘭鳳凛なのか?」
「兄さんもきっと会ってみたら分かるよ」
「そもそもそんな得体もしれない人間に、私が直々に面会だなんて」
「じゃあ兄さんは後悔しないの?もしかしたら蘭鳳月にまた会えるかもしれないのに。それに本人は記憶喪失なんだ、きっと僕らが″皇族″ということにもまだ気がついていないよ」
「・・・」
「・・・ひとつ確かなことは、彼女が本当に蘭鳳凛だとして、僕があの怪しい武官たちに気が付かず同行しなていなければ彼女はどちらにせよ″また″死んでいたんだ」
不服そうな霍明蕨であったが霍軒雨に説得され、渋々"春霞"に会いに行くことにしたのであった。
◆
2人は馬車へと乗り込み霍雨軒の屋敷、陵洸殿へと使っていた。
「雨軒、何度もいうが盧双善は子供の頃から共にいて絶大な信頼を置いている。盧一族はもう何年もの間、私たち一族を支えて来てくれてるんだぞ。・・・きっと何かの間違いだ」
「兄さん、何度も言わなくてもわかってるよ」
「・・・」
そこからは沈黙か続き少し気まずい空気が流れた。
馬車が止まると霍明蕨はすぐさま降りた。
霍兄弟は陵洸殿と書かれた門をくぐり、李飛凛のいる庭園へと足早に向かった。
外は雨がしとしとと降りはじめていて少し肌寒い春の風がそよそよと吹いていた。
「兄さん。"春霞"はあそこにいるよ」
霍雨軒が指さした先には、亭がありその小さな屋根のひさしの元に美しい女性が佇んでいたのであった。霍明蕨の足はピタッと止まり時が止まったかのように微動だにしなかった。
霍雨軒は霍明蕨のほうに顔を向けると、いつもの冷血そうな表情がまるで一変し幼少期に戻ったかのような柔らかい表情になっていた。
「・・・間違いない。お前の言う通りあそこに座っているのは、蘭鳳月に違いない」
「僕たちが見間違えるわけがないさ」
霍明蕨は1歩1歩恐る恐るその女性に近づいた。するとこちら側に気がついたその女性がスっと立ち上がり、こちらに振り向きお辞儀をした。
「私の名は霍明蕨。君のことを知っているものだ。・・・君が話に聞いていた蘭鳳月・・・いや春霞なのかね?記憶がないと聞いているのだがそれはどうして・・・」
李飛凛は突然の来訪者に驚いた。それよりも解き放つオーラになんとも淡麗な顔立ちで圧倒されていたのだ。
「驚かせてすまない。″春霞″、こちらは私の兄さん霍明蕨だよ」
すると李飛凛は柔らかく笑みを浮かべ言葉を続けた。
「昨夜目を覚ました時から記憶が全くなく、自分の名前すらもわからなかったのです」
「どうして、どうやってあの火災から」
「兄さん蘭鳳月はそのことを覚えていないよ」
「あの、もしかしたら姚燕という女性が私のことを詳しく知っているかも知れません。話してくれませでしたが、私の事情を知っているようで」
「姚燕・・・。やはり一度会って話を聞く必要があるな」
「私も姚燕に会いたいです」
「・・・そもそも君は、誰に身請けを?」
「私を身請けしたのは仁麗という男性でした・・・どこの誰かはわかりません」
「仁麗・・・聞いたことのない名だ。だが盧双善の命によってが処刑が決行されたことは私としても見過ごせない。とりあえず姚燕という女性との面会を手配しておく。解決するまで世話人が身の回りのことはしてくれるだろう」
少し機嫌を損ねた様子の霍明蕨はそういうとその場を立ち去った。
「春霞、兄君は短気な性格だから許してくれ。今は忘れてしまったかもしれないが君が4、5歳の頃よく一緒に遊んでいたのだ。・・・あの頃は身分を隠していたから霍家の名は使っていなかったのだが、覚えていないだろうか」
李飛凛は首を横に振った。
(身分を隠す・・・?この人は一体)
「そうだな、楊瑞寧の名を覚えていないだろうか」
「楊瑞寧・・・」
「覚えていないか」
春霞が考え込む様子をみて霍雨軒は残念そうに俯いた。その姿を見た李飛凛は少しかわいそうに見えたのだった。
(あの時私を見た目・・・感動?いや驚き?とにかく蘭鳳月という人物はきっとこの人達に深い繋がりがあるに違いない・・・)
その後世話人に連れてこられた部屋は広く李飛凛にとって少し落ち着かない空間であった。ただ妓楼よりも暖かく高価な作りに感じたのである。李飛凛はその日やっと気持ちを落ち着かせることができたのだった。